2009/02/21

パンダ亡き後はレッサーパンダ──上野、入谷

2009.2.8
【東京都】

 上野動物園(Map)

 2008年4月にリンリンが死んだので、上野動物園(都立)にジャイアントパンダはいなくなったと同時に、日本が所有権を持つ個体はいなくなったそうです。
 現在ではワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)により、学術研究目的以外での取引が難しいので、すべて「中国籍」でのレンタルなんだそうです。
 そのレンタル料もサッカー選手のように高額で(ベッカムはもっと高い?)、「1億円払うくらいならいらない」という石原都知事の発言も記憶に新しいところですが、今どきは「パンダ外交」ではなく「〜ビジネス」と言われるそうです。
 都と動物園が出した結論が「レッサーパンダ」という落ち(?)で、ピーク時に「立ち止まらないでください!」の、パンダ舎の新しい住人になります(明るくない室内でウロウロ動き回るので写真撮れませんでした)。
 どちらも「パンダ」の名ですが、分類上は他人なんだそうです。
 日本では、パンダ=ジャイアントパンダですが、レッサーパンダの方が先に認知されたので本来は、パンダ=レッサーパンダなんだそうです。
 「むかしここにパンダがいた」ことを、「むかしここにゾウがいた」(横浜野毛山動物園)と同じように、子どもたちに伝えていかねばならない立場ではあるのですが、実在しない対象を言葉で伝えることは大変難しいことと思われます。いくら説明しても「なんだぁ〜」と走り去られてしまったら、寂しく感じるんだろうなぁ、とも……


 ペンギンはひなたぼっこ中なので、おとなしくしてくれました。

 フラミンゴの首の後ろ側がカクカクして骨格の様に見えるのですが、元からそういうものなのでしょうか。
 栄養が足りない? と思ったりもします。
 写真では分かりづらいですが、上目づかいの表情にはかなり奇妙な印象を受けます。

 こども動物園のヤギ山では、「みんなでヤギにエサをあげましょう!」と飼育員の方がカゴに入った草を持ってくると、ヤギたちは一斉に柵の抜け穴から、子どもたちからエサがたくさんもらえる広場へと飛び出してきます。
 最初はおそるおそるだった子どもたちも、次第に慣れてきてスキンシップが出来るようになってきます。
 右写真の子のお父さんは「コイツこんなに動物好きだとは、知らなかったぁ」と、家族で盛り上がったりしています。
 まだ、恐怖心なき好奇心で行動しているようにも思うのですが、無垢(むく)なままでは生きていけないことを理解している大人たちも、子どもたちの姿から感じるものがあるのかも知れません。
 ──子どももヤギも動き回るから大変!

 周囲の大人たちは、子どもたちやヤギに関心が向いてしまい気付かないと思われるのですが、周辺一帯はヤギのフンとおしっこで大変なことになっています。
 それを、目立たぬように静かに清掃する人の存在に気付き、何という心配りかと思わされました(苦情が多かったんだと思いますが)。
 野生ではないけれども、近ごろのキーワードは「ふれあい」だったりしますから、動物園側は「サービス提供者」であるならば、ディズニーランドのような清掃係の人がいて当たり前、と思われたりするのか? なんて感じました。今どきのサービスって大変ですよね……


 下写真は不忍池(しのばずのいけ)で、学生時代に毎年5月末(?)に行われる「皐月(さつき)の盆栽展示会」で夜警のアルバイトをしていました。
 10日間くらい、夕方から朝まで泊まり込んで見回りをしていました。
 現在でも上野という土地柄は、どちらかといえば都市のひずみの吹きだまりような場所なので、学生時代にしてはとても刺激的な経験をさせてもらった、という印象があります。
 最近はだいぶキレイになってきたと思いますが、夜を見ていないので……


●妙心寺展

 下町散策の目的のひとつとして、国立博物館の「妙心寺展」に絡めて歩こうと考えていたのですが、今回ようやく立ち寄ることができました。
 国宝の梵鐘(壊れるおそれがあるので叩けない=見るために存在する鐘)や、法堂(はっとう)の天井に描かれた「雲龍図」の複製が飾られてあり「やっぱ、これだぁ!」の思いがよみがえりました。

