2012/02/20

おいしかった目黒の記憶──五反田〜目黒 ②

2012.2.4
【東京都】──「山手線を歩く! ⑤」


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東京大学医科学研究所付属病院(Map)

 ここは、2000年開業の地下鉄南北・三田線「白金台駅」に隣接する東京大学医科学研究所付属病院です。これまでその存在を知らず、前々回「大崎〜五反田」を歩いた足で駅に入ろうとした際目に入り、夕暮れ時で写真は撮れずとも誘われるままに、裏にある聖心女子学院まで歩きました。
 道の反対側には北里研究所病院があり、広い土地が必要な施設が並ぶ様子から、各施設が設立された当時は人の少ない地域だったと想像されます。
 隣接して、宗教団体「幸福の科学」総本山のようなムラがあり、怖いモノ見たさに? 足を踏み入れ、妙な川の暗きょの行き止まりに突き当たった時分には辺りも暗くなり、「早々に退散しなければ!」と、ちょっとビビリました……

 右は東大付属病院敷地内の大木ですが、あまりの立派さに口をポカンと開け見上げてしまう雄姿です。後述の自然教育園に通じるかと思うも、この木はヒマラヤスギ(明治初期に導入され、病気を治す力があるとされる)なので、病院建設時に植えられたのでしょう(生長がはやそう)。
 ヒマラヤスギの印象としては、京都府立植物園で目にした「すぎぼっくり?」が強く残っています。


 この研究施設は、福沢諭吉が北里柴三郎(ペスト菌を発見した医学・細菌学者、北里大学の源)の研究のために私費で設立した「大日本私立衛生会附属伝染病研究所:1892年開設」を起源とします。
 スゴイ人物の組み合わせと驚くも、ドイツ留学中に発表した柴三郎の論文が、母校である東大医学部教授を批判したと受け止められ、帰国後は村八分とされ研究場所にも窮する事態に、諭吉が助け船を出したそうです。
 その後には、国の機関とされる際に東大の組織に組み込まれることとなり、これまでの不仲もあり柴三郎は「私立北里研究所:現北里研究所病院の母体」を設立します。

 車内広告で知った「北里研究所病院はこの辺らしい」程度の認識でしたが、この場所が伝記物や偉人伝の舞台だったんですね。
 柴三郎は諭吉の没後、恩義に報いるため慶應義塾大学医学部を創設し初代の医学部長を無給で務め、初の全国規模の医師会である「大日本医師会」を初代会長としてまとめあげます。

 昨年末の検診で「要再検査」とされ、引っ越したばかりでどこに病院があるのかも分からず探した際、「東京都済生会中央病院は、北里柴三郎先生を初代の院長として大正4年に開設されました」を読んで、即決めちゃいました……
 自分で判断できない時とは、こんなにもか細いイメージを頼るのかと(通った高校の隣に北里大学病院があっただけ)、自分で情けなく思うも、検査でしたしね(「所見なし」で無罪放免です)。

 施設の印象から、映画『外科室』(坂東玉三郎監督、1992年)の情景を想起しましたが、ここが撮影に使われたかについては見つかりませんでした。


自然教育園(Map)


 都心で暮らすにあたり、近くに緑が無いことは織り込み済みなので不自由は感じないにしても、久しぶりに「武蔵野の雑木林」が広がる緑の回廊を歩くと、厳冬期で縮こまっていた体内の細胞が刺激を受け、大きく伸びをして深呼吸いている印象すら感じます(上写真の池には氷が張っている)。
 門は目黒通りに、西側は首都高に接しているため車の音が耳に入る場所もありますが、鳥の声が聞こえる場所では自分の耳に「騒音フィルター」が備わっていたのか? と驚くほど、鳥の声に集中できたりします。

 室町時代に豪族がこの地に館を構え、現在も残る土塁(土を盛った砦)は太田道灌のひ孫である新六郎が築いたもので、彼が伝説の「白金長者」(昔は銀を「しろかね」と読んだ)との説が伝えられます。
 江戸時代の大名(松平家)下屋敷の名残とされる右写真の老松の樹皮は、樹齢か、保護のおかげか、非常にぶ厚いウロコや甲羅のようで、ガキ時分のように樹皮をはがしたい衝動に駆られますが、この木でそんなことやったら警備員がすっ飛んできそうです……

 明治時代には火薬庫とされますが、1917年(大正6年)から宮内省の所管となり白金御料地とされます。戦後の1949年「旧白金御料地」として天然記念物および史跡の指定と同時に、「国立自然教育園」として一般公開され現在に至ります。

 白金御料地の中心と思われる旧朝香宮邸は外務大臣公邸とされた後、西武鉄道に払い下げられ西武管理下で迎賓館として使用されます(西武が管理する必然性が理解できませんから、政界との癒着の現れだったのでしょう)。
 その後当然(!)東京都が買い取り、美術館に仕立て美術品と共に建造物を公開する施設が、1983年「東京都庭園美術館」としてオープンします。

