2009/02/02

夕焼けにゃんにゃん──谷根千

2009.1.27
【東京都】

 谷根千(Map)

 谷根千(やねせん)とは、谷中・根津・千駄木周辺をさす通称だそうです。
 「谷根千」という地域情報雑誌があるそうですが、出版不況の影響か09年春で終刊となるそうです(一冊くらい買っておけば良かったかなと、帰ってから知りました)。
 上野方面からこの付近まで流れては来るものの(上野をメインに考えてしまうので)、谷中霊園や根津付近で力尽きておりました。
 今回は、意識にはあってもこれまでたどり着けなかった根津神社と、谷中ぎんざを目指して歩きました。

 根津神社(右写真から5枚)は根津権現とも呼ばれ、日本武尊(ヤマトタケルと読ませるところがスゴイよね。もしくは倭建命:やまとたけるのみこと)が1900年近く前に創祀したと伝えられるそうです。
 野蛮人が住むとされた時代の東国に、そんなヒーロー(皇族)がやって来るわけがないと思うのですが、「古事記」(712年)や「日本書紀」(720年)には関東などの地名入りで、ヒーローの活躍ぶりが記録されているそうです。
 神話の真偽についてはともかく、「古事記」「日本書紀」という国史とされるような書物の編修(国史等は「編修」の字だそうです)に際して、「東国も国土の一部である」という認識で作られたようなので、国を治める側としては本州(東北はおぼろげかも知れないが)までは領土である、という認識だったように思われます。


 根津神社は東京大学の北端に接するような場所にあるのですが、その大学敷地の端っこに地震研究所があります(大学の卒論時に2度くらい訪れたか)。
 建物には耐震補強のゴッツイ筋交いがはめられており、「補強はこれくらいやらないと危険なんです」というアピールのようにも感じられます。確かに地震研ががつぶれたらお話しになりませんからね……
 その裏側に位置する境内の斜面には、つつじと思われる植え込みが並んでいます。花の季節には見事な光景が見られることでしょう。
 また、近隣には森鴎外、夏目漱石等の文豪が住んでいたことなどから、この神社が小説に登場することが多かったようで、その作品の数には驚かされました。
 当時から風情や人情味には事欠かなかったであろうし、もちろん現在でも気のおけない町であることは、歩いてみれば納得できるのではないでしょうか。

 この界隈について調べて驚いたのは、門前にはかつて根津遊郭があったということです。
 神社は江戸時代に千駄木から移され、遊郭はその後に作られたそうですから、参拝者を目当てに作られたことになります。
 それはお上(江戸幕府)が認めたのでしょうから、仏教のように戒律は厳しくないと思われる神道では、不問とされたのだろうか?
 「神社と遊郭」という研究テーマが立てられるのでは? もうあるのかも知れないと調べてみると……
 Googleで「神社と遊郭」を検索すると、検索結果欄に「このサイトはコンピュータに損害を与える可能性があります」と表示されたサイト名がズラーッと並びます。
 これは明らかな妨害工作! ちょっと、突っかかってやろうか? と思っていたら、Google側のミスだったそうです(2月1日0時頃)。人騒がせな!
 でも結局、そんなテーマのモノは見つけられませんでした……


 タイミングが悪いと言うか、楼門・社殿ともに修復中で対面することが出来ませんでした。
 境内の一画には朱塗りの鳥居が並ぶ参道があるのですが、江戸サイズ(小さめのモノの表現。畳にはそう呼ばれるものがあるそうです)なのか、いきなり頭をゴチンとぶつけました。
 京都の伏見稲荷くらい大きいものにしてくれ、と言いたくなりましたが、平均身長の低かった江戸時代には、京都のサイズは見栄で、このサイズが現実的と言われれば、少しかがんで通るくらいが、非日常的な空間に来ている実感を得られるようにも思えてきます。
 右写真は神橋で新しく架けられたそうです。朱塗りばかりではなく、このような深い緑色の建造物はとても落ち着きが感じられますし、センスは見事と納得させられました。


