2019/01/21

低い土地の苦悩──南砂町

2018.12.24【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_11

 南砂町にはショッピングモールSUNAMO(スナモ)やニトリ(PCテーブルを購入)があり、比較的大きなものを買う際に足を運びます。


城東公園

 最初に目に入ったのがロケットや人工衛星のレプリカで、「下町ロケット」に関係する場所か? と思ったら、物語はフィクションでドラマロケも主に大田区で行われたとのこと(本もTVも未見でトンチンカンなことを)。
 ですが案内には「当公園は、宇宙を主題として「太陽系の集い」をテーマに、太陽系9つの惑星広場に、それぞれ特色ある施設を配置しています」(1967年開園)とありますから、以前付近に宇宙に関わる部品工場等があったのではないかと(しつこいね…)。
 メインは交通公園で自転車の貸し出しがあり、スポーツセンター、幼稚園、区民農園等が隣接します。
 近くに元貴乃花部屋があったそうで、ようやく芸能レポーターも姿を消し静けさを取り戻したことと。



 以前、北側の小名木川方面から歩いた際の砂町釣魚場旧大石家住宅(右)の記憶や、にぎやかそうなショッピングセンターはトピレックプラザだったらしいと、南側の南砂町駅との位置関係がつながりました。
 公園に保存される旧大石家住宅(右:江戸時代)は、安政の大地震、大正の大津波、関東大震災、戦災等の被害をまぬがれた建物で、その囲炉裏火で地域の安寧を祈るようにも。
 仙台堀川は江戸時代に作られた運河で、隅田川との合流地点にあった仙台藩の深川蔵屋敷に、水路を経由して仙台から米が送られたことに由来します。
 付近では、大正期に始まり特に戦後の工業化により急速に進んだ地盤沈下が著しいため(地下水、水溶性天然ガス採取が原因)、水害対策として仙台堀川は埋め立てられ公園とされました(1982年)。


南砂町駅 2a出入口

 人物との比較でも地盤から2m近い高さに防水扉があり、初めて見たときはシェルターの入口かとギョッとしました。
 この背後に残る直線的な構造物は、洲崎川(旧海岸線沿いに残された運河で現在は埋め立てられた:1982年)の堤防跡で、当初の駅は運河地下に作られました。埋立地には沈下分を補正した基準高に土が盛られますが、地盤が沈下した陸側では出入口だけがかさ上げされています。
 都心でも古い地下鉄の出入口は、水の流入を防ぐため数段高くなっているが、高低差がこれだけ必要な駅付近に暮らすのはちょっと……
 現在、駅の大規模な改良工事が行われているので、この出入口は廃止されるかも知れません(いい印象にはならない)。


新砂地区(駅海側の埋立地)


 砂町水再生センターは先立って島のように埋め立てられ、残された入江を埋め立てた地に並ぶマンション群、ショッピングモールSUNAMO等は工場に囲まれる格好となるため、もう少し緩衝地帯が欲しかったように。
 付近の水路にある東京湾マリーナを楽しみにしていたが、IHIが運営する会員制施設のため追い返されます。夢の島マリーナが近いことから、以前造船所等で使用した水路をリニューアルしたように。
 上は隣接のセメント工場に整列するミキサー車。他にもセメント工場があるので、砂町運河を大きめの運搬船が航行するようです。




 ここは都内で2番目に古い施設(1930年:昭和5年 運用開始)で、もっとも古いのは三河島水再生センター
 下水処理場には、時間をかけてゴミを沈殿させるプール設置に広大な敷地が必要で(森ヶ崎水再生センターも広い)、沈殿した汚泥はここに送られ(三河島等からも)、東部スラッジプラント(前回の荒川沿いの高い煙突のある施設)で炭化・焼却されます。
 有害物質がほとんど取り除かれていても、それを焼却するのは目立たない場所(?)の川のほとりとされます。川は風の通り道ですから、上流側の自宅方面にも流れてくる可能性があるということに……
 地中からそそり立つ巨大煙突は、下の赤白煙突の根元。


 上は、海側施設の屋上にある新砂運動場(サッカー場、テニスコート、グラウンド等)へのアプローチ道路からの光景。運動場のリンク先に撮影利用料金表があるように、周囲の建造物が映り込まないため撮影に適していそう。
 訪問の目的として、海側に広がる砂町運河(対岸は夢の島)を眺めたかったのですが、周辺には重要な施設があるためか、端まで立ち入れないよう遮断されており運河を見ることはできません。排水口を見せたくないため? 森ヶ崎水再生センター排水口のように海鳥は集まらず(魚がいないということ)、見るものもないということか。


2019.1.14

 会場の総合文化センターにはバス利用が必要ですが、バス停の時刻表には運行遅延の張り紙があります。交通が不便なため、晴れ着女性の送り迎えで道路が混雑することも年中行事らしい。
 会場には足を運んだことがあり、前の広場でゆっくり撮れると思っていたら、そこが出席者たちの溜まり場となっているため入り込めません。懐かしい顔との再会の場には適していても、周辺に散策する場所がないのはちとかわいそう(こちらも残念)。