 美術展の使命として、背景等のきちんとした説明が課せられていると思うのですが、おかげで今回本来の理由を理解できたことがあります。
 これまで塔頭(たっちゅう)とは「禅寺の祖師や高僧の死後、その弟子が師を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)や敷地内に建てられた小院(48あるそうです)」の説明通りに解釈していたのですが、志はいいとしてもお金のことまで考えていませんでした。
 この寺は花園法皇(退位した天皇が出家した際の称号)によって開かれた経緯から、その威光を利用したスポンサー探しによって、寺自体の修復費用や周囲の塔頭寺院の建設費を捻出してきたようです。
 美術展には、地方有力者からの奉納物であると明記された展示物が並んでします。信心の有り様はそれぞれでいいと思いますが、これも文化貢献ですから、スポンサー側にすればこれで胸を張れるわけです。
 なるほど文化事業というものは、資本主義社会と同じで、権威や威光に裏付けされ社会認識として納得される信用(御利益などの口コミ等)によって、動き始めたことがうかがい知れます。
 ──今回、経済面についての理解を東京で得られたという点は、距離感として納得できる気がします。それを京都のお寺の中で感じていたとしたらロマンがないと言うか、冷徹な研究者の視線になってしまうという気もしました。


 入谷(Map)

 入谷鬼子母神(きしもじん・きしぼじん)の通称で有名ですが(真源寺)、七夕に朝顔市が開かれるお寺と言った方が分かりやすいかも知れません。
 よく耳にする「おそれ入谷の鬼子母神」という言葉は、地口(じぐち)と言われる駄洒落(だじゃれ)で、「おそれ入りました」+「入谷の鬼子母神」というだけの意味だそうです。
 ちなみに「びっくり下谷の広徳寺」→「びっくりした」+「下谷の広徳寺」、「いやじゃ有馬の水天宮」→「いやじゃありませんか」+「有馬の水天宮」等々。
 思い浮かんだのは「あたり前田のクラッカー」(「てなもんや三度笠」なんて分かるかなぁ? これも例文として載ってました)ですから、意味は無くともフレーズとして記憶されていると思われます。
 脳内の記憶整理が可能なら、このフレーズを削除して新しい記憶スペースを確保したいのですが、茂木先生〜!
 「その記憶にも意味があるんですよ」なんて言われた日には、どう考えたらいいんでしょうねぇ?


 ここには下写真の富士塚があります。実際に見たのは初めてです。
 富士塚は富士信仰から生まれたもので、富士山を模して造られた人工の山や塚で、頂上には富士山と同じく浅間神社(せんげんじんじゃ、あさまじんじゃ)が奉られています。
 江戸にあって京都にないのが富士山ですから、江戸っ子の鼻息も荒かったと思われますが、江戸時代から地域や集落単位の集団で参拝する富士講(ふじこう)という信仰が盛んになったそうです。
 現在ではほとんど行われていないそうですが、御師(おし:参拝・宿泊などの世話をする)の家(宿坊)がまだ存続している様子を、少し前にテレビで見ました。
 これは、実際の富士山にお参りできない方のための施設のようで、毎年富士山の山開きの日にはここでお参りできるそうです。
 もとは、富士塚の山頂から富士山が拝めるように作られたと思われますが、今どきでは富士山が見える富士塚がいくつあるのか……
 ちなみに多摩川沿いの東横線脇にある浅間神社(富士塚の有無は不明)からは、富士山が拝めます。

 上は、小野照崎神社の社を守る獅子(?)。


 「三球・照代さん(漫才コンビ)、地下鉄はここから入れるんですよ〜!」って「そんなこと、とっくに知ってますよ」ですよね……
 事前に地図を眺めていたら「地下鉄検車場」(銀座線用)という施設が目に入り、こんな光景がきっと見られるとの期待から立ち寄りました。
 写真の背後側に車両基地があって、この地下への入り口の間を一般道が横切っています(撮影位置は踏切になります)。
 「警戒中」の表示があるように、地下へと通じる一本の線路の両脇に2人ずつの計4人の警備員が張り付いています。
 テロの警戒? 海外の要人のためとしたら、ヒラリーあたりか?
 普段は気にしないのですが目の前に立っているもので、撮影してもいいか聞いてみると「その辺りからなら」と、位置を指定されました。
 何かあったのかなぁ? ご存知の方がいらしたら教えてください。

