2010.6.12
【神奈川県】
浮島(Map)
浮島は、羽田空港の多摩川を挟んだ対岸にある埋め立て地で、神奈川県側の多摩川河口になります。
東京湾アクアラインはこの付近から海底トンネルに突入していきます。
右写真の建物は、首都高速湾岸線の多摩川トンネル第一換気所で、多摩川の下を通る海底トンネルの出口付近にあります。
大仏の目のような切れ長の窓から、空気を取り込んでいるのだろうか?
早速脱線しますが、昔のTVアニメ「黄金バット」の敵であるナゾー(そんな名前なぞ忘れており調べました)を想起するような建物です。
ナゾーは黒ずきんをかぶったいでたちで、四つある目が、赤、青、黄、緑(Windowsロゴと同じカラーリング)で、かぎのような手を持ちます(いま見ると、リスのように立った耳が「トトロ」のように見えたりします)。
これは勝手な想像ですが、白ずきんをかぶったKKK団(クー・クラックス・クラン:アメリカの白人至上主義を主張する、残虐性を持った人種差別団体)の、黒ずきん版的な意味が込められていたようにも思えます。
浮島釣り公園は現在も健在ですが、以前となりには、川崎〜木更津、川崎〜日向(宮崎)航路のフェリーさん橋がありました。
木更津航路は、東京湾アクアライン開通により1997年廃止。日向航路も原油価格高騰などの影響から2005年に廃止されたため、浮島のフェリーさん橋は閉鎖され、跡地は物流センターとなりました。
以前仕事で、宮崎までフェリーで行ったこともあり、前回訪問時までは懐かしんでいましたが、現在は跡形も無く、場所の特定すらできませんでした。
建設中の羽田空港D滑走路のさん橋方式部分は、対岸からこのように見えます。
埋め立てでは、周辺環境への影響が懸念されるので、この方式が採用されましたが、結局何年かたつと、柱付近から土砂が堆積しそうに思えます。
それを見こして、埋め立てるよりは、干潟となる方がいい、としたのかも知れませんが、日が当たらなければ光合成もできず、微生物は繁殖できない気もします。
でも、一日中日の当たらない干潟というのも珍しいと思うので、普段見かけない生物に出会えるようになるかも知れません。
近ごろ、ライトに照らされたプラントの夜景撮影や見物が、ひそかな人気だとテレビで目にしました。
確かに無機質ではあっても、パイプなどには曲線美が感じられたり、光線の具合で面白い光景と出会えるのかも知れません。
普通に撮っても絵になる光景はありそうですから、はまる人もいるのでしょう。
浮島は、工場誘致を目的に埋め立て造成された土地ですから、ここでの主役は工場になります。
右写真のような工場への引き込み線って、さびれているようでも意外と現役だったりして驚くことがあります。
上ものである高所の架線部分は、高圧の送電線として現在も利用されているように見えます。
設備には維持費がかかるので、不要なモノは残さないと考えると、やはり、線路があるところには貨物列車が通行しているのでしょう。
目の前にあったフェリーターミナルが廃止され、鉄道の需要が高まりそうな気もしますが、いまどきはトラック輸送がメインなのかも知れませんし、貨物列車を見かけることはありませんでした。
川崎球場(Map)
川崎球場は現在、アメリカンフットボールのグランドとされ、この日も社会人大会が行われていていました(軟式野球でも使用可能だが、マウンドはない)。
試合終了後でも、部外者は立ち入り禁止だったかも知れませんが、とぼけて観覧席まで潜入して撮りました。
試合後の場外は、なごやかな舞台裏という印象で、選手、チアリーダーとサポーターが歓談しています(みんな仲間内のようです)。
うなだれる選手もいる中、派手な衣装のチアリーダーたちは、まだテンションが高ぶってるように見えます。
「さぁ、打ち上げで、イケメンをタッチダウンするわよ!」と、ここからが本番? のようにも感じられました……(こんな品のないセリフもスラスラ書けてしまうのは、川崎という土地柄でしょうか?)