 駐車場入り口で交通整理をする警官が急に走り出した先には、高い場所が好きらしく自販機の上で酒をがぶ飲みする輩がいます(その前に登っていた振袖姿の女子は、降りるのに難渋していた)。駆けつけた警官(失笑を抑えている雰囲気)が10名以上いるのは、昨年までの「実績?」から人数を決めたように。
 印象のよかった千代田区、港区、浦安市では、警官の姿は見かけなかったが(気づかなかっただけ?)、新宿区では部隊並みの警官が配置されていましたから、警官の数で地域での問題の深刻さが計れるようにも。

2019/01/14

橋は立派になっても──荒川

2018.12.15【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_10

 今回から「東西線を歩く」の後編として、西葛西駅から都心方面を歩こうと思います。
 東西線は西葛西駅を出ると中川〜荒川(放水路)を渡り、南砂町駅の手前で地下に潜ります。対岸の江東区は江東ゼロメートル地帯ともされますが、江戸川区も境遇は同じです。


荒川河川敷(江東区側)


 荒川放水路は、関東大水害(1910年:明治43年)で大きな被害を受けた首都の水害対策として、岩淵水門から中川河口までを開削した人工河川(1930年:昭和5年)で、その際上写真付近に旧葛西橋が架けられました。
 当時は江東区南砂、江戸川区西葛西は埋め立て前のため付近が河口で、ハゼ釣りの名所だった時分からの釣具店や桟橋(釣り船や屋形船等が係留される)が健在です。
 木製の旧葛西橋の老朽化により、1963年右の葛西橋(当初は都内最長の橋:727.4m)が建設されます。
 川幅が広いため風の影響をまともに受けますが、近隣の女子高生は制服の下にジャージを履き、力強く自転車をこいで風に向かっていきます。
 黄色の花は菜の花に似ている(葉もシワシワしてる)ように見えたが、まだ季節には早いので別の花かと。


 上の江東変電所は、発電所からの電気を都心(新宿、城南変電所)に中継する施設で、ここから電線を地中に通すためスッキリした外観になっています(都心側には鉄塔や送電線はない)。
 変電所建設当時の江東区側は埋め立てられいたが、江戸川区側は埋め立て前のため海上に送電線が通されます(リンク先の絵は印象的で、この海に町が作られ人が暮らしているのかと、何度見ても感心させられます)。

 この下流側で砂町運河を渡り、夢の島東京ゲートブリッジにつながる道路計画があるらしいが、付近にはまだ気配は感じられません。埋立て地は水路を渡る道路(橋)が限られているので、完成すれば便利になりそうですが、トラックの交通量も増えそうと。

 荒川を挟んだ江東区側と江戸川区側の埋め立て地には、造成年代と目的の違いがハッキリ見て取れます。
 江東区側は、明治〜大正期の埋め立てにより多くの工場が立ち並び、1958年(昭和33年)貨物線が通され越中島貨物駅が開業します。上の砂町水再生センターは1923年(大正12年)完成。
 江戸川区側は1972年から土地区画整理(地盤沈下による水没民有地の区画整理)や都市整備(住宅建設、流通センター建設)など、生活系インフラ整備目的で埋め立てられます。
 その間には川の隔たりだけでなく、人工河川のルートを選定した時代の線引き(東京市内と隣接郡部の境界)が、現在も残っているように感じられます。
 ですが、江戸川区側にある(右写真手前から)首都高速中央環状線(1983年)、葛西水再生センター煙突(1981年)、葛西臨海公園 ダイヤと花の大観覧車(2001年)は、新しい土地に作られた新しい施設として、その立地条件を生かしているように。


 上の清砂大橋(2004年)は、災害時の東京都 一般緊急輸送道路(重要施設)のため、路面が非常に高い場所を通ります(上のように、東西線 荒川中川橋梁(1969年)の上部より高い)。そのため葛西橋以上に風当たりが強く、歩いて渡ると風にあおられ真っ直ぐ歩けないので、緊急時以外には歩いて渡らないことに(高所も苦手だし)。
 ですが、洪水・高潮等の際には、両岸のゼロメートル地帯を結ぶ立派な橋だけが水面上に浮かんでいても、そこまでたどり着けないようにも。失礼に聞こえるかも知れませんが、洪水時の都心側は水浸しと思われるので、西船橋や市川方面の高台を目指して避難すべきと考えています。

2019/01/07

2年目の西葛西

2018.12.29【東京都】

 西葛西での生活も1年4ヶ月となり、生活の中で感じた町の特徴について少し伝えられるのではないかと、雑感を拾いながら歩きました。


ビジネスホテルが成長産業?