 締めとして、まま有名な池袋大勝軒(ラーメン屋)からのれん分けしたという上野の店に寄りました。
 スープの分量間違えてない? というくらい、しょっぱかった!
 好みが変わってきたのであれば、それは年と共に変化する体の要求なので問題ないのですが……
 サッパリ味が好きになってきたのは確かです。

2009/02/15

新・ルネサンス時代到来?──本郷、御茶ノ水

2009.2.2
【東京都】

 本郷(Map)

 本郷という町を散策したのは初めてと思います。
 やはりこの町のシンボルは東京大学と思われますので、大学に用事でもなければ立ち寄らない地域だったようです。
 京都の方も京都大学のある丸太町周辺は、大学・病院以外にはあまり立ち寄らない場所なのかも知れません。


 高低差はそれほどないにしても結構凸凹した地形であるのと、空襲の被害から免れたのか焼け野原にすぐバラックが建てられたのか、昔ながらの軒先が重なりそうな町並みが残されている地域です。
 右写真は、建物のすき間の奧に玄関らしき扉が見えますが、横にならないと通れないような通路です。
 未確認ですが、反対側に出入口がなかったら家具すら運び込めませんよ、これでは。

 そんな地域において、ある程度まとまった敷地を保っているのが上写真の曹洞宗長泉寺です(参道もちゃんと維持されています)。
 山門の書は「獅子吼峰」(獅子吼:ししく 仏の説法。獅子がほえて百獣を恐れさせるように、悪魔・外道を恐れ従わせること)と書かれているそうです。
 もともと水道橋付近にあったものが、水戸藩屋敷(小石川後楽園)拡張にあたりこの地に移設されたそうで、水戸藩屋敷に関わりの深かった水戸光圀(黄門様)の援助を受けたとの記録があるそうです。
 また東大に近い土地柄もあり、森鴎外、石川啄木、金田一京助もゆかりがあったとされ、昔から立派なお寺だったようです。

 右写真は上記の長泉寺にほど近い菊坂町で、宮沢賢治や樋口一葉の旧居があったそうで、一葉が使用したとされる井戸が残されています。
 鴎外たちを含めてみな1900年前後に本郷の地に暮らしたようですから、当時の評価はそれぞれにしても、スゴイ人たちが肩を寄せ合い集まっていたことになります。
 文学系の方たちの名前が並んでいますが、それは文学というものの持つメディア性による認知度の高さが挙げられると思います。
 明治時代の国策として、第一に母国語の研究を進めることが重要視されたのではないでしょうか。
 そして新しい日本語の確立と、その言葉による表現の可能性を広げることが、国民意識を高めることにつながる、との意識が強かったのではないかと思われます(メディアを利用しようとする意図があったのではないか)。
 東京芸術大学(上野)の前身とされる東京美術学校の設立(1887年)に尽力した岡倉天心は、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により危機的状況に置かれた仏教美術品の保護に奔走し、西洋文化に傾倒する世論の中で日本の伝統美術について説いたそうです。
 細かなことまで分かりませんが、新しい日本を構築するには「まずは足元を見つめ直すことが必要ではないか」との認識では一致しているように思え、この国を愛し良心を持った知識人たちがこの地に集まってきた「熱意」というものが、うかがい知れるように思えます。


 東京大学(Map)

