より大きな地図で 大江戸線を歩く を表示
蔵前〜新御徒町(Map)
蔵前の響きに「蔵前国技館(1954〜84年):大鵬の全盛期、プロレスやボクシングの試合」を想起する年代で、キャンディーズのコンサートが開かれたにも郷愁を覚えます。
その地名は、1620年幕府が天領などから集めた米を収める浅草御蔵(幕府最大の米蔵)が造られ、付近が御蔵前(おくらまえ)と呼ばれたことに由来します。
当時御家人たちの給料は米の現物支給で、付近での米の受け取り・運搬・売却の代行業務を取り仕切る、札差(ふださし:米の仲介業者で、米を担保に高利貸しも行った)連中が甘い汁を吸ったそうです。
明治になると人形・玩具・文房具・雑貨などの卸売問屋が集まるようになり、1881年東京職工学校(東京工業大学の前身)が設立されます。(上は蔵前橋)
JR浅草橋駅から蔵前への通りには、造花やディスプレイ品などを扱う装飾品店が並びます。華やかさがあり、これをなりわいにできれば、造るも売るも楽しそうと思ったりします(浅草橋は人形店でも有名)。
この地域に暮らす以前の職場の後輩から「実はオレ、江戸っ子(3代にわたり江戸下町に生まれ暮らす町人)なんです」と聞いたことを思い出しました。
「カッコイイ」と思うも今どきは、「こちとら江戸っ子でい!」のたんかも「それって自慢?」とされそう……
でも、ここの暮らしは「楽しそう」に見えますから、きっと彼はこの地で4代目を育てていることでしょう。
東工大の原点が職人技で、いまも町の活気を支える様子に、将来を少し安どしました(上は造花店のイチゴ)。
喧嘩っ早い祭りで名高い(?)鳥越神社に面した道の先に「おかず横丁」があります(右上)。
小規模ながら、昔のまま元気な店や新規参入店などが並び、キョロキョロしてしまう楽しい一画です。
写真右側の人だかりは「かき氷屋」と知ると、この場所で食べる味は格別なのだろうと思えてきます……
右は佐竹商店街と交差する秋葉神社(火除けの神)参道で、クリケットに興ずる外国人家族(背後の子も)。
佐竹とは江戸時代に屋敷を構えていた秋田城主の名で、その後も親交が続いたそうです。
商店街シンボルとされるふくろうは佐竹絡みではなく、地域に縁ある画家横山大観の絵で、商売繁盛、学問、不老長寿の「見守り神」だそう。
ここは児童数減少で廃校となった旧小島小学校(復興小学校:昭和3年竣工)の校舎を、起業を目指すファッションデザイナー支援施設「台東デザイナーズビレッジ:2004年」として再利用しています。
この日もセミナーが開かれ、近場のおばちゃんたちがパラパラ集まって来ます。
屋上の円筒形部分は展望施設と思われ、関東大震災で崩壊した浅草十二階(凌雲閣)へのオマージュ的な意味も含め、子どもたちに夢を与えたことでしょう。
小学校という施設は敷居も低く人が立ち寄りやすい公共施設なので、以前紹介した旧下谷小学校でも、地域住民は利点を生かした再活用を待ち望んでいるはずです。
何だか道半ばで「ルートはどうでもいいや!」とスイッチが切り替わり、交差点のたびに「どっちが楽しそう?」と、気の向くままに歩き始めています。
そんな時は大体失敗して「この道を戻るのか……」と嘆くのですが、それも楽しめちゃうのは、軒先を「失敬!」と「抜けられる」下町の気安さのおかげです。
失敗も「バカだなぁ」と笑える町なので、ヘトヘトになるまで歩いても心地いいようです……
われわれは周辺から海を想起できませんが、海鳥には海をイメージするものがあるようです。
町並みに誘われるまま歩くと、その先には見覚えのある下谷神社が。その瞬間「導かれた!」と……
里山を歩く際に、意識・信心の有無にかかわらず氏神様へといざなわれる集落の構造(信仰文化)が、下町にも存在することを実感し驚きました。
生活感の密度の濃さをたどることで導かれるのかも知れません(わたしに霊感はありません)。
出会えたもの以上に出会えなかったものの方が多いわけで、「一帯の路地をくまなく歩きたい!」という次のテーマが見えてきます……
0 件のコメント:
コメントを投稿