2012.6.23【東京都】──「山手線を歩く! 24」
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上野公園(Map)
先日の上野動物園からよく見えた五重塔を、下から見上げたことはないかも? の動機から再度上野公園を歩きます。
上野東照宮本殿は改修中で、建物を覆うシートには改修前の外観がプリントされており、曇天でも「キラキラしてる写真」が見られます。
ここは徳川家康の遺言に従い、家臣の藤堂高虎が自分の敷地内に創建した神社で、その後社殿は三代将軍家光(家康の孫)により改築されます。
それって日光東照宮じゃない? と思うも、上野東照宮公式ホームページの記述なので同様のシナリオのようです。要するに二代将軍父秀忠(家康の子)の仕事が気にくわない家光(母は江:ごう)が全部やり直したようです。
肝心の五重塔ですが、境内からは近寄れないばかりか展望も開けません。動物園の方がよく見えるってどういうこと?
元は上野東照宮のものが明治時代の神仏分離により寛永寺に帰属し、戦後は東京都の管理下とされたため、現在は上野動物園の中にあるんですって。
動物園の際に寄ればよかったというオチなので、いまだ見られずです……
右は上野の山の頂付近に展示される「上野大仏」のデスマスク? です。関東大震災で頭部が落下し、顔以外は戦時中に軍事供出され、近くにいたオジサンが盛んに繰り返す「鉄砲の弾になったんだ、鉄砲の弾に!」のようです。
当時の「欲しいのは神仏でなく鉄砲弾!」という、正に「神も仏もない」状況を日本人が生み出したことには驚愕させられます。
東叡山寛永寺(東の比叡山)は江戸時代初期に、江戸城の鬼門封じ(北東の方角)のために建てられます(三代将軍家光)。以来、芝増上寺と並ぶ将軍家の墓所とされますが、幕末の上野戦争(彰義隊の戦い)により焼失し、広大な土地が明治時代に残されます。
明治初期、医学校・病院予定地とされるこの地を視察したオランダ人医師から「公園とすべき」の提言を受け、1873年日本初の公園指定を受けます。
昭和期上野駅前のシンボル的存在だった、レストラン「聚楽台」の建物は、現在建て替え中でシートに覆われています。
上部では西郷像の足元までフェンスが張られ、中をのぞくと地面は全部コンクリートですから、以前の上野駅を見下ろすテラスは、建物の屋上だったことが分かります。
断片的な記憶しか残らないも、東北方面から訪れた方の「聚楽台の階段を上がると西郷さんがいる」という光景を、少し理解できた気がしました(聚楽とはモンローそっくりさんCMの「じゅらくよ〜!」です 古っ!)。
電車から並びに見えた右の光景も、近いうちに見られなくなりそうです。
上野駅(Map)
新幹線、埼京線、湘南新宿ライン開通以前まで東京に暮らす者の多くは、東北・上越方面の行き帰りに、上野駅中央改札付近を通りました。
思い出した! 若い時分にスキーや尾瀬登山などに向かう際、この広場にズラーッと「妙高」「越前」「十和田」など夜行急行の看板が下げられた前に、席取りで早い時間から並んだことがありました。
団体で長時間過ごすための努力を苦とせず、2時間前に集合! などが当たり前の時代でした。
いまでは考えられませんが、当時はそれも楽しかった印象があります。時代背景と、若さなんでしょうね……
中央改札付近の広々とした印象は現在も変わらず、「いい日旅立ち」的な旅情をいざなう空気感は変わりません(あぁ、古っ!)。
ここは正面玄関(昭和通り側)2階のスペースで初めて入りましたが、現在アトレ上野の飲食店街とされます。
中央吹き抜け部分の下は、以前出札広間とされました。
関東では「遺構」的に残されても、以前の姿で使用される建物は少ないせいか、JR西日本神戸駅を想起しました(細かく見てませんが、地震にも耐えたようです)。そこで楽しみなのが東京駅改修後の姿です。Coming Soon !