 東大の構内に入るのは久しぶりですが、野郎どもの印象はむかしと変わりませんが、女性はオシャレになった気がします(学生ではなくて、取り巻きなのか?)。
 ちなみに京大は、女学生(表現が古くさい?)も堅実で学生らしい姿に見えました(それって、ひいき目?)。
 昔は、大凧くらいデッカイ「立て看」(ベニヤ板12〜16枚使用が標準らしい)いっぱいに「ゲバ文字」(角を立てることを強調した文字。あれは書体といっていいでしょう)で書かれたメッセージが延々と並んでおり、それぞれの主張を区別できなくとも(同じように思えた)、刺激に満ちた空間という印象がありました。
 東大というとどうしても、安田講堂(右写真)占拠事件を想起してしまいます。
 テレビで見ていましたが子供心に、学生運動(抵抗活動)を経験しないと大人になれない、と思わされるような世間のざわめきを、お祭り(儀式)のように感じていたのではないでしょうか。


 そんな一連の騒動で、何か変わったのでしょうか?
 よく分かってないのかも知れませんが、そこで団塊の世代といわれる人たちが思いっきり発散して、その後の日本の発展を牽引してくれた、とは言えるように思えます。「イギなーし!」。
 でも、団塊世代のツケは必ず後の世代に回ってくる「団塊恐慌」があることは、みなが承知しているのではないでしょうか。
 かつての活動家たちは「ナンセンス!」と口にするかも知れませんが、もはや、手にできる年金の皮算用ほどの関心は持てないのではないか、と言ったら怒られるか?
 後を引き継がねばならない世代には「ルネッサンス!(直訳すると:再生の意味だそうです)」(あのコンビのどこが面白いか分からないんですが……)というテーマ(古き良き文化の復興運動)が課せられてきます。
 ──「CHANGE!」とは、昔に戻ることとは思いませんが、「モーレツ!(高度成長)」を期待できる社会でないことは明らかと思われます。

 とは言え、団塊世代には「生涯競争」が課せられてきたとも聞きますし(そのとばっちりを受けるのも下の世代と決まっています)、グチはこの辺にしましょうね……

 安田講堂に面した右側のまま広い教室で、気象大学校の試験を受けたことがあります。
 気象庁付属の教育機関ですから、合格すれば国家公務員です(防衛大学校と同じと思います)。
 動機としては、昔は気象予報士などという国家資格は無かったことと、新田次郎(作家)へのあこがれかなぁ。
 チャレンジ精神には自分でも感心するものの、とにかく試験は「手も足も出ない」状況で、早々に退席して安田講堂前でタバコをふかしていた記憶があります。
 ──わたしの記憶が確かなら、当時から未成年者の喫煙は禁じられていたと思います……

 右写真は有名な赤門で、旧加賀屋敷御守殿門(きゅうかがやしき ごしゅでんもん)と言うそうです。
 東大の敷地はもと加賀金沢前田家の屋敷で、朱塗りの門は大名家に嫁いだ将軍家の子女を迎えるための門で、火災などで焼失しても再建してはいけない慣習があるので、1827年に建造されたものが現存している貴重な建造物なんだそうです。


 神田明神(Map)

 江戸の守護とされた、神田明神(神田神社)です。
 分かるでしょうか、右写真の右側から光が当たっているのですが、これは秋葉原に新しく建てられた高層ビルに反射した太陽光が見事に神社を照らしている光景になります。
 以前、その地にあった神田市場の氏神様でもあったそうですから、義理堅いといいましょうか……
 ──そんな反射光を計算して、東京のビルの谷間で写真を撮るのも面白いかも知れない、などとも。

 拝殿では厄よけのおはらいが行われていました。
 厄年についてはまるで無関心だったのですが、ちょうどその年齢のころに伯父が亡くなり「お前の厄だ!」と親戚一同から責められ、川崎大師に行った覚えがあります。
 自分だけのことでは済まなくなることもあるので、なるべく行かれた方がいいのではないでしょうか(みんなに言われるとはビックリしましたもの)。

 昔の会社の後輩で、ここで結婚式を挙げた夫婦がいて(呼ばれませんでしたが)「カッコイイ」と思ったものですが、神社側のアナウンスによると「縁結びの神」でもあるのだそうです。


