2008/12/21

グレートウォール──芝、汐留、東京タワー

2008.12.16-18
【東京都】

 東京圏の紅葉の見頃は短いような印象を受けました。
 平野が広く山が遠いので(関東平野は広い。でも、海がある!)、環境・気候のバリエーションが限られているせいかも知れません。
 しかし、茶色(雑木林)をベースにして、黄色の線(イチョウ並木)と紅の点(カエデ等)がメリハリになることを特徴とすれば、とてもカラフルな秋模様であると思われました(って、これまで何を見ていたのか?)。

 旧芝離宮恩賜(おんし)庭園(Map)

 JR浜松町駅に隣接する庭園です。
 浜松町駅前と言えば、日本の超高層ビルの先駆けである「霞ヶ関ビル」を高さで抜いた「貿易センタービル」があります。
 古いなぁ、なんて言わないでよ。当時は「プロジェクトX」モノだったんですから。
 正式名称は「世界貿易センタービルディング(WORLD TRADE CENTER BUILDING)」というそうで、超高層ビル建設への意気込みが感じられるのですが、アメリカのビルようなテロの標的にはならないと思われます。
 と言うのもかなり以前に、健康診断でビル内の診療所を訪れたことがあり、「ふつうの雑居ビルと変わらない」印象にガッカリした覚えがあるからです……

 何でそんな話しになったかといえば、芝離宮のパンフレットのイラストに、そのビルが描かれていたからです。
 「ビルが借景?」とビックリしましたが、そこに込められた「当時の自慢したい気分」を理解できる年代とすれば、これも立派な文化遺産(?)であるかも知れない、と思ってしまいます。
 現代では、背景にビルが入らないようにとアングルに腐心するのですが、「現代っ子の体格は格段に大きくなっているのよ」と周りを囲むビル群が、見下ろすように迫ってきます……

 上写真は雪吊りの様子なのですが、枝が広がると樹高よりかなり高い心棒が必要であるように見えますが、これ美観目的のディスプレイなのかも知れません(そのように見せる場所も増えているそうです)。


 竹芝桟橋(Map)


 伊豆諸島(七島、小笠原)と行き来する船はここから出入港します。
 付近一帯も再開発によりビルも建ち(劇団四季の劇場が近くにできたり)、すっかりおしゃれなデートスポット(?)になりました。
 写真は湾内クルーズの食事などを楽しむ観光船ですが、旅客ターミナルには昔から変わらぬ「離島の匂い」がプンプン漂っています。
 これは誘われているのではなく、欲しているのだと感じています。

 すぐ裏(陸側)には、大学の卒論で文献(関東大震災関連の記録)調べに通った東京都公文書館が昔のままの姿で残っていました(単なる感慨です)。
 こちらに戻ってみて東京圏の地震の多さを実感したのですが、近ごろ少ないような気がしませんか?
 適度に起こらないと(?)、逆に不安に感じてしまうのですがどうなのでしょう……


 浜離宮恩賜庭園(Map)

 ここは以前、徳川将軍家の別邸「浜御殿」として埋め立てや、庭園等が整備されたそうです。
 ──わたしも以前、現住所近くの「小杉御殿(町)」に住んでおりました。東海道が整備される以前の江戸時代初期には、現住居の目の前を通る「中原街道」(やかましくてたまらん!)が主要街道で、将軍宿泊地の本陣があったため地名として残っているようです。

 もとい、幕末の浜離宮には外国人接待所として延遼館(幕府海軍伝習屯所)が建設され、鹿鳴館ができるまで迎賓館として使用されたそうです(勝海舟はこの付近で活動したのか?)。
 「篤姫」にもありましたが、最後の徳川将軍である慶喜が、大阪からしっぽを巻いて逃げ帰ったとき、ここから上陸したそうです。

 下写真のバックは、汐留地区再開発の完成型(なれの果て)です。
 ここまでくると、背景がどうのこうの考える気すら起こりませんから(水面にもビルが写り込む)、撮ってやりましたよビル群の宣伝写真を!
 再開発を計画した人は、この完成型をイメージしていたのでしょうから、きっと満足なんでしょうねぇ?
 わたしには、ちょっとこのセンスは理解できないのですが……


