2010.6.26
【東京都】
東急線多摩川駅(Map)
以前の目蒲線が目黒線とされ(2000年地下鉄南北線・三田線との相互乗り入れ、2008年日吉まで延長)、切り離された多摩川線(多摩川〜蒲田)の乗換駅で、以前紹介した古墳群やあじさいの名所の最寄り駅になります。
さらにさかのぼると、「多摩川園」という遊園地があり(当時は駅名も多摩川園)、郊外の行楽施設としてにぎわいました(1925年(大正14年)〜1979年(昭和54年))。
閉園後の跡地は現在、テニスコート、公園、着飾ったおばさんが集まる施設(誠成公倫という謎の宗教団体らしく、とても異様な光景です。調べていて、藤原紀香の名前を見かけました)になっています。
武蔵野台地の崖線(がいせん:台地等が川の流れに浸食された崖)からわき出た水を集める六郷用水は、狛江市から続くそうですが、現在は丸子川として数百メートル上流の調布(田園調布)取水場付近で多摩川に流れ込みます。
でもまたここから、わき水を集めて下流の六郷水門へと向かいます。
調布取水場での取水は、1970年多摩川の水質悪化により打ち切られ、現存する堰(せき)は海水の遡上を防ぐ施設となっています。
東横線の車窓から、雨は降ってないのに、堰の両側(上・下流)の水位共に高い状況をたまに見かけます。
大潮や気圧の関係等で海面の水位が上がると、この付近まで影響があるのかも知れません(取水されないなら、もう海水を防ぐ必要はないのですが)。
上写真の地下水のわき出し口がある崖の上で、建築工事が行われています。
すき間を見つけては建物を作ろうとするこの時代を、後世の人たちはどんな評価をするのだろう、と考えてしまいます。
ここも何年か後には、「湧水跡」となってしまうのかも知れません。
ここは、東横線に面している「多摩川浅間神社(せんげんじんじゃ)」になります(東横線は、神社から古墳へと続いた丘陵地を削って通されました)。
浅間神社(富士山を神格化した神社)の立地には、富士山ビューが求められるのでしょう、この付近からは丹沢山地越しに望めるので、その高さが一段と強調されます(そういえば湘南を歩いたころも含め、ずいぶんと富士山に会っていません)。
右写真は「茅の輪(ちのわ)」というもので、八の字にくぐって厄を払います。
京都で見かけたことがありますが、これは常設ではなく季節の神事だそうです。
大祓(おおはらえ)といい、6月30日(夏越の祓(なごしのはらえ))と12月31日(年越の祓(としこしのはらえ))に行われる厄よけ行事です。
701年大宝律令で定められ広まります。室町時代にはすたれたものが江戸時代に復活し、明治時代には再興が命じられ(国家神道化による)、全国の神社で行われるようになります。
そんな命令など知ったこっちゃない、という人のために、お参り方法の説明看板が設置されています。
それを見ながら「これでいいの?」と、参拝する方を何人も見かけました。
田園調布(Map)
「鳩山さんが総理大臣公邸から戻られた」というのが、田園調布の土地柄ですから、庶民の感覚では「雲の上の世界はひとくくり」でも、実際は何層にも分かれていそうなことを、理解できた気がします。
邸宅はメインの通り沿いにあり、何気なく表札が目に入った記憶があります(軽井沢の別荘は、要人を招くことを想定したホテルのような施設です)。
参議院選挙での民主党敗北は想像できましたし、民意は再度「ガラガラポン」(政界再編)を望んでいることも分かりますが、そんなことやってるうちに、本当に「日本沈没」しちゃいそうで恐ろしくなります……
この町は渋沢栄一(日本資本主義の父とされる)による、ヨーロッパ(特にイギリス)の田園都市をめざした町作りがひな形とされます。
開発当時は中流層向けの宅地だったようですが、住環境の良さに評価が高まり高級化へ向かいます(車時代に持てはやされたのでは?)。
右写真は、旧駅舎を復元したもので、現在はシンボル的な存在です。
かなり前の、まだ地上駅のころには(現在、地下駅上にショッピングセンター等がある)、ローカル線の接続駅のようにのんびりとした、まさに田園的な雰囲気がありました。
そんな印象は、かつて駅のそばに田園コロシアム(多目的屋外スタジアム)があったせいかも知れません(緑が多かった印象がある)。
大正時代に慶應大学の野球場が作られ、その後、後述の田園テニス倶楽部のメインスタジアムとしてリニューアルされてから、テニスだけでなくコンサート、プロレス、ボクシングなどの会場に利用されました(1936〜1989年)。
跡地には現在、低層ながらもえらく高級そうなマンションが建っています。
おそらく規制等があるのでしょう、付近ではそのマンション以外の、大規模な開発には歯止めがかけられているようです。