 神社によると730年に開かれたそうで、一ノ宮「大己貴命(だいこく様:出雲大社より=大陸系)」、二ノ宮「少彦名命(えびす様:伊勢神宮より=大和系)」、三ノ宮「平将門神(まさかど様:関東系)」が奉られているそうですから、日本の神をフル装備しているので、文句をいう人もいないのでしょう。
 もとは大手町に現存する将門塚(首塚)周辺に所在したそうです。将門の首塚に関しては様々な言い伝えがあるので、首塚だけ残して社殿を移設したのはある意味正解のようにも思えますが、でも首塚はどうしたらいいのでしょうか?
 この都市がどれだけ発展しようとも、東京の守護霊として「くさび」となり続けてもらえるなら、それこそ大切にしていくべき存在なのかも知れません。
 ──「悪い子はいないか〜!」の「なまはげ」のように、聞き分けのない子どもはあそこに連れて行けば、ピタッと黙るのではないかと思ったりします。霊感等をまるで感じないわたしですが、怖くて近寄れません……(恨みを買ってる一族だったりして)


 ニコライ堂(Map)

 右は御茶ノ水にあるニコライ堂で、敷地内に初めて入りました(日本ハリストス正教会の本部だそうです)。
 函館にあるハリストス正教会に行った記憶と、ニコライという響きから漠然と「ロシア正教でしょ?」程度の認識でしたが、「正教会」というものはどこの国の名前が付こうが、キリスト教に違いないわけです(ハリストス=ギリシャ語でキリストのこと)。そりゃ当然ですよね。
 1891年に完成し、正式名称は大聖堂(東京復活大聖堂)だそうです。通称であるニコライ堂の由来は、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人の大主教ニコライにちなむそうです。
 この建設にもジョサイア・コンドル(旧岩崎邸庭園旧古河庭園)がかかわっていたそうで、開国以来、西洋文化の流入と洋風建築の物珍しさから、当時の彼は引っ張りだこだったことがうかがえます。
 関東大震災で塔の部分が崩れたそうですが、修復されて現在に受け継がれているわけですから、文化として根付いたと言えるのではないでしょうか。

2009/02/08

闘いと、祈りの季節──湯島

2009.2.1
【東京都】

 旧岩崎邸庭園(Map)

 この建造物から、イーグルス(70年代に活躍したアメリカのロックバンド)の代表作「ホテル・カリフォルニア」(1976年)のジャケット写真を想起したと言っても伝わらないか?
 当時「あれはビバリーヒルズ ホテルの写真」なんて聞いても「ビバリーヒルズってどこ?」なんて時代でしたしね……


 ここは、上野不忍池(しのばずのいけ)のウエストコースト(? 大むかしは不忍池も海だったそう)にある、旧岩崎邸庭園です(岩崎家とは三菱財閥の創業者一族)。
 昔からの名家かと思いきや、成り上がりのようです(怒られますね)。
 三井(1673年)や住友(1590年)は歴史を持つ旧家だそうですが、三菱(1873年)は明治期の動乱に便乗して巨万の利益を得たため、そう言われるようです(龍馬の海援隊の後身を受け継いで富を得ます)。


 こんな電球がまだ現存しているんですね。電球は消耗品でしょうから現在でも作られていることと。
 建物が建造された当時は、日本が成長に向かう時代で電気は「文化の象徴」でしたが、いまどきは「じゃーん!」と出てくるでんこちゃん(東京電力のキャラクター)の、格好の標的(省エネタイプに取り替えましょう!)にされそうです。
 彼女には「風情を楽しむ」って心がありませんから……
 フィラメントから発せられる柔らかい光には、確かに暖かみが感じられますが、旅行などで利用するビジネスホテル等の間接照明の弱い明かりは、年と共に手元が見えづらくなり目に優しいとは思えません。
 「もっと光を!」と、目をしばしばさせているヤツに、風情を語る資格はありません……


 現在ここは東京都が管理しているため、バンフレットの様式は浜離宮等と同じです。その「〜庭園」の名のように、以前の敷地はもっと広かったそうです。
 で、切り売りされた土地に何があるかといえば「ここは香港か?」と思うような、ベランダがないためエアコンの室外機が外壁にズラーッとオブジェのようにぶら下がるマンション(?)が並んでいます。
 金持ちに対する庶民の当てつけか? とも思え、撮り方によっては面白い絵になりそうでも、好きにはなれない光景でした。


