2015/01/19

2つの水路──井の頭公園〜久我山

2015.1.3【東京都】──「神田川を歩く_2」



井の頭(いのかしら)公園駅


 TVドラマ『俺たちの旅(YouTube):1975〜76年』では、この駅に降り立つ人がその回の中心人物となる設定がよくあり、八千草薫さんの登場が楽しみだった事を思い出します。
 動画との違いをどう表現しようか考えたが、こんな絵でスミマセン。登場時は必ず吉祥寺行きの下りホームなのは、「こんな東京の外れで…」的な演出だったのでしょう。
 「井の頭公園駅=俺たちの旅」のイメージが染み込んでおり、久しぶりの訪問では、通った大学の最寄り駅に降り立つ懐かしさに似た感慨がありました。


 上は、駅のすぐ脇で神田川をまたぐ鉄橋で、以前アーチ型だった橋脚の補強として、空洞部分に詰め物をした様子。
 これでも以前の記憶をたどれますから、架け替えられるよりはまし、というところか?
 開通時の構造物とすると80歳を超えます。


 井の頭池の水辺では遊べませんが、池から流れ出した水路は格好の遊び場で、寒い中でも子供たちが流れの中に目を凝らしています。
 神田川に面した通称「三角広場」付近ではペット連れが目につきますが、付近に来るとリードを手放す人が多いのは、三角広場流?(ペット連れ可の店があるらしい)
 広場には以前、井の頭線の車両基地があったような場所柄・形状に見えます。


牟礼(むれ)〜三鷹台駅

 三鷹台という地名はなく、井の頭線三鷹台駅(三鷹市井の頭)や高台に作られた三鷹台団地(三鷹市牟礼)は、急速に都市化が進んだ時代の、三鷹市のイメージ戦略らしい(確かに「牟礼」では地味な気もする)。
 昭和30年代の牟礼団地(全国で2番目)建設以降、人口急増への対応でインフラ整備が加速され、全国で最初に「公共下水道普及率100%」を達成します(1973年)。
 大学時代に世田谷区内で借りたアパートでは、汲取式トイレ(2階から「ポッチャン」)が現役で、それを見た三鷹に暮らす同級生に自慢されましたっけ……

 都市化以前は農地が広がっており、付近で多々見かける水路跡には、玉川上水の恩恵を受け豊かだった様子がうかがえます。
 上は、丘の上に築かれた歴史を感じる豪農(の表現が浮かんだ)屋敷の、玄関先に並ぶ大木。
 右は、上の豪農に提供されたと思われる牟礼の里公園(一部に小学校が利用する農地もある)。
 水利により得た豊かさを「地元還元」する様子には、そんなことでは揺るがない、余裕すら感じられます(車の出入口を、公園の入口と間違えて入っちゃいました…)。


玉川上水

 水源地(井の頭池)をわき出た水は低地へ向かうため、河川の場所(神田川)は周辺の谷底にあたり、海(流れ込む隅田川)までの標高の低い地点を結ぶ最短の線と言えます。  一方、江戸時代に建設された玉川上水は、多摩川の水を市中の飲料水として運ぶため、取水口(羽村)〜目的地(四谷大木戸:新宿御苑の東端)間の最も標高の高い地点を結ぶ分水嶺(れい)付近を通されました。
 性格の異なる2つの水路(谷底と分水嶺)が、井の頭公園付近で直線距離300m、高度差10m程度に近接しています。
 これは、井の頭池水源の地下水脈が浅い場所にあることを意味し、大きな建造物を建てたら地下水脈はひとたまりもない、ことを示しています。
 土地の開墾に水が渇望された江戸時代は、玉川上水から周辺への供給にも、武蔵野台地の「分水嶺」を考慮した水路建設など知恵を働かせましたが、現在は、土地としか見てない連中に踏み荒らされてしまいました……

 玉川上水には、流量が多かった時分の橋が残されています(右)。とうとうと水が流れた往時への思いは、太宰治が最期に選んだ流れを想起させます……


久我山稲荷神社

 鳥居前の道路も泥だらけなのは? と、階段を上がると、右の「茅の輪:ちのわ」を回る際に、石畳脇の湿った土の上を歩くためのようです。
 靴を泥だらけにすることが「お祓い」の証となるの? と実践してみると、神社の外まで足跡が残る様は、ご利益がまだ続いているようで、結構気分良かったりします……

 古くから久我山村の鎮守様で続く行事こそ本来の姿で、高級住宅地のイメージは最近のモノと感じさせてくれる異空間でした……


追記──阪神淡路大震災 20年(2015年1月17日)

 あのショックから、もう20年とは……
 1995年1月初めから『ニューズウィーク日本版』に勤務し始め、大震災の取材にも編集部内には地震についての知識を持つ人がおらず、新参者ながら編集会議でレクチャーしたことを思い出します。
 また、地震・地質屋(わたし)と、土木・建築屋(中学の同級生)は、互いに刺激し合う「車の両輪」のような立場であるも、双方とも「根底から引っ繰り返された!」の衝撃を受けたと、嘆き合った事も忘れられません。
 あの「衝撃的な出来事」を知らない若者がこれからも増えますから、戦争体験を伝える大切さのように、震災について自分なりの記憶を整理しておくべきと感じ始めました。
 「がんばろうKOBE」のユニフォーム姿でイチローが優勝してから20年になります……

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