2009/02/15

新・ルネサンス時代到来?──本郷、御茶ノ水

2009.2.2
【東京都】

 本郷(Map)

 本郷という町を散策したのは初めてと思います。
 やはりこの町のシンボルは東京大学と思われますので、大学に用事でもなければ立ち寄らない地域だったようです。
 京都の方も京都大学のある丸太町周辺は、大学・病院以外にはあまり立ち寄らない場所なのかも知れません。


 高低差はそれほどないにしても結構凸凹した地形であるのと、空襲の被害から免れたのか焼け野原にすぐバラックが建てられたのか、昔ながらの軒先が重なりそうな町並みが残されている地域です。
 右写真は、建物のすき間の奧に玄関らしき扉が見えますが、横にならないと通れないような通路です。
 未確認ですが、反対側に出入口がなかったら家具すら運び込めませんよ、これでは。

 そんな地域において、ある程度まとまった敷地を保っているのが上写真の曹洞宗長泉寺です(参道もちゃんと維持されています)。
 山門の書は「獅子吼峰」(獅子吼:ししく 仏の説法。獅子がほえて百獣を恐れさせるように、悪魔・外道を恐れ従わせること)と書かれているそうです。
 もともと水道橋付近にあったものが、水戸藩屋敷(小石川後楽園)拡張にあたりこの地に移設されたそうで、水戸藩屋敷に関わりの深かった水戸光圀(黄門様)の援助を受けたとの記録があるそうです。
 また東大に近い土地柄もあり、森鴎外、石川啄木、金田一京助もゆかりがあったとされ、昔から立派なお寺だったようです。

 右写真は上記の長泉寺にほど近い菊坂町で、宮沢賢治や樋口一葉の旧居があったそうで、一葉が使用したとされる井戸が残されています。
 鴎外たちを含めてみな1900年前後に本郷の地に暮らしたようですから、当時の評価はそれぞれにしても、スゴイ人たちが肩を寄せ合い集まっていたことになります。
 文学系の方たちの名前が並んでいますが、それは文学というものの持つメディア性による認知度の高さが挙げられると思います。
 明治時代の国策として、第一に母国語の研究を進めることが重要視されたのではないでしょうか。
 そして新しい日本語の確立と、その言葉による表現の可能性を広げることが、国民意識を高めることにつながる、との意識が強かったのではないかと思われます(メディアを利用しようとする意図があったのではないか)。
 東京芸術大学(上野)の前身とされる東京美術学校の設立(1887年)に尽力した岡倉天心は、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により危機的状況に置かれた仏教美術品の保護に奔走し、西洋文化に傾倒する世論の中で日本の伝統美術について説いたそうです。
 細かなことまで分かりませんが、新しい日本を構築するには「まずは足元を見つめ直すことが必要ではないか」との認識では一致しているように思え、この国を愛し良心を持った知識人たちがこの地に集まってきた「熱意」というものが、うかがい知れるように思えます。


 東京大学(Map)

 東大の構内に入るのは久しぶりですが、野郎どもの印象はむかしと変わりませんが、女性はオシャレになった気がします(学生ではなくて、取り巻きなのか?)。
 ちなみに京大は、女学生(表現が古くさい?)も堅実で学生らしい姿に見えました(それって、ひいき目?)。
 昔は、大凧くらいデッカイ「立て看」(ベニヤ板12〜16枚使用が標準らしい)いっぱいに「ゲバ文字」(角を立てることを強調した文字。あれは書体といっていいでしょう)で書かれたメッセージが延々と並んでおり、それぞれの主張を区別できなくとも(同じように思えた)、刺激に満ちた空間という印象がありました。
 東大というとどうしても、安田講堂(右写真)占拠事件を想起してしまいます。
 テレビで見ていましたが子供心に、学生運動(抵抗活動)を経験しないと大人になれない、と思わされるような世間のざわめきを、お祭り(儀式)のように感じていたのではないでしょうか。


 そんな一連の騒動で、何か変わったのでしょうか?
 よく分かってないのかも知れませんが、そこで団塊の世代といわれる人たちが思いっきり発散して、その後の日本の発展を牽引してくれた、とは言えるように思えます。「イギなーし!」。
 でも、団塊世代のツケは必ず後の世代に回ってくる「団塊恐慌」があることは、みなが承知しているのではないでしょうか。
 かつての活動家たちは「ナンセンス!」と口にするかも知れませんが、もはや、手にできる年金の皮算用ほどの関心は持てないのではないか、と言ったら怒られるか?
 後を引き継がねばならない世代には「ルネッサンス!(直訳すると:再生の意味だそうです)」(あのコンビのどこが面白いか分からないんですが……)というテーマ(古き良き文化の復興運動)が課せられてきます。
 ──「CHANGE!」とは、昔に戻ることとは思いませんが、「モーレツ!(高度成長)」を期待できる社会でないことは明らかと思われます。

