2009/06/01

水の流れ、人の流れ──等々力渓谷、戸越

2009.5.26
【東京都】

 等々力渓谷(Map)

 ここは、東京都23区内に残る数少ない渓谷、とされる場所になります(先日訪問した王子付近の石神井川にも、江戸時代には行楽地としてにぎわった滝があったと聞きます)。
 この川は矢沢川といい、小田急線の千歳船橋駅付近が源流とされるそうです(現在地下水路)。
 大きな川ではないことと、このあたりでは周囲の地面を10m近く浸食した谷地形となっていることで、開発されずに残された一帯といえるようです。
 渓谷と聞くと、山里的なイメージが膨らんでしまいますが、小川の散歩道程度を想像した方がガッカリしないで済むかも知れません。
 まあ一瞬とはいえ、谷の上にある市街地の状況を忘れられますし、整備された歩道がぬかるんでいるのも、崖からのわき水によるものですから
 「世田谷にこんな場所が?」
 「都市のオアシスのよう!」
 と、木々がうっそうと茂っていることに驚いてください。
 そんな異空間になじんだころに終点となってしまうのですが、まあ、都内の散歩道くらいに考えてもらえれば、いっときのリフレッシュは出来るのではないでしょうか……(平日でもパラパラ人は出ていました)


 上写真では表現できていませんが、葉の先からわき水の滴がしたたり落ちています。
 下写真が「轟(とどろき)の瀧」で、地名の由来になったそうです。
 ──横を歩いていたおじいさんたちの会話「むかし、轟夕起子って女優がいたじゃないか」「いたね」。確かにいましたが、分かる人はいませんよね……


 先日の目黒不動と同じように、この滝に打たれた修行僧も多かったようで、役行者(えんのぎょうじゃ:修験道の開祖)の名前も案内板にありました(彼は、伊豆大島に流されたという記録があるので、この地にも立ち寄った可能性がある、と言い張りたい心情は理解できます)。
 その崖の上に、等々力不動(真言宗)があります(右写真)。

 この等々力の地名は、多摩川を挟んだ神奈川県川崎市にも存在しています(Jリーグ川崎フロンターレの本拠地である等々力陸上競技場等)。
 元は、現在の世田谷区等々力の一部であったものが、多摩川の氾濫によって流路が変わり、飛地となり取り残された地域だそうです。
 1912年に中原村(現在の川崎市中原区)に編入され、そのまま等々力の地名は残ったそうです。
 他にも多摩川両岸に存在する同名の地名には、瀬田、野毛、宇奈根、丸子等があります。


 野毛大塚古墳(Map)

 東京の古墳といえば、田園調布付近の多摩川に面した高台にある、多摩川台公園の古墳群が知られます。
 東京ではその田園調布古墳群が最も古く(4世紀末)、その北に位置するこの野毛大塚古墳(5世紀始め)との関連性を、年代と共に権力者の勢力が北側に追いやられる過程と考えているらしい。
 邪馬台国は2~3世紀に存在したと考えられていて、その影響力が東国に及んできた時代だったのかも知れません。
 ──つい先日、卑弥呼の墓の有力候補と考えられていた「箸墓(はしはか)古墳」の造営年代が、3世紀中ごろという研究結果が発表されました。それで邪馬台国論争が決着するとは思えませんが、いずれにしても奈良県桜井市一帯は歴史ロマンが感じられる田園地帯でした。

 関東にも古墳があったくらいですから、地域の有力者(それも邪馬台国と同様の文化を持った民族)が根付いていたと思われます。
 そこでハタと思ったのは、「東国の野蛮人」という認識はこんなころに芽ばえ始めたのではないか、ということです。
 いくら関東で勢力を広めたところで、当時の新しい文化は大陸からもたらされますから、地の利は西国(関西以西)にあるわけで、ジワジワと古い文化しか持っていない東方に圧力をかけてきたのではないでしょうか。

 古墳の斜面を滑り降りる子どもたちがいたようで、部分的にはげ山となってしまい、下草の養生中のようです。
 斜面があれば、そこを滑り降りたい衝動に駆られる気持ちは理解できますし、そんなワンパクさは褒めたいところですが、場所をわきまえさせる教育が不足しているようです。
 「そんなことをすると、バチが当たる」という、「たたりの力」が弱まってしまったのはとても残念と言うか、道徳教育においてとても由々しい事態ではないでしょうか?
 ──明治時代には、古墳を掘った人が血を吐いて死んだ、との話しが伝えられているそうです。


