2008.12.3-11
【東京都】
カレンダーは別としても、このくらいの気候(気温)で紅葉が進むのかという印象をもったのは、戻ってからまだ冬を経験しておらず、大阪・京都の感覚が基準となっているせいと思われます。
暖かい、と感じていた東京の晩秋ですが、先週までが異常だったようです。今週はお寒うございます……
小石川後楽園(Map)
いつでも来られるという気持ちと、紹介写真には必ず東京ドームの屋根が写り込んでおり(避けようがないのも事実)、ドームの裏庭的イメージ(関係の逆転)が足を遠のかせたか、今回初めての訪問になります。
分かりづらいですが、バック下側の白地に斜めのスジが見えるのが東京ドームの屋根です。
何もこんなところに作らなくても、と言っても仕方のないことなのですが、それを言いたいがためにアングルを探していました(でも、これじゃ分からん!)。
この庭園は水戸光圀(黄門)によって作られたもので、後楽とは「民衆に先だって天下のことを憂い、民衆に安楽な日々が訪れた後に楽しむ」という中国の言葉から引用したそうです。
ドームや遊園地を訪れる人たちはいいにしても、WINS(場外馬券売場)に来る人たちには決して「安楽な日々」は訪れないと思うのですが、来られたことを安楽と考えればいいのか?
「後窮園」となろうが、知ったことではありませんよね……
小石川植物園(Map)
東京大学の施設であると聞いていましたが、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」だそうで、現在の住所表記は文京区白山なので小石川の名はどこにも存在せず、「小石川〜」の名は通称ということになります(後楽園もいまの地名は異なるようです)。
元は、江戸幕府に作られた小石川御薬園(こいしかわおやくえん:薬草を育てていた)だそうで、そこに設立された小石川養生所は「赤ひげ」(小説、映画)の舞台になったそうです。
そうそう「ニュートンのりんごの木」の苗木を分けてもらい、現在も育てられているそうです。
ここは「植物園」ではありますが研究施設なので、もちろん手入れは十分にされていますが鑑賞用ではないので、植物たちが結構自由に生育しているように見受けられます。
雑木林の区域では落ち葉の季節なのに、それを片付けるなどという発想自体ないようで(土壌の養分とするため)、落ち葉に覆われてしまい道を見失うというか、ガキのころ歩き回った雑木林のように、枯れ葉を踏みしめ「何となくこっちかな?」と、ガサゴソ音を立てながら散策することができます。
で、偉いというか、当たり前というか、都内ですから周囲は住宅街なわけで、塀の外に散った落ち葉の掃除をきちんとしている姿を見かけました。
独りよがりの研究にならないように、近隣へ配慮する姿勢はとても大切ですから、好感度は「グーッ!」といった印象です(苦情があったのかも知れませんが……)。
そんな評判で子どもたちを連れてこようという、いい連鎖が生まれるのかも知れません。
学術研究施設である植物園に「いろはもみじ」のプレートがあり、認識では「もみじ」という種類は無いと思っていたので、調べてみました。
「もみじ」の語源は、寒さに揉み出されるように色づくことから「揉み出づ」→「もみづ」→「もみじ」→「紅葉」と変わったそうです。
「紅葉」を「こうよう」「もみじ」と読むように、秋に葉の色が変わる現象を意味する言葉で、植物学的には「もみじ」という種類は存在せず「いろはもみじ」はカエデ科カエデ属とされるそうです(葉っぱが手のように分かれているのを、「いろはに…」と数えたことに由来する、とありました)。
●童謡「もみじ」
秋の夕日に 照る山もみじ
濃いも薄いも 数ある中に
松を彩る かえでや蔦は
山のふもとの すそ模様
にもあるように、紅くなるのは「かえでや蔦」のようです。
黄色い実はカリンです。
写真の木には葉がついてますが、最初目に止まったのは「枯れ木に実がなっている!」ものでした。
葉が落ちた木に実がなっているものなのか?
その実は、わたしもよく口にする「カリンエキス配合」のど飴や、ジャム、果実酒などに使われるそうで、加工されるものは時期になれば収穫されるのでしょうが、ここではそれが目的ではないので、そのままにしているのかも知れません。
以前『マルメロの陽光』(1992年 ヴィクトル・エリセ監督:『ミツバチのささやき』(アナー!)の監督)という映画があり、その時なぜか、花梨 (カリン)が日本名で、マルメロが英語名であると思い込んでしまったようで、近縁種でも違うものであること、今回知りました。
──その映画を観た当時(本作も画家が主人公)、その少し前に公開され評価の高かった『美しき諍い女(うつくしきいさかいめ)』(これも画家が主人公)よりも、『マルメロ〜』の方が画家の姿勢としては格段に確からしいのではないか、と感じたことを思い出しました(それくらいしか覚えていないのですが)。
左に見えるのは旧東京医学校本館の建物で、本郷キャンパスから移築されたそうです。
ほとんど写っていませんが結構しゃれた建物で、総合研究博物館の小石川分館として一般公開されています(未見)。
ご覧のような素晴らしい晴天にもかかわらず、傘を持って歩く人たちがいました。
傘を逆さに持って、その上で草木の枝を揺らしています。どうも、傘に落ちてきた虫を観察しているようです。
採って帰るわけではないでしょうから、植物の種類と季節と棲息する虫の関係を観察しながら散歩するのも楽しそうに見受けられましたが、わたしにはどうも感心が持てそうには思えません……
ここは結構何度も訪れた印象があるのですが、その理由は「人が少ないから」であろうと、この日改めて感じました。いいところですよ!