 とは言え、団塊世代には「生涯競争」が課せられてきたとも聞きますし(そのとばっちりを受けるのも下の世代と決まっています)、グチはこの辺にしましょうね……

 安田講堂に面した右側のまま広い教室で、気象大学校の試験を受けたことがあります。
 気象庁付属の教育機関ですから、合格すれば国家公務員です(防衛大学校と同じと思います)。
 動機としては、昔は気象予報士などという国家資格は無かったことと、新田次郎(作家)へのあこがれかなぁ。
 チャレンジ精神には自分でも感心するものの、とにかく試験は「手も足も出ない」状況で、早々に退席して安田講堂前でタバコをふかしていた記憶があります。
 ──わたしの記憶が確かなら、当時から未成年者の喫煙は禁じられていたと思います……

 右写真は有名な赤門で、旧加賀屋敷御守殿門(きゅうかがやしき ごしゅでんもん)と言うそうです。
 東大の敷地はもと加賀金沢前田家の屋敷で、朱塗りの門は大名家に嫁いだ将軍家の子女を迎えるための門で、火災などで焼失しても再建してはいけない慣習があるので、1827年に建造されたものが現存している貴重な建造物なんだそうです。


 神田明神(Map)

 江戸の守護とされた、神田明神(神田神社)です。
 分かるでしょうか、右写真の右側から光が当たっているのですが、これは秋葉原に新しく建てられた高層ビルに反射した太陽光が見事に神社を照らしている光景になります。
 以前、その地にあった神田市場の氏神様でもあったそうですから、義理堅いといいましょうか……
 ──そんな反射光を計算して、東京のビルの谷間で写真を撮るのも面白いかも知れない、などとも。

 拝殿では厄よけのおはらいが行われていました。
 厄年についてはまるで無関心だったのですが、ちょうどその年齢のころに伯父が亡くなり「お前の厄だ!」と親戚一同から責められ、川崎大師に行った覚えがあります。
 自分だけのことでは済まなくなることもあるので、なるべく行かれた方がいいのではないでしょうか(みんなに言われるとはビックリしましたもの)。

 昔の会社の後輩で、ここで結婚式を挙げた夫婦がいて(呼ばれませんでしたが)「カッコイイ」と思ったものですが、神社側のアナウンスによると「縁結びの神」でもあるのだそうです。


 神社によると730年に開かれたそうで、一ノ宮「大己貴命(だいこく様:出雲大社より=大陸系)」、二ノ宮「少彦名命(えびす様:伊勢神宮より=大和系)」、三ノ宮「平将門神(まさかど様:関東系)」が奉られているそうですから、日本の神をフル装備しているので、文句をいう人もいないのでしょう。
 もとは大手町に現存する将門塚(首塚)周辺に所在したそうです。将門の首塚に関しては様々な言い伝えがあるので、首塚だけ残して社殿を移設したのはある意味正解のようにも思えますが、でも首塚はどうしたらいいのでしょうか?
 この都市がどれだけ発展しようとも、東京の守護霊として「くさび」となり続けてもらえるなら、それこそ大切にしていくべき存在なのかも知れません。
 ──「悪い子はいないか〜!」の「なまはげ」のように、聞き分けのない子どもはあそこに連れて行けば、ピタッと黙るのではないかと思ったりします。霊感等をまるで感じないわたしですが、怖くて近寄れません……(恨みを買ってる一族だったりして)


 ニコライ堂(Map)

 右は御茶ノ水にあるニコライ堂で、敷地内に初めて入りました(日本ハリストス正教会の本部だそうです)。
 函館にあるハリストス正教会に行った記憶と、ニコライという響きから漠然と「ロシア正教でしょ?」程度の認識でしたが、「正教会」というものはどこの国の名前が付こうが、キリスト教に違いないわけです(ハリストス=ギリシャ語でキリストのこと)。そりゃ当然ですよね。
 1891年に完成し、正式名称は大聖堂(東京復活大聖堂)だそうです。通称であるニコライ堂の由来は、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人の大主教ニコライにちなむそうです。
 この建設にもジョサイア・コンドル(旧岩崎邸庭園旧古河庭園)がかかわっていたそうで、開国以来、西洋文化の流入と洋風建築の物珍しさから、当時の彼は引っ張りだこだったことがうかがえます。
 関東大震災で塔の部分が崩れたそうですが、修復されて現在に受け継がれているわけですから、文化として根付いたと言えるのではないでしょうか。

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