 この光景を目にして、グレートウォールという天文学の言葉を想起しました。
 グレートウォール(The Great Wall)とは、地球から約2億光年離れた位置にある、膨大な数の銀河で構成された「壁」を意味します。
 シャボンの泡の膜面に当たる部分に銀河が高密度で存在し(グレートウォール)、泡の中の空洞には銀河がほとんど存在しない、というイメージ。
 上写真では、泡の膜面部分にはコンクリートが高密度で存在しているが、泡の中(手前の庭園)にはコンクリートはほとんど存在しない、というキャプションになります。
 万里の長城を英語で「The Great Wall of China」と言うそうなので、これはさしずめ「The Great Wall of Tokyo」でしょうか。

 品川もそうですが、海辺に高い砦を作って海から進入してくる敵の攻撃から、東京を守ってくれそうなのは有り難いようにも思えるのですが、今どきは頭上から「ピコピコッ」とねらい打ちですからね……
 これらの壁が、海風等の熱対流を阻害してしまい、それが東京近郊の局地的な異常気象を生み出しているとの研究もあります。
 立派なのは分かりますが、でもこれ、バカだよ! くらい言わせてください。
 しかしそれは、下から見上げてひがむ立場の声であると感じたのは、ビルからの眺めは「これ、うちの庭だよ」なんて言える最高の景色なのであろうと想像するしかない、御殿の塀の外から飛び跳ねて中をうかがう庶民の姿と変わらない、と思えたからです。

 写り込むにしても、せめて右上写真くらいにしてもらいたいと思うのですが……(写真は悪いが絵になりますものね)


 東京タワー(Map)

 12月でちょうど開業50周年になるそうです。
 だからキレイだったのでしょう、とても入念に手入れされている印象がありました(エレベーター内も大阪通天閣や、京都タワーに比べると格段にキレイでした)。
 「東京に暮らす者は、タワーには行かない」と言われますが、確かにわたしも片手未満ではないでしょうか。
 ──新宿の高層ビル街の上には飲み屋があるので若いころにはよく行きましたが、結局は「池袋サンシャイン60:2回?(水族館あり)」「東京都庁:1回?」「横浜ランドマークタワー:1回?」程度ですから、動機は物珍しさだけということですね。新たな関心としては、もうブームは去ったらしい(?)六本木ヒルズも、1度くらいはと思っています。

 特別展望台へのエレベーター案内係の若い人に「芝のゴルフ練習場は無くなったんだっけ?」と声を掛けると、「いやぁ、自分が来たときにはもう無かったので……」の返答。
 その瞬間「オヤジトーク」を通り越して「浦島太郎的トーク」をしてしまったと、ガックリと肩を落として落ち込みました……
 しかし懲りないオッサンは、もう一つの関心事である「東京タワーと言えば、蝋人形館」はまだあるのか? キョロキョロ歩き回りました(しかし蝋人形って何が楽しいのか?)。
 ガキのころ、マリリンモンロー、ジョンウエインとか言われても「ふーん」としか思えなかった気がする蝋人形館は、いまも健在でした(未見。あることが確認できただけで十分です)。

 でもまだ、東京タワーがシンボルでいられるのは、最上階の特別展望台(250m)が、東京を見渡せる最も高い場所であることを実感できるからだと思われます。
 でも、高さ610mという新東京タワー(正式名称は「東京スカイツリー」で完成予定は2011年12月)ができたら、このタワーはどうなるのだろうか?
 いまのうちに行っておいた方がいい、なんてことになるのだろうか?

 映画『三丁目の夕日』ではないですが、わたしにとってもガキのころには「あこがれの存在」のように見上げていた、東京の象徴だったのかも知れません(名誉のために言わせてもらいますが、登場人物の一平よりも年代は下になります。当時生まれてませんもの!)。
 必要なのか分かりませんが、いまの子どもたちって、共有できるあこがれ・シンボルのようなものを持っているのだろうか? ということを考えました(「昔はよかった」という考えではありません)。
 「拝金」資本主義が疑問視される近ごろでは、どのように将来像(希望)を伝えていけばいいのでしょうか?
 どこかの国のように、みんながシンボルを指さすような構図では、困るのですが……

