2011.12.17
【東京都】
海の近くに越したのだから最初は海側でしょ、と思いましたが、対抗馬の丘陵地には赤穂浪士たちが眠る泉岳寺があり、時節の話題(義士祭:12月14日)もあるので、まずはご挨拶とお参りに丘陵地を歩きました。
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本芝(ほんしば)公園(Map)
ここは「本芝公園」とされるJR線路沿いにある公園です。
この付近には昭和39年(1964年)頃まで船揚場があり、魚市場は雑魚場(ざこば)と呼ばれますが、昭和45年(1970年)に埋め立てられました(古典落語「芝浜」の舞台)。
江戸時代までの海岸線は、ちょうどJR線路付近のようなので現在のすみかは波打ち際に位置することになります。
江戸時代この付近に薩摩藩邸があり、幕末期の反幕府軍江戸城総攻撃の指揮官である西郷隆盛と、篤姫らに江戸を戦禍から守ることを託され幕府側の使者となった勝海舟が会談した地とされ、碑が建てられています(西郷吉之助書とあります)。
慶應仲通り商店街(Map)
生活に必要なクリーニング屋と床屋を探すべく、国道15号線の反対側にある「慶應仲通り商店街」の路地に初めて足を踏み入れます。
そこには「慶應の連中はここで飲んでいるのか」という活動アジトが軒を連ね、飲食店街が路地の奧まで「カビの根っこ」のように広がっています。
通りを(結構路地奧まで)歩いただけですが「もう飲めないよ!」と想像で満足感を与えてくれる、「誘われたら断れない♥」(ハートマークは、TV「ブラタモリ」の字幕で使い方を理解しました)一帯の存在を知ることで、駅を中心とした田町・三田の大まかなイメージが把握でき、自分なりの「町の地図」のラフができたような印象があります。
しかし、あんなとこで飲んじゃうと「歩いて帰れる」と、キリが無くなりそうなので、メシくらいにしようと思っています……
で、肝心の床屋はカット千円店が一軒ありましたが、店内は順番待ちの人でムンムンしているので、これからすいてそうな時間帯を探します。
その先でクリーニング店を見かけ料金表を見ていたら、店のおばさんににらまれちょっと考えちゃいます。
クリーニングの依頼って信頼関係ですから、本来は個人が自営の店にお願いしたいのですが、三田周辺では無理のようです(ここはチェーン店)。
常々自営業の方々は日々真剣勝負であると感じますが、中でも「洗濯屋の亭主」には生真面目な方が多いように思いますし、そうでないと気に入った服をお願いできない「信頼関係」が重要な職業と思います。
武蔵小杉に暮らした時にお世話になったクリーニング屋の主人は、客の名前は覚えてなくても、特徴的な服のことは全部覚えていて見た瞬間に「あぁこれは、○○だから二週間かかるけど○○○円」と即答されれば「おまかせします」と、「あ」「うん」の呼吸でお願いできたものです。
ですが、大阪から新丸子に戻り店の前を通ると、店は閉められていました。個人同士の信頼関係を探し・確立することは、出会いの楽しみがあるものの結構大変な労力だったりしますし、失う時は突然訪れることが多い気がします……
三田寺町(Map)
慶應義塾に沿って折れ曲がる桜田通りは、かなり前ですが準大手の印刷会社へ集金のお使いで何度か歩く機会があるも、当時は周辺に寺が多いことなど感心すら持っていません。
三田寺町とされる地域に集まるお寺は皆小規模ですが、宗派の多様さ(浄土宗・真言宗・曹洞宗…)には宗派総覧的おもむきがあります。
それは、江戸城拡張工事のため土地を没収された寺院の移転先として、この地が指定されたことによります。
旧東海道は海沿いを通るので人の往来には近くても、移転先は丘陵地の裏側であり寺院同士が近接していたため、布教活動には苦労したのではあるまいか。
ですが、地域にしっかと根ざした活動の成果として、現在では地域の住民に不可欠な存在(日常の一部)であるように見受けられます。(上:願海寺、右:常林寺)
上写真は王鳳寺の「おしろい地蔵」で、橋の下に放置されていた像に白粉を塗って祭ると和尚の顔にあったあざが消えたことから、病や傷の部分に白粉を塗り祈願する信仰が広まります。
地蔵ばかりでなくお堂の床にもパウダー(シッカロールって今もいいます?)が飛散するので、床の滑りもとてもなめらかになっているので訪れる際はご注意下さい。
魚籃坂(ぎょらんざか)の名は耳にしていましたが、その由来は坂の途中にある「魚籃寺」にあるとは知りませんでした。
ここも境内は狭く、駐車スペースは門をくぐった本堂前にしかないので、お参りの檀家さんは迷わず進入してきますが、空きが無かったらどうするのだろう? という境内です。
