2009.2.1
【東京都】
旧岩崎邸庭園(Map)
この建造物から、イーグルス(70年代に活躍したアメリカのロックバンド)の代表作「ホテル・カリフォルニア」(1976年)のジャケット写真を想起したと言っても伝わらないか?
当時「あれはビバリーヒルズ ホテルの写真」なんて聞いても「ビバリーヒルズってどこ?」なんて時代でしたしね……
ここは、上野不忍池(しのばずのいけ)のウエストコースト(? 大むかしは不忍池も海だったそう)にある、旧岩崎邸庭園です(岩崎家とは三菱財閥の創業者一族)。
昔からの名家かと思いきや、成り上がりのようです(怒られますね)。
三井(1673年)や住友(1590年)は歴史を持つ旧家だそうですが、三菱(1873年)は明治期の動乱に便乗して巨万の利益を得たため、そう言われるようです(龍馬の海援隊の後身を受け継いで富を得ます)。
こんな電球がまだ現存しているんですね。電球は消耗品でしょうから現在でも作られていることと。
建物が建造された当時は、日本が成長に向かう時代で電気は「文化の象徴」でしたが、いまどきは「じゃーん!」と出てくるでんこちゃん(東京電力のキャラクター)の、格好の標的(省エネタイプに取り替えましょう!)にされそうです。
彼女には「風情を楽しむ」って心がありませんから……
フィラメントから発せられる柔らかい光には、確かに暖かみが感じられますが、旅行などで利用するビジネスホテル等の間接照明の弱い明かりは、年と共に手元が見えづらくなり目に優しいとは思えません。
「もっと光を!」と、目をしばしばさせているヤツに、風情を語る資格はありません……
現在ここは東京都が管理しているため、バンフレットの様式は浜離宮等と同じです。その「〜庭園」の名のように、以前の敷地はもっと広かったそうです。
で、切り売りされた土地に何があるかといえば「ここは香港か?」と思うような、ベランダがないためエアコンの室外機が外壁にズラーッとオブジェのようにぶら下がるマンション(?)が並んでいます。
金持ちに対する庶民の当てつけか? とも思え、撮り方によっては面白い絵になりそうでも、好きにはなれない光景でした。
この洋館は、ジョサイア・コンドルという東大講師の著名な建築家によるもので、旧古河庭園にある洋館もこの方の「作品」とありました。
1896年(明治29年)に完成していますから、空襲の炎上からこの建物を守ったのは広い庭園の存在なのでしょう。
そんな時も痛い目に遭うのは庶民ですから、お金持ち(リッチではなく富豪の意)になるということは「自分を守る」ことに通じるのかも知れません。
しかし、江戸っ子たちはめげることなく、以前と同じような住宅密集地を作り上げていきます。お金よりもバイタリティが町を支えていると(希望を込めて……)
上写真はついたてですが、その説明に「唐草模様」という表現がありました。本来は、このようなデザインを指す言葉だったんでしょうね。
──興味のある方は調べてみてください。ものすごく手間のかかる手作業のようで、工芸品としては日本有数のものらしい。壁紙から天井(刺繍が張られていたり)そしてカーテンまで見事にコーディネートされ「迎賓館か?」というほど見事な装飾です。
わたしなんぞは、唐草模様と聞けば「東京ぼん太の風呂敷」(古くてスミマセン)を想起してしまうし、「ラーメンどんぶりの模様」もそこから派生したと言われても、イメージできないのではないかと。──ラーメンどんぶりの模様も最近見なくなりました。
それを「簡略化されたデザイン」と呼ぶらしく、イコールではなくても、それを「庶民的デザイン」と呼ぶことには、手を打って納得しちゃいます。
右写真は、離れた別棟として建つ撞球室(どうきゅうしつ:ビリヤード場)になります。
ガイドには「スイスの山小屋風の造り」などと書いてありますが、明治時代の流行最先端だったにしても、それだけのために建物が必要だったのだろうか?
ちなみに、本棟から地下通路が作られているそうです。
この壁の装飾は、神戸異人館にある「うろこの館」(リンク先1枚目の左上写真)に似ていると思われましたが、設計者の同定はできませんでした。
しっかし、上写真の和館などもあるわけで「お金があれば、何でも出来る。ダァーッ!」って印象ですから、これまで立ち寄らなかった理由がよく分かった気がします。
確かに絵になるモノが多いのでパシャパシャ撮りましたが「成金趣味のここがスゴイ!」と宣伝してもなぁ、という気分が伝わればと……
湯島天満宮(Map)
年が明けたこの寒い時期、受験生にとっては、己との闘いの季節であり、祈りの季節になります。
ぶら下がっているのは絵馬ですが、鈴なりというかもう臨月という状態に見えます。この奉納所は倒れるわけにはいかないでしょうから、相当強固に作られているんでしょうねぇ。
大学受験時にお参りした記憶があるのですが、それ以来か? お願いしてきました……
創建は458年とされており、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として開かれたそうです。
聞いたことのない神様(天之手力雄:あめのたぢからを)ですが、神話では天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸に隠れた際、その脇に控えてあまてらすを引きずり出し、世の中に明るさを取り戻したそうで、「力の神」「スポーツの神」とされます。その後、地域住民たちの願い出によって、菅原道真が合祀されました。
「湯島の白梅」とよく耳にしますが、それは歌謡曲のタイトルからきているそうです。
神社の梅祭りは2月の2週目からのようですが、もう既に受験シーズンの最中ですから、この日(日曜)の境内では露店が満開でした(右写真は拝殿に飾られた盆栽)。
天神様の守護は牛ですから、ここにも牛の石像があります。
関西では牛の像を手でなでる習慣があるようでどこも「テカテカ」でしたが、ここはよだれかけ(?)がいくつも掛けられています。
そんな様子からも「学問の神様」は、東西を問わずとても庶民に愛されていることが実感できます。
同じ信仰とされながらも、各地方において異なった風習を生み出したり、分派していったりするものがありますが、完全に日本ローカルと思われる天神様信仰(菅原道真)ですから、各地方での接し方や風習などについての調査・比較をしてみると、生活者たちの「祈り」「願い」の多様性から風土や文化の差異というものが浮かび上がって来るのではないか? と、思ったりもします。
こんなテーマは、いかがでしょうか? もう研究してる人はいるかも知れませんが……
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