2012/02/13

関心がなかった白金・高輪へ──五反田〜目黒 ①

2012.1.28
【東京都】──「山手線を歩く! ④」

 今回は歩くにつれ、関心がどんどん山手線を外れてしまい、だいぶ内側にくい込んでしまいました。
 これまで「関係ねえや」とまるで関心の無かった白金・高輪周辺ですが、近所に越してきてアクセスがいいこともあり、歩くタイミングが訪れたという印象から足を運びました。


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ねむの木の庭(Map)


 五反田・目黒付近地図の山手線内側には、公園施設とは思えない狭い区画に「ねむの木の庭」という表示が見られます。
 ここには皇后美智子さんの生家である正田家(元日清製粉社長宅)があり、1999年家長の死去による相続税の一部として2001年国に物納されました。
 建物保存運動の様子も目にしましたが、皇后の意志もあり2002年に解体されます。
 その後品川区が国からその土地を取得し、2004年に区立公園「ねむの木の庭」とします(皇后が高校時代の作詩「ねむの木の子守歌」に由来)。

 「いまは何も撮るモノはないでしょう」と、庭を管理する方のお話しのとおりで、季節ごとの花を植えていても冬場に華やかさはありません。
 「5月にはプリンセス・ミチコ(バラの品種)も咲きますから」
 「その時期にまた来ます」としか言いようがありません。
 以前「プリンセス・ダイアナ」「プリンセス・マサコ」という品種を目にした際、「プリンセス・ミチコ」に思いが及ばなかったことを皇后は「いいんですよ」と言ってくれそうなだけに、申し訳なく思ったりしました……(上写真は垣根にはわせたバラなので、品種は違うと思います。)

 天皇が心臓の手術を受けることになりました。来年で80歳ですから(昭和天皇は87歳で逝去)そんな心配が近いことも確かです。


 ここは上の場所からほど近い「池田山公園」で、2度目の訪問になります。
 江戸時代に岡山城主池田氏の下屋敷があったため、付近の高台が「池田山」とされたことにちなみます(訪問は東京で雪の降った週末でした)。
 ここは斜面を利用した光景を楽しむ庭ですが、その上には比較的平坦な丘陵地が広がっており、現在では(上述の正田家が建てられたころとは違い)区画が広くなり高い壁に囲まれ、上からカメラがにらみを利かせるようなもう一つ上の(?)高級住宅街となっています。
 「外から見られたくない」心理から塀を高くすることは理解できますが、それが高じて「外には見せられない」状況が生まれる怖さもあるのでは? と思ったりします……


 そんな町の雰囲気から離れたいと白金台方面に向かう路地には、おばちゃんがせわしく魚を調理している店舗があったりします。
 付近は以前も何度か歩いたことがあり、記憶に残る空気感がよみがえるようで、何だかホッとできる印象があります。

 ここから八芳園に向かいますが、前回「大崎〜五反田」を歩いた足のため日も陰ってしまい、撮影は翌週とします。


2012.2.4
高輪、明治学院大学(Map)

 この日は田町から、港区の地域コミュニティバス「ちぃばす」(渋谷区を走る「ハチ公バス」のようなもの)の「高輪ルート」で「高輪警察署前」まで移動しました。
 他の区も同等と思われますが港区「ちぃばす」の場合は、路線や区間を問わず「1乗車100円」という分かりやすさと、都営と区営という母体の違いによるルート設定の細やかさに、その運営姿勢が見て取れます。
 ご想像の通りお年寄りの足、補助器具を必要とされる方をサポートすることが目的のひとつですから、中型未満の小回りの効く車両を使用して、結構狭い道までフォローするため通勤目的には使いづらい(目的が異なる)交通手段です。
 現在通勤に利用可能な「田町ルート:田町〜六本木」は25分程度かかり、同経路の地下鉄は12〜3分で着き時間は半分ですが、値段は倍になります。
 利用はその時の条件次第(時間がない、お金がない)で使い分けています。

 バスを降りた高輪警察署は、品川駅の背後に迫る高輪の丘陵上にあります。
 高輪の地名は戦国時代の記録「高縄原:高台を通る道」の由来とされ、丘陵の中心を縦断する二本榎(えのき)通りがそれに当たるようです。
 この通りは、慶應義塾の門前辺りから丘陵地に上り、三田寺町背後の尾根道として御殿山方面に続いたようです。
 街道というものは昔から「歩きやすい場所」に作られたと考えれば、この尾根道は江戸時代(参勤交代に道幅が必要とされるため)海沿いに東海道が整備されるまでの主要道だったのかも知れません。

 二本榎通りの中ほどに、海側に下れば泉岳寺、陸側に下れば魚籃寺(坂)に至る交差点に「伊皿子」の看板があります。当てずっぽうで「いさらご」と読んでも、何のこっちゃ? です。
 明時代(室町〜江戸時代だが、江戸時代か?)の中国人「伊皿子」(いんべいす)という方が住んだとされますが、他にも「へぇ〜」程度の関連を見つけました。
 江戸時代の三井財閥に「伊皿子家」という家系があり、その家系からトヨタ自動車2代目の豊田章一郎に嫁いだ女性がいたとのこと。「へぇ〜」は以上。