ここは以前プロ野球で使用され、1957年〜1977年に大洋ホエールズが、1978年〜1991年にはロッテオリオンズが、フランチャイズとしていました。
川崎球場で印象に残るのは、近鉄バファローズがリーグ優勝マジックを2としてのぞんだ、「ロッテー近鉄」戦のダブルヘッダーの記憶です(1988年)。
テレビ中継で目にした、満員の球場に入場できない人たちが、球場に隣接した建物の廊下や屋上で、鈴なりになって観戦している姿が、強烈に焼き付いています。
当時パリーグの試合は、ほとんどテレビ放映されないにもかかわらず、あの関心の高さには、純粋な野球ファンの気持ちが表れていたように思います(タダ見禁止でもおとがめ無し、とされる関心の高さでした)。
結局近鉄は、第一試合に勝つも、第二試合は時間切れの引き分けとなり、最終戦で優勝を逃しますが、アウエーの敵側チームにも、あたたかい声援が送られていたと記憶しています(当時は近鉄を応援していました)。
川崎競輪場、川崎競馬場(Map)
上が川崎競輪場、右下が川崎競馬場になりますが、この地は、この手の施設が似合う町のイメージとしては、全国でも有数な町といえるでしょう。
川崎駅は、工場名を行き先としたバス路線が数多く運行される、工場地帯のターミナル駅ですから、周辺には飲食店、歓楽街等、労働者の疲れを癒す施設は、オール完備(?)されています。
また脱線しますが、川崎の歓楽街といえば堀之内と耳にしながらも場所を知らなかったのですが、競馬場の近くなんですね。
夕時だったので、面倒を避けるため中は通りませんでしたが、出勤のお姉様方とすれ違いました。
期待されるコメントは、ございません……
競馬場はJRAの方針なのか、結構洗練されてキレイな印象がありますが、競輪場のセンスは昭和期のままとの印象を受けました(門前からの印象)。
いまどきはパチンコ店でも「オシャレ」を目指していますが、どう転んでも競輪場に女性客は引き寄せられない、と腹をくくっているのかも知れません。
オヤジギャル(古い?)も近寄らない、「男の世界」を守ろうという姿勢ならば、「それもありかな?」と、理解できる気がします。
でもそのうち「輪女」(競輪マニア女子)なる存在が、注目を集めるようになるかも知れませんよ。
「夢を買う」などと言いますが、結果は「リアル」ですから、女性の方が堅実に「夢」を膨らましそうな気もします。
でも、ギャンブル好きの女性の思考回路って、男性的だったりするんですよね……
2010/06/28
2010/06/21
バラックに人を集めるバイタリティ──羽田
2010.6.5
【東京都】
羽田(Map)
前回紹介した、羽田空港の新管制塔を望む多摩川河川敷に、バラックとしかいえない船着き場が並んでいます。
主に、釣り船用さん橋のようですが、国際空港脇の光景ですから、そのギャップにとても興味引かれる場所です。
鉄パイプを組んだだけの簡易的なさん橋で、どこの入口にも、仮設さん橋の設置許可証が掲示されているので、チェックが頻繁なのかも知れません。
堤防を挟んだ陸側に、船宿(宿泊、飲食、入浴ができそうな施設)があるので、昔からその場所に船を着けていたようです。
恒常的に利用できるさん橋を作れないのは、堤防等の護岸整備に関する法律があるのでしょう。
護岸の外側に構造物の設置を認めない役所から、商売への支障を盾に住民が勝ち取った状況のようで、そこには生活者のバイタリティが感じられる気がします。