 武蔵小山 Palm商店街(Map)

 今回は、東急大井町線をめぐる予定だったのですが、自由が丘で目ぼしい写真が撮れなかったので、久しぶりに武蔵小山(目黒線)から戸越まで歩こうと、寄り道しました。
 TVコマーシャルでも目にする、東京では最長(800m)のアーケードが続く商店街です。
 商店街ですから個人商店が並んでいるわけですが、古くさい雰囲気は無く、世代交代がうまく進んでいるようですし、シャッターが閉まった店はほとんどありませんから、歩いていても楽しくなる、とても商店街らしい活気を持った通りになります。
 第二次世界大戦当時、商店街から多くの人々が満州に渡ってしまい、商店組合は解散したことがあるものの、クレジット制やポイントサービスの導入により、数字上でも活気を呈しているそうです。
 アーケードの入り口と出口付近に、立ち食い・飲みができそうな焼鳥屋があって誘われたのですが、まだ先もあるので、だ液だけ飲み込んで……


 戸越銀座商店街(Map)

 夕刻のちょうどいい時間帯に歩いたからでしょう、道の両側からとてもいいニオイが……
 それもさまざまなお総菜のニオイですから、食欲をそそらされてしまい、そこでは買わないにしても「今晩何を食べようか?」と考えながら歩いておりました。


 戸越の地名は、江戸を越えた土地「江戸越え」に由来し、当時は「とごえ」と呼んだそうです。
 日本で初めて「○○銀座」と名乗ったりと、本家銀座とのつながりは知られていると思われますが(銀座のレンガを譲り受け、水はけの悪かった通りに敷いた等)、むかしは湿地帯の広がる地域だったので、庶民たちが肩を寄せ合い集まることで、商店街が発達したのかも知れません。
 とても住めないと思われる条件の悪い場所を、住宅地として「開拓」してきたのは庶民パワーですから、この商店街の人の流れは地域に暮らしてきた人々による、ひとつの成果と言えるかも知れません。

 この商店街を初めて歩いたとき、ここが東京では最も長い商店街と感心したものですが、大阪の天神橋筋商店街を歩いたとき「どこまで続くの? もういいよ」(それもずーっとアーケードで、タコ焼き屋ばかり何十軒あるんだよ!)と思いながらも、途中で止められなかったこと思い出しました。
 ──戸越銀座商店街は約1.6km、天神橋筋商店街は約2.6kmあるそうですから、武蔵小山(800m)を加えてもまだ足りません。

 規模も大切な要素ですが、商店街の活気とお客の満足感、そして、この先も続けていって欲しいという気持ちは、どの商店街に対しても同じく願いたいところです。だったら、何か買えって?


 戸越公園(Map)

 東急大井町線の駅名にもなっていますが、江戸時代には熊本藩主・細川家の下屋敷があり、その後所有者は転々とし三井財閥に移ったものを、東京市の公園として開園した後、品川区に移譲されたそうです。
 ──上記の商店街からは坂を上がった高台になります。やはりお金に余裕のある方は山手に居を構えるようです。


 夕方になると、池にカワセミがやって来るとのことで、周囲のベンチには望遠レンズ付きのカメラを持ったオッサンたちが、モソモソ群れていました。
 そんな状況を説明してくれるおじさんがいるので、とても助かるのですが、おしゃべりが止まらないのには困ってしまいます。
 周囲からどんどん人が散っていくのは当然ですが、「失礼します」とあいさつすると、少々ムッとした表情をしながらも、別の人に盛んに話しかけています(初対面の人との別れ際って難しいですよね)。
 カワセミのように動作の素早い鳥などは撮れないとあきらめていますが、以前、上記川崎市にある等々力公園の池で見かけたことがあります。
 今どき東京都市部でも珍しくないというのは、あまりよろこばしいことではないように思われます(カワセミの勝手ですけれど)。

 右写真を撮っていて、「男の性ってこういうこと?」などと考えてしまいました。
 何で柵のある(ガードされている)暗い場所に、未知の存在を探ろうとするんでしょうねぇ。
 とは言え、もし、そこから何かを発見したならば称賛されるのですから、やめられないのかも知れませんね……

0 件のコメント: