2016/07/18

欲を忘れませんか?──豪徳寺

2016.6.25【東京都】──「目黒川を歩く_2」 烏山川_2

 小田急線の高架後から電車を利用した人たちには、現在車窓から見える景色が沿線風景として記憶されるでしょうが、以前の風景が焼き付いた利用者には(ポイントの通過音も変わり)、どこを走っているのかさっぱり分からなくなりました……






 線路の高架に伴い、改札が地下だった地上駅、踏み切りや車両基地も消え、当時の記憶とつながるのは、農大・すずらん通り商店街+裏路地や、美登利寿司(梅丘の「寿司の美登利」とは違うそう)だけとなっては、すっかりお手上げです。
 大学に通う道に利用したすずらん通りにあった、わたしと同姓の豆腐屋も姿を消してしまい、年を数えてみれば「あれから35年」とは……

 上は、旧経堂ジョイフル&経堂アパート跡地に建てられた経堂コルティ。旧施設は10階建てで、1972年建設時はとても高い印象だったが、現在の施設は4階建て。
 小田急による、旧車両基地の住宅建設+本商業施設の複合的な再開発で誕生します。自治体の建築制限とすれば、再訪者に「世田谷らしさは変わらない」印象を与える狙いは成功と言えそうです。

 当時の旧経堂ジョイフル前で、TV『俺たちの旅』出演の金沢碧さん(当時のマドンナ)にサインしてもらった情景がよみがえります!(あれは棄てられません…)
 右は、緑道にある「石仏公園」のかわいらしい石仏。




 境内にある劇場のような土俵では、例大祭に東京農業大学相撲部の奉納相撲が行なわれます(真剣勝負らしい)。江戸三大相撲の中でも、毎年定期的に開催されるのはここだけとのこと。
 地域文化の継承には若い力が必要で、多くの地域が協力者集めに腐心しますから、「援農」として単位を与える制度があれば、地方遠征も可能になるのではないか? 農大の学生にとっては、いい経験になるはずです。
 神社脇の「宮の坂」が、地名「宮坂」、世田谷線「宮の坂駅」の由来。




 近ごろ「開運良縁のパワースポット」として若い女性に人気らしく、ひとりで訪れる方を目にしますが、それを標的とする? 年配の「自称ボランティア」が、カサカサと近寄っていきます(良心的な方だったらゴメンナサイ…)。
 説明に感謝しつつも「ジジイとの出会いを求めて来たんじゃない!」し、ご利益を使い果たしては参拝の意味がありません。
 猫は良縁を招こうとしても、仏様が考え込んでいるのは「坐禅して欲を忘れませんか」ということか?(ここは曹洞宗の禅寺)


 有名になった招き猫(寺では招福猫児:まねぎねこ)は、寺と井伊家(菩提寺とした)の出会いに由来します。
 彦根藩主 井伊直孝が鷹狩の帰りに、寺の飼い猫の手招きに誘われ一休みすると、急な雷雨となり「猫の招きで濡れずに済み、縁起がいい」をきっかけに縁が深まったそうで(桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓もある)、井伊家が城主だった彦根城「ひこにゃん」も仲間らしい。
 以前より猫の数が増えたと感じたのは、祭事の時期による変化のようです。



 室町時代初期(南北朝時代)に、足利氏と同族の吉良氏により築城され、後に北条氏直轄となるも、秀吉の小田原攻めに伴い廃城とされます。吉良氏は「忠臣蔵」の吉良上野介の家系。
 東京において(と断っておきます)吉良・井伊家に対する好感度が低い印象は、名門の家柄に対する江戸庶民の「判官びいき:弱い立場への思い入れ」によるのではないか? われわれが「てやんでぇー!」な江戸っ子を憎めないのは、その心情を理解できる庶民だから? と思ったりします。


追記──天皇の「生前退位」

 「隠居の選択」という「人間性の回復」を求める意思が報じられました。自身の発言前に舞台を整える段取りは、国民に心の準備を促す配慮のようです。
 平成天皇は皇太子時代に戦争を経験しており、自身も責任を感じるためか、昭和天皇の遺志によるためか、戦地への慰霊を繰り返しました。
 すでにドクターストップがかかっているのかも知れませんし、責任感の強い方が体調に自信を持てない状況とすれば、「死ぬまで天皇」を求めるべきではないと思います。
 そんな気持ちを国民に芽生えさせた平成天皇は、着実に皇室のあり方を変革したと言えるのではないか?

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