 おっかしいなぁ〜。
 右写真は夕焼けではありませんが、そこに薬師丸ひろ子のセリフをイメージしてもらって、
「大丈夫、来年はきっといい年になるわよ!」
 と締めるつもりだったんですが……

 何か、東京の事を書いていても楽しくないので、ちょっとリフレッシュしてきます。
 今年はこれで終了と思います。よい年をお迎えください。
 自分も、明るい年にしなければ、と思っております。


 P.S. 近ごろ江戸時代づいていますが(東京の主な歴史は江戸時代からなので仕方ないところ)、たまたま近所でやっていた、広重「名所江戸百景」の世界、という浮世絵の展覧会を見ました。
 「センスの塊」というわけの分からぬ感想を持ったのですが、現代ポップアートの祖とでも言うのでしょうか、自由闊達な精神から生みだされる「絵心」は、なかなか超えられるものではないだろう、と思わされました。
 版画で、雪の「白」(刷り色なし)の表現が伝わってくるセンスには、声を上げてしまいました。

 以前映画で北斎を演じられた緒方拳さん、ありがとうございました(TVドラマ、最後まで見させていただきました)。

2008/12/16

篤姫も楽しんだ? 江戸の晩秋
   ──小石川、駒込、旧江戸城

2008.12.3-11
【東京都】

 カレンダーは別としても、このくらいの気候(気温)で紅葉が進むのかという印象をもったのは、戻ってからまだ冬を経験しておらず、大阪・京都の感覚が基準となっているせいと思われます。
 暖かい、と感じていた東京の晩秋ですが、先週までが異常だったようです。今週はお寒うございます……

 小石川後楽園(Map)

 いつでも来られるという気持ちと、紹介写真には必ず東京ドームの屋根が写り込んでおり(避けようがないのも事実)、ドームの裏庭的イメージ(関係の逆転)が足を遠のかせたか、今回初めての訪問になります。
 分かりづらいですが、バック下側の白地に斜めのスジが見えるのが東京ドームの屋根です。
 何もこんなところに作らなくても、と言っても仕方のないことなのですが、それを言いたいがためにアングルを探していました(でも、これじゃ分からん!)。
 この庭園は水戸光圀(黄門)によって作られたもので、後楽とは「民衆に先だって天下のことを憂い、民衆に安楽な日々が訪れた後に楽しむ」という中国の言葉から引用したそうです。
 ドームや遊園地を訪れる人たちはいいにしても、WINS(場外馬券売場)に来る人たちには決して「安楽な日々」は訪れないと思うのですが、来られたことを安楽と考えればいいのか?
 「後窮園」となろうが、知ったことではありませんよね……


 小石川植物園(Map)

 東京大学の施設であると聞いていましたが、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」だそうで、現在の住所表記は文京区白山なので小石川の名はどこにも存在せず、「小石川〜」の名は通称ということになります(後楽園もいまの地名は異なるようです)。
 元は、江戸幕府に作られた小石川御薬園(こいしかわおやくえん:薬草を育てていた)だそうで、そこに設立された小石川養生所は「赤ひげ」(小説、映画)の舞台になったそうです。
 そうそう「ニュートンのりんごの木」の苗木を分けてもらい、現在も育てられているそうです。
 ここは「植物園」ではありますが研究施設なので、もちろん手入れは十分にされていますが鑑賞用ではないので、植物たちが結構自由に生育しているように見受けられます。
 雑木林の区域では落ち葉の季節なのに、それを片付けるなどという発想自体ないようで(土壌の養分とするため)、落ち葉に覆われてしまい道を見失うというか、ガキのころ歩き回った雑木林のように、枯れ葉を踏みしめ「何となくこっちかな?」と、ガサゴソ音を立てながら散策することができます。
 で、偉いというか、当たり前というか、都内ですから周囲は住宅街なわけで、塀の外に散った落ち葉の掃除をきちんとしている姿を見かけました。
 独りよがりの研究にならないように、近隣へ配慮する姿勢はとても大切ですから、好感度は「グーッ!」といった印象です(苦情があったのかも知れませんが……)。
 そんな評判で子どもたちを連れてこようという、いい連鎖が生まれるのかも知れません。