ここから出ていく釣り船は狙う魚によって、観音崎や東京湾の対岸である木更津まで船を飛ばすそうです。
そんな様子を知ると、おおよそ8,000円〜の料金(サービス内容で異なる)も納得できるところですが、『釣りバカ日誌』のハマちゃんに、そんなおこづかいがあったのか、なんて思ってしまいます……(貸し切りは10万円〜)
かつて江戸幕府は魚介類を献上させるため、この地域に「漁猟特権」を与え、それをきっかけに羽田は、漁業の町として発展していきます。
その当時、漁業従事者は「猟師」と呼ばれていたそうです(捕るのは魚だけじゃなかったのか?)。
おそらくそんな頃から、江戸庶民の間でも魚介類(鮮魚)の人気が高まり、羽田沖で捕れる鮮魚類が「江戸前」と呼ばれるようになったのでしょう。
この付近で捕れ「絶品」とされる、穴子やシャコを食べた印象がないので判断できませんが、食べ過ぎると危ない(ダイオキシン等を含む)逸品でないことを祈ります……(怒られそうですが、自分にはそんなイメージがあります)
この付近には昔の堤防である、レンガ堤が残されています。
上写真のカメラ位置は車道になり、レンガ堤の奧が住宅地で、その先に現在の堤防があるので、住宅は以前の河川敷に建っていることになります。
その地域は、堤防の内側なので洪水にはある程度安心でも、地盤の強度には不安がある場所なのに、住宅建築許可が与えられたようです。
でも、そんなことをいったら、大田区の低地部分には家が建てられなくなってしまいそうです……(下写真は河川側から)
昔から「暴れ川」とされた多摩川流域では、台風等の水害を繰り返し被ってきました。
川岸を歩くと、水害の脅威は海だけではなく川にもあることが見て取れ、前回紹介した、穴守稲荷神社への祈りの切実さが、とてもよく理解できます。
神奈川県側では、1907年、10年(明治40年、43年)に大洪水が続けて起こり、困り果てた流域の住民たちが、アミガサ姿で県庁に詰め寄り「多摩川に堤防を!」と嘆願します。
これは「アミガサ事件」と呼ばれ、それを機に多摩川の下流部(二子橋より下流)の、多摩川改修工事が始まったそうです。
しかし1923年(大正12年)の関東大震災によって、一帯に作られた堤防等の公共施設および、工場施設等は全滅してしまいます。
その復興の礎として、このレンガ堤が作られたそうです。
当時の町並みは、このレンガ堤(川の流れ)に沿って区画されたため、堤は当たり前のように存在し続けています。
この遺構を壊す必要に迫られる大きな再開発等が無い限り、部外者ながら残して欲しいと思ってしまいます。
川岸で目につくのが、アサリ採りに夢中な人たちです。
先日目にした地域の話題に、川崎市の埋め立て地にある「かわさきの浜」の潮干狩りに、予想を超える数の人が押し寄せ、解禁から10日足らずで一時禁漁の事態になった、とありました。
そこも、この場所も、無料であることが人気の理由のようですが、潮干狩りという「採集作業」には、本能的に没頭してしまう民族性や、労働成果が目に見えることから、人気があるのかも知れません。
それを、都心近くで商売にできるような砂浜があれば、人は集まると思われますが、そんな場所が無いから集中しちゃうんですよね……
上写真は一般人のようですが、大きな貝採り用のカゴで採るプロ(?)のおばあさんもいます。
近所で売られてるのかも知れませんが、果たしておいしいのだろうか?