 上写真は、高輪警察署と道をはさんだ高輪消防署二本榎出張所で、1933年(昭和8年)の落成当初は「火の見櫓から東京市が一望できた」そうです。

 高輪警察署がその敷地の一部を利用させてもらうように見えるその背後には、立派ながらちょっと近代的過ぎ(?)の高野山東京別院があります。
 その違和感は、地下に東京電力の変電所があるためのようです。
 官・民・宗教などの協力による土地の有効活用は、平地より意識の高い丘陵地では今後も増えていくのでしょうね。

 現在までこの付近で足を運んだことがあるのは後述の八芳園だけで、地図を眺め明治学院大学が隣接することを知り、礼拝堂を見に行こうというのが今回の動機のようなものでした(上写真)。

 ここは1863年ジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」に始まり、男子部は明治学院、女子部はフェリス女学院へと発展します。
 わたしには「ヘボン式ローマ字」の提唱者(それも大学の車内広告で知った)との認識しかありませんが、本来の名前は「Hepburn:オードリー・ヘプバーンと同じ」(ヘップバーンじゃないらしい)なので日本人に発声しづらいことを認識し、みずから「逆ヘボン式?」で日本向けの表記(ニックネーム)とします。

 この日はタイミング悪く「入学試験日」にあたり、門が閉められています。もちろん邪魔しないように門の外をウロウロしておりました。
 右の建物は接近して、木材で描かれた模様をアップで撮りたかったのですが、3枚並んだ「高輪尖塔(せんとう)コレクション」と受け止めてもらえれば、というところです。


八芳園(はっぽうえん)(Map)

 ここは八芳園(結婚式場・宴会場)の庭園で、古くは大久保彦左衛門(徳川家康の家臣ですが、「天下のご意見番」は当時の講談による創作のようです)の屋敷があったらしく、大正期に久原房之助(鉱山王と呼ばれ日立製作所の創設者とされる)の手で整備され、1950年(昭和25年)に「八芳園」として創業します。

──以前、スパリゾートハワイアンズのルーツが日立製作所と書いた覚えがあり調べると、スパ経営会社の常磐興産(株)が採掘した常磐炭田には、日立銅山も含まれることから混同したようです。訂正させてください。

 八芳園の名には「この庭は裏・表なく八方から眺めて美しい」等の意味があるそうです。
 広い敷地確保が難しいこの国の庭園では、空間の広がりを表現するために高低差や遠近法などの演出が用いられますが、解決法のひとつに「傾斜地」の利用があります。
 広さを要求できない日本の事情から生まれた「箱庭的表現」として、受け手側にも伝わる手段ですし、狭い国土をいかに「豊かに見せる工夫をするか」という課題は、われわれの中にも確実に流れる「島国民族の意識」のように思ったりします。


 ずいぶん前になりますが、大学時代の後輩の結婚披露宴に出席の際(と思う)「立派な庭だこと」の記憶をたどりたく足が向きました。
 ですが庭園入口には「当施設ご利用の方以外はご遠慮下さい」とあります。
 「庭と再会したかったんだ!」と、自分のいい訳を作って潜り込みました(これ読まれたら怒られそうですが、宣伝するのでご勘弁を……)。

 上写真は宴会・披露宴用の建物を垣根越しにのぞきましたが、赤毛氈(もうせん)には暖かみが感じられますし、手前の梅にはまだ硬そうですがつぼみが見られます。寒さももう少しの辛抱です!


 この壁を作る際には、装飾のため材料が集められたのだと思われます。
 ですがもともとこの手の装飾は、「手元にあるものを使って飾れないものか?」との創意工夫から生まれたのでしょう。
 ルーツは京都ではなかったとしても、「日本的:京風」なもてなしを感じた際には、質素ながらも相手を和ませる「粋」な気づかいが大切と理解するのですが、実践するのはとても難しかったりします……

 実はこの写真を撮り直したかったので、前週の夕方に撮った写真は全部ボツにしました(計2回もぐり込んだことになります)。

 慶事等で利用されることが多いため、池には紅白の錦鯉が多く、たまに金の鯉も見られるように、利用客は「わがままの群れ」ですから、その要求を受け止める側には相当な覚悟が必要になります。
 施設側の目標として「お客様全員に120%の満足を!」を掲げるにせよ、その実現は並大抵のことではありません。
 困難ではあっても「めでたい席」をそれなりにサポートできたなら、満足を感じた人たちは惜しみなくお金を使ってくれるのでしょうね……

 久しぶりに見事な庭園を散歩させてもらい大満足でした(利用者でないと分かりながらもとがめようとしない八芳園に感謝!)。
 土地を買い足し現在の敷地を確保し、地形を生かした庭園造営を目指した久原房之助が抱いた「自分は庭づくりなどはしない。自然を整えるのだ」の理念が現在でも受け継がれているからこそ、その空間に接したわれわれの心が動くのだと思います。

 写真も文章も多くなってしまい「五反田〜目黒」の回は
 TO BE CONTINUED...

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