 目黒では「目玉」的な施設なので楽しみにしていたのですが、改修工事及び管理棟新設工事のため「2016年リニューアル開館予定」とのことです。
 それを知っていれば、以前の姿をもっと見ておきたかったと後悔するも、現在目にできるのは門だけです……

 この門を見て、大地震の日にこの道を歩いて帰ったことを思い出しました。歩くのはあの時以来と思うと、ずいぶん前のような気がしますが、もうすぐ一年になるんですね。
 それ以来暗さはぬぐえなかったけれど、人々の気持ちは確実に切り替わっていると確信しています。「さぁ、これからぞ!」


大鳥神社(Map)


 ここは山手線外側の、山手通りと目黒通りの交差点に面する大鳥神社で、年末の「酉の市」には多くの人でにぎわいます。
 目黒区で最も古い神社(江戸九社のひとつ)ということもあり、「伝説を具現化する施設」という性格に受け止められます。
 日本武尊(ヤマトタケル:72年頃〜113年頃没とされる)が東征(東方蛮族の討伐は100年前後か?)の際に立ち寄ったとされ、後に「霊が白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」ことから、社紋(鳳凰:上写真)や名称も現在のようになったのでしょう。

 露店も並び周辺が最もにぎわう「酉の日」の神前には、「八つ頭の芋:日本武尊が八族を平定したの意→出世」と「熊手:焼き討ちに遭った際に草をかき集め火を防ぎ、逆に相手を火攻めした(意味は理解できませんが)→宝を掃き込む」が祭られ、人々の心をつかんできたのですから、庶民の願いは時代を問わず変わっていないようです。
 酉の市は、江戸時代に浅草の受け売りから始まったともされますが、由緒よりも「あやかりたい信心」により年末の風物詩として定着した、「活気」を大切にすべき催しなのでしょう。


目黒新橋(Map)

 右写真はアルコタワー(ゴタゴタが多い目黒雅叙園から売りに出された)で、以前目黒に勤めた時分昼食でよく通ったイタリアンの店では、ランチタイムにもパンを焼いているので、焼きたてで「ホッカホカ」のパンがおいしかったことを、いまでも思い出します。

 撮りたかったのはアルコタワーではなく、日影にくすむ目黒川に架かる目黒新橋です。
 始めて「新橋」の響きと、石造りの欄干に出会った時、パリのセーヌ川に架かる「ポンヌフ」(「新橋」の意だが、パリに現存する最古の橋)を想起したことを、いまも渡る度に思い浮かべます。
 最初に渡った印象があるのは、目黒区美術館の「ロシア正教のイコン展(タイトル不明)」観賞時で、その動機となったのはアンドレイ・タルコフスキー(ソ連時代の映画監督)映画であり、ポンヌフは映画『ポンヌフの恋人』(レオス・カラックス:フランスの映画監督)の印象による映画つながりから、「ここでもドラマが生まれるはず!」なんて思ったことが残っているのかも知れません。
 わたし自身には、何も起こりませんでしたが……


目黒駅周辺(Map)

 目黒はB級グルメ(エスニック料理)の町としてとても好きな地域でした。
 パイオニアが2009年の本社移転に伴い現在大規模な工事中ですが、戦後から駅前に生き続けたバラック街を再開発した「サンフェリスタ」にはよくもぐり込みましたし、小さくても個性的な店が多かった印象があります。


 ですが、駅の東側にあったタイ宮廷料理「ゲウチャイ」がない! 大使館が近いため目黒店だけが宮廷料理とされたそうで、だからシルバーの食器だったのか(アルミ?)と、印象に残ります。
 注文時に警戒心からどうしても聞いてしまう「辛い?」の質問に、タイのお姉さんはうんざりしたように「カラクナイトオイシクナイヨ!」は、その通りで、ヒーヒーいいながらもおいしゅうございました。
 韓国料理、インド料理等々「おいしい話」は尽きません……

 目黒周辺は、モニター調査に向く土地柄なのだろうか? 評判が高く人気のある店が、突然閉店する様子をしばしば見かけました。おそらく、この地で得た自信を胸に、勝負の地に向かったのでしょう。
 確かに店舗の出入りは激しいのですが、新しい店への期待感は常に保たれていた印象があります。ですが現在は「ラーメン屋が増えすぎ」でしょう……

 目黒通り沿いには「TVチャンピオン」で優勝(?)と胸を張るラーメン屋「勝丸」(ここは好き)があります。系列店が六本木にありますが味の違いに驚かされます(勝丸風という感じ)。
 目黒ではたまにチャンピオンが作ってくれるのですが、それが格段にウマイ! んです。同じ材料を使っていると思うのですが、まるっきり違うラーメンと感じさせるところが「プロフェッショナル」なんでしょうね……
 目黒のプロを「☆☆☆」とすれば、六本木は「─」も仕方ないでしょう。
 それでも周辺の店よりマシという表現から、六本木の昼食事情を理解していただければと思います。
 目黒はおいしかったなぁ〜。

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