2011/07/04

ギリギリの夏を耐えるための希望──自由が丘

2011.6.25
【東京都】

 7月1日に、東京電力、東北電力管内の大口需要家に電力使用制限令が発動されました。これは1974年の石油危機以来約37年ぶりとなります。
 地下鉄駅のエアコンが止められる様子をニュースで見ましたが、車内・駅共に冷房が無かったころ、恥ずかしいくらい汗が止まらなかったことを思い出します。

 前回は火力発電の燃料節約が目的で、使用電力の総量を減らすため繁華街のネオンや広告灯の点灯を禁止し、テレビの深夜放送が無くなりました。
 その経験から「脱火力発電」→「原子力発電推進」に向かったのでしょう。
 今回その間違いに気付いた国民は、今度こそかじ取りを間違うまいと「脱原発」に向かうための第一歩として、この「節電の夏」を受け入れているのではないでしょうか。

 電力の大口需要家である工場等の土日操業が始まる様子を目にした際、社員の家族や下請け業者の家庭のすそ野まで協力するからこそ成り立つことに、目を向けるべきと感じました。
 島国民族特有のこの一体感こそ日本人の長所と感じられ、そのポテンシャルの高さにこの民族の凄みを初めて目にした気がします(戦争をしようと考えた時代には、想像もできない高揚感に包まれたことでしょう)。
 再生の準備に向けてエネルギーを蓄え始めたこの国は、「ギリギリの夏」を乗り切った後に大きく飛躍するはず。そんな期待を感じ始めました……

 日本発は技術だけでなく、ライフスタイルでも世界をリードする日が来るのではないだろうか?
 というか、そんな希望がなければ「やってられない夏」に突入です……



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九品仏(くほんぶつ)(浄真寺)(Map)

 法事が終わったようで、参列者たちが三々五々帰途に就きます。
 お寺でそんな方々の姿を見かけると、その情景と共に「家族」を描いた作品が深く印象に残る、小津安二郎監督の映画を想起し、走馬燈のようにさまざまなイメージがよみがえってきます。
 それは映画からの印象だけでなく、これまでの経験からもよみがえるため、気持ちが引き締まるのかも知れません。


 この地には、室町時代に世田谷吉良(きら)氏家来が居城とした奥沢城があり、その跡地に寺が建てられます。
 それゆえ周囲との差別化はキリッとしていて、墓地の配置には曲輪(or 郭:くるわ 城郭内を分かつ区域で、帯状に伸びる形状)を割り当てた様子が見て取れるところに、由来が感じられたりします。

 本堂での読経を扉を開けオープンにする姿勢には(ただ暑いから?)、お寺の存在意義を広めようとする意志があり、こういうお寺でこそ祈りたいと思わせる魅力が感じられます。
 七堂伽藍(金堂、講堂、塔、鐘楼、経蔵、僧房、食堂)が残るそうですが、塔はどこにあったのだろう……

 京都の浄瑠璃寺同様、9体の阿弥陀如来像を祭る「九品往生」(くほんおうじょう)の思想に由来することから「九品仏」と呼ばれるようになります(1678年開山:江戸時代)。
 その教えでは、人物・物の性質をまず上品・中品・下品に分け、それをまた一品ずつそれぞれ上・中・下の三品に分け「九品」とするそうで、「上品(じょうひん)」「下品(げひん)」の語源はこれによるのだそうです。
 3年に一度開かれる「お面かぶり(二十五菩薩来迎会)」の行事では、本堂と上品堂の間を菩薩の面をかぶった僧侶が渡るそうです。菩薩来迎の様子を表現するそうですが、向かう先が「上品」なのは当然ですよね……

 浄土宗のお寺に、狭いながらも石庭がある。と、とらえるのではなく、以前このお寺では人々に心の静けさを伝えるための小さな石庭を造り、それを例えにして諭す話をしたと、とらえるべきという気がしました。
 いずれにせよ現代のわたしも「いい絵」と感じたのですから、作者の気持ちが伝わっていることは確かです。

 九品仏川の源流と思われる場所が寺の裏手にあり、公園になっています。
 すぐ脇から暗きょ化され、その上は狭い路地のような歩道とされています。水源にできない流れは役に立たないとの判断なのでしょうね(有効活用、安全確保もありますが)。


自由が丘(Map)

 当初の狙いとしては、繁華街をかっ歩する女性の足を撮りたかったのですが、現場で足だけ狙うように見えたのでは単なるフェチかスケベおやじになってしまうと、このくらいなら雰囲気が伝わるか? と方針修正しました。


 ここは「グリーンストリート」と称される遊歩道で、桜並木の下にベンチがズラーッと並ぶ憩いのスポットになります。
 この地下には、呑川(のみがわ)支流の九品仏川が暗きょ化され流れています(看板には「旧九品仏川」と記されます)。
 付近はゆるやかな傾斜地で坂が多く「ミニ渋谷」のようで、谷底の駅周辺から町が発展した点では似ているように見えます。

 東横線の開通時(1927年:昭和2年)は「九品仏前駅」として開設されますが、現大井町線が開通し(1929年:昭和4年)九品仏の門前に「九品仏駅」が設置されたため、本駅は地名から「衾(ふすま)駅」とされるところを、新しい名称を取り入れ「自由ヶ丘駅」(1966年「自由が丘駅」に改称)とされます。
 その名称は、東横線開通の年に開校した私学の「自由ヶ丘学園」に由来しますが、地域の通称としても浸透したため、目黒区誕生時(1932年:昭和7年)に、この地域は東京市目黒区自由ヶ丘とされます。

 これまで歩いた東横線の「碑文谷駅→学芸大学駅」「柿の木坂駅→都立大学駅」同様の安直な命名ととらえるのではなく、開通当時農村だった一帯で、いかに「将来性ある明るい町づくりを目指す」アピールするか腐心したおかげで、現在の人気が生まれたと考えるべきという気がします。

 右写真はテレビ等でよく見かける、ラ・ヴィータというショッピングモールですが、もう旬は過ぎたのか人出の少なさに驚きました。今どきはスイーツ・フォレスト?(スイーツのフードテーマパーク)
 池にはカルガモ親子が泳いでおり、チビのかわいさには思わず足を止めますが、人寄せガモのように見えてしまいます。
 上記いずれの施設にも関心はないものの、中規模程度の再開発はポチポチ見受けられ、その規模の再開発で人を呼び込めるところが、この地のブランド力なのでしょう。
 そんなサイズがこの町の身の丈に合っているように思えますし、流行の移り変わりの速さを物語っているのかも知れません。


奥沢神社(Map)

 この神社は自由が丘駅と目黒線奥沢駅の間にあり、九品仏の地にあった奥沢城の守護神として建立されます。


 「茅の輪」を目にし立ち寄りましたが、本来は写真上にある鳥居のしめ縄が「大蛇(竜?)」をかたどることで有名だそうです(気付きませんでした)。
 江戸時代この付近で疫病がはやった際、「藁で作った大蛇をかつぎ村内を回り鎮めよ」のお告げに従い、疫病が治まったことに始まる祭事が現在も伝承され、前年秋の祭りで使われた藁の大蛇が鳥居に結ばれています。

 茅の輪は、大祓(おおはらえ)という除災行事(6月と12月の末日に行われる)で、茅の輪を潜りけがれを払う儀式に使用されます。
 京都では何度か目にしても東京では珍しいと思っていたものの、近所の多摩川浅間神社にも伝承されていますから、ただ梅雨の時季に神社へ足を運ばなかっただけかも知れない、と思ったりします……

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