当然墓地も狭いのですが、礼儀はキチッとしているようで、本堂〜先祖の墓をお参りし、最後にこの塩が積まれた塩地蔵にお参りをする姿を目にしました。忙しい方のようで、一連のお参りもアッという間の早業です。でもわざわざ墓参に足を運んだのですから、気持ちは届いたことでしょう……
塩地蔵は、江戸時代に近くの海で首のない像が発見され、この寺で頭部を復元したことから身代わり地蔵の信仰対象とされ、願いが叶うと塩を奉納する習慣が生まれます。
塩が袋のまま奉納されることも驚きですが、単身者は塩を袋で購入しないため余計に珍しく見えたのかも知れません。
実家では袋買いだったので湿気ると火であぶったようですが、他の料理のにおいが紛れ込んでいた記憶もあります……
魚籃とは魚を入れるカゴのことで、中国唐の時代に「仏が美しい乙女として現れ、魚を売りながら仏法を広めた」という故事によります。
故事を起源とする「魚籃観世音菩薩:ぎょらんかんぜおんぼさつ」が本尊とは風変わりにも感じられますが、本を正せば「イワシの頭も信心から」というご本尊も数多く存在するように思えるので(否定的意見ではなく、信仰心こそが大切の意)、継続からは力が生まれることの証明と理解しています。
泉岳寺(Map)
常に線香を絶やさないお寺は多いでしょうが、ここは「いつ来ても煙たい墓」ランキングの上位に入るのではあるまいか?
人形浄瑠璃や歌舞伎演目の通称から広く認知される「忠臣蔵」の名称ですが、江戸中期の赤穂浪士による吉良上野介襲撃事件は「元禄赤穂事件:1703年」とされ、事件後に切腹とされた四十七士の墓がこの寺に並びます。
これはNHK「歴史秘話ヒストリア」からですが、当時の将軍綱吉(生類憐みの令で知られる)は儒教の教えを尊重していたため、武士の「忠信」に理解はあるも殺生を禁じたことから、彼らの処分に思い悩んだとされます。
当時は「武士が本懐を遂げたなら、切腹がふさわしい」(忠義を果たした武士は、ありがたく受け入れる)との認識が通用する時代ではあっても、赤穂浪士たちに肩入れする庶民が多い世相から「忠臣蔵」というドラマが生まれることとなります。
赤穂浪士が吉良邸討ち入りを決行した12月14日に行われる「義士祭」には、現在でも3万人を越える参拝者が訪れるそうです。
地元兵庫県赤穂市であれば、郷土のヒーローをたたえるお祭りがあるのも当然ですが、ゆかりのない人たちが押し寄せてくる理由とは、「義に篤い(あつい)」からなのだろうか?
それは、現代には「義務:社会的規範」はあっても「義:個人的命題」を見いだせない現実への不安の一種ではあるまいか?
当時の浪士たちは特殊な状況下とはいえ、その場でカリスマ的求心力を持ち合わせた大石内蔵助と行動を共にすることから、生きた証し(達成感)を得ようとした、と言えるかも知れません。
どのような状況下でも、広く共感を集め求心力を持つ存在がカリスマとされるわけですが、時を経た現在でも共感を集め続ける人物としては希有(けう:まれに見る)な存在と言えます。
四十七士の墓を煙で包み込んでしまう線香は、ここで火を付けて販売されます。
列ができれば、炎が上がってもお構いなくうちわをあおぎ続けねばなりません。
その手首の動きはウナギ屋の比ではなく、交代しないと手首がおかしくなりそうですし、また線香のにおいは風呂に入っても取れない気がします……
2011/12/26
2011/12/19
いまも昭和な空気漂う──田町駅前アパート
2011.12.11
【東京都】
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引越し先は一般的に「新居」とされますが、今回その表現は当てはまらない様子をお伝えします。
ここは1966年(昭和41年)に建てられ、当時の日本住宅公団(現UR都市機構)が管理し、現在も入居募集が継続される現役の集合住宅になります。
以前暮らしていた高島平団地(板橋区)の入居開始は1972年(昭和47年)ですから、それよりも古い建物であることは内覧の際に理解できました。
ここは現代の「同潤会アパート」(大正時代末期〜昭和時代初期の関東大震災復興機に建てられた鉄筋建築物で、東京・横浜に建設された)的な存在では? の印象を受けます。
旧公団の賃貸に引越そうと考え候補をいくつか問い合わせていたところ、ここに空きがあると聞き、粘ってもいつになるか分からないし、家賃が手頃な物件はどこも歴史ある建物ですから、立地は一番便利そうなのですぐ決めちゃいました(こだわりは何もありませんから)。
新築の部屋は確かに便利ですが、古くても楽しみ方はあるというスタンスで暮らそうと思っています。
また新幹線からのスタートでスミマセン(まだ珍しいんです……)。
