2013/05/20

過去に学ぶべき震災復興の意識──下谷

2013.5.12【東京都】──大江戸線を歩く スピンオフ企画 「最後の同潤会アパート」


 先日の清澄白河付近で目にした、関東大震災直後に建設された鉄筋コンクリート住宅の文章を書くさなか、テレビで「最後の同潤会アパートが今月末に取り壊される」と知り、急ぎその週末に足を運びました。


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下谷神社(Map)

 上野駅正面玄関口に整備された高架歩道の昭和通りを渡った先で、裏道へ下るエスカレーターに誘われ、そのまま進むうちに祭礼の町に出くわしました。
 下町で最も早い夏祭り「下谷神社大祭」ですが、今年は本社神輿渡御(みこしとぎょ:町内巡行)が行われない「陰祭り」とのこと。
 とはいえ氏子衆が「陰」のわけもなく、神輿の休憩所や車が通る路上の二次会会場(?)では、道路で寝るやからもいる始末。
 周囲の目には危なっかしいも、それが「この日のために働いている」人たちの祭りなのでしょう。

 以前暮らした新丸子(川崎市)でも目にしましたが、参加表明である祭り提灯をつるす習慣には、子どもにも伝わるかわいらしさがあります。

 出店のメニューでは、少し前にトレンドだった牛串焼きの次を狙う(?)「チキンソテー」が目につきます。
 祭りの高揚感でガブッと、男を草食から肉食に豹変させる手助けになったりして?
 でも、鉄板の上で売れ残るとパサパサになりそう……




 上は現在もレトロな雰囲気が漂う、地下鉄銀座線稲荷町駅入口。
 稲荷町の由来は、元は伏見稲荷を勧請した下谷稲荷(現下谷神社)によります。

 関東大震災(1923年:大正12年)を受け、付近の都市計画は大きく揺らぎました。
 そのさなか、日本最初の地下鉄銀座線(浅草〜上野間)開業(1927年:昭和2年)、下谷小学校(1928年:昭和3年)や同潤会アパート(1929年:昭和4年)が竣工します。
 当時、地下鉄の先行開業区間とされた上野〜浅草間は、現在の銀座のような人気スポットだったため、復興のシンボルとすべく注力されたようです。


震災復興施設──同潤会「上野下アパート」(Map)

 ここは、関東大震災の復興事業で建設された同潤会アパートの中で、最後まで残された建物になります。
 当時の震災復興義援金などを元手とし、東京や横浜に16棟が建設されるも多くが戦禍で焼失しただけに、戦禍を乗り越え80年以上利用された姿は、当時託された「希望の大きさ」をしっかと後世に伝えたように見えます……

 テレビで5月末の取り壊しを知り、急ぎ足を運ぶと、同様の動機で集まったと思われる人だかりがあります(タクシーで乗り付けるお年寄りもいる)。






 防火・耐震対策や、再開発が求められることも理解できますが、右写真のように下町の景観になじむ姿は「下町文化遺産」ではないかと思ったりします。
 カメラ位置の道路に、祭り後の氏子衆が横たわる「今日だけは勘弁してくれ!」の醜態を、大目に見ようと「ゆるさ」が芽ばえるのは、文化への理解かも知れません。
 この日は「しょうがねぇなぁ〜」と許すも「明日からしゃんと働けよ!」が、下町気質なのでしょう。
 自分にもそれでいいと思う気持ちがあります……



 下の旧下谷小学校の建設は1928年(昭和3年)で、中央区明石小学校(1926年:大正15年)などと共に、震災復興小学校として建てられました。
 1990年統合による廃校後は、使い道が決まらず廃虚のような姿ですが、現在も校庭は区の駐車場とされ人の出入りもあるので、建物も利用されているようです。
 このような存続を目指す扱いは珍しく、何とか再利用の道が見つかりますよう。


 関東大震災復興の際は、震災4年後に日本最初の地下鉄が開通し、小学校再建に+1年、アパート建設には+2年を要しました。
 時代や環境は違えど、復興の優先順位は変わらないでしょうから、過去の経験から学ぶ姿勢があれば、今回の復興も時間を要する認識と、その間必要となる避難民のケアを予測できたのではないか、という気がしてなりません。

 一方で、いまも古い建造物が残される上野付近には、行政力が及ばない地域があった? 「におい」がします。
 調べてみると、空襲で焼け野原とされた後、現在の東京メトロ車庫付近の旧下谷万年町周辺に、スラム街が広がっていたとあります。
 「におい」の元を探ろうとする気持ちは大切でも、知った途端に気分が沈むこともあります。
 教えてもらえないことは自分で学び、可能な限り正確な理解と発言を心がけねばなりません。
 右は合羽橋(かっぱばし)の顔。

追記──琉球? 程度の反応をされる「琉球民族独立総合研究学会」設立

 この学会は、琉球(沖縄)諸島に民族的ルーツを持つ人々が自治独立を目指し、学際的(分野を越えた)調査研究を進め「現在沖縄で繰り広げられる問題解決には独立しかない」と訴える団体で、わたしにも「やっときた!」の思いがあります。
 米軍の隣人として育った神奈川ですが、基地が減る度に「開放感」がありました。
 沖縄の米軍基地周辺を可能なだけ見て回りましたが、周辺には現在も改善の希望を見いだせない閉そく感が漂っています。
 本土人(やまとんちゅ)でさえ「沖縄をなめ過ぎ」と感じるも、その解決には沖縄人(うちなんちゅ)自身の行動が必要と思っていました。

 中国が沖縄に揺さぶりをかけるタイミングでの発足には、後ろにスポンサーが見え隠れする気もしますが、元もと琉球王国は大陸と大和の間に位置する島々に、外交処世術のバランス感覚によって成立した「非武装」の「知恵の国」でした。
 最大の課題は「経済力」ですが、両国との交渉で好条件を引き出せれば、独立国としての予算が組めるかも知れません(その際、米軍基地も優良収入に計上されるやも?)。
 「琉球は大陸との外交における『緩衝地域』だった」という、教科書には載っていないことを学習した政治家がどれだけいるのでしょう。
 これは沖縄の利益(立場)に立つ意見で、日本の不利益を含むため多くの日本人には受け入れられないことでしょう。それを裏返すと、沖縄の孤立が浮き彫りになります……

 それくらいの揺さぶりをかけないと、日本政府は本気で取り組もうとしないでしょうから、まさに「今でしょう!」の、いいタイミングと思えます。

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