2012/07/16

Hill Topを目指す精神──秋葉原〜神田

2012.7.8【東京都】──「山手線を歩く! 26」


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柳森神社(Map)

 ここは1458年(室町時代)太田道灌が江戸城建設の際、鬼門除けのため柳の木を植え京都の伏見稲荷を迎えた柳森神社で、当初は川向こう「外神田:神田明神下から電気街周辺」にありました。
 外神田(神田川(外堀)の外側)は、住居表示に関する法律により1964年に誕生した地名なので、差別の意識は無いようです。

 右のタヌキは「福寿社」のシンボルで、五代将軍綱吉の母桂昌院(けいしょういん:元の名「玉」が「玉の輿」の由来とされる)が江戸城内に創建した「福寿いなり」を移設したもので、この「おたぬき様」は「たぬき=他を抜きん出る」ことから評判を集めます。
 「お玉ちゃん」→「玉の輿」→タヌキの「キ○タマ」を子孫繁栄とするのは分かるも、「玉の輿お願いします!」と、この大きな玉をなでて祈る姿を目にしたら、ゾッとしそうです……


旧万世橋駅〜交通博物館跡(Map)


 以前万世橋近くに、新幹線とSLの先頭部分をディスプレーした交通博物館がありましたが(2006年閉館、翌年後継の鉄道博物館が大宮に開館)、現在跡地にJR東日本が20階建ての賃貸オフィスビルを建設しています。
 開館当時には「鉄道模型パノラマ運転場」があり、青梅鉄道公園と同じく訪問回数は少なくも、子供心に強烈に焼き付いた記憶がいまも残ります。
 当時はもちろん「新幹線の運転手になる!」とかいってたんでしょうね。

 交通博物館は、関東大震災で焼失した万世橋駅跡地に建てられたもので、上写真はその一部(引き込み線として現役)です。
 現在の中央線(旧甲武鉄道)は、立川から新宿に向かい延伸してきたので、万世橋駅開業時は中央線の起終点でした(東京まで開通するのはその後)。


仙台堀:御茶ノ水駅前にある人工の神田川流路(Map)


 江戸城周辺の洪水対策で、神田川を隅田川に流す計画は、徳川家康・伊達政宗の会話「どこから江戸を攻めるか?」「本郷(高台)から攻める」に、家康「ならば、ここを任せる(攻め込めぬよう掘りを作れ)」の逸話が残ります。
 御茶ノ水駅前に「仙台堀:仙台藩主伊達政宗」の名は残りますが、多大な人手が必要なため藩の財政は疲弊し、家康のもくろみ通りとなります。

 上写真(昌平橋より)神田川の奧にかかる低い鉄橋は地下鉄丸の内線、その上が人と車の「聖橋(ひじりばし)」、一番上がJR総武線鉄橋となります。
 御茶ノ水駅で総武線は丸ノ内線と聖橋の間を通りますが、とても高い印象がある高架はカメラ反対側秋葉原駅の先まで高さを維持します。
 秋葉原駅の山手・京浜東北線は、下に道路が通る高架なので3階建ての立体交差の高さになり、人手で掘削された谷の深さが実感できます。


ニコライ堂:東京復活大聖堂(Map)


 日本の正教会最大の大聖堂、とのこと。
 彼らは「正教会(Orthodox Church:オーソドックス)」を主張するも「ギリシャ正教・東方正教会」の認識が広まったのは、ライバルであり「西方教会」とされるローマカトリックやプロテスタントの宣伝によるようです。
 「ニコライ堂」の名は、日本に正教会の教えを伝えたロシア人大主教にちなんだ通称で、正式名は「東京復活大聖堂」。

 周辺の「日本のカルチエ・ラタン:パリの学生街にちなんだ呼称」でも、大学施設や周辺の高層化が進み、建設中は皇居を見下ろす場所での建設に右翼団体が反発し妨害した地も、ビルに囲まれつつあります。
 「空が失われても、復活はあるのか?」精神論とは言え、ビジュアルも大切ではないかとも……


聖橋(Map)

 整った形状のアーチ橋で、橋の手すりまで石造りなので、歩いていても安定感があります(足元から神田川が見えてもうれしくない)。
 無粋にもボートが川を下っていきます。
 川面に映る姿をイメージしていたので、時間をおくためニコライ堂を歩いて戻るも、波立つ様子に「近ごろ船の往来が多いのか?」と。

 関東大震災後の震災復興橋梁で、1927年(昭和2年)完成。名称は公募で、両岸の2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから命名されます。
 東京には深い谷地形をまたぐ橋は少ないためか、長さは短くも印象に残る橋です。


山の上ホテル(Map)


 存在は知っていましたが、よく歩いたのは坂下の神保町界隈なので、「坂を上ってまで見たいとは……」の印象を思い出し、坂上の御茶ノ水側から平らなルートで向かいます。

 開業は戦後1954年で歴史は無いも、出版社の多い神田に近いため、作家の缶詰(締め切りを守らせるための軟禁場所)に利用されます。
 缶詰にされても好きな宿なのか、宿泊代を出版社に回せるためか、「文人の宿(川端康成、三島由紀夫、池波正太郎等)」の評判は、利用に「都合がよかった」からなのでしょう。
 あげくにこのホテルで同棲し、その様を題材にしてしまうやから(檀一雄『火宅の人』)が現れます。
 それは才能というより「一芸」という気がして、単なる色好みで終わらずようございました、と感じたりします……(右上:中庭の教会)


カトリック神田教会(Map)

 ここは1874年(明治7年)に開設されたフランシスコ・ザビエル(1549年日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン人宣教師)に捧げられた教会です。
 現在の白百合学園、暁星学園は明治期にこの地の間借りから歩み出したと。

 何だか教会めぐりのようになりましたが、教会には町のシンボルとなるべく、眺めのいい場所を目指す性格があります(右写真は坂下)。
 一方寺社では、修験道や密教など修行の場を求めるものは山の頂を目指しますが、山を背負い威厳を高めるなどさまざまで、土地柄により必ずしもHill Topを目指すものではありません。

 必ず天を見上げる信仰同様に、高みを望みながらも見上げることにこだわらない精神にも、普遍的な「祈る気持ち」が込められるなら、こだわらない「和式」の方がなじむ気がします……


追記──平清盛が源頼朝・義経を殺さなかった心情

 2005年大河ドラマ『義経』でよく分からなかった、清盛が頼朝・義経を殺さなかった理由を、7月15日の『平清盛』では、ライバル源氏に対して力の差を見せつけるため、と表現しました。
 「自身の心情」「母親の願い」のいずれにしても「温情」と取られる清盛の心には、すきがあったと言えるかも知れません。
 その後源平合戦で平氏が滅ぶにいたり、最大の功労者とはいえ勝手に官位を受けるなど「都での評判」を第一と考える義経と、「武家の力で自立した世を目指す」とする頼朝のビジョンの違いが明確に表れます。
 そこには、清盛の「新しき武家の世」のビジョンが、頼朝へと受け継がれていると感じられ、「源平はライバルながらも表裏なり:単独では成功しない」群像の姿が浮かび上がり、折り返し地点を迎えひとまず納得しています。

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