 学術研究施設である植物園に「いろはもみじ」のプレートがあり、認識では「もみじ」という種類は無いと思っていたので、調べてみました。
 「もみじ」の語源は、寒さに揉み出されるように色づくことから「揉み出づ」→「もみづ」→「もみじ」→「紅葉」と変わったそうです。
 「紅葉」を「こうよう」「もみじ」と読むように、秋に葉の色が変わる現象を意味する言葉で、植物学的には「もみじ」という種類は存在せず「いろはもみじ」はカエデ科カエデ属とされるそうです(葉っぱが手のように分かれているのを、「いろはに…」と数えたことに由来する、とありました)。

●童謡「もみじ」
秋の夕日に  照る山もみじ
濃いも薄いも   数ある中に
松を彩る    かえでや蔦は
山のふもとの すそ模様
 にもあるように、紅くなるのは「かえでや蔦」のようです。


 黄色い実はカリンです。
 写真の木には葉がついてますが、最初目に止まったのは「枯れ木に実がなっている!」ものでした。
 葉が落ちた木に実がなっているものなのか?
 その実は、わたしもよく口にする「カリンエキス配合」のど飴や、ジャム、果実酒などに使われるそうで、加工されるものは時期になれば収穫されるのでしょうが、ここではそれが目的ではないので、そのままにしているのかも知れません。

 以前『マルメロの陽光』(1992年 ヴィクトル・エリセ監督:『ミツバチのささやき』(アナー!)の監督)という映画があり、その時なぜか、花梨 (カリン)が日本名で、マルメロが英語名であると思い込んでしまったようで、近縁種でも違うものであること、今回知りました。
 ──その映画を観た当時(本作も画家が主人公)、その少し前に公開され評価の高かった『美しき諍い女(うつくしきいさかいめ)』(これも画家が主人公)よりも、『マルメロ〜』の方が画家の姿勢としては格段に確からしいのではないか、と感じたことを思い出しました(それくらいしか覚えていないのですが)。


 左に見えるのは旧東京医学校本館の建物で、本郷キャンパスから移築されたそうです。
 ほとんど写っていませんが結構しゃれた建物で、総合研究博物館の小石川分館として一般公開されています(未見)。

 ご覧のような素晴らしい晴天にもかかわらず、傘を持って歩く人たちがいました。
 傘を逆さに持って、その上で草木の枝を揺らしています。どうも、傘に落ちてきた虫を観察しているようです。
 採って帰るわけではないでしょうから、植物の種類と季節と棲息する虫の関係を観察しながら散歩するのも楽しそうに見受けられましたが、わたしにはどうも感心が持てそうには思えません……


 ここは結構何度も訪れた印象があるのですが、その理由は「人が少ないから」であろうと、この日改めて感じました。いいところですよ!
 桜とツツジの季節には混雑していた印象がありますが……
 ──「こいしかわ」という濁点のないひらがな並びの耳障りがとても好きです。


 六義園(Map)

 旗を持ったガイドさんに先導された団体が、ゾロゾロと入口の中へ吸い込まれていきます。
 観光バスが立ち寄る場所なんだ、と驚きましたが「はとバス」などでは「都内紅葉めぐりツアー」とかありそうですものね。
 そんなツアーに組み込まれるのも当然と思えるほど、紅葉の季節を考慮した庭園であることを納得するには、いい時期に来たと思います。
 この時期に来たのは初めてなのですが、都内でこれだけの空間が保たれているとは、こりゃ立派なもんだ、と見とれさせてくれます。
 前回紹介した春の季節も、この山の裏というのか雑木林の区域には落ち着ける趣があったので、四季を意識して作られたことが想像されます。
 ここを造営した柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす)は、『古今和歌集』の和歌を庭園で再現しようとしたそうですから、そんな意図が伝わっていることと思われます(前述の、小石川後楽園と並んで、二大庭園と称されたそうです)。
 吉保は元禄時代の大名で、赤穂浪士の忠臣蔵などでは、事件の黒幕・悪役として登場する人物なんだそうです。

