2012/09/10

京都の香りを求めて──江戸東京博物館

2012.9.2【東京都】

 東京周辺は訪問日の週末、近ごろよく耳にする「大気の状態が不安定」のため大荒れの空模様でした。
 さすがにベイエリアウォークはあきらめ、「まだ夏休みの宿題?」の子供にまじり両国の江戸東京博物館を見学です(結局傘は差しませんでした)。


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両国駅(Map)

 以前と変わらぬホームの姿に鎌倉駅のホームを想起し、装飾は少ないも歴史が感じられる駅舎を撮ってみたら、こんな絵に……
 光の加減と思いますが、何かCGのようで「現実の光景?」と疑いたくなる、しらじらしい色合いと組み合わせの絵になりました。
 手前から、両国駅、両国国技館、NTTドコモ墨田ビル、東京スカイツリー。
 わたしたちはまだスカイツリーの存在を実感していない面があり、「ここからも見えるんだぁ」の印象は、東京タワー誕生時の意識に近いのかも知れません(ここは近所です)。

 TVで力士の姿を目にする機会が増えたので、「今日初日?」と思ったら来週だそうです。
 幟の絵を撮りたかったと思うのは、八百長事件以降ダイジェスト版でも取り組みをちゃんと見るようになり、勝った力士の勝因を理解できるようになった、と感じるからでしょう。見るべきところが分かってきた気がします。


江戸東京博物館(Map)


 本日の目的は、どこぞやの駅で広告を見かけた「二条城展」の見学です。
 重要文化財レベルの撮影はNGなので、建物の絵を借りて感想を。

 京都二条城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が上洛時の宿所として築城(1603年)したもので、洛内に天守を築き天皇を招きました。
 それはまた、1603年征夷大将軍の命を受けた家康が、都に御所への行列を行う館を持たない「田舎侍」という評判を、払しょくするための急ごしらえとも言えます。
 第3代将軍家光まで慣例(御所への行列)を踏襲するもその後は途絶え、第15代将軍慶喜の大政奉還まで二条城は歴史の舞台に登場しません。

 内容については転記もおこがましいので、展示の見どころを参照下さい。


 上リンク先の「二の丸御殿 平面図」にある、鴬張りの廊下(キュッキュッと鶯の鳴き声のように廊下が鳴る)は歩けても、室内には入れません。
 その室内の様子を間近で見たいというのが、今回足を運んだ動機です。
 しかし近くで目にできても横並びでの展示だと、今度は部屋の雰囲気が感じられません。主催者側も「そんな要望があろうかと!」VR(バーチャルリアリティ)の映像を見せてくれます。
 その映像では、周囲に展示される襖に囲まれた本来の空間配置(天井も含めて)が見て取れるので、立体的なイメージが膨らみます。
 現物+バーチャルリアリティの展示は、双方に対する想像力を喚起する面でとても素晴らしい相乗効果と感心させられます。
 公開映像を探したのですが、やはり限定公開のようです……

 展示作品に狩野派(かのうは:室町時代から足利家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家などの御用絵師をつとめた一派。伝統+チョンの印象が好きではない)的な絵が多いのは当然でも、これだけの数が現存すると「迫力」になります!
 江戸の文化財は火事、震災や空襲で多くが焼失しました。同様に火事の多い京都ですが、文化財を守る意識が高かったと思われます。
 そんな、文化や歴史を守ろうとする「意識」に触れ、久しぶりに京都の香りに包まれるひとときを過ごしました……


 常設展示場では、この地に江戸という都市が開かれ、東京へと変遷してきた「都市文化」と、人びとの暮らしの移り変わりの様子を見ることができます。
 平安時代までの貴族社会から、鎌倉時代に武士が実権を奪い取りましたが、戦国時代が終わるまでは武士社会となっただけでした。
 江戸時代に入り世情が落ち着き、戦いの無い市中に町人文化が開花します。
 鎖国下でもっとも華やいだ江戸の庶民文化と、開国〜明治維新後のモダンな都市文化の紹介がここの売りになります(もちろん、関東大震災、第二次世界大戦〜東京オリンピック当時の様子も展示されます)。

 ひとつ上の写真は歌舞伎小屋「中村座(浅草)」の復元で、この日はマジックショーが演じられます。
 元は1624年猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が京橋周辺に創設した芝居小屋で、江戸歌舞伎の始まりとされます。

 上は1926年(大正15年)に登場した、当時東京市内を1円均一で走る「円タク」のA型フォードのフロント部分。


旧安田庭園(Map)


 両国国技館からほど近い墨田区の公園(入園無料)。
 江戸時代の大名下屋敷に庭園が築かれ、 明治期に安田財閥の祖である安田善次郎が所有時に、東京市(当時)へ寄贈したことで名が残ります。
 写真奧の両国公会堂(レンガ色の建物)は安田財閥の寄付金により、関東大震災後の1926年(大正15)に建設されます。
 隣接の被服廠跡(ひふくしょう:現東京都慰霊堂)は、震災時の火災で数万人が焼死した地域ですから、この建物は復興の象徴のように思えたとのこと。

 両国公会堂は老朽化のため2001年に閉鎖され、墨田区は「建物の耐震・修復等の後に有効活用し、有益な文化・観光施設として再生し運営する事業者の募集」を2008年・2011年に行うも、どちらも選定事業者なしの結果だそう。
 このまま取り壊されるのを見届けるにはしのびない建物ですから、どこかにスポンサーはいないものか? と思います。
 両国=相撲だけではなく、地下鉄大江戸線が開通し総武線の呪縛も薄れたことですし(?)、若者向け施設のシンボルとして地域を活性化させるアイディアってないでしょうか?

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