田園調布といえば、駅を中心として扇状に広がる町並みが思い浮かびます。
この形状は、どこからでも町の中心を望むことができる、西洋の教会等を中心とした町並みに例えると分かりやすく、暮らしを重視した姿といえます。
区画が不定形で、外部の訪問者には分かりにくい形状である反面、防御面では優れるとされます(昔の西洋には、町は防御施設との考えがありました)。
一方、京都など格子状の町並みには、風水思想が反映されているため、どの場所でも方位を知ることができ、町を管理する側には便利な形状と言えます。
画一的な区画割りが「周囲と同じレベル(中流意識ってまだ健在?)」を実感しやすく、日本人に好まれるのかも知れませんが、攻撃側は作戦を立てやすい形状になります。
町歩きの際には、太陽が出てない状況での方向を知るすべとして、家並み(玄関の並び)や間取りの構造(光をどこから取り入れようとしているか)が、方向感覚の大切な情報源となります。
それゆえ、格子状の町は攻め(歩き)やすいのですが、扇状の町では家並みもバラバラで、垣根が高く住宅の間取りも見て取れないので(セコムされているとのぞけない)、歩きづらい印象を受けます。
「これも権利なのか?」と驚いたのが、バスの速度です。
田園調布行きのバスは、扇状の町並みに差しかかると、時速20kmの徐行運転になります。道路脇には「住宅街なので時速20km以下の静かな走行をお願いします」の看板があります。
住宅街を通るバス路線は多々あれど、「ここは特別」という意味が込められているようです。
「バスは公共の交通手段でしょうが、わたしたちはバスには乗りません」と言われているようで、ちょっとカチンときてしまいます。
実際、そうなんでしょうけど……
上写真は、東横線の車窓から見える田園テニス倶楽部(1934年〜)で、ホームページには「昭和初期の日本テニスは今では考えられないくらい強かった」とあります(平日会員の、登録料50,000円、月会費18,000円ですって)。
テニスは、1870年横浜山手の外国人居留地にもたらされます。それから60余年後の1932年ウインブルドン大会で、佐藤次郎がベスト4に入ったのですから、自慢したい気持ちも分かります。
その時代の日本人は、スポーツに飢えていたというより、エネルギーの発散場所を「野獣の飢餓感」のように渇望していたのではないでしょうか(変な表現でスミマセン)。
彼の後に好成績を残す者が続くも、戦争に突入していきます……
年配者が多いからでしょう、この季節には見られませんが、真っ白な長袖・長ズボンという姿でプレーする方が多いことに驚かされます(鎌倉のテニスクラブも同様)。
自分も小学校時代はそんな体操着を着ていましたが、あれってすごく動きにくかった印象があります。
中学校からジャージ素材になり、開放感を覚えたような記憶があります。
でもここでプレーする方々の体には、一番フィットするユニフォーム(体操着)なんでしょうねぇ……
自由が丘(Map)
現在暮らす新丸子は、渋谷、横浜、川崎、溝の口のいずれも、電車で20分以内という場所柄ですが、最も近い繁華街は5分程度でたどり着く自由が丘なので、よく足を運ぶ町になります。
上写真は、東横線の線路沿いにウナギの寝床のように伸びる、自由が丘デパートです(2階から上は、駅前なのに場末的な印象の飲み屋街)。
数年前に外装は一新しましたが、中に入れば「アメ横か?」と思うような小さな商店が軒を並べています。
ご覧の通りお客さんは年配者ばかりですから、その取り扱い商品は想像がつくと思います。
実はそれが人気で「今日は自由が丘でお買い物」と、妙なモノを買ってくるお母さんいません?
空襲で一面焼け野原となった一帯ですが、東横線と大井町線が交差するガード下付近から、露店が並びだしたようです。
まだ一区画だけ、昔の風情が残されている場所がありますが、他の町と比べてもちょっと汚い(暗い)ように思えます。
焼け野原からはい上がって生きてきた人たちの、「自由が丘ブランド」への反骨心が息づく一画なのかも知れません……
季節柄、雨の心配は常にありますが、町中なので何とかなるだろうとの目算も、あえなくギブアップです。アーケードなどは設置しない方針なのでしょう、急な雨には困ってしまう繁華街です。そのくせ、そこで雨用品を売ろうとするのは当然なのかしら?
そう感じたからでしょうか、ビニール傘すら買わずに帰りました。
意識として、近所的な気分を持っているようです。実家の相模大野で暮らすころ、隣駅の町田に出かけるようなイメージに近い気がします……(とてもローカルな例えでスミマセン)
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