2010.7.10
【神奈川県】
より大きな地図で 多摩川 を表示
今回は、普段の散歩でよく歩くご近所になります。
何度となく前を通りながらも、ちゃんと調べたことがなく、「まとめれば、一本できそう」という安直な企画です。
動機としては、梅雨どきのゲリラ豪雨を避けやすい場所にしたかった、になります……
※今回から、概略地図を表示し、各地点を詳細表示にしました。
旧小杉御殿周辺(Map)
現在武蔵小杉駅付近は、JR南武線・横須賀線、東急東横線・目黒線のターミナル駅として、さらに開発が加速されそうな勢いですが、江戸時代この地域では、中原街道沿いに造営された徳川家の小杉御殿(1608年)のあった、現在の等々力競技場付近がにぎわっていました。
右写真は、安藤家の長屋門(両側に門番や使用人部屋の長屋が作られた門)になります。安藤家は後北条氏(小田原北条氏)の家臣で、江戸時代には名主の代表格とされ、歴史的な資料が多数保管されているそうです。
すぐ近くに原家という、こちらも立派な門構えの名主の屋敷跡があり、母屋は日本民家園に移築されています。街道沿いでは「原」姓の表札をよく見かけ、どれだけの大地主なのか見当も付きません。
この付近は、武蔵小杉にあるイトーヨーカドーの帰りに、レジ袋を下げて歩くようなご近所で、カメラのフレームで切り取ってみると、とても絵になるものだと改めて感心しました。
右下写真の両脇は醤油蔵で、奧には瓦屋根が並んでいます(上述の門から街道沿いに数分)。
ここだけ見たら、竹原の美観保存地区のようですが、限られた範囲でも川崎に残されていることが、ひとつの驚きです。
ここは旧石橋醤油店で、現在は営業していませんが、蔵や醤油だるなどを文化財として保存しています(現在も土地の名士で、様々な活動に協力しているらしい)。
1870年(明治3年)創業ですから、比較的新しい建物ですが、ここでも創業者に「原」(文三郎)という名前が登場します。
当時は「キッコー文山」の商標で販売し、丸子の渡し(橋のなかった時代)の船頭が「お前のお客のために船を出すようなもの」というほど繁盛したそうです。
関東で多い「キッコー」の商標は、香取神社(千葉県香取市にある、農耕・水利・海の仕事の神)の紋である「亀甲」が尊ばれたことによるようです(キッコーマンの由来より)。
一方、西日本方面で多い「キン」の名称は、金刀比羅宮の紋(○に金)にあやかったそうです(小豆島のマルキン醤油の由来より)。
どちらもしょう油醸造に大切な「水」にまつわる神様を尊んだようです。
背景となる文化の違いは、味の個性に表れますから、各地のしょう油で名物を食し、比べることができたら楽しそうですね(関西・九州にも東日本育ちがおいしく感じるしょう油があります)。
街道沿いとはいえ、小杉宿とされたのは1673年(江戸開府は1603年)で、東海道が整備され徳川家の小杉御殿が取り壊された後になります。
東海道がメイン街道とされたのに、中原街道を利用する人はいたのか? と思うところです。
それが東海道では、大名行列の追い越しは禁止されていたため、急ぎの旅人などには、東海道のバイパスとして重宝されたんだそうです。
わたしも、最初からバイパスを選択しそうなので、ナットクです……
明治時代、府中街道と交差する小杉十字路辺りには、旅館、料理屋、劇場などが立ち並び、大正には乗合馬車の停留所が出来るほど、たいそうなにぎわいだったとあります(現在の新丸子駅近くには遊郭があったと聞きます)。
しかし、JR南武線の前身である南武鉄道線の開業(1927年:昭和2年)、東横線の開業(1939年:昭和14年 当初は「工業都市駅」の名称)に伴い、にぎわいは現在の駅周辺に移っていきます。
「梅雨明け10日」といわれる、夏を実感する安定した晴天が続くころ(今年は酷暑日が続くころ)なのに、まだ梅雨ネタが残っています……(天候や仕事を考えるとストックも必要なので)
「梅雨の晴れ間にやっておこう」という方が多いのでしょう。上写真の西明寺(真言宗)境内の墓地では、お墓参りと掃除に訪れる方が目につきました。
この辺りでは旧盆(7月15日を中心行われる)の習慣が根付いているようで(部屋の大家さんも旧盆行事を行っている)、軒先にはキュウリやナスで作られた「精霊馬」(しょうりょううま)が並べられます。
キュウリは足の速い馬に見立てられ、あの世から早く家に戻ってくるように。ナスは歩みの遅い牛に見立てられ、あの世に帰るのが少しでも遅くなるように。また、供物を背中に乗せてあの世へ持ち帰ってもらいたい、との願いが込められています。
今年は平日だったので目にすることもできず、写真も撮れませんでした。
街道筋にそんな精霊馬が並ぶ光景は、タイムスリップしたような情緒を感じさせてくれます。
等々力緑地(Map)
等々力緑地(とどろきりょくち)には、Jリーグ 川崎フロンターレのホームスタジアムとして知られる等々力陸上競技場があります。
──以前はヴェルディが川崎時代に使用しており、その前身である読売クラブ時代の、カズ、ラモス、トニーニョのサーカスのようなプレーに目を見張ったものです……
他にも、等々力アリーナ、野球場、プール、テニスコート、釣池、川崎市民ミュージアムなどの施設が立地しています。
以前は農地とされていたようですが、周囲から迫る住宅地と公園の境界付近は、人工的とは思えないゆがんだ円弧状の道路に縁取られています(Map水色の線)。
それはおそらく、多摩川が蛇行していた時期の流路のなごりと思われます。
多摩川は頻繁に氾濫を繰り返し、その度に流路が変わるような暴れ川だったので、流域の住民たちは生活に困窮したと聞きます。
でもそんな状況を地図から想像すると、以前、東京都世田谷区の等々力と、神奈川県川崎市の等々力が、地続きのだった時代に様子が見て取れるような気がしてきます……
競技場では、陸上競技の記録会が開かれていました。
中学時代だったか、市内の学校を集めて行われた記録会の記憶がありますが、いい記録が期待できない連中には、テキトーに種目が割り当てられ、困惑したことを思い出しました。
ハードルの練習を結構しましたが、結果はしかり。そんな記憶がよみがえった時って、リアクションに困るから、思わず苦笑いしちゃうんでしょうね……
上写真の釣池は結構広く、中に浮かぶ島はサギ類のねぐらになっており(噴水の奧)、雨が降らないとフンだらけで真っ白になってしまいます。パラソルがレンタルだったら、池の周りがカラフルになるので、Good!
大きな池のとなりに、日本庭園とされるほどよい広さの池があり、そこはカワセミの観察ポイントのようで、もの凄い望遠レンズを付けたカメラが並んで待機しています。
東京近郊にカワセミの出没スポットが増えている、と以前テレビで見ましたが、実際にスポットをいくつも見かけるので(戸越公園、和田堀公園等)、実物は目にしなくとも、実感できる気がします。
出没頻度が増えれば、身近な鳥とされてしまうのですが、一度撮ってみたいとも思います。
この日は、全国高校野球選手権(夏の甲子園)神奈川大会開幕の前日で、近くの橘高校が練習をしていました。
彼らは日々の練習で「等々力まで往復」(7km程度)のランニングをしていて、自宅付近でもダラダラ走る姿を見かけます。
目的地の設定は理解できますが、もう少し集中できる練習メニューの方がいいようにも思います。
これをアップしたころには、神奈川代表が決まっていそうです(出身校は早々に敗退しました)。
自分が打つつもりのタイミングで、「いち、にの、さん」でシャッターを押すのですが、これが付いてこないんですよ。
これまで不便は感じなかったのですが、デジカメでよく話題になる「シャッター反応速度」ってこういうことなんだ、と実感しました。
スポーツにおける判断・動作スピードというものは、カメラの動作スピード以上に、もの凄く短い瞬間の「反応」から生まれることを、改めて思い知らされました……(彼は、レフト前のクリーンヒットです)
スポーツカメラマンって、チャンスにはシャッター押しっぱなしなんでしょうね。
でも、いま打席に立てばきっと振り遅れるんだから、「シャッター押す反応も鈍いんじゃないの?」といわれたら、返事に窮してしまいそうです……
2010/07/26
2010/07/19
ペンを盾にした日本軍──日吉、夢見ヶ崎
2010.7.3
【神奈川県】
夢見ヶ崎動物公園(Map)
夢見ヶ崎という名称には、興味を引かれる響きがありますが、動物園としては地味な印象を受ける施設です。
最寄りはJR横須賀線の新川崎駅、JR南武線の鹿島田駅ですが、どちらも「はぁ?」という知名度ではあるまいか。
東は多摩川、西は鶴見川(矢上川)に挟まれる平坦な土地に、ポツンと浮かぶような加瀬山(30mほど)の上にあります。
頂上部から付近を眺め、一帯の平地が海だったとされる縄文時代の光景を想像すると、近くに見える日吉の丘陵地(後述)から伸びる岬の途中が浸食され、先端だったこの場所が、島として残されたように見えてきます(現実には見えない光景を、様々な条件でイメージする習慣は、大学で専攻した地学を学ぶのではなく、「体感」することから身に付きました)。
夢見ヶ崎の地名は、太田道灌(おおたどうかん 1432年〜1486年:室町時代の武将で江戸城を築城)が、この山に城を建てようとした時に、不吉な夢を見たため築城を断念したことに由来します。
太田道灌よりはるか以前から象徴的な場所とされ、4世紀後半〜7世紀末に作られたとされる古墳群があります。
東京で最も古いとされる田園調布古墳群が4世紀末ですから、年代・距離的にも近そうです。
ここには日本軍の施設は無かったようです。目立つ場所ですしね……
上写真はブラウンキツネザルで、マダガスカルに生息するそうですが、マダガスカルの動物を海外に連れ出していいんでしたっけ?
オーストラリアのように、他の大陸から隔絶された環境にあったため、独自の進化を遂げた固有種が多く、そのほとんどが絶滅危惧種とされるため、持ち出しは不可能、ということのようです。
首がよく回る(うらやましい?)動物で、上写真はのけぞっているので上部が鼻・口になります。
子どもが差し出す付近の雑草にも、手を伸ばし口にしていますから、草なら何でも食べるのだろうか?
おそらく「エサを与えないでください」だと思うのですが……
ここは川崎市立の動物園で、敷地が狭いこともあり大型の動物は飼育されていません(ヘラジカが一番大きいのか? 上写真はヤギ)。
仲良し夫婦のレッサーパンダが人気だそうで、テレビでもよく紹介され、見た覚えもあります。
入園無料ですから、身近な動物園という感覚で、幼稚園の遠足などに利用されているようです。
公園にある小さな売店が営業を続けられるのですから、平日は子どもの団体等でにぎわう人気スポットなのかも知れません……(訪問したのは土曜日)
中原平和公園(Map)
大きな公園ではよく見かける野外音楽堂(下写真)ですが、わたしには「団塊世代のロマン」と感じてしまうところがあります。
多くの施設は1970年代に作られ、結構老朽化しています。ちょうど団塊の世代が社会に出て、建設をアピールした時代ではないかと思います。
「人が群れれば、世の中が変わるかも知れない」との、幻想を抱いた時代(世代)ですから、そんな熱気を次世代に託そうとしたのかも知れません。
残念ながら現在は利用頻度が低いので、子どもの遊び場とされ、立ち入り禁止にしてもホームレスが居座ってしまいます(奥の青い物体は布団)。
一気に定年を迎えた団塊世代の幻想は崩れ、緊縮財政が求められる現代は、先輩たちの「ロマン」もへったくれも無い時代と言えるかも知れません。
ボチボチ建て替え時期でしょうから、野外音楽堂がどのようにリニューアルされるのか、チェックしてみたい気がします。
よく散歩する公園なので、「平和」と名付けられた理由を知りたく、かなり前ですが敷地内の「川崎市平和館」を見学したことがあります。
この地は戦時中まで、東京航空計器の工場(軍需工場)だったため、戦後米軍に接収され、木月米陸軍出版センターとして1975年まで使用されました。
出版センターとしたのは、近くに印刷機を製造する工場があったからか?
最寄りとなる武蔵小杉駅前には、輪転印刷機メーカーである東京機械製作所の工場が現存しています(駅前再開発により移転するらしい)。
返還後は、市立の中原平和公園や、県立住吉高校とされました。
住吉高校の校舎にはエンジ色が使われており、それがとても汚らしく古くさく見えるので、調べてみると1980年開校とあります。
わたしの出身校は1974年開校なので(この時代の神奈川県は高校不足で100校計画の新設ラッシュでした)、もっとボロボロなんだろうと思うと、一度見学に行ってみようか、という気になってきました。
あっさりと梅雨が明けてしまい、梅雨ネタの扱いに困ってしまいます。
雨が落ちてきそうな空模様でも蒸し暑いので、はだしの広場(夏季はじゃぶじゃぶ池)は、子どもたちでにぎわっています。
施設内では親もはだしになるため(靴下を脱がせる)、水辺でのふれあいがしやすいと思えるので、(ぬれることをイヤがらないよう仕向ける)狙いは成功しているのではないでしょうか。
この施設の対象年齢よりは、ちょっとお姉さんに見える上写真の水着の娘は、周囲の取り巻きを従え「スター登場!」のように、笑顔を振りまきながらかっ歩しています。
ガキの時分を振り返ってみると、 気の強い(or人気のある)女子が逆らえない男子を、子分扱いしていた様子が思い浮かんだりするので、いつの時代にもある光景なのかも知れません……
慶應大学日吉キャンパス(Map)
これは個人的な考えですが、地下鉄三田線を延長し東急目黒線に乗り入れ、校舎のある三田と日吉を直結させる計画は、どう考えても官・民にはびこる慶應大学出身者が結託した、公共事業の私物(学)化としか思えません。
そんなことでよろこんでいるようだから、日本はいい国にならないのだと思います(これ本気!)。確かに便利にはなりましたが……
このキャンパスの地下に、旧帝国海軍地下壕(連合艦隊司令部から海軍総本部とされ、レイテ沖海戦、戦艦大和の出撃命令はここから発せられた)があることは有名です。
でも、これまで慶應大学側は、軍への協力を強要された被害者的立場と思っていましたが、当時の塾長は軍部とのかかわりが強かったとされます。
反共産主義的スタンスを取る塾長が、軍部協力者として巻き込まれていったのかも知れません。
しかし、初代塾長岡本周吉は福澤諭吉の弟子ではあるものの、幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で幕府軍の幕府海軍艦長(新政府軍に降伏)だった経歴などから、明治期から卒業生の海軍関係者(当時の軍人はエリート)とのパイプが太く、海軍と慶應義塾には強いつながりがあったそうです。
チャラチャラした外見は見せかけで、現在も防衛省幹部候補生の養成講座がありそうな気もします……
過去の話は仕方ないにせよ、大学側はそんな歴史をどのように学生たちに説明しているのか、聞いてみたい気がします。
日吉キャンパスは丘陵地に作られており、駅から続くなだらかな上り坂の並木道はとても絵になるのですが、その先は蝮谷 (まむしだに)という急峻な谷戸(やと:丘陵地が浸食された谷状の地形)に落ち込みます。
谷底ですから平らな場所は狭いのですが、その谷筋に沿って各種のスポーツ施設(グラウンドや屋内施設)が連なっています。
外部からの目を遮断できる場所柄なので、秘密施設のようでもあります。
旧日本軍地下壕の入口は、そんなグラウンド脇にありますから、その中で「虎の穴」のような特訓が行われているのでは? と思ったりも……
地下壕内部は、海軍本部に使用できる作りですから、かなり立派な構造のようです。一般公開もあるそうなので、一度のぞいてみたい気もします。
しかし、日本軍は学府の地下に穴を掘り、その中で司令部が意志決定をしていたのですから、テロ組織がモスク(寺院)を隠れみのにしたことと同罪なわけで、非人道的組織だったと言わざるを得ません。
「軍隊は、軍隊を守るために存在する」とされる、最終局面だったとしても、その後も庶民は戦禍を被り続けました……
【神奈川県】
夢見ヶ崎動物公園(Map)
夢見ヶ崎という名称には、興味を引かれる響きがありますが、動物園としては地味な印象を受ける施設です。
最寄りはJR横須賀線の新川崎駅、JR南武線の鹿島田駅ですが、どちらも「はぁ?」という知名度ではあるまいか。
東は多摩川、西は鶴見川(矢上川)に挟まれる平坦な土地に、ポツンと浮かぶような加瀬山(30mほど)の上にあります。
頂上部から付近を眺め、一帯の平地が海だったとされる縄文時代の光景を想像すると、近くに見える日吉の丘陵地(後述)から伸びる岬の途中が浸食され、先端だったこの場所が、島として残されたように見えてきます(現実には見えない光景を、様々な条件でイメージする習慣は、大学で専攻した地学を学ぶのではなく、「体感」することから身に付きました)。
夢見ヶ崎の地名は、太田道灌(おおたどうかん 1432年〜1486年:室町時代の武将で江戸城を築城)が、この山に城を建てようとした時に、不吉な夢を見たため築城を断念したことに由来します。
太田道灌よりはるか以前から象徴的な場所とされ、4世紀後半〜7世紀末に作られたとされる古墳群があります。
東京で最も古いとされる田園調布古墳群が4世紀末ですから、年代・距離的にも近そうです。
ここには日本軍の施設は無かったようです。目立つ場所ですしね……
上写真はブラウンキツネザルで、マダガスカルに生息するそうですが、マダガスカルの動物を海外に連れ出していいんでしたっけ?
オーストラリアのように、他の大陸から隔絶された環境にあったため、独自の進化を遂げた固有種が多く、そのほとんどが絶滅危惧種とされるため、持ち出しは不可能、ということのようです。
首がよく回る(うらやましい?)動物で、上写真はのけぞっているので上部が鼻・口になります。
子どもが差し出す付近の雑草にも、手を伸ばし口にしていますから、草なら何でも食べるのだろうか?
おそらく「エサを与えないでください」だと思うのですが……
ここは川崎市立の動物園で、敷地が狭いこともあり大型の動物は飼育されていません(ヘラジカが一番大きいのか? 上写真はヤギ)。
仲良し夫婦のレッサーパンダが人気だそうで、テレビでもよく紹介され、見た覚えもあります。
入園無料ですから、身近な動物園という感覚で、幼稚園の遠足などに利用されているようです。
公園にある小さな売店が営業を続けられるのですから、平日は子どもの団体等でにぎわう人気スポットなのかも知れません……(訪問したのは土曜日)
中原平和公園(Map)
大きな公園ではよく見かける野外音楽堂(下写真)ですが、わたしには「団塊世代のロマン」と感じてしまうところがあります。
多くの施設は1970年代に作られ、結構老朽化しています。ちょうど団塊の世代が社会に出て、建設をアピールした時代ではないかと思います。
「人が群れれば、世の中が変わるかも知れない」との、幻想を抱いた時代(世代)ですから、そんな熱気を次世代に託そうとしたのかも知れません。
残念ながら現在は利用頻度が低いので、子どもの遊び場とされ、立ち入り禁止にしてもホームレスが居座ってしまいます(奥の青い物体は布団)。
一気に定年を迎えた団塊世代の幻想は崩れ、緊縮財政が求められる現代は、先輩たちの「ロマン」もへったくれも無い時代と言えるかも知れません。
ボチボチ建て替え時期でしょうから、野外音楽堂がどのようにリニューアルされるのか、チェックしてみたい気がします。
よく散歩する公園なので、「平和」と名付けられた理由を知りたく、かなり前ですが敷地内の「川崎市平和館」を見学したことがあります。
この地は戦時中まで、東京航空計器の工場(軍需工場)だったため、戦後米軍に接収され、木月米陸軍出版センターとして1975年まで使用されました。
出版センターとしたのは、近くに印刷機を製造する工場があったからか?
最寄りとなる武蔵小杉駅前には、輪転印刷機メーカーである東京機械製作所の工場が現存しています(駅前再開発により移転するらしい)。
返還後は、市立の中原平和公園や、県立住吉高校とされました。
住吉高校の校舎にはエンジ色が使われており、それがとても汚らしく古くさく見えるので、調べてみると1980年開校とあります。
わたしの出身校は1974年開校なので(この時代の神奈川県は高校不足で100校計画の新設ラッシュでした)、もっとボロボロなんだろうと思うと、一度見学に行ってみようか、という気になってきました。
あっさりと梅雨が明けてしまい、梅雨ネタの扱いに困ってしまいます。
雨が落ちてきそうな空模様でも蒸し暑いので、はだしの広場(夏季はじゃぶじゃぶ池)は、子どもたちでにぎわっています。
施設内では親もはだしになるため(靴下を脱がせる)、水辺でのふれあいがしやすいと思えるので、(ぬれることをイヤがらないよう仕向ける)狙いは成功しているのではないでしょうか。
この施設の対象年齢よりは、ちょっとお姉さんに見える上写真の水着の娘は、周囲の取り巻きを従え「スター登場!」のように、笑顔を振りまきながらかっ歩しています。
ガキの時分を振り返ってみると、 気の強い(or人気のある)女子が逆らえない男子を、子分扱いしていた様子が思い浮かんだりするので、いつの時代にもある光景なのかも知れません……
慶應大学日吉キャンパス(Map)
これは個人的な考えですが、地下鉄三田線を延長し東急目黒線に乗り入れ、校舎のある三田と日吉を直結させる計画は、どう考えても官・民にはびこる慶應大学出身者が結託した、公共事業の私物(学)化としか思えません。
そんなことでよろこんでいるようだから、日本はいい国にならないのだと思います(これ本気!)。確かに便利にはなりましたが……
このキャンパスの地下に、旧帝国海軍地下壕(連合艦隊司令部から海軍総本部とされ、レイテ沖海戦、戦艦大和の出撃命令はここから発せられた)があることは有名です。
でも、これまで慶應大学側は、軍への協力を強要された被害者的立場と思っていましたが、当時の塾長は軍部とのかかわりが強かったとされます。
反共産主義的スタンスを取る塾長が、軍部協力者として巻き込まれていったのかも知れません。
しかし、初代塾長岡本周吉は福澤諭吉の弟子ではあるものの、幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で幕府軍の幕府海軍艦長(新政府軍に降伏)だった経歴などから、明治期から卒業生の海軍関係者(当時の軍人はエリート)とのパイプが太く、海軍と慶應義塾には強いつながりがあったそうです。
チャラチャラした外見は見せかけで、現在も防衛省幹部候補生の養成講座がありそうな気もします……
過去の話は仕方ないにせよ、大学側はそんな歴史をどのように学生たちに説明しているのか、聞いてみたい気がします。
日吉キャンパスは丘陵地に作られており、駅から続くなだらかな上り坂の並木道はとても絵になるのですが、その先は蝮谷 (まむしだに)という急峻な谷戸(やと:丘陵地が浸食された谷状の地形)に落ち込みます。
谷底ですから平らな場所は狭いのですが、その谷筋に沿って各種のスポーツ施設(グラウンドや屋内施設)が連なっています。
外部からの目を遮断できる場所柄なので、秘密施設のようでもあります。
旧日本軍地下壕の入口は、そんなグラウンド脇にありますから、その中で「虎の穴」のような特訓が行われているのでは? と思ったりも……
地下壕内部は、海軍本部に使用できる作りですから、かなり立派な構造のようです。一般公開もあるそうなので、一度のぞいてみたい気もします。
しかし、日本軍は学府の地下に穴を掘り、その中で司令部が意志決定をしていたのですから、テロ組織がモスク(寺院)を隠れみのにしたことと同罪なわけで、非人道的組織だったと言わざるを得ません。
「軍隊は、軍隊を守るために存在する」とされる、最終局面だったとしても、その後も庶民は戦禍を被り続けました……
2010/07/12
住人だけを守る町──田園調布、自由が丘
2010.6.26
【東京都】
東急線多摩川駅(Map)
以前の目蒲線が目黒線とされ(2000年地下鉄南北線・三田線との相互乗り入れ、2008年日吉まで延長)、切り離された多摩川線(多摩川〜蒲田)の乗換駅で、以前紹介した古墳群やあじさいの名所の最寄り駅になります。
さらにさかのぼると、「多摩川園」という遊園地があり(当時は駅名も多摩川園)、郊外の行楽施設としてにぎわいました(1925年(大正14年)〜1979年(昭和54年))。
閉園後の跡地は現在、テニスコート、公園、着飾ったおばさんが集まる施設(誠成公倫という謎の宗教団体らしく、とても異様な光景です。調べていて、藤原紀香の名前を見かけました)になっています。
武蔵野台地の崖線(がいせん:台地等が川の流れに浸食された崖)からわき出た水を集める六郷用水は、狛江市から続くそうですが、現在は丸子川として数百メートル上流の調布(田園調布)取水場付近で多摩川に流れ込みます。
でもまたここから、わき水を集めて下流の六郷水門へと向かいます。
調布取水場での取水は、1970年多摩川の水質悪化により打ち切られ、現存する堰(せき)は海水の遡上を防ぐ施設となっています。
東横線の車窓から、雨は降ってないのに、堰の両側(上・下流)の水位共に高い状況をたまに見かけます。
大潮や気圧の関係等で海面の水位が上がると、この付近まで影響があるのかも知れません(取水されないなら、もう海水を防ぐ必要はないのですが)。
上写真の地下水のわき出し口がある崖の上で、建築工事が行われています。
すき間を見つけては建物を作ろうとするこの時代を、後世の人たちはどんな評価をするのだろう、と考えてしまいます。
ここも何年か後には、「湧水跡」となってしまうのかも知れません。
ここは、東横線に面している「多摩川浅間神社(せんげんじんじゃ)」になります(東横線は、神社から古墳へと続いた丘陵地を削って通されました)。
浅間神社(富士山を神格化した神社)の立地には、富士山ビューが求められるのでしょう、この付近からは丹沢山地越しに望めるので、その高さが一段と強調されます(そういえば湘南を歩いたころも含め、ずいぶんと富士山に会っていません)。
右写真は「茅の輪(ちのわ)」というもので、八の字にくぐって厄を払います。
京都で見かけたことがありますが、これは常設ではなく季節の神事だそうです。
大祓(おおはらえ)といい、6月30日(夏越の祓(なごしのはらえ))と12月31日(年越の祓(としこしのはらえ))に行われる厄よけ行事です。
701年大宝律令で定められ広まります。室町時代にはすたれたものが江戸時代に復活し、明治時代には再興が命じられ(国家神道化による)、全国の神社で行われるようになります。
そんな命令など知ったこっちゃない、という人のために、お参り方法の説明看板が設置されています。
それを見ながら「これでいいの?」と、参拝する方を何人も見かけました。
田園調布(Map)
「鳩山さんが総理大臣公邸から戻られた」というのが、田園調布の土地柄ですから、庶民の感覚では「雲の上の世界はひとくくり」でも、実際は何層にも分かれていそうなことを、理解できた気がします。
邸宅はメインの通り沿いにあり、何気なく表札が目に入った記憶があります(軽井沢の別荘は、要人を招くことを想定したホテルのような施設です)。
参議院選挙での民主党敗北は想像できましたし、民意は再度「ガラガラポン」(政界再編)を望んでいることも分かりますが、そんなことやってるうちに、本当に「日本沈没」しちゃいそうで恐ろしくなります……
この町は渋沢栄一(日本資本主義の父とされる)による、ヨーロッパ(特にイギリス)の田園都市をめざした町作りがひな形とされます。
開発当時は中流層向けの宅地だったようですが、住環境の良さに評価が高まり高級化へ向かいます(車時代に持てはやされたのでは?)。
右写真は、旧駅舎を復元したもので、現在はシンボル的な存在です。
かなり前の、まだ地上駅のころには(現在、地下駅上にショッピングセンター等がある)、ローカル線の接続駅のようにのんびりとした、まさに田園的な雰囲気がありました。
そんな印象は、かつて駅のそばに田園コロシアム(多目的屋外スタジアム)があったせいかも知れません(緑が多かった印象がある)。
大正時代に慶應大学の野球場が作られ、その後、後述の田園テニス倶楽部のメインスタジアムとしてリニューアルされてから、テニスだけでなくコンサート、プロレス、ボクシングなどの会場に利用されました(1936〜1989年)。
跡地には現在、低層ながらもえらく高級そうなマンションが建っています。
おそらく規制等があるのでしょう、付近ではそのマンション以外の、大規模な開発には歯止めがかけられているようです。
田園調布といえば、駅を中心として扇状に広がる町並みが思い浮かびます。
この形状は、どこからでも町の中心を望むことができる、西洋の教会等を中心とした町並みに例えると分かりやすく、暮らしを重視した姿といえます。
区画が不定形で、外部の訪問者には分かりにくい形状である反面、防御面では優れるとされます(昔の西洋には、町は防御施設との考えがありました)。
一方、京都など格子状の町並みには、風水思想が反映されているため、どの場所でも方位を知ることができ、町を管理する側には便利な形状と言えます。
画一的な区画割りが「周囲と同じレベル(中流意識ってまだ健在?)」を実感しやすく、日本人に好まれるのかも知れませんが、攻撃側は作戦を立てやすい形状になります。
町歩きの際には、太陽が出てない状況での方向を知るすべとして、家並み(玄関の並び)や間取りの構造(光をどこから取り入れようとしているか)が、方向感覚の大切な情報源となります。
それゆえ、格子状の町は攻め(歩き)やすいのですが、扇状の町では家並みもバラバラで、垣根が高く住宅の間取りも見て取れないので(セコムされているとのぞけない)、歩きづらい印象を受けます。
「これも権利なのか?」と驚いたのが、バスの速度です。
田園調布行きのバスは、扇状の町並みに差しかかると、時速20kmの徐行運転になります。道路脇には「住宅街なので時速20km以下の静かな走行をお願いします」の看板があります。
住宅街を通るバス路線は多々あれど、「ここは特別」という意味が込められているようです。
「バスは公共の交通手段でしょうが、わたしたちはバスには乗りません」と言われているようで、ちょっとカチンときてしまいます。
実際、そうなんでしょうけど……
上写真は、東横線の車窓から見える田園テニス倶楽部(1934年〜)で、ホームページには「昭和初期の日本テニスは今では考えられないくらい強かった」とあります(平日会員の、登録料50,000円、月会費18,000円ですって)。
テニスは、1870年横浜山手の外国人居留地にもたらされます。それから60余年後の1932年ウインブルドン大会で、佐藤次郎がベスト4に入ったのですから、自慢したい気持ちも分かります。
その時代の日本人は、スポーツに飢えていたというより、エネルギーの発散場所を「野獣の飢餓感」のように渇望していたのではないでしょうか(変な表現でスミマセン)。
彼の後に好成績を残す者が続くも、戦争に突入していきます……
年配者が多いからでしょう、この季節には見られませんが、真っ白な長袖・長ズボンという姿でプレーする方が多いことに驚かされます(鎌倉のテニスクラブも同様)。
自分も小学校時代はそんな体操着を着ていましたが、あれってすごく動きにくかった印象があります。
中学校からジャージ素材になり、開放感を覚えたような記憶があります。
でもここでプレーする方々の体には、一番フィットするユニフォーム(体操着)なんでしょうねぇ……
自由が丘(Map)
現在暮らす新丸子は、渋谷、横浜、川崎、溝の口のいずれも、電車で20分以内という場所柄ですが、最も近い繁華街は5分程度でたどり着く自由が丘なので、よく足を運ぶ町になります。
上写真は、東横線の線路沿いにウナギの寝床のように伸びる、自由が丘デパートです(2階から上は、駅前なのに場末的な印象の飲み屋街)。
数年前に外装は一新しましたが、中に入れば「アメ横か?」と思うような小さな商店が軒を並べています。
ご覧の通りお客さんは年配者ばかりですから、その取り扱い商品は想像がつくと思います。
実はそれが人気で「今日は自由が丘でお買い物」と、妙なモノを買ってくるお母さんいません?
空襲で一面焼け野原となった一帯ですが、東横線と大井町線が交差するガード下付近から、露店が並びだしたようです。
まだ一区画だけ、昔の風情が残されている場所がありますが、他の町と比べてもちょっと汚い(暗い)ように思えます。
焼け野原からはい上がって生きてきた人たちの、「自由が丘ブランド」への反骨心が息づく一画なのかも知れません……
季節柄、雨の心配は常にありますが、町中なので何とかなるだろうとの目算も、あえなくギブアップです。アーケードなどは設置しない方針なのでしょう、急な雨には困ってしまう繁華街です。そのくせ、そこで雨用品を売ろうとするのは当然なのかしら?
そう感じたからでしょうか、ビニール傘すら買わずに帰りました。
意識として、近所的な気分を持っているようです。実家の相模大野で暮らすころ、隣駅の町田に出かけるようなイメージに近い気がします……(とてもローカルな例えでスミマセン)
【東京都】
東急線多摩川駅(Map)
以前の目蒲線が目黒線とされ(2000年地下鉄南北線・三田線との相互乗り入れ、2008年日吉まで延長)、切り離された多摩川線(多摩川〜蒲田)の乗換駅で、以前紹介した古墳群やあじさいの名所の最寄り駅になります。
さらにさかのぼると、「多摩川園」という遊園地があり(当時は駅名も多摩川園)、郊外の行楽施設としてにぎわいました(1925年(大正14年)〜1979年(昭和54年))。
閉園後の跡地は現在、テニスコート、公園、着飾ったおばさんが集まる施設(誠成公倫という謎の宗教団体らしく、とても異様な光景です。調べていて、藤原紀香の名前を見かけました)になっています。
武蔵野台地の崖線(がいせん:台地等が川の流れに浸食された崖)からわき出た水を集める六郷用水は、狛江市から続くそうですが、現在は丸子川として数百メートル上流の調布(田園調布)取水場付近で多摩川に流れ込みます。
でもまたここから、わき水を集めて下流の六郷水門へと向かいます。
調布取水場での取水は、1970年多摩川の水質悪化により打ち切られ、現存する堰(せき)は海水の遡上を防ぐ施設となっています。
東横線の車窓から、雨は降ってないのに、堰の両側(上・下流)の水位共に高い状況をたまに見かけます。
大潮や気圧の関係等で海面の水位が上がると、この付近まで影響があるのかも知れません(取水されないなら、もう海水を防ぐ必要はないのですが)。
上写真の地下水のわき出し口がある崖の上で、建築工事が行われています。
すき間を見つけては建物を作ろうとするこの時代を、後世の人たちはどんな評価をするのだろう、と考えてしまいます。
ここも何年か後には、「湧水跡」となってしまうのかも知れません。
ここは、東横線に面している「多摩川浅間神社(せんげんじんじゃ)」になります(東横線は、神社から古墳へと続いた丘陵地を削って通されました)。
浅間神社(富士山を神格化した神社)の立地には、富士山ビューが求められるのでしょう、この付近からは丹沢山地越しに望めるので、その高さが一段と強調されます(そういえば湘南を歩いたころも含め、ずいぶんと富士山に会っていません)。
右写真は「茅の輪(ちのわ)」というもので、八の字にくぐって厄を払います。
京都で見かけたことがありますが、これは常設ではなく季節の神事だそうです。
大祓(おおはらえ)といい、6月30日(夏越の祓(なごしのはらえ))と12月31日(年越の祓(としこしのはらえ))に行われる厄よけ行事です。
701年大宝律令で定められ広まります。室町時代にはすたれたものが江戸時代に復活し、明治時代には再興が命じられ(国家神道化による)、全国の神社で行われるようになります。
そんな命令など知ったこっちゃない、という人のために、お参り方法の説明看板が設置されています。
それを見ながら「これでいいの?」と、参拝する方を何人も見かけました。
田園調布(Map)
「鳩山さんが総理大臣公邸から戻られた」というのが、田園調布の土地柄ですから、庶民の感覚では「雲の上の世界はひとくくり」でも、実際は何層にも分かれていそうなことを、理解できた気がします。
邸宅はメインの通り沿いにあり、何気なく表札が目に入った記憶があります(軽井沢の別荘は、要人を招くことを想定したホテルのような施設です)。
参議院選挙での民主党敗北は想像できましたし、民意は再度「ガラガラポン」(政界再編)を望んでいることも分かりますが、そんなことやってるうちに、本当に「日本沈没」しちゃいそうで恐ろしくなります……
この町は渋沢栄一(日本資本主義の父とされる)による、ヨーロッパ(特にイギリス)の田園都市をめざした町作りがひな形とされます。
開発当時は中流層向けの宅地だったようですが、住環境の良さに評価が高まり高級化へ向かいます(車時代に持てはやされたのでは?)。
右写真は、旧駅舎を復元したもので、現在はシンボル的な存在です。
かなり前の、まだ地上駅のころには(現在、地下駅上にショッピングセンター等がある)、ローカル線の接続駅のようにのんびりとした、まさに田園的な雰囲気がありました。
そんな印象は、かつて駅のそばに田園コロシアム(多目的屋外スタジアム)があったせいかも知れません(緑が多かった印象がある)。
大正時代に慶應大学の野球場が作られ、その後、後述の田園テニス倶楽部のメインスタジアムとしてリニューアルされてから、テニスだけでなくコンサート、プロレス、ボクシングなどの会場に利用されました(1936〜1989年)。
跡地には現在、低層ながらもえらく高級そうなマンションが建っています。
おそらく規制等があるのでしょう、付近ではそのマンション以外の、大規模な開発には歯止めがかけられているようです。
田園調布といえば、駅を中心として扇状に広がる町並みが思い浮かびます。
この形状は、どこからでも町の中心を望むことができる、西洋の教会等を中心とした町並みに例えると分かりやすく、暮らしを重視した姿といえます。
区画が不定形で、外部の訪問者には分かりにくい形状である反面、防御面では優れるとされます(昔の西洋には、町は防御施設との考えがありました)。
一方、京都など格子状の町並みには、風水思想が反映されているため、どの場所でも方位を知ることができ、町を管理する側には便利な形状と言えます。
画一的な区画割りが「周囲と同じレベル(中流意識ってまだ健在?)」を実感しやすく、日本人に好まれるのかも知れませんが、攻撃側は作戦を立てやすい形状になります。
町歩きの際には、太陽が出てない状況での方向を知るすべとして、家並み(玄関の並び)や間取りの構造(光をどこから取り入れようとしているか)が、方向感覚の大切な情報源となります。
それゆえ、格子状の町は攻め(歩き)やすいのですが、扇状の町では家並みもバラバラで、垣根が高く住宅の間取りも見て取れないので(セコムされているとのぞけない)、歩きづらい印象を受けます。
「これも権利なのか?」と驚いたのが、バスの速度です。
田園調布行きのバスは、扇状の町並みに差しかかると、時速20kmの徐行運転になります。道路脇には「住宅街なので時速20km以下の静かな走行をお願いします」の看板があります。
住宅街を通るバス路線は多々あれど、「ここは特別」という意味が込められているようです。
「バスは公共の交通手段でしょうが、わたしたちはバスには乗りません」と言われているようで、ちょっとカチンときてしまいます。
実際、そうなんでしょうけど……
上写真は、東横線の車窓から見える田園テニス倶楽部(1934年〜)で、ホームページには「昭和初期の日本テニスは今では考えられないくらい強かった」とあります(平日会員の、登録料50,000円、月会費18,000円ですって)。
テニスは、1870年横浜山手の外国人居留地にもたらされます。それから60余年後の1932年ウインブルドン大会で、佐藤次郎がベスト4に入ったのですから、自慢したい気持ちも分かります。
その時代の日本人は、スポーツに飢えていたというより、エネルギーの発散場所を「野獣の飢餓感」のように渇望していたのではないでしょうか(変な表現でスミマセン)。
彼の後に好成績を残す者が続くも、戦争に突入していきます……
年配者が多いからでしょう、この季節には見られませんが、真っ白な長袖・長ズボンという姿でプレーする方が多いことに驚かされます(鎌倉のテニスクラブも同様)。
自分も小学校時代はそんな体操着を着ていましたが、あれってすごく動きにくかった印象があります。
中学校からジャージ素材になり、開放感を覚えたような記憶があります。
でもここでプレーする方々の体には、一番フィットするユニフォーム(体操着)なんでしょうねぇ……
自由が丘(Map)
現在暮らす新丸子は、渋谷、横浜、川崎、溝の口のいずれも、電車で20分以内という場所柄ですが、最も近い繁華街は5分程度でたどり着く自由が丘なので、よく足を運ぶ町になります。
上写真は、東横線の線路沿いにウナギの寝床のように伸びる、自由が丘デパートです(2階から上は、駅前なのに場末的な印象の飲み屋街)。
数年前に外装は一新しましたが、中に入れば「アメ横か?」と思うような小さな商店が軒を並べています。
ご覧の通りお客さんは年配者ばかりですから、その取り扱い商品は想像がつくと思います。
実はそれが人気で「今日は自由が丘でお買い物」と、妙なモノを買ってくるお母さんいません?
空襲で一面焼け野原となった一帯ですが、東横線と大井町線が交差するガード下付近から、露店が並びだしたようです。
まだ一区画だけ、昔の風情が残されている場所がありますが、他の町と比べてもちょっと汚い(暗い)ように思えます。
焼け野原からはい上がって生きてきた人たちの、「自由が丘ブランド」への反骨心が息づく一画なのかも知れません……
季節柄、雨の心配は常にありますが、町中なので何とかなるだろうとの目算も、あえなくギブアップです。アーケードなどは設置しない方針なのでしょう、急な雨には困ってしまう繁華街です。そのくせ、そこで雨用品を売ろうとするのは当然なのかしら?
そう感じたからでしょうか、ビニール傘すら買わずに帰りました。
意識として、近所的な気分を持っているようです。実家の相模大野で暮らすころ、隣駅の町田に出かけるようなイメージに近い気がします……(とてもローカルな例えでスミマセン)
2010/07/05
江戸を救った、姫とラストサムライ──池上線
2010.6.19
【東京都】
蒲田(Map)
ここは京浜急行の京急蒲田駅付近にある、第一京浜国道の通行を頻繁に遮断してしまう、羽田空港線の踏切です。
慢性的な交通渋滞や、箱根駅伝でも問題視されて久しいですが、待望の高架工事が進められています(箱根駅伝は毎年1月2日・3日に行われ、2日の往路の通過時間は午前中なのでいつも寝ており、工事状況を知りませんでした)。
この工事はかなり大がかりで、周囲に建造物が迫る場所で、路線の分岐を作り(品川、横浜方面双方から乗り入れる必要がある)、なおかつ、何本もの主要道と立体交差を実現させるため、工事区間が広範囲に及んでいます。
羽田空港線への分岐付近では、複線を確保するため高架部分を3階建てにしたので、駅も3階建てにする必要があります(下写真左奧が京急蒲田駅)。
計画を耳にしたとき「どういう構造になるだろう?」と、イメージできずにいました。
無理やり作っている様子にはちょっとあきれながらも、手のかかる整備事業でも必要性は高いので、早期実現を望む人が多いことと思います。
現在、京急蒲田駅も工事中なので仕方ないのですが、目的の電車が1階 or 2階のどのホームから出るのか、電車ごとに変わる状況には困ってしまいます。
時刻案内とホームへの案内看板を見て歩いても、乗り遅れてしまうと、次の電車のためにフロアを移動する必要が生じます。
早く、これだけ便利になった、という姿を見せてもらいたいものです。
上写真は、JR・東急線蒲田駅の駅ビルである、蒲田東急プラザ屋上にある小さくて有名な観覧車です。
ここは、ナムコのアミューズメント施設だそうで、いわれてみれば玄人肌の仕切りというのか、さびれた施設は無く、どこもそこそこ人が群れています。
裏返すと、それゆえどこの施設も同じ印象を受けるのかも知れません(みなとみらいの幼児用施設と変わらない気がします)。
まあ、関心が無ければどこも同じに見えてしまいますが……
何でも、ショッピングセンターが屋上の遊戯施設に力を入れるのは、「シャワー効果」を期待するからだそうです。
屋上で遊び、レストランで食事をした帰りに、買い物へと誘導する、というシナリオなんだそうです。
でも、ショッピングセンター等のレストランは値段が高い印象がありますし、近ごろはどこにもファストフード店が入っているので(それも1階)、その効果はあまり望めないかも知れません。
松屋浅草にあった、日本で初めての屋上遊園地が閉鎖されたのも、そんな理由なのだろうか?
少子化と言われると、営業努力や工夫では解決できない気もします……
池上本門寺(Map)
現在では、東急池上線の池上駅が最寄り駅とされますが、「池上線」の命名はお寺から取られたように思われます。
駅前からの参道には門前町の面影も残るので、以前はかなりのにぎわいだったようです。
幕末、江戸総攻撃へ攻め込む西郷隆盛率いる官軍(薩摩軍等)は、池上本門寺に陣を敷きます。
対する徳川家側の勝海舟は、江戸城無血開城を条件にこの地で西郷と談判し、江戸での戦闘が回避されます。
そこには、敵対関係となってしまった篤姫の、同郷人である西郷説得への祈りが込められていました。
同郷人の願いゆえか、敵方本陣の要人である姫からの嘆願に、西郷が刀を納めたところにドラマがあります。
その祈りこそが、現代日本の礎になっていると思えてなりません……
池上本門寺は日蓮宗の寺になります。
1282年病身の日蓮は、総本山である身延山(山梨県)を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう途中のこの地で亡くなります(遺灰を納めたとされるお堂もあります)。
そのため日蓮宗では、重要視される寺院のひとつになります。
またこの寺でよく見かけるのが、加藤清正(熊本藩初代藩主)の名前です。
秀吉側近の武将で「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本鎗」や朝鮮出兵における奮闘で名が知られます。
清正は日蓮宗への信仰心がとてもあつく、旗印にお題目(南無妙法蓮華経)を用いたことなどから、法華教(日蓮宗の根本教義)の守護神と位置付けられたそうです。
右写真奧は、清正側室の墓石。
この寺は武勇に秀でた人物に手厚いのか、墓地内に力道山の墓があります。脇にある銅像の目にはガラス玉が埋め込まれてあり、ちょっと不気味な印象があります。
また、門からにらみきかせる仁王像のモデルは、アントニオ猪木なんだそうです(意図が理解できない)。
そこまでくると「闘うお寺」の印象も受けますが、主に勝負事や災難除けを祈る方が多いそうです。
勤め始めてからは、梅雨の湿度と気温に「あぢぃ」と思うだけで、花をめでるような季節感やゆとりが消失したこと、実感しています。
京都を歩いた時も勤めていましたが、季節の催しがめじろ押しの土地柄には、日常の暮らしにメリハリを与えてくれる工夫があったようです。
そんな反省によるあじさいの写真です。
御嶽山(おんたけさん)(Map)
池上線に御嶽山という駅があり、こんな町中に山があるわけもないと思いつつも、気になっていました。
駅近くの御嶽神社(おんたけじんじゃ:長野・岐阜県境の木曽御嶽山にある御嶽神社の支社)にちなんだ御嶽山前駅から、改名されたそうです。
古くからあった祠(ほこら)を、江戸時代の山岳信仰ブーム(富士山信仰等)に便乗して(?)、御嶽山で修行した一山行者(いっさんぎょうじゃ)が盛り立て(1831年)、御嶽山詣でのブームを巻き起こします(三度参拝すれば、木曽御嶽山へ行ったのと同じとされた)。
富士山信仰同様の、講社(信仰結社・団体)等による参拝が現在でも行われているそうです。
そんな人出から、富士山詣でにおける富士吉田のように、駅周辺は団体宿泊施設の宿場町として栄えたそうです。
本殿は江戸時代の建立で、江戸の豪商からの寄付もあり、周囲には大田区の指定文化財とされる彫刻がはめ込まれています(上写真)。
本殿の裏には、木曽御嶽山に見立てた土盛りがされ、石碑と共に右写真の金属製のかめのようなモノが、逆さに納められています。
ちょっとその理由までは見当たらなかったのですが、思うに、雨水がたまって困る、福を逃さぬように閉じこめる、などの理由があったのではないでしょうか。
駅前にあるため敷地は広くありませんが、神社名の彫られた石碑は堂々としており、現在でも胸を張ったたたずまいの印象があります。
御嶽山駅は、半分新幹線の線路上に作られています。
新幹線保守の立場からすれば、高速走行するので、できるだけ陸橋等を除いた構造物は作らせたくない方針と思われますが、都内の住宅密集地ということもあり、認めざるを得なかったのかも知れません。
ゴミを投げるやからもいそうですが、いまどきは防犯カメラで監視されていそうです。
線路の整備状況にもよりますが、新幹線より併走する横須賀線(湘南新宿ライナー)の騒音の方が、やかましい印象がありました。
でも近隣住民には、音よりも振動が気になるのかも知れません。
右写真の、新幹線の上を交差する池上線の赤い線が見えるでしょうか? 電車を待って撮ったんですが……
洗足池(Map)
付近一帯の「せんぞく」の表記には、「洗足」や「千束」がありますが、平安時代の文献には「千束」とあるそうなので、由来は後者のようです。
しかし、隣接しているにもかかわらず目黒区は「洗足」、大田区は「千束」と表記する方針を貫きますが、洗足池は大田区にあってもこの表記です。
「洗足:汚れた足を洗うこと」と「千束:多くのたば」を、関連させたり、対立させる伝説や歴史があったのかも知れません。
流入する川はありませんが、付近一帯には大小の湧水が多くあり、用水路等を通じて集まり池となったそうです。
上述の勝海舟は、池上本門寺へ向かう途中にこの池のほとりで休息したそうで、それが縁で勝はこの地に居を構え、後年、夫妻の墓も池のほとりに建てられます(花が供えられてました)。
また、西郷が勝の家を訪ねた縁から、勝夫妻の墓の隣に西郷の碑が並びます(当時の東京府南葛飾郡から移設)。
かつてにらみ合った敵同士も、和解の後にはひざを交える仲となる「潔さ」に、彼らこそ「ラストサムライ」(特に西郷の心意気に対して)ではないか、との印象を持っています。
NHK大河ドラマにおける勝海舟のイメージとして、2008年『篤姫』の北大路欣也には風格が感じられましたが、2010年『龍馬伝』の武田鉄矢は、どうもホラ吹きオヤジのように見えてしまいます……
【東京都】
蒲田(Map)
ここは京浜急行の京急蒲田駅付近にある、第一京浜国道の通行を頻繁に遮断してしまう、羽田空港線の踏切です。
慢性的な交通渋滞や、箱根駅伝でも問題視されて久しいですが、待望の高架工事が進められています(箱根駅伝は毎年1月2日・3日に行われ、2日の往路の通過時間は午前中なのでいつも寝ており、工事状況を知りませんでした)。
この工事はかなり大がかりで、周囲に建造物が迫る場所で、路線の分岐を作り(品川、横浜方面双方から乗り入れる必要がある)、なおかつ、何本もの主要道と立体交差を実現させるため、工事区間が広範囲に及んでいます。
羽田空港線への分岐付近では、複線を確保するため高架部分を3階建てにしたので、駅も3階建てにする必要があります(下写真左奧が京急蒲田駅)。
計画を耳にしたとき「どういう構造になるだろう?」と、イメージできずにいました。
無理やり作っている様子にはちょっとあきれながらも、手のかかる整備事業でも必要性は高いので、早期実現を望む人が多いことと思います。
現在、京急蒲田駅も工事中なので仕方ないのですが、目的の電車が1階 or 2階のどのホームから出るのか、電車ごとに変わる状況には困ってしまいます。
時刻案内とホームへの案内看板を見て歩いても、乗り遅れてしまうと、次の電車のためにフロアを移動する必要が生じます。
早く、これだけ便利になった、という姿を見せてもらいたいものです。
上写真は、JR・東急線蒲田駅の駅ビルである、蒲田東急プラザ屋上にある小さくて有名な観覧車です。
ここは、ナムコのアミューズメント施設だそうで、いわれてみれば玄人肌の仕切りというのか、さびれた施設は無く、どこもそこそこ人が群れています。
裏返すと、それゆえどこの施設も同じ印象を受けるのかも知れません(みなとみらいの幼児用施設と変わらない気がします)。
まあ、関心が無ければどこも同じに見えてしまいますが……
何でも、ショッピングセンターが屋上の遊戯施設に力を入れるのは、「シャワー効果」を期待するからだそうです。
屋上で遊び、レストランで食事をした帰りに、買い物へと誘導する、というシナリオなんだそうです。
でも、ショッピングセンター等のレストランは値段が高い印象がありますし、近ごろはどこにもファストフード店が入っているので(それも1階)、その効果はあまり望めないかも知れません。
松屋浅草にあった、日本で初めての屋上遊園地が閉鎖されたのも、そんな理由なのだろうか?
少子化と言われると、営業努力や工夫では解決できない気もします……
池上本門寺(Map)
現在では、東急池上線の池上駅が最寄り駅とされますが、「池上線」の命名はお寺から取られたように思われます。
駅前からの参道には門前町の面影も残るので、以前はかなりのにぎわいだったようです。
幕末、江戸総攻撃へ攻め込む西郷隆盛率いる官軍(薩摩軍等)は、池上本門寺に陣を敷きます。
対する徳川家側の勝海舟は、江戸城無血開城を条件にこの地で西郷と談判し、江戸での戦闘が回避されます。
そこには、敵対関係となってしまった篤姫の、同郷人である西郷説得への祈りが込められていました。
同郷人の願いゆえか、敵方本陣の要人である姫からの嘆願に、西郷が刀を納めたところにドラマがあります。
その祈りこそが、現代日本の礎になっていると思えてなりません……
池上本門寺は日蓮宗の寺になります。
1282年病身の日蓮は、総本山である身延山(山梨県)を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう途中のこの地で亡くなります(遺灰を納めたとされるお堂もあります)。
そのため日蓮宗では、重要視される寺院のひとつになります。
またこの寺でよく見かけるのが、加藤清正(熊本藩初代藩主)の名前です。
秀吉側近の武将で「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本鎗」や朝鮮出兵における奮闘で名が知られます。
清正は日蓮宗への信仰心がとてもあつく、旗印にお題目(南無妙法蓮華経)を用いたことなどから、法華教(日蓮宗の根本教義)の守護神と位置付けられたそうです。
右写真奧は、清正側室の墓石。
この寺は武勇に秀でた人物に手厚いのか、墓地内に力道山の墓があります。脇にある銅像の目にはガラス玉が埋め込まれてあり、ちょっと不気味な印象があります。
また、門からにらみきかせる仁王像のモデルは、アントニオ猪木なんだそうです(意図が理解できない)。
そこまでくると「闘うお寺」の印象も受けますが、主に勝負事や災難除けを祈る方が多いそうです。
勤め始めてからは、梅雨の湿度と気温に「あぢぃ」と思うだけで、花をめでるような季節感やゆとりが消失したこと、実感しています。
京都を歩いた時も勤めていましたが、季節の催しがめじろ押しの土地柄には、日常の暮らしにメリハリを与えてくれる工夫があったようです。
そんな反省によるあじさいの写真です。
御嶽山(おんたけさん)(Map)
池上線に御嶽山という駅があり、こんな町中に山があるわけもないと思いつつも、気になっていました。
駅近くの御嶽神社(おんたけじんじゃ:長野・岐阜県境の木曽御嶽山にある御嶽神社の支社)にちなんだ御嶽山前駅から、改名されたそうです。
古くからあった祠(ほこら)を、江戸時代の山岳信仰ブーム(富士山信仰等)に便乗して(?)、御嶽山で修行した一山行者(いっさんぎょうじゃ)が盛り立て(1831年)、御嶽山詣でのブームを巻き起こします(三度参拝すれば、木曽御嶽山へ行ったのと同じとされた)。
富士山信仰同様の、講社(信仰結社・団体)等による参拝が現在でも行われているそうです。
そんな人出から、富士山詣でにおける富士吉田のように、駅周辺は団体宿泊施設の宿場町として栄えたそうです。
本殿は江戸時代の建立で、江戸の豪商からの寄付もあり、周囲には大田区の指定文化財とされる彫刻がはめ込まれています(上写真)。
本殿の裏には、木曽御嶽山に見立てた土盛りがされ、石碑と共に右写真の金属製のかめのようなモノが、逆さに納められています。
ちょっとその理由までは見当たらなかったのですが、思うに、雨水がたまって困る、福を逃さぬように閉じこめる、などの理由があったのではないでしょうか。
駅前にあるため敷地は広くありませんが、神社名の彫られた石碑は堂々としており、現在でも胸を張ったたたずまいの印象があります。
御嶽山駅は、半分新幹線の線路上に作られています。
新幹線保守の立場からすれば、高速走行するので、できるだけ陸橋等を除いた構造物は作らせたくない方針と思われますが、都内の住宅密集地ということもあり、認めざるを得なかったのかも知れません。
ゴミを投げるやからもいそうですが、いまどきは防犯カメラで監視されていそうです。
線路の整備状況にもよりますが、新幹線より併走する横須賀線(湘南新宿ライナー)の騒音の方が、やかましい印象がありました。
でも近隣住民には、音よりも振動が気になるのかも知れません。
右写真の、新幹線の上を交差する池上線の赤い線が見えるでしょうか? 電車を待って撮ったんですが……
洗足池(Map)
付近一帯の「せんぞく」の表記には、「洗足」や「千束」がありますが、平安時代の文献には「千束」とあるそうなので、由来は後者のようです。
しかし、隣接しているにもかかわらず目黒区は「洗足」、大田区は「千束」と表記する方針を貫きますが、洗足池は大田区にあってもこの表記です。
「洗足:汚れた足を洗うこと」と「千束:多くのたば」を、関連させたり、対立させる伝説や歴史があったのかも知れません。
流入する川はありませんが、付近一帯には大小の湧水が多くあり、用水路等を通じて集まり池となったそうです。
上述の勝海舟は、池上本門寺へ向かう途中にこの池のほとりで休息したそうで、それが縁で勝はこの地に居を構え、後年、夫妻の墓も池のほとりに建てられます(花が供えられてました)。
また、西郷が勝の家を訪ねた縁から、勝夫妻の墓の隣に西郷の碑が並びます(当時の東京府南葛飾郡から移設)。
かつてにらみ合った敵同士も、和解の後にはひざを交える仲となる「潔さ」に、彼らこそ「ラストサムライ」(特に西郷の心意気に対して)ではないか、との印象を持っています。
NHK大河ドラマにおける勝海舟のイメージとして、2008年『篤姫』の北大路欣也には風格が感じられましたが、2010年『龍馬伝』の武田鉄矢は、どうもホラ吹きオヤジのように見えてしまいます……
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