ここは山手線に面したギリギリ「山手線の内側」に位置します。これまでそんな場所には暮らしたくないと思っていたはずが、現在感じる不便は床屋、クリーニング屋等の店探しだけで、住環境に対して不満は感じていません(どこでも順応できるというか、鈍感になっただけでしょう……)。
右写真は屋上からの絵なので、線路や駅との距離感が分かると思います。
そこで寝起きするも、駅の発車メロディは聞こえますが、新幹線の存在は気にならない理由が写真から見て取れます(線路は9本ある)。
新幹線車内の会話にも「新横浜まではゆっくり走ってる」などと耳に入るように、都内では始・終点の都合もあり、山手線に追い抜かれるような徐行運転をする場合もあります。
加えて田町付近にこんなに大きなカーブがあったとは知らず、就寝時(主に朝)もまるで新幹線の音を意識しない理由をこの光景から知りました。
線路とは反対側には国道15号線(旧東海道)が通っているので、相当やかましいだろうと覚悟していましたが、ちょうど中間付近の部屋なので道路からの騒音も特段意識することもなく、ホッとしています(これが好感度アップにつながったようです)。
ここは正月の箱根駅伝コースとなるので、一瞬「これは楽しみ!」と思うも、正月は実家に帰るのですれ違いとなりそうです。
近ごろの共同住宅では、屋上を開放するところは少ないようですが、ここには幼児向けの施設(かくれんぼができる程度)や、フジ棚風の憩いの場(屋根はない)があったりします。
前回の月食写真が撮れたように、夜間も利用可能のようです(高島平団地では、花火大会の時だけ屋上を開放していました)。
入居当初から、屋上を目指すエレベーターが多い様子に「何があるんだろう?」と楽しみにしていましたが……(↓)
この建物は長方形で「日の字」状の長辺沿いに部屋が並ぶので、ほとんどは東もしくは西向き窓になります(中央部は吹き抜け)。両側はビルに挟まれるため屋上でも昼前後しか日は当たりませんが、それでも風通しのいい場所で干したいと、洗濯物を抱えて屋上に上がるようです。
近ごろの映画やTVの屋上シーンは、オフィス、学校、病院等に限られていて、生活感を感じさせる絵は登場しません。
そんな珍しさからか、この下町の長屋的な生活感丸出しの光景を目にすると「昭和が生きている!」と思わず声を上げてしまいます。
洗濯物の向こうから(若かりし)倍賞千恵子さんの「あら、今日は早かったのね」との声が聞こえてきそうですし、近ごろでは薬師丸ひろ子の「どうしたらこんなに汚せるの、一平!」ってところか……
共用の物干しを利用するには利用者にモラルが求められますが、これだけ多くの洗濯物が風になびく様子を見れば、「物干しコミュニティ」は問題なく運用されているようです。
都会の庶民生活の様子を身近で目にできたことから、都心の下町に対する関心の扉が開かれた思いがしました。
上写真は階段の踊り場のスペースですが、共用の場所にテーブル、イス、本棚等々が並べられ、まるでサロンのようなフロアがあります。
この手の共用スペース占有に過敏に反応するのは消防署ですが、ご覧のように避難経路は十分に確保されているようなので、おとがめはないようです。
これからの季節は寒いと思いますが、暑い時期には窓を開ければ風通しもよさそうなので、エアコンを使わない避暑地になるのかも知れません。
そんな様子からも「半老人ホーム的アパート」と思っていましたが(高島平など古い団地には老人だけが残り続けます)、交通の便がいいためか、若い人たち(乳児を抱えた若い夫婦も見かける)が多いことに驚きました。
年を取ったのは建物だけでなく、建設当時には「昭和モダン」とされたのか、現代では採用されないような渋い赤と緑の色づかいが、玄関の扉、エレベーターホール天井、共用区域の配管部分等に現在も「アクセントカラー」として尊重されています。
汚れが目立たない色選択かも知れませんし嫌いではないのですが、2色使いでも「赤は単なるさび止めだった?」というオチがありそうな気もします。
高島平では4色使いだった気がするも、ペンキを上塗りして隠そうとする姿勢は昭和的というか公団的なのかもしれません。
右写真は各階にある駐輪場で、建設当時の自転車は「財産」ですから屋根付きの駐輪場が求められるも、駅前の限られた土地なのでやむなく屋内に立体駐輪場を設けたように見えます。
しかし、以前暮らした高島平団地には1階に屋根付きの駐輪場があるも、わざわざエレベーターで運ぶ人を見かけましたから、物を大事にするというより盗難防止が主目的なのかも知れません……
ここは管理人室のフロアにある共同シャワー室です。いまどき? と思いますが、このアパートには浴室の無い部屋もあるため現役で利用されているようです(冬場は寒そう……)。
付近に銭湯は無いでしょうし「いまどき風呂のない部屋?」と思うも、工場で働いていれば職場の風呂に入ったり、スポーツクラブでも入れますし、風呂嫌い? もいるかも知れません(住人には海外出身者も見かけます)。