桜とツツジの季節には混雑していた印象がありますが……
──「こいしかわ」という濁点のないひらがな並びの耳障りがとても好きです。
六義園(Map)
旗を持ったガイドさんに先導された団体が、ゾロゾロと入口の中へ吸い込まれていきます。
観光バスが立ち寄る場所なんだ、と驚きましたが「はとバス」などでは「都内紅葉めぐりツアー」とかありそうですものね。
そんなツアーに組み込まれるのも当然と思えるほど、紅葉の季節を考慮した庭園であることを納得するには、いい時期に来たと思います。
この時期に来たのは初めてなのですが、都内でこれだけの空間が保たれているとは、こりゃ立派なもんだ、と見とれさせてくれます。
前回紹介した春の季節も、この山の裏というのか雑木林の区域には落ち着ける趣があったので、四季を意識して作られたことが想像されます。
ここを造営した柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす)は、『古今和歌集』の和歌を庭園で再現しようとしたそうですから、そんな意図が伝わっていることと思われます(前述の、小石川後楽園と並んで、二大庭園と称されたそうです)。
吉保は元禄時代の大名で、赤穂浪士の忠臣蔵などでは、事件の黒幕・悪役として登場する人物なんだそうです。
なるほど、また違う季節にも来てみたいと思わされました。
この石橋は「渡月橋」(どこかで聞いた名前)といい、園内の名所でもあるので人の往来が絶えない場所になります。
わたし同様に、カメラを構えて人が途切れるのをひたすら待つ人たちから「もうチャンスは来ないんじゃないか、胃が痛くなっちゃった」の声が聞こえてきました。
それくらい人出の多い庭園であることと、写真を撮るときに「ここもビルが入っちゃうからダメよ」の場所が多いことは、覚悟しておいて下さいね。
旧江戸城本丸(皇居東御苑)(Map)
「大奥ってどの辺にあったのか?」これまで関心すら無かったので、確認してきました。
位置的にはやはり将軍のおひざ元なのですが、天守閣は1657年の火災で焼け落ちて以来、再建されなかったとのことです。
NHK大河ドラマ「篤姫」が終了しました。
「大奥 幕末篇」としてとても楽しめたのは、女性脚本家の奮闘のおかげと思われます。
従来の幕末モノは、登場人物がみんな「礎となり?」血を流し死んでいく姿ばかりでした。
そんな「功」の面を楽しませてもらいながらも、終わってみると何も残らないとは、どういうわけなのだろうか?
徳川家(大奥)と薩摩藩に焦点を絞りすぎてしまい、和宮が嫁いで、龍馬が死んでいっただけで、当時の国内全土を巻き込んだ驚天動地の革命が起きている状況が伝わらなかったような気がします。
それゆえ、天璋院篤姫の果たした役割や志が、これからの日本をも救うために必要と思われる、「和(女性)の力」としての象徴に昇華させられなかったように思えたのは、とても残念でした。
現実はそんなに簡単ではないですし、幕末は多様でありすぎて時代を描こうとすること自体、非常に難しいということなのかも知れません。
NHKの朝のドラマに起用される前の宮崎あおい(10代のころ)は、「日本で最も多忙な映画女優」と言われるほど数多くの作品に出演しており(男優部門では大杉漣。あの方も素敵ですが、一緒にしないでね)、若手の中では「彼女だけプロ」であるとのインパクトがあり、将来をとても楽しみにしていましたが、あっという間に「日本のエース」になってしまいました(ソフトボールの上野投手は大エース!)。
大仕事が終わったので、また若手監督等のマイナーな映画で輝いて欲しいと思うのですが、もう無理なんだろうなぁ……
上写真のバックに色づく木々は二の丸庭園にある雑木林(コナラやクヌギの枯れ色)で、その造営は昭和天皇の意向によるものだそうです。
その意図は見事で「華やかさだけが庭園ではない」(個人的な意見ですが、京都をまねる必要はない)との意志のようにも感じられ、東京の真ん中である皇居の雑木林(武蔵野においてその存在は重要)が気に入り、ウロウロとしておりました。
ですが、痛い目(敗戦の経験)に遭ってからでなければ、庶民の気持ちに歩み寄ることができなかったわけですから、天璋院篤姫の力によるとされる「江戸城無血開城」の志(江戸の町を守りたい)を踏みにじったことになります。
とは言え、篤姫の時代である幕末においての「開国」「目指せ欧米列強」という気運にも、後の「富国強兵」へと連鎖し、国体の破綻(太平洋戦争)へと突き進む危険要因が潜んでいたわけですから、どこかで破綻が待ち受ける運命だったようにも思えます。
その責任はいずれ誰かが負わねばならないことを考えると、昭和天皇が一番の貧乏くじを引かされた人物なのかも知れません。
歴史から学べるはずである日本人としては、過ちを繰り返さずにどれだけ平和な時代を続けていくことができるのか、未来の後継者たちに示すくらいの気概がなければ「泰平の世があった」と、伝えられないのではないかと思われてなりません。
今回は結果的に、江戸時代に縁のある場所を歩いたことになり、篤姫も楽しんだかも知れないとも思ったのですが、大奥からは出られなかったでしょうから、「キレイじゃのう〜」というあおいちゃんの声を想像しながら、気分に浸っておりました。
──「○○じゃのう〜」という語り口は、讃岐(高松など)ではいまでも使いますよね?
P.S. 脇役でしたが、久しぶりの中嶋朋子(「北の国から」蛍役←見てません)を応援していました。
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