2010.7.3
【神奈川県】
夢見ヶ崎動物公園(Map)
夢見ヶ崎という名称には、興味を引かれる響きがありますが、動物園としては地味な印象を受ける施設です。
最寄りはJR横須賀線の新川崎駅、JR南武線の鹿島田駅ですが、どちらも「はぁ?」という知名度ではあるまいか。
東は多摩川、西は鶴見川(矢上川)に挟まれる平坦な土地に、ポツンと浮かぶような加瀬山(30mほど)の上にあります。
頂上部から付近を眺め、一帯の平地が海だったとされる縄文時代の光景を想像すると、近くに見える日吉の丘陵地(後述)から伸びる岬の途中が浸食され、先端だったこの場所が、島として残されたように見えてきます(現実には見えない光景を、様々な条件でイメージする習慣は、大学で専攻した地学を学ぶのではなく、「体感」することから身に付きました)。
夢見ヶ崎の地名は、太田道灌(おおたどうかん 1432年〜1486年:室町時代の武将で江戸城を築城)が、この山に城を建てようとした時に、不吉な夢を見たため築城を断念したことに由来します。
太田道灌よりはるか以前から象徴的な場所とされ、4世紀後半〜7世紀末に作られたとされる古墳群があります。
東京で最も古いとされる田園調布古墳群が4世紀末ですから、年代・距離的にも近そうです。
ここには日本軍の施設は無かったようです。目立つ場所ですしね……
上写真はブラウンキツネザルで、マダガスカルに生息するそうですが、マダガスカルの動物を海外に連れ出していいんでしたっけ?
オーストラリアのように、他の大陸から隔絶された環境にあったため、独自の進化を遂げた固有種が多く、そのほとんどが絶滅危惧種とされるため、持ち出しは不可能、ということのようです。
首がよく回る(うらやましい?)動物で、上写真はのけぞっているので上部が鼻・口になります。
子どもが差し出す付近の雑草にも、手を伸ばし口にしていますから、草なら何でも食べるのだろうか?
おそらく「エサを与えないでください」だと思うのですが……
ここは川崎市立の動物園で、敷地が狭いこともあり大型の動物は飼育されていません(ヘラジカが一番大きいのか? 上写真はヤギ)。
仲良し夫婦のレッサーパンダが人気だそうで、テレビでもよく紹介され、見た覚えもあります。
入園無料ですから、身近な動物園という感覚で、幼稚園の遠足などに利用されているようです。
公園にある小さな売店が営業を続けられるのですから、平日は子どもの団体等でにぎわう人気スポットなのかも知れません……(訪問したのは土曜日)
中原平和公園(Map)
大きな公園ではよく見かける野外音楽堂(下写真)ですが、わたしには「団塊世代のロマン」と感じてしまうところがあります。
多くの施設は1970年代に作られ、結構老朽化しています。ちょうど団塊の世代が社会に出て、建設をアピールした時代ではないかと思います。
「人が群れれば、世の中が変わるかも知れない」との、幻想を抱いた時代(世代)ですから、そんな熱気を次世代に託そうとしたのかも知れません。
残念ながら現在は利用頻度が低いので、子どもの遊び場とされ、立ち入り禁止にしてもホームレスが居座ってしまいます(奥の青い物体は布団)。
一気に定年を迎えた団塊世代の幻想は崩れ、緊縮財政が求められる現代は、先輩たちの「ロマン」もへったくれも無い時代と言えるかも知れません。
ボチボチ建て替え時期でしょうから、野外音楽堂がどのようにリニューアルされるのか、チェックしてみたい気がします。
よく散歩する公園なので、「平和」と名付けられた理由を知りたく、かなり前ですが敷地内の「川崎市平和館」を見学したことがあります。
この地は戦時中まで、東京航空計器の工場(軍需工場)だったため、戦後米軍に接収され、木月米陸軍出版センターとして1975年まで使用されました。
出版センターとしたのは、近くに印刷機を製造する工場があったからか?