現在の「UR都市機構」では社宅的な利用も促進しているので、短期労働者、出張の宿泊施設用等として契約しているのかも知れません。
その様子をのぞき見たい気もしますが、同じ建物に住む立場なのでこれ以上のせんさくはやめておきます。
建物1階の国道15号線に面する部分は屋根付きの通路になっていて、地下鉄(都営浅草線、三田線)の出入口があります。
それは「傘を持たずに地下鉄の乗降ができる」プラス、地下道を歩けばJR駅まで傘無しで行けるということです(実際JR駅に向かう際は、30m程度ダッシュすると思います)。
これはきっと当時の住宅公団が、駅隣接住宅のモデルケースとして便利さをアピールするため、東京都と交渉した産物のような気がします。
1階には「りそな銀行」と「ファミリーマート」があり、ファミリーマート前にはこの建物らしく? テーブルとベンチが並べられ、(基本的に)店で買った物が飲食可能な「憩いの場」とされています。
利用者には便利な設備で、昼間は仕事の準備や一服(灰皿もある)していますし、夜にはミニ宴会する連中もいる様子から(店内にトイレもあるので万全)、この町の飾りっけの無さが見えてくるような気がします。
都内でも大使館等の多い港区には「一等地」的なイメージがありますが、三田・田町周辺に限れば「山手線」のイメージよりも、「京浜東北線」の響きから想起される「労働者の町」「下町」に近い場所柄との印象を受けます。
そんな下町感が、映画『三丁目の夕日』の舞台とされた地域の雰囲気に似ている気がするので、「映画のにおい」を身近に感じているのかも知れません……
【東京都】
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引越し先は一般的に「新居」とされますが、今回その表現は当てはまらない様子をお伝えします。
ここは1966年(昭和41年)に建てられ、当時の日本住宅公団(現UR都市機構)が管理し、現在も入居募集が継続される現役の集合住宅になります。
以前暮らしていた高島平団地(板橋区)の入居開始は1972年(昭和47年)ですから、それよりも古い建物であることは内覧の際に理解できました。
ここは現代の「同潤会アパート」(大正時代末期〜昭和時代初期の関東大震災復興機に建てられた鉄筋建築物で、東京・横浜に建設された)的な存在では? の印象を受けます。
旧公団の賃貸に引越そうと考え候補をいくつか問い合わせていたところ、ここに空きがあると聞き、粘ってもいつになるか分からないし、家賃が手頃な物件はどこも歴史ある建物ですから、立地は一番便利そうなのですぐ決めちゃいました(こだわりは何もありませんから)。
新築の部屋は確かに便利ですが、古くても楽しみ方はあるというスタンスで暮らそうと思っています。
また新幹線からのスタートでスミマセン(まだ珍しいんです……)。
ここは山手線に面したギリギリ「山手線の内側」に位置します。これまでそんな場所には暮らしたくないと思っていたはずが、現在感じる不便は床屋、クリーニング屋等の店探しだけで、住環境に対して不満は感じていません(どこでも順応できるというか、鈍感になっただけでしょう……)。
右写真は屋上からの絵なので、線路や駅との距離感が分かると思います。
そこで寝起きするも、駅の発車メロディは聞こえますが、新幹線の存在は気にならない理由が写真から見て取れます(線路は9本ある)。
新幹線車内の会話にも「新横浜まではゆっくり走ってる」などと耳に入るように、都内では始・終点の都合もあり、山手線に追い抜かれるような徐行運転をする場合もあります。
加えて田町付近にこんなに大きなカーブがあったとは知らず、就寝時(主に朝)もまるで新幹線の音を意識しない理由をこの光景から知りました。
線路とは反対側には国道15号線(旧東海道)が通っているので、相当やかましいだろうと覚悟していましたが、ちょうど中間付近の部屋なので道路からの騒音も特段意識することもなく、ホッとしています(これが好感度アップにつながったようです)。
ここは正月の箱根駅伝コースとなるので、一瞬「これは楽しみ!」と思うも、正月は実家に帰るのですれ違いとなりそうです。
近ごろの共同住宅では、屋上を開放するところは少ないようですが、ここには幼児向けの施設(かくれんぼができる程度)や、フジ棚風の憩いの場(屋根はない)があったりします。
前回の月食写真が撮れたように、夜間も利用可能のようです(高島平団地では、花火大会の時だけ屋上を開放していました)。
入居当初から、屋上を目指すエレベーターが多い様子に「何があるんだろう?」と楽しみにしていましたが……(↓)