でも、ガキの時分に潮干狩りに行った1970年前後の、幕張、船橋、金沢八景の海と比べると、現在の方がはるかに安全という気がします。
公害で騒がれていた時代の貝を食べても、まだ生きているのですから、現在の貝も大丈夫なのでしょう……
この付近にはかなり広い湿地帯があり、草の茂みから普段聞き慣れない鳥の鳴き声が聞こえてきます。
でもここでは、バードウォッチャーの姿を見かけません(マニアが求める鳥がいない、観察の時間帯が違う、観察ポイントが違う、のか?)。
われわれ素人は、聞き慣れない鳥の鳴き声を耳にすると、即「バードサンクチュアリ」と考えがちですが、そう単純なものではないのかも知れません。
多摩川下流で「子どもたちが素足で遊べる干潟づくり」を目指して活動するNPOが、環境保全活動に取り組んでいます。
川を取り巻く周辺環境を、川岸に立地する企業の協力を得て、子どもたちに体験学習させています。
目指すところは、素晴らしいと思えるのですが、下流域だけが頑張っても難しい面がありそうです。
理想としては、多摩川流域の各地域で、それぞれの目標を掲げる団体が地域活動を広めた上で、流域全体という視点での連携が生まれることではないでしょうか。
前述のレンガ堤のような、古い施設として目にとまるのが、石造りの「六郷水門」で、昭和6年完成のプレートがあります。
この施設は現役で稼働していますが、水門の内側には狭い船だまりしか残されていません。
かつては六郷用水の終端で、雑色(ぞうしき)運河の水門としての役割がありましたが、現在その用水路や運河は存在しません。
現在も水門付近に六郷排水場があるので、生活排水路(下水)とされているようです。
そんな水門付近は、テナガエビやハゼ釣りのポイントのようです。
河口に近いので、潮の影響をかなり受ける場所ですが、どう考えても下水からの栄養分に群がっているように思えます。
ある意味それは「栄養連鎖」と言えるのかも知れません。
でもわたしが想起するのは、発電所(原子力・火力)の排水溝から流れ出す「暖かい排水」に群がり、異常に巨大化した貝類等のイメージになってしまいます。
近場で「釣る」「採る」ことの楽しみは理解できますが、あまり口に入れたいとは思えません。
でも、自分で釣ったり、採った魚介類というのは、リリースも食べるも自由ですが、その安全性は自分のお腹で確かめるしかないんですよね?
海の幸には保証がない、と考えてしまうと、食べるモノが無くなってしまいそうなので、忘れることにします……
【東京都】
羽田(Map)
前回紹介した、羽田空港の新管制塔を望む多摩川河川敷に、バラックとしかいえない船着き場が並んでいます。
主に、釣り船用さん橋のようですが、国際空港脇の光景ですから、そのギャップにとても興味引かれる場所です。
鉄パイプを組んだだけの簡易的なさん橋で、どこの入口にも、仮設さん橋の設置許可証が掲示されているので、チェックが頻繁なのかも知れません。
堤防を挟んだ陸側に、船宿(宿泊、飲食、入浴ができそうな施設)があるので、昔からその場所に船を着けていたようです。
恒常的に利用できるさん橋を作れないのは、堤防等の護岸整備に関する法律があるのでしょう。
護岸の外側に構造物の設置を認めない役所から、商売への支障を盾に住民が勝ち取った状況のようで、そこには生活者のバイタリティが感じられる気がします。
ここから出ていく釣り船は狙う魚によって、観音崎や東京湾の対岸である木更津まで船を飛ばすそうです。
そんな様子を知ると、おおよそ8,000円〜の料金(サービス内容で異なる)も納得できるところですが、『釣りバカ日誌』のハマちゃんに、そんなおこづかいがあったのか、なんて思ってしまいます……(貸し切りは10万円〜)
かつて江戸幕府は魚介類を献上させるため、この地域に「漁猟特権」を与え、それをきっかけに羽田は、漁業の町として発展していきます。
その当時、漁業従事者は「猟師」と呼ばれていたそうです(捕るのは魚だけじゃなかったのか?)。
おそらくそんな頃から、江戸庶民の間でも魚介類(鮮魚)の人気が高まり、羽田沖で捕れる鮮魚類が「江戸前」と呼ばれるようになったのでしょう。
この付近で捕れ「絶品」とされる、穴子やシャコを食べた印象がないので判断できませんが、食べ過ぎると危ない(ダイオキシン等を含む)逸品でないことを祈ります……(怒られそうですが、自分にはそんなイメージがあります)
この付近には昔の