2015/04/20

銭湯という庶民文化──北新宿 vs 下落合

2015.4.4【東京都】──「神田川を歩く_15」



北新宿

 支流の桃園川との合流地に、かぐや姫『神田川』(作詞:喜多條忠)の歌碑が立ちます。
 川の対岸には、当時のアパート群が並ぶ昭和遺産が現存し、「迷宮」のような町並みを歩くと「タイムスリップ?」かと方向感覚を失う瞬間があります。
 現在では右下のように玄関先を飾る新築の家が増えるも、コア地域の古い建物(右)は健在です。
 推測ですが、川沿いのバラックをアパートに集約した経緯から、愛着を持つ人が多いのでは? とも……

 後述の下落合の高台と対比すると、川沿いは吹きだまり的な地域で「窓の下には 神田川〜♪(YouTube)」には、そんな情景も込められていたようです。
 「青かった時代」を振り返る歌に、一緒に入れる風呂付きの部屋がとりあえずの夢だった時代を想起します。
 改めて考えると銭湯というのは見事な文化で、内風呂では周囲に迷惑をかけないためだらしなくなる部分も、きっちりと裸付き合いできていた気がします……

 善福寺川の合流地からこの付近は、1993年の台風豪雨で大きな浸水被害(PDF)を受けました(知人が、避難の呼びかけに気付かず玄関に降りたら、靴がプカプカ浮いていたのはこの辺りか?)。


佐伯祐三アトリエ記念館

 高校時代、美術の課題でブリヂストン美術館を訪れた際、課題ではないが印象に残ったのが、パリの街角を描いた佐伯祐三の力強い絵でした。
 いまどきでは「壁の落書き?」に見えそうなポスターの文字にも意思が宿るようで、美術館初体験の高校生にも彼の絵はきっちりと刻まれました。
 作品群を改めて観ると「西洋の神の祝福:描く瞬間は救われる」を求めていたようで、命を賭して「パリに挑む」気概が伝わる気がします。

 6年間の画家活動の中で2度パリに渡り、彼の地で亡くなります(1898〜1928年)。
 東京美術学校(現 東京藝術大学)に学ぶも、大阪出身のため作品は関西に残され、東京での鑑賞機会は限られる。

 右2枚は下落合の高台にある、2010年開館の佐伯祐三アトリエ記念館で、画家である奥さんと過ごした、アトリエ付住宅を改築・整備したもの(彼に安住の地は無さそう……)。
 彼に関する遺産に初めて接し、トリップできたような気がします(右は「こう撮って」と置かれた花)。


聖母病院

 カトリック教会系「マリア奉仕会」が1931(昭和6)年に開設した、カトリック教会東京教区の医療施設(一般診療可)で、看護学部がある「聖母大学」は上智大学と合併。
 教会系の医療施設を(不正が明らかになった病院を含め)よく目にするのは、戦後のアメリカからの支援としても、仏教系の医療施設は少ない気がします。
 キリスト教の「神に召される」と、仏教の「成仏」とは印象が違いますし、寺の病院に入ったら、次の日には墓地案内が届くようなイメージが……(失礼!)
 右は病院外壁を飾るレリーフ


薬王院

 奈良 長谷寺の末寺で「東の長谷寺」とされるのは、長谷寺から移植された牡丹の花だけでなく、庭作りのセンスの良さからも感じられます。
 本家と比べれば箱庭ほどの広さでも、谷地形の高低差を利用した境内の設計は計算したものらしく、石段を上るごとに変化する光景に飽きることはありません。
 本家を模した舞台が、コンクリート製で立ち入り禁止とされるのは、いたずら防止、安全確保のためなど、都心では仕方ないのか?


おとめ山公園

 江戸時代この一帯は徳川家の狩猟地で、一般人の立ち入りが禁じられたため「御留山」とされます(×乙女)。
 本公園の前身は明治時代の相馬家「林泉園」で、池などは当時の姿を継承するとの説明があります。
 現在、湧水を利用してホタルが育てられ、毎年7月に「ホタル鑑賞会」が開かれるそうで、是非!

 付近に、さほど広くない野鳥公園がありますが、なるほど、その一画だけ「鳥のさえずり密度」が違います。
 生き物たちの生息場には、広さではなく環境保全が大切であることを、住宅街の一画で実感します。

 この先、都電荒川線が直角に曲がる高田橋・高戸橋付近で、支流の妙正寺川と合流します。
 次回から、支流の桃園川、妙正寺川を歩く予定です。


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