2009/03/31

「元気で暮らせよ、さえない中年!」──柴又

2009.3.18
【東京都】

 東京都の東の端にあたる、葛飾区、常磐線沿線、江戸川方面は、めったに行かない地域で通い慣れてないこともあり、東京都の南西の端にあたる多摩川付近からだと1時間半ほどかかったので、遠かった印象がありました。
 上野から東側の一帯には、隅田川、荒川、中川、江戸川など、江戸時代から流路を管理された河川が何本も横たわっています。
 それは、ある程度流れの向きを変更できる平野(むかしは湿地帯だったことでしょう)が広がっていることを示しています。
 そんな地形的な条件からも江戸時代の町並みは、山の手といわれ起伏の多い西側よりも、平坦で生活用水の得やすい東側の平野部方面に広がっていったであろうことは、現在の風景からも見て取れます。


  柴又(Map)


 奧は、寅さんが「帝釈天で産湯を使い」(「つかり」と思っていたので、主題歌の歌詞を調べました)と語る帝釈天になります。
 最後の作品が公開されたのは1995年で、それ以降は年々訪れる人も少なくなっているとのことです。
 参道に軒を並べる門前商店街の売り上げまでは分かりませんが、客は減っても活気は変わらないように見受けられました。
 門前に近い右側にあるそば屋で「江戸っ子が好きそうな」ざるそばをいただきました(あんこタップリの草もちは遠慮させてもらいました)。
 香りがあって(粗びき感)、めんの太さはバラバラでも量が多く、つゆは濃い口しょうゆの辛さで(そばつゆの甘い店はそれだけで箸を置きたくなります)、まさしく「品のないそば」という印象(怒られる〜!)なのですが、下町の方では「更科だぁ?(白くてスマートな印象のそば) 格好つけてんじゃねぇよ」で、いいんですよね?
 ──落語などで耳にする「そばをつゆにベチャベチャ泳がしちゃう無粋モノがいますが……」の通り「辛くて食べられない」代物です。「先をちょこっとつゆにつけて、ズズーッとすする」まさに江戸流でいただくそばです。

 そばという「穀物を食べている」実感があってわたしは好きだなぁ。
 城崎(兵庫県)や、小国(熊本県にも美味しいそば屋はあるんです)で食べた「田舎そば風」というのでしょうか、原点回帰的な風味に引かれているのかも知れません(更科そばも好きですよ)。


 一般的には帝釈天と呼ばれていますが、題経寺(だいきょうじ)という日蓮宗の寺院になります。
 その通称は、布教活動のために用いられた帝釈天像の刻まれた「板本尊」(日蓮宗では重要)の御利益により、通称として庶民の間に広まったそうです。
 その敷地内の奧に、邃渓園(すいけいえん)という庭園があったことは知らず、初めて見学しました(上写真)。
 『男はつらいよ』第一作に登場した、御前様の娘役である光本幸子さんが現れるのでは? とも思える落ち着いた庭園です。
 上写真はその廊下で、左のガラスが平らではないので、ガラス越しの景色がゆがんでいるのが分かると思います。
 昔のガラスってこんなもんだった、と言っても理解してもらえるのかなぁ?
 ──ゆがんだガラス窓はこれまで何度も登場していると思うのですが、わたしはこの風情がとても好きみたいです……

 右写真は『男はつらいよ』第一作で、さくらと博が披露宴を開いた料亭の「川甚」で、帝釈天のすぐそばにあります。
 この手の川魚料理の店も、帝釈天信仰の高まりにより開けた門前町と同じころに創業したそうです。
 柴又人気の凋落を耳にしてちょっと心配だったのですが、右側の新館を建てたりと頑張っているみたいです(休業日でした)。


 利根川は江戸時代まで、現江戸川の流路(上写真)を本流にして東京湾に流れていたのですが、度重なる洪水対策のため現在の銚子方面への流路が開かれたんだそうです。
 この地域に平野(当時は葦原だったでしょう)が広がっているのは、そんな度重なる洪水のおかげであることは、とてもよく理解できます。
 柴又のすぐ北側には金町浄水場が広がっていて、上写真のような給水塔が2つあるのですが、季節的に水位も低いようなのであまり取水できないようにも見えました。
 洪水の防災管理と水源の資源管理を同時に求められる難しさが感じられるのですが、それは市民生活の要であるのですから「お役所仕事」しないでね! と切に思った次第です。


 もう一つの観光名所である「矢切の渡し」の船着き場です。
 現在ではもっぱら観光用なので、週末等しか営業していないようです。
 この渡し船が知られるきっかけとなったのは、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)からなんだそうです(未読)。細川たかしの唄しか知りませんでした……
 観光地とは言え川は増水するので、お金を掛けられないことが幸いして(?)、簡素な船着き場であるのは風情の助けになるのではないか、という気がします。

 これも『男はつらいよ』のイメージなのですが、土手に菜の花が咲いていたら是非撮りたいと、かなり大きな期待を持って臨んだのですが、柴又側にはかげも形もありませんでした……
 堤防や河川敷の改修工事がちょうど終わったらしくとても整然としていて、寅さんがここを歩いても絵にならないような風景でした。


 右は何の写真か分かりますよね?
 「おう、上等じゃねぇか。オレがいなくなりゃそれで丸く収まるってんだろ? 出てってやらぁ!」と、カバン片手に降りてくる階段のセットです。
 「寅さん記念館」に保存されている実際撮影に使用されたもので、居間のセットと対になっているのですが、こちらのアングルを選びました。
 館内の展示物は他にもあるのですが、あちらこちらで映像が映し出されているので、見学者も結局はその前に立ち止まり、映像を眺めて表情をゆるめています。
 記念館を建て運営していくという取り組みは理解できますし、柴又にこそあってしかるべきで、お金も掛かっていそうにも思えるのですが、この場で提供できるものはあんな程度なのか? と物足りなさを感じました(企画不足の印象)。
 あれだけ各地を歩き回った寅さんですから、それぞれの地方との交流ができたらもっと楽しい場になるように思うのですが……


 「さくら。博と仲良く暮らせよ。満男をあまり叱るんじゃないぞ。それから、おいちゃん、おばちゃんの面倒を頼んだぞ……」の声が聞こえてくるような柴又駅(京成金町線)。
 20分に1本程度しか電車の来ないホームのベンチで、夕暮れの光景を眺めていると、何だか楽しかった映画が終わってしまうような、もの悲しさがこみ上げてきます。
 映画だってまた観ればいいじゃないか、柴又だってまた来ればいいじゃないか、とおっしゃるかも知れませんが「大人のおとぎ話」のように心の中で生きている寅さんは、「元気で暮らせよ、さえない中年!」の言葉と同時に、一期一会についても語りかけてくれたようにも感じられてきます……



 P.S. モクレンの次は、桜の季節になります。次回は東京の桜をと考えていますが、今年はなかなか見頃になりませんね……