この建物は長方形で「日の字」状の長辺沿いに部屋が並ぶので、ほとんどは東もしくは西向き窓になります(中央部は吹き抜け)。両側はビルに挟まれるため屋上でも昼前後しか日は当たりませんが、それでも風通しのいい場所で干したいと、洗濯物を抱えて屋上に上がるようです。
近ごろの映画やTVの屋上シーンは、オフィス、学校、病院等に限られていて、生活感を感じさせる絵は登場しません。
そんな珍しさからか、この下町の長屋的な生活感丸出しの光景を目にすると「昭和が生きている!」と思わず声を上げてしまいます。
洗濯物の向こうから(若かりし)倍賞千恵子さんの「あら、今日は早かったのね」との声が聞こえてきそうですし、近ごろでは薬師丸ひろ子の「どうしたらこんなに汚せるの、一平!」ってところか……
共用の物干しを利用するには利用者にモラルが求められますが、これだけ多くの洗濯物が風になびく様子を見れば、「物干しコミュニティ」は問題なく運用されているようです。
都会の庶民生活の様子を身近で目にできたことから、都心の下町に対する関心の扉が開かれた思いがしました。
上写真は階段の踊り場のスペースですが、共用の場所にテーブル、イス、本棚等々が並べられ、まるでサロンのようなフロアがあります。
この手の共用スペース占有に過敏に反応するのは消防署ですが、ご覧のように避難経路は十分に確保されているようなので、おとがめはないようです。
これからの季節は寒いと思いますが、暑い時期には窓を開ければ風通しもよさそうなので、エアコンを使わない避暑地になるのかも知れません。
そんな様子からも「半老人ホーム的アパート」と思っていましたが(高島平など古い団地には老人だけが残り続けます)、交通の便がいいためか、若い人たち(乳児を抱えた若い夫婦も見かける)が多いことに驚きました。
年を取ったのは建物だけでなく、建設当時には「昭和モダン」とされたのか、現代では採用されないような渋い赤と緑の色づかいが、玄関の扉、エレベーターホール天井、共用区域の配管部分等に現在も「アクセントカラー」として尊重されています。
汚れが目立たない色選択かも知れませんし嫌いではないのですが、2色使いでも「赤は単なるさび止めだった?」というオチがありそうな気もします。
高島平では4色使いだった気がするも、ペンキを上塗りして隠そうとする姿勢は昭和的というか公団的なのかもしれません。
右写真は各階にある駐輪場で、建設当時の自転車は「財産」ですから屋根付きの駐輪場が求められるも、駅前の限られた土地なのでやむなく屋内に立体駐輪場を設けたように見えます。
しかし、以前暮らした高島平団地には1階に屋根付きの駐輪場があるも、わざわざエレベーターで運ぶ人を見かけましたから、物を大事にするというより盗難防止が主目的なのかも知れません……
ここは管理人室のフロアにある共同シャワー室です。いまどき? と思いますが、このアパートには浴室の無い部屋もあるため現役で利用されているようです(冬場は寒そう……)。
付近に銭湯は無いでしょうし「いまどき風呂のない部屋?」と思うも、工場で働いていれば職場の風呂に入ったり、スポーツクラブでも入れますし、風呂嫌い? もいるかも知れません(住人には海外出身者も見かけます)。
現在の「UR都市機構」では社宅的な利用も促進しているので、短期労働者、出張の宿泊施設用等として契約しているのかも知れません。
その様子をのぞき見たい気もしますが、同じ建物に住む立場なのでこれ以上のせんさくはやめておきます。
建物1階の国道15号線に面する部分は屋根付きの通路になっていて、地下鉄(都営浅草線、三田線)の出入口があります。
それは「傘を持たずに地下鉄の乗降ができる」プラス、地下道を歩けばJR駅まで傘無しで行けるということです(実際JR駅に向かう際は、30m程度ダッシュすると思います)。
これはきっと当時の住宅公団が、駅隣接住宅のモデルケースとして便利さをアピールするため、東京都と交渉した産物のような気がします。
1階には「りそな銀行」と「ファミリーマート」があり、ファミリーマート前にはこの建物らしく? テーブルとベンチが並べられ、(基本的に)店で買った物が飲食可能な「憩いの場」とされています。
利用者には便利な設備で、昼間は仕事の準備や一服(灰皿もある)していますし、夜にはミニ宴会する連中もいる様子から(店内にトイレもあるので万全)、この町の飾りっけの無さが見えてくるような気がします。
都内でも大使館等の多い港区には「一等地」的なイメージがありますが、三田・田町周辺に限れば「山手線」のイメージよりも、「京浜東北線」の響きから想起される「労働者の町」「下町」に近い場所柄との印象を受けます。
そんな下町感が、映画『三丁目の夕日』の舞台とされた地域の雰囲気に似ている気がするので、「映画のにおい」を身近に感じているのかも知れません……
2011/12/12
今度のうちはどこ?