 なるほど、また違う季節にも来てみたいと思わされました。


 この石橋は「渡月橋」(どこかで聞いた名前)といい、園内の名所でもあるので人の往来が絶えない場所になります。
 わたし同様に、カメラを構えて人が途切れるのをひたすら待つ人たちから「もうチャンスは来ないんじゃないか、胃が痛くなっちゃった」の声が聞こえてきました。
 それくらい人出の多い庭園であることと、写真を撮るときに「ここもビルが入っちゃうからダメよ」の場所が多いことは、覚悟しておいて下さいね。


 旧江戸城本丸(皇居東御苑)(Map)

 「大奥ってどの辺にあったのか?」これまで関心すら無かったので、確認してきました。
 位置的にはやはり将軍のおひざ元なのですが、天守閣は1657年の火災で焼け落ちて以来、再建されなかったとのことです。

 NHK大河ドラマ「篤姫」が終了しました。
 「大奥 幕末篇」としてとても楽しめたのは、女性脚本家の奮闘のおかげと思われます。
 従来の幕末モノは、登場人物がみんな「礎となり?」血を流し死んでいく姿ばかりでした。
 そんな「功」の面を楽しませてもらいながらも、終わってみると何も残らないとは、どういうわけなのだろうか?
 徳川家(大奥)と薩摩藩に焦点を絞りすぎてしまい、和宮が嫁いで、龍馬が死んでいっただけで、当時の国内全土を巻き込んだ驚天動地の革命が起きている状況が伝わらなかったような気がします。
 それゆえ、天璋院篤姫の果たした役割や志が、これからの日本をも救うために必要と思われる、「和(女性)の力」としての象徴に昇華させられなかったように思えたのは、とても残念でした。
 現実はそんなに簡単ではないですし、幕末は多様でありすぎて時代を描こうとすること自体、非常に難しいということなのかも知れません。

 NHKの朝のドラマに起用される前の宮崎あおい(10代のころ)は、「日本で最も多忙な映画女優」と言われるほど数多くの作品に出演しており(男優部門では大杉漣。あの方も素敵ですが、一緒にしないでね)、若手の中では「彼女だけプロ」であるとのインパクトがあり、将来をとても楽しみにしていましたが、あっという間に「日本のエース」になってしまいました(ソフトボールの上野投手は大エース!)。
 大仕事が終わったので、また若手監督等のマイナーな映画で輝いて欲しいと思うのですが、もう無理なんだろうなぁ……


 上写真のバックに色づく木々は二の丸庭園にある雑木林(コナラやクヌギの枯れ色)で、その造営は昭和天皇の意向によるものだそうです。
 その意図は見事で「華やかさだけが庭園ではない」(個人的な意見ですが、京都をまねる必要はない)との意志のようにも感じられ、東京の真ん中である皇居の雑木林(武蔵野においてその存在は重要)が気に入り、ウロウロとしておりました。
 ですが、痛い目(敗戦の経験)に遭ってからでなければ、庶民の気持ちに歩み寄ることができなかったわけですから、天璋院篤姫の力によるとされる「江戸城無血開城」の志(江戸の町を守りたい)を踏みにじったことになります。
 とは言え、篤姫の時代である幕末においての「開国」「目指せ欧米列強」という気運にも、後の「富国強兵」へと連鎖し、国体の破綻(太平洋戦争)へと突き進む危険要因が潜んでいたわけですから、どこかで破綻が待ち受ける運命だったようにも思えます。
 その責任はいずれ誰かが負わねばならないことを考えると、昭和天皇が一番の貧乏くじを引かされた人物なのかも知れません。
 歴史から学べるはずである日本人としては、過ちを繰り返さずにどれだけ平和な時代を続けていくことができるのか、未来の後継者たちに示すくらいの気概がなければ「泰平の世があった」と、伝えられないのではないかと思われてなりません。

 今回は結果的に、江戸時代に縁のある場所を歩いたことになり、篤姫も楽しんだかも知れないとも思ったのですが、大奥からは出られなかったでしょうから、「キレイじゃのう〜」というあおいちゃんの声を想像しながら、気分に浸っておりました。
 ──「○○じゃのう〜」という語り口は、讃岐(高松など)ではいまでも使いますよね?

 P.S. 脇役でしたが、久しぶりの中嶋朋子(「北の国から」蛍役←見てません)を応援していました。