アメ横(Map)
右写真は山手・京浜東北線の上・下線の高架が狭まる場所で、そんな2つの高架下が隣接する場所が「たまり場:吹きだまり」となるのは、見れば明らかです。
土曜の昼間から老いも若きも飲んだくれる人たちからは(撮るのは難しい)、グチではなくうさ晴らしの明るい会話が聞こえてきます。
会社帰りに仲間と飲めばグチは出てしまいます。悪口は、口にするだけで気分が悪くなりますが、出しておきたい欲求があるのでしょう。
でも、もし昼間に飲めるなら、もう少し明るく発散できるような気がしてきます。
「その国(土地)を知るには繁華街を歩け」を実践する外国人旅行者が多く(特に中国系が目立つ印象)、いまや観光地的な対応(店のオッサンが突然外国語をしゃべり出すCMのような)が求められているのかも知れません。
乾物に強い商店街なので「持ち帰りOK!」とか、売り込んでいそうです。
不忍池(Map)
不忍(しのばず)池周辺は、学生時代にサツキ展示会の夜景アルバイトしたころからは、格段に整備さています。
しかし不思議に見えたのは、見晴らし(死角をなくす)のために垣根を撤去した奧には、「どうぞ寝て下さい」のベンチ(近ごろは寝られないように手すりがあるが、ここはない)が設置されています。そこには自治体ごとの事情が感じられた気がします……
以前暮らした多摩川沿いでは、神奈川県川崎市は「グレー」も対岸の東京都大田・世田谷区では「NG」であり、現在暮らす港区は「NG」「グレー」を地域分けし、台東区は「黙認」との印象を受けます。
旧岩崎邸庭園(Map)
ここは三菱財閥岩崎家の本邸とされ建造物は国の重要文化財ですが、財産税として1947年(昭和22年)物納されます。
初代弥太郎(福山雅治龍馬の「やたろ〜!」を想起する)が土地を購入し、右の洋館は三代目久弥がジョサイア・コンドル(イギリス人建築家、工部大学校:現東京大学教授で、鹿鳴館や ニコライ堂を設計)に依頼します。
東京大空襲の被災地は、上野・浅草・両国と耳にするので、明治時代建築物が上野に残ることに驚きますが、米軍の作戦は上野駅東側の家屋密集地が目標だったようです。
長屋などに肩を寄せ暮らす庶民が狙われ、丘陵地で大きな顔の金持ちは助かる、という構図に見えてきます(占領後の統治には有力者の協力が必要なためか?)。
室内の金唐革紙(きんからかわし)には目を見はりますが、歩いていて笑顔になる「ふっかふか!」の芝生にも、相当お金がかかっていると感じます。
右は撞球室(ビリヤード室)で洋館と地下道でつながります。当時はやったにせよ、やり過ぎです(女性はビデオ観賞中)。
「やたろ〜(巻き舌で)、おまんやり過ぎぜ!」と思うも、現在グループ企業で生計を立てる従業員の数を考えると(グループ内企業広報誌「マンスリーみつびし」の発行部数は35万部)仕方ない気もするが、雇用継続が必要な労働者がそれだけいるというのは、かなりの重さに違いありません……
湯島天神(Map)
同じ足で旧岩崎邸庭園と湯島天神を歩いたことがなく、近い印象があるも「隣接」することを知り、才気にあふれ学問の大切さを体現する「やたろ〜」が、学問の神様近くに居を構えたかった心情の断片を理解できた気がします。
右写真で女性の前にある大きな輪は、大祓(おおはらい)神事の茅の輪(ちのわ:かやで作られた輪)です。
6月(夏越の大祓)と12月(師走の大祓)の晦日(末日)に行われる神事で、意識なしに犯した罪穢災厄(つみけがれわざわい)を除くための行事。
輪をくぐり左側を外から回って元の位置に戻り、次は右側を回ってから直進してお参りします(今回やりました)。
多摩川、自由が丘で茅の輪を見た瞬間、「あっ、数日前夏至だった」の季節感が全身を駆けめぐります(3年連続の遭遇です)。
ニュースの映像や「昼が長くなった」の認識はあるものの、茅の輪との出会いでやっと実感した印象があります。
頭で理解するも体に入らず、他人と共有して初めて心に受け入れられたようです。
見知らぬ人たちと神社で一緒に茅の輪をくぐることには、時節を共有するような一体感があり、一期一会と思われる「時間」「空間」の共有感は、「縁」という解釈がふさわしいと感じます……
本殿裏にあり、鳥居を奉納するらしい「笹塚稲荷」が夕日に照らされる時刻となり、本日は終了です。
御徒町駅に向かう途中で広小路付近を通りますが、これからご出勤とおぼし姿が「お姉さま」でなく「娘たち」であることには、教育の大切さを訴え続けた先人の取り組みに背を向ける態度と感じてしまいます。
家庭環境や社会環境などのさまざまな要因があるにせよ、「とにかくまずはお金が必要」という現実から道徳観を見失う若者が多い気がします……
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