 西葛西駅周辺では、大きなキャリーバッグを引きずる外国人観光客をよく見かけますが、朝の混雑する電車に「それ持って乗るんかい?」とおかまいなしに挑むグループも。
 駅周辺には8軒のホテルがあり(ベストウェスタンは2軒)、この1年で3軒が開業する盛況ぶりに驚きます。TOKYO 2020に向け右肩上がりの外国人観光客の受け皿として、都心にも多くのホテルが開業していますが、近頃のトレンドとされる個人旅行客(エコノミークラス)をターゲットとしたビジネスホテルの立地に向いているようです。
 送迎バスが東京駅(50分)、舞浜駅(30分)方面に出ていますし、東西線で大手町駅(東京駅)まで20分ですから、ビジネス客+国内観光客にも利用しやすい場所のように。
 電車を降りれば人混みも無く静かな町なので、印象も悪くないのではと。


専門学校の立地にふさわしい?


 上は専門学校の看板で、これら全部を学校法人滋慶学園が運営しています。分野は多岐に及ぶことから(ウエディング、美容、調理、スポーツメディカル、福祉、アート、放送 等)、総合専門学校の運営を目指しているように。本部は大阪にあり、東京の足場として悪い場所ではないと思うが、学生たちは「都心じゃないのかよ」「ディズニーランドは近いけど何度も行けない…」とか言ってそう。

 また付近にはプロが技術を磨くパン科学会館(一般社団法人 日本パン技術研究所)があります。ここでは、製パン・製菓教育、フードセーフティ(食品安全衛生管理)等の指導が行われ、製パン技術教育コースでは本科100日間という本格的な指導を受けられるそう。ここで修行したパン職人は多いようで、年始挨拶に訪れる人々を何組も見かけました。

 以前は副都心化を目指し企業を誘致したものの、都心回帰の流れで大企業の事務所は移転・廃止とされましたが、教育機関にとっては居心地のいい場所のように映ります。


インド人コミュニティのおかげ?


 インド人システムエンジニア等へのビザ発給が緩和された2000年頃から東京で働く方が飛躍的に増え、特に江戸川区(西葛西)に集中したのは、インド人コミュニティが立ち上げたインターナショナルスクールの評判によるそうです。
 付近に暮らすインド人ファミリーでは英語教育が必須とされ、近隣で刺激を受けた日本人ファミリーから入学希望が増えたため、東葛西にキャンパスを新設したそう。身近なインターナショナル教育に関心を持つ島国人の姿勢は理解できますし、近所のインド料理店で開かれるイベントでは、日本人親子が一緒になって楽しむ様子が見られます。
 付近にはインド系以上に中華系住人が多く、日本語学校があるため東南アジア系の方も見かけるように、近隣国に偏ってはいるがインターナショナルな町と言えそうで、西葛西ならではの新しい文化が生まれそうな気もします。
 田町の方が多様でしたが、こちらは「圧」が違います……


川(がわ)を取れば胸を張れる?


 上は現在改修工事中の江戸川区球場で、昨夏の甲子園大会時分に耳にした若いお母さんたちの、「エドキューで負けちゃったから…」「うちの高校もエドキューが最後だった」の呼び方が可愛らしく響きました。出身の神奈川では、保土ヶ谷、追浜(おっぱま)とそのまま呼んでいたが、いまどきはどんな呼び方をしているのだろうかと。
 また江戸川区には、商店街ヒーロー「商売繁盛 エドレンジャー」がいます。商店街連合会が生み出したヒーローがシャッター軍団と戦うという設定で、リアル過ぎて身につまされる大人たちの方が応援していそうですが、子供たちには人気で近所の催しは大盛況!
 東京近郊で育った者には、江戸に川(がわ)が付くとガクンと下がるイメージがあるため、それを取ればイケると考えたようですが、その時点で認めてしまっているようにも…… 江戸川区のみなさんゴメンナサイ!


2018.12.31

「勝手にシンドバッド」な夢

 今回のNHK紅白歌合戦の最後には、新しい年を迎えるカウントダウンイベント「平成打ち上げライブ」のような盛り上がりがありました。
 サザンオールスターズはデビュー40周年ですから、楽曲にそそのかされた同年代も60代前後の「じぃじ」「ばぁば」となり、紅白のトリは「演歌や嵐じゃないだろう」とくすぶっていたのではないか。
 発売当初の評判は「歌詞が聞き取れず、やかましいだけ」でしたが、若者には盛り上がれる曲として受け入れられ、コンパでは替え歌に声を張り上げていました。
 デビュー当時、音楽番組「ザ・ベストテン」にランニング+短パンで登場した姿を目にした黒柳徹子さんが、「洋服買ってあげましょうか」と心配した連中が時代のトリを務めることを、彼らも夢は見ても実現するとは想像しなかったでしょう。
 われわれがそんなチャンスを手にできないのは、「勝手にシンドバッドな夢」をどこかで見失ったためかと……

 松任谷由実の「物語性のある楽曲」は、ジブリ映画の世界観に置き換えられ広く浸透したように、ニューミュージックとされた音楽が60代前後の「懐メロ」であることを認識させられます。サザン同様、昭和の懐古であっても、パフォーマンスにはこれまでの積み重ねが感じられたように。

 右は、大晦日の鶴岡八幡宮で神職のアルバイトに向かう若者たち。