 谷中といえば、谷中墓地(都立霊園で桜の名所)とお寺が思い浮かぶのではないでしょうか。
 ──霊園に桜の名所が多いのは意味があっても無くても、日本的な光景と思います。春のお彼岸辺りに桜がほころんでいたりすると、ご先祖様がよろこんでいるように思えたりします。

 上野寛永寺(徳川家の菩提寺:天台宗)が建立されてから、この地に子院が次々と建てられるようになったそうです。
 また、幕府の政策によって神田付近から移転したり、火事で焼け出されたお寺が集まってきた等の経緯があるそうです。
 印象としては、日蓮宗系のお寺が多いように見えましたが、浄土宗系や禅宗系など、なんでもありの「お寺銀座」とも言えるのではないでしょうか。
 そんな御利益か、幕末の旧幕府軍(江戸城無血開城に反対する勢力)と新政府軍の上野戦争では被災するものの、関東大震災や第二次世界大戦では被害が少なかったそうで、昔ながらの町並み・建造物が残されていていながらも再開発されないのは、お寺の存在なのかも知れません。

 よく「火事と喧嘩は江戸の華」と耳にします。自虐的過ぎる表現に思えたのですが、実はよろこんでいたのではないか? と思えてきました。
 「宵越(よいご)しの銭は持たない」(=お金は蓄えない)人たちは、燃え広がりやすい長屋暮らしに満足していて、周囲の人たちと小競り合い(喧嘩)を繰り返す日常が「とても好き」だったのではあるまいか?
 世話好きで、人なつっこいというか、運命共同体的な意識をみんなが持てていたのは、当時の「江戸っ子の気分(社会・景気意識)」を庶民が等しく共有できていたからかも知れない、とも思われます。
 ──運命共同体的な意識を持てない現代だからこそ、そんな人情に安らぎを感じる多くの人たち(わたしを含め)が、身近な下町にノコノコやって来るのではあるまいか。

 遠くから「あれっ、外国の人が銭湯に入っていくよ。何か特徴のある風呂なの?」と思った右写真は、銭湯の建物をそのままギャラリーとして利用しているスペースでした。
 継続していけるのであればいい試みであるし、どうせなら湯船につかりながら鑑賞したいと思いますが、そりゃ無理ですわね。

 「谷中ぎんざ」という名は、下町商店街の代名詞のように思っていましたが、マスコミを上手に活用して作り上げた偶像である、というのが第一印象でした(批判的な意見を持っているわけではありません)。
 ちょっと元気な、どこにでもある商店街で、違うと思われるのは「○○テレビで絶賛されました!」等の張り紙がやけに目立つところでしょうか。
 小さな商店街ですから、宣伝担当者の戦略が見事に成功したということになるのだと思われます(NHKの朝ドラの舞台にもなったそう)。この日もテレビカメラが取材に来ていました。
 手段は様々でも、活気を保っていくことは大変なことと思われますから、いつまでもお元気でありますように。

 JR日暮里駅から谷中ぎんざに下る右写真の階段は「夕焼けだんだん」と呼ばれています。
 夕焼けの絶景スポットだそうで(この日は時間が早かった)、Webサイトには「36段ある」などという記述もあったり、結構な人気スポットのようです。
 周辺をはいかいするネコが多く「お前、木登り上手だなぁ」と、おじいさんが語りかけたり、高そうなカメラを持ったおじさんがゴロゴロあやしながら写真を撮っています。
 この周辺はネコにとっては楽園のような場所なのかも知れません。
 そんな光景から「〜だんだん」ではなく「夕焼けにゃんにゃん」じゃないの? と思っていたら、そう呼ばれることもあるんだそうです(「おニャン子クラブ」は「夕やけニャンニャン」)。
 夏などは、ネコ好きの方には有名な夕涼み&夕焼けスポットなのでしょうね。
 ネコのは写真ありませんが、ご勘弁を……

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