 この洋館は、ジョサイア・コンドルという東大講師の著名な建築家によるもので、旧古河庭園にある洋館もこの方の「作品」とありました。
 1896年(明治29年)に完成していますから、空襲の炎上からこの建物を守ったのは広い庭園の存在なのでしょう。
 そんな時も痛い目に遭うのは庶民ですから、お金持ち(リッチではなく富豪の意)になるということは「自分を守る」ことに通じるのかも知れません。
 しかし、江戸っ子たちはめげることなく、以前と同じような住宅密集地を作り上げていきます。お金よりもバイタリティが町を支えていると(希望を込めて……)


 上写真はついたてですが、その説明に「唐草模様」という表現がありました。本来は、このようなデザインを指す言葉だったんでしょうね。
 ──興味のある方は調べてみてください。ものすごく手間のかかる手作業のようで、工芸品としては日本有数のものらしい。壁紙から天井(刺繍が張られていたり)そしてカーテンまで見事にコーディネートされ「迎賓館か?」というほど見事な装飾です。

 わたしなんぞは、唐草模様と聞けば「東京ぼん太の風呂敷」(古くてスミマセン)を想起してしまうし、「ラーメンどんぶりの模様」もそこから派生したと言われても、イメージできないのではないかと。──ラーメンどんぶりの模様も最近見なくなりました。
 それを「簡略化されたデザイン」と呼ぶらしく、イコールではなくても、それを「庶民的デザイン」と呼ぶことには、手を打って納得しちゃいます。


 右写真は、離れた別棟として建つ撞球室(どうきゅうしつ:ビリヤード場)になります。
 ガイドには「スイスの山小屋風の造り」などと書いてありますが、明治時代の流行最先端だったにしても、それだけのために建物が必要だったのだろうか?
 ちなみに、本棟から地下通路が作られているそうです。
 この壁の装飾は、神戸異人館にある「うろこの館」(リンク先1枚目の左上写真)に似ていると思われましたが、設計者の同定はできませんでした。

 しっかし、上写真の和館などもあるわけで「お金があれば、何でも出来る。ダァーッ!」って印象ですから、これまで立ち寄らなかった理由がよく分かった気がします。

 確かに絵になるモノが多いのでパシャパシャ撮りましたが「成金趣味のここがスゴイ!」と宣伝してもなぁ、という気分が伝わればと……


 湯島天満宮(Map)


 年が明けたこの寒い時期、受験生にとっては、己との闘いの季節であり、祈りの季節になります。
 ぶら下がっているのは絵馬ですが、鈴なりというかもう臨月という状態に見えます。この奉納所は倒れるわけにはいかないでしょうから、相当強固に作られているんでしょうねぇ。
 大学受験時にお参りした記憶があるのですが、それ以来か? お願いしてきました……


 創建は458年とされており、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として開かれたそうです。
 聞いたことのない神様(天之手力雄:あめのたぢからを)ですが、神話では天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸に隠れた際、その脇に控えてあまてらすを引きずり出し、世の中に明るさを取り戻したそうで、「力の神」「スポーツの神」とされます。その後、地域住民たちの願い出によって、菅原道真が合祀されました。
 「湯島の白梅」とよく耳にしますが、それは歌謡曲のタイトルからきているそうです。
 神社の梅祭りは2月の2週目からのようですが、もう既に受験シーズンの最中ですから、この日(日曜)の境内では露店が満開でした(右写真は拝殿に飾られた盆栽)。


 天神様の守護は牛ですから、ここにも牛の石像があります。
 関西では牛の像を手でなでる習慣があるようでどこも「テカテカ」でしたが、ここはよだれかけ(?)がいくつも掛けられています。
 そんな様子からも「学問の神様」は、東西を問わずとても庶民に愛されていることが実感できます。
 同じ信仰とされながらも、各地方において異なった風習を生み出したり、分派していったりするものがありますが、完全に日本ローカルと思われる天神様信仰(菅原道真)ですから、各地方での接し方や風習などについての調査・比較をしてみると、生活者たちの「祈り」「願い」の多様性から風土や文化の差異というものが浮かび上がって来るのではないか? と、思ったりもします。
 こんなテーマは、いかがでしょうか? もう研究してる人はいるかも知れませんが……