2011.12.4
引越し日12月3日(土)の朝は、前夜からの冷たい雨が降っていましたが、引越しに雨天順延はありませんから決行あるのみです。
引越し業者さんは仕事ですから文句も言わず、「重い物を運ぶコツ」ってやつでテキパキと荷物を運び出していきます(海洋測量をやっていた時分に重い機材をよく運びましたが、運搬より設置等の中途半端な姿勢で力を入れる際に、腰を痛めたことを思い出します。いずれにしても、もう無理)。
荷物は少ないので担当者は2人で、役割としてはトラックに積み込む側が先輩、部屋から運び出す側が後輩担当のようです。
運び出す側の若い兄ちゃんは、小柄ながらもフットワーク良く重い荷物を運んでくれますが、経験は浅いようで書類に関するやり取りになると「先ほど忘れましたが……」を連発してきます。
元ヤンキーっぽくも見える彼ですが、運び出しの際「寒いですねぇ」「荷造り上手で助かります」等々、気をつかうような声を盛んに掛けてきます。
きっとマニュアルにあるのでしょう、彼にとっては「大変な努力」かも知れませんし、その懸命さから好感を受けますが、先輩の態度には「もっと、ちゃんとやれよ!」の心情が見て取れます。
引越業者は数社しか知りませんが、いまどき業界では「気づかい」による好感度アップを目指しているように感じられます。
転居先に運び込まれた荷をほどくと、防水用ビニールのしわにたまった水で室内が水浸しになってしまうも、ぞうきん類が出てこない! と、放っておくしかない状況からのスタートです……
さて、今回わたしはどこに引越したのでしょうか?
下の写真からお考え下さい「アタック チャ〜ンス!」(?)
●新幹線で引越しました(?)
これまでの武蔵小杉・新丸子付近にも新幹線は通っていましたが、こんな隣接地に住むとは思っていませんでした。
新幹線の近くには住みたくない(騒音・振動や電波障害等)と思っていたものの、新丸子で中原街道の騒音に慣らされたおかげで、さほど気になりません(都会慣れなのか、鈍感になったのか?)。
武蔵小杉同様、最寄り駅に新幹線の駅はありませんが、交通の便はいい場所でJR2路線、地下鉄2路線の駅があります。
上写真は走行中なのでクリアではありませんが、フロントボディに周囲の景色が写り込んでいます。おそらく、空気抵抗を極力抑える取り組みから「鏡面」のような車体が生まれたのでしょう。「ピッカピカにしなければ」と、取り組んだ姿勢に敬意を抱きます。
●右側は確かに三丁目です……
通りの先に東京タワーが見える場所柄から、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の鈴木オートからもこんな光景が見えたのか? とも。
そんな場所へのあこがれは無いにしても、日常的にタワーを見上げる地域に暮らしてみると、「地域のシンボル」として住民たちには欠かせない存在であることが理解できます。
時代は違いますが、鈴木オートのオヤジがタワーを見上げて感じたであろう、自らを鼓舞する心の動きのメカニズムまで、現代においても素直に受け継げるような印象があります。
普段眺めている六本木方面からは分かりませんが、この方向だとタワー塔頂部が少し傾いている様子が見て取れます。
3月11日の地震で傾いたそうで、その姿がよく分かる方向からは別の機会にレポートします。
●製品はひとつも使ってませんが……
写真では分かりませんが、完成当時はくびれの部分にある空洞は何? と思った大手電機メーカーの社屋です。
ビル建設にあたり、隣接する都営アパートの洗濯物が飛ばされないための配慮として、「風穴」(ウインドアベニュー)とされる大きな開口部が設置されました。
確かに付近は海からの風が吹く地域なので、それを通すための設計のようです(新橋のグレートウォールは海風を遮断してしまった)。
日本に「パーソナルコンピュータ」を普及させ、PC-98シリーズには以前仕事でもお世話になりました。
しかし戦略的にはビジネス指向なので、出版関連業種の弱小ユーザは視野に無く何もしてくれないため、その後はApple、Adobe等、米企業システムの日本向けカスタマイズに希望を託すことになります(日本語版Mac環境の整備には、かなり時間を要しました)。