最寄りとなる武蔵小杉駅前には、輪転印刷機メーカーである東京機械製作所の工場が現存しています(駅前再開発により移転するらしい)。
返還後は、市立の中原平和公園や、県立住吉高校とされました。
住吉高校の校舎にはエンジ色が使われており、それがとても汚らしく古くさく見えるので、調べてみると1980年開校とあります。
わたしの出身校は1974年開校なので(この時代の神奈川県は高校不足で100校計画の新設ラッシュでした)、もっとボロボロなんだろうと思うと、一度見学に行ってみようか、という気になってきました。
あっさりと梅雨が明けてしまい、梅雨ネタの扱いに困ってしまいます。
雨が落ちてきそうな空模様でも蒸し暑いので、はだしの広場(夏季はじゃぶじゃぶ池)は、子どもたちでにぎわっています。
施設内では親もはだしになるため(靴下を脱がせる)、水辺でのふれあいがしやすいと思えるので、(ぬれることをイヤがらないよう仕向ける)狙いは成功しているのではないでしょうか。
この施設の対象年齢よりは、ちょっとお姉さんに見える上写真の水着の娘は、周囲の取り巻きを従え「スター登場!」のように、笑顔を振りまきながらかっ歩しています。
ガキの時分を振り返ってみると、 気の強い(or人気のある)女子が逆らえない男子を、子分扱いしていた様子が思い浮かんだりするので、いつの時代にもある光景なのかも知れません……
慶應大学日吉キャンパス(Map)
これは個人的な考えですが、地下鉄三田線を延長し東急目黒線に乗り入れ、校舎のある三田と日吉を直結させる計画は、どう考えても官・民にはびこる慶應大学出身者が結託した、公共事業の私物(学)化としか思えません。
そんなことでよろこんでいるようだから、日本はいい国にならないのだと思います(これ本気!)。確かに便利にはなりましたが……
このキャンパスの地下に、旧帝国海軍地下壕(連合艦隊司令部から海軍総本部とされ、レイテ沖海戦、戦艦大和の出撃命令はここから発せられた)があることは有名です。
でも、これまで慶應大学側は、軍への協力を強要された被害者的立場と思っていましたが、当時の塾長は軍部とのかかわりが強かったとされます。
反共産主義的スタンスを取る塾長が、軍部協力者として巻き込まれていったのかも知れません。
しかし、初代塾長岡本周吉は福澤諭吉の弟子ではあるものの、幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で幕府軍の幕府海軍艦長(新政府軍に降伏)だった経歴などから、明治期から卒業生の海軍関係者(当時の軍人はエリート)とのパイプが太く、海軍と慶應義塾には強いつながりがあったそうです。
チャラチャラした外見は見せかけで、現在も防衛省幹部候補生の養成講座がありそうな気もします……
過去の話は仕方ないにせよ、大学側はそんな歴史をどのように学生たちに説明しているのか、聞いてみたい気がします。
日吉キャンパスは丘陵地に作られており、駅から続くなだらかな上り坂の並木道はとても絵になるのですが、その先は蝮谷 (まむしだに)という急峻な谷戸(やと:丘陵地が浸食された谷状の地形)に落ち込みます。
谷底ですから平らな場所は狭いのですが、その谷筋に沿って各種のスポーツ施設(グラウンドや屋内施設)が連なっています。
外部からの目を遮断できる場所柄なので、秘密施設のようでもあります。
旧日本軍地下壕の入口は、そんなグラウンド脇にありますから、その中で「虎の穴」のような特訓が行われているのでは? と思ったりも……
地下壕内部は、海軍本部に使用できる作りですから、かなり立派な構造のようです。一般公開もあるそうなので、一度のぞいてみたい気もします。
しかし、日本軍は学府の地下に穴を掘り、その中で司令部が意志決定をしていたのですから、テロ組織がモスク(寺院)を隠れみのにしたことと同罪なわけで、非人道的組織だったと言わざるを得ません。
「軍隊は、軍隊を守るために存在する」とされる、最終局面だったとしても、その後も庶民は戦禍を被り続けました……
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