2009/02/02

夕焼けにゃんにゃん──谷根千

2009.1.27
【東京都】

 谷根千(Map)

 谷根千(やねせん)とは、谷中・根津・千駄木周辺をさす通称だそうです。
 「谷根千」という地域情報雑誌があるそうですが、出版不況の影響か09年春で終刊となるそうです(一冊くらい買っておけば良かったかなと、帰ってから知りました)。
 上野方面からこの付近まで流れては来るものの(上野をメインに考えてしまうので)、谷中霊園や根津付近で力尽きておりました。
 今回は、意識にはあってもこれまでたどり着けなかった根津神社と、谷中ぎんざを目指して歩きました。

 根津神社(右写真から5枚)は根津権現とも呼ばれ、日本武尊(ヤマトタケルと読ませるところがスゴイよね。もしくは倭建命:やまとたけるのみこと)が1900年近く前に創祀したと伝えられるそうです。
 野蛮人が住むとされた時代の東国に、そんなヒーロー(皇族)がやって来るわけがないと思うのですが、「古事記」(712年)や「日本書紀」(720年)には関東などの地名入りで、ヒーローの活躍ぶりが記録されているそうです。
 神話の真偽についてはともかく、「古事記」「日本書紀」という国史とされるような書物の編修(国史等は「編修」の字だそうです)に際して、「東国も国土の一部である」という認識で作られたようなので、国を治める側としては本州(東北はおぼろげかも知れないが)までは領土である、という認識だったように思われます。


 根津神社は東京大学の北端に接するような場所にあるのですが、その大学敷地の端っこに地震研究所があります(大学の卒論時に2度くらい訪れたか)。
 建物には耐震補強のゴッツイ筋交いがはめられており、「補強はこれくらいやらないと危険なんです」というアピールのようにも感じられます。確かに地震研ががつぶれたらお話しになりませんからね……
 その裏側に位置する境内の斜面には、つつじと思われる植え込みが並んでいます。花の季節には見事な光景が見られることでしょう。
 また、近隣には森鴎外、夏目漱石等の文豪が住んでいたことなどから、この神社が小説に登場することが多かったようで、その作品の数には驚かされました。
 当時から風情や人情味には事欠かなかったであろうし、もちろん現在でも気のおけない町であることは、歩いてみれば納得できるのではないでしょうか。

 この界隈について調べて驚いたのは、門前にはかつて根津遊郭があったということです。
 神社は江戸時代に千駄木から移され、遊郭はその後に作られたそうですから、参拝者を目当てに作られたことになります。
 それはお上(江戸幕府)が認めたのでしょうから、仏教のように戒律は厳しくないと思われる神道では、不問とされたのだろうか?
 「神社と遊郭」という研究テーマが立てられるのでは? もうあるのかも知れないと調べてみると……
 Googleで「神社と遊郭」を検索すると、検索結果欄に「このサイトはコンピュータに損害を与える可能性があります」と表示されたサイト名がズラーッと並びます。
 これは明らかな妨害工作! ちょっと、突っかかってやろうか? と思っていたら、Google側のミスだったそうです(2月1日0時頃)。人騒がせな!
 でも結局、そんなテーマのモノは見つけられませんでした……


 タイミングが悪いと言うか、楼門・社殿ともに修復中で対面することが出来ませんでした。
 境内の一画には朱塗りの鳥居が並ぶ参道があるのですが、江戸サイズ(小さめのモノの表現。畳にはそう呼ばれるものがあるそうです)なのか、いきなり頭をゴチンとぶつけました。
 京都の伏見稲荷くらい大きいものにしてくれ、と言いたくなりましたが、平均身長の低かった江戸時代には、京都のサイズは見栄で、このサイズが現実的と言われれば、少しかがんで通るくらいが、非日常的な空間に来ている実感を得られるようにも思えてきます。
 右写真は神橋で新しく架けられたそうです。朱塗りばかりではなく、このような深い緑色の建造物はとても落ち着きが感じられますし、センスは見事と納得させられました。


 谷中といえば、谷中墓地(都立霊園で桜の名所)とお寺が思い浮かぶのではないでしょうか。
 ──霊園に桜の名所が多いのは意味があっても無くても、日本的な光景と思います。春のお彼岸辺りに桜がほころんでいたりすると、ご先祖様がよろこんでいるように思えたりします。

 上野寛永寺(徳川家の菩提寺:天台宗)が建立されてから、この地に子院が次々と建てられるようになったそうです。
 また、幕府の政策によって神田付近から移転したり、火事で焼け出されたお寺が集まってきた等の経緯があるそうです。
 印象としては、日蓮宗系のお寺が多いように見えましたが、浄土宗系や禅宗系など、なんでもありの「お寺銀座」とも言えるのではないでしょうか。
 そんな御利益か、幕末の旧幕府軍(江戸城無血開城に反対する勢力)と新政府軍の上野戦争では被災するものの、関東大震災や第二次世界大戦では被害が少なかったそうで、昔ながらの町並み・建造物が残されていていながらも再開発されないのは、お寺の存在なのかも知れません。

 よく「火事と喧嘩は江戸の華」と耳にします。自虐的過ぎる表現に思えたのですが、実はよろこんでいたのではないか? と思えてきました。
 「宵越(よいご)しの銭は持たない」(=お金は蓄えない)人たちは、燃え広がりやすい長屋暮らしに満足していて、周囲の人たちと小競り合い(喧嘩)を繰り返す日常が「とても好き」だったのではあるまいか?
 世話好きで、人なつっこいというか、運命共同体的な意識をみんなが持てていたのは、当時の「江戸っ子の気分(社会・景気意識)」を庶民が等しく共有できていたからかも知れない、とも思われます。
 ──運命共同体的な意識を持てない現代だからこそ、そんな人情に安らぎを感じる多くの人たち(わたしを含め)が、身近な下町にノコノコやって来るのではあるまいか。

 遠くから「あれっ、外国の人が銭湯に入っていくよ。何か特徴のある風呂なの?」と思った右写真は、銭湯の建物をそのままギャラリーとして利用しているスペースでした。
 継続していけるのであればいい試みであるし、どうせなら湯船につかりながら鑑賞したいと思いますが、そりゃ無理ですわね。

 「谷中ぎんざ」という名は、下町商店街の代名詞のように思っていましたが、マスコミを上手に活用して作り上げた偶像である、というのが第一印象でした(批判的な意見を持っているわけではありません)。
 ちょっと元気な、どこにでもある商店街で、違うと思われるのは「○○テレビで絶賛されました!」等の張り紙がやけに目立つところでしょうか。
 小さな商店街ですから、宣伝担当者の戦略が見事に成功したということになるのだと思われます(NHKの朝ドラの舞台にもなったそう)。この日もテレビカメラが取材に来ていました。
 手段は様々でも、活気を保っていくことは大変なことと思われますから、いつまでもお元気でありますように。

 JR日暮里駅から谷中ぎんざに下る右写真の階段は「夕焼けだんだん」と呼ばれています。
 夕焼けの絶景スポットだそうで(この日は時間が早かった)、Webサイトには「36段ある」などという記述もあったり、結構な人気スポットのようです。
 周辺をはいかいするネコが多く「お前、木登り上手だなぁ」と、おじいさんが語りかけたり、高そうなカメラを持ったおじさんがゴロゴロあやしながら写真を撮っています。
 この周辺はネコにとっては楽園のような場所なのかも知れません。
 そんな光景から「〜だんだん」ではなく「夕焼けにゃんにゃん」じゃないの? と思っていたら、そう呼ばれることもあるんだそうです(「おニャン子クラブ」は「夕やけニャンニャン」)。
 夏などは、ネコ好きの方には有名な夕涼み&夕焼けスポットなのでしょうね。
 ネコのは写真ありませんが、ご勘弁を……