そんな経緯からか、この会社には好感が持てぬまま現在に至ります(そういえば、横須賀線武蔵小杉駅はこの会社の工場に隣接しています)。
●紙幣の顔となる資質
近ごろ「一人勝ち」的人気の私学ですが、紙幣の顔となった創始者の銅像を「1万円札が多く手に入りますように」ではなく、一度拝見したいと思っていました。
昭和の時代に流通した聖徳太子の1万円紙幣には、太子の存在にも似た「神格化」されたイメージがありましたが、高度成長〜バブル崩壊を経験してわれを取り戻した庶民が日常使用する紙幣に、「学問のススメ」を説いた人物像を採用したことはとてもいい判断と受け止められます。
上写真は「ペンは剣よりも強し」の大学紋章(原典は19世紀イギリスの戯曲『リシュリュー』とされる)。
キャンパスは広くありませんが、歴史ある建造物には「思想」が込められているようなので、今度ゆっくりと見学させてもらいます。
日曜のため学生も少なく、自粛だ何だといい気になっている「ミスキャンパス」候補となりそうな方は目にできませんでした……
もうお分かりと思いますが、今回の引っ越し先は(家政婦の?)三田・田町になります。
しかしすみかとなる賃貸住宅は、映画で見た香港や台湾のアパートを想起するような古い建物なので、「まだそんなものが?」と思う設備があったりするようです。
次回はそんな「施設探検」をしてみます。
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●おまけ
2011.12.10
12月10日(土)に皆既月食がありました。上写真は皆既状態の様子です。
天文少年のころに見た皆既月食の「ボーッと赤い」姿が記憶に焼き付いているので、今回の姿にはとても明るい印象を受けました(それは、都心の明かりが月を明るくしたわけではありません……)。
皆既状態の色がどんな色になるのかは、大気の状態に左右されるため予測できないそうです。
周囲の星が流れているのは、200mmのレンズでも15秒シャッターを開くと、その間に地球の自転が記録されることによります(拡大しています)。
都心でも星が写ることに驚きましたが、それは目をこらして夜空を見つめる機会が無いだけ、と気付かされます。
ガキ時分に思っていた「こんな写真を撮りたかった」ことを実現したわけですが、この星が流れた写真を見た時、昔あこがれていた「赤道儀式望遠鏡」と自動追尾装置を手に入れないと望んでいた絵は撮れないことを、何十年かの後に思い知ることとなりました。
さてこの先、少年時代の夢を追い続けることができるのだろうか?
引越し日12月3日(土)の朝は、前夜からの冷たい雨が降っていましたが、引越しに雨天順延はありませんから決行あるのみです。
引越し業者さんは仕事ですから文句も言わず、「重い物を運ぶコツ」ってやつでテキパキと荷物を運び出していきます(海洋測量をやっていた時分に重い機材をよく運びましたが、運搬より設置等の中途半端な姿勢で力を入れる際に、腰を痛めたことを思い出します。いずれにしても、もう無理)。
荷物は少ないので担当者は2人で、役割としてはトラックに積み込む側が先輩、部屋から運び出す側が後輩担当のようです。
運び出す側の若い兄ちゃんは、小柄ながらもフットワーク良く重い荷物を運んでくれますが、経験は浅いようで書類に関するやり取りになると「先ほど忘れましたが……」を連発してきます。
元ヤンキーっぽくも見える彼ですが、運び出しの際「寒いですねぇ」「荷造り上手で助かります」等々、気をつかうような声を盛んに掛けてきます。
きっとマニュアルにあるのでしょう、彼にとっては「大変な努力」かも知れませんし、その懸命さから好感を受けますが、先輩の態度には「もっと、ちゃんとやれよ!」の心情が見て取れます。
引越業者は数社しか知りませんが、いまどき業界では「気づかい」による好感度アップを目指しているように感じられます。
転居先に運び込まれた荷をほどくと、防水用ビニールのしわにたまった水で室内が水浸しになってしまうも、ぞうきん類が出てこない! と、放っておくしかない状況からのスタートです……
さて、今回わたしはどこに引越したのでしょうか?
下の写真からお考え下さい「アタック チャ〜ンス!」(?)
●新幹線で引越しました(?)
これまでの武蔵小杉・新丸子付近にも新幹線は通っていましたが、こんな隣接地に住むとは思っていませんでした。
新幹線の近くには住みたくない(騒音・振動や電波障害等)と思っていたものの、新丸子で中原街道の騒音に慣らされたおかげで、さほど気になりません(都会慣れなのか、鈍感になったのか?)。
武蔵小杉同様、最寄り駅に新幹線の駅はありませんが、交通の便はいい場所でJR2路線、地下鉄2路線の駅があります。
上写真は走行中なのでクリアではありませんが、フロントボディに周囲の景色が写り込んでいます。おそらく、空気抵抗を極力抑える取り組みから「鏡面」のような車体が生まれたのでしょう。「ピッカピカにしなければ」と、取り組んだ姿勢に敬意を抱きます。
●右側は確かに三丁目です……
通りの先に東京タワーが見える場所柄から、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の鈴木オートからもこんな光景が見えたのか? とも。
そんな場所へのあこがれは無いにしても、日常的にタワーを見上げる地域に暮らしてみると、「地域のシンボル」として住民たちには欠かせない存在であることが理解できます。
時代は違いますが、鈴木オートのオヤジがタワーを見上げて感じたであろう、自らを鼓舞する心の動きのメカニズムまで、現代においても素直に受け継げるような印象があります。
普段眺めている六本木方面からは分かりませんが、この方向だとタワー塔頂部が少し傾いている様子が見て取れます。
3月11日の地震で傾いたそうで、その姿がよく分かる方向からは別の機会にレポートします。
●製品はひとつも使ってませんが……
写真では分かりませんが、完成当時はくびれの部分にある空洞は何? と思った大手電機メーカーの社屋です。
ビル建設にあたり、隣接する都営アパートの洗濯物が飛ばされないための配慮として、「風穴」(ウインドアベニュー)とされる大きな開口部が設置されました。
確かに付近は海からの風が吹く地域なので、それを通すための設計のようです(新橋のグレートウォールは海風を遮断してしまった)。
日本に「パーソナルコンピュータ」を普及させ、PC-98シリーズには以前仕事でもお世話になりました。
しかし戦略的にはビジネス指向なので、出版関連業種の弱小ユーザは視野に無く何もしてくれないため、その後はApple、Adobe等、米企業システムの日本向けカスタマイズに希望を託すことになります(日本語版Mac環境の整備には、かなり時間を要しました)。
そんな経緯からか、この会社には好感が持てぬまま現在に至ります(そういえば、横須賀線武蔵小杉駅はこの会社の工場に隣接しています)。
●紙幣の顔となる資質
近ごろ「一人勝ち」的人気の私学ですが、紙幣の顔となった創始者の銅像を「1万円札が多く手に入りますように」ではなく、一度拝見したいと思っていました。
昭和の時代に流通した聖徳太子の1万円紙幣には、太子の存在にも似た「神格化」されたイメージがありましたが、高度成長〜バブル崩壊を経験してわれを取り戻した庶民が日常使用する紙幣に、「学問のススメ」を説いた人物像を採用したことはとてもいい判断と受け止められます。
上写真は「ペンは剣よりも強し」の大学紋章(原典は19世紀イギリスの戯曲『リシュリュー』とされる)。
キャンパスは広くありませんが、歴史ある建造物には「思想」が込められているようなので、今度ゆっくりと見学させてもらいます。
日曜のため学生も少なく、自粛だ何だといい気になっている「ミスキャンパス」候補となりそうな方は目にできませんでした……
もうお分かりと思いますが、今回の引っ越し先は(家政婦の?)三田・田町になります。
しかしすみかとなる賃貸住宅は、映画で見た香港や台湾のアパートを想起するような古い建物なので、「まだそんなものが?」と思う設備があったりするようです。
次回はそんな「施設探検」をしてみます。
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●おまけ
2011.12.10
12月10日(土)に皆既月食がありました。上写真は皆既状態の様子です。
天文少年のころに見た皆既月食の「ボーッと赤い」姿が記憶に焼き付いているので、今回の姿にはとても明るい印象を受けました(それは、都心の明かりが月を明るくしたわけではありません……)。
皆既状態の色がどんな色になるのかは、大気の状態に左右されるため予測できないそうです。
周囲の星が流れているのは、200mmのレンズでも15秒シャッターを開くと、その間に地球の自転が記録されることによります(拡大しています)。
都心でも星が写ることに驚きましたが、それは目をこらして夜空を見つめる機会が無いだけ、と気付かされます。
ガキ時分に思っていた「こんな写真を撮りたかった」ことを実現したわけですが、この星が流れた写真を見た時、昔あこがれていた「赤道儀式望遠鏡」と自動追尾装置を手に入れないと望んでいた絵は撮れないことを、何十年かの後に思い知ることとなりました。
さてこの先、少年時代の夢を追い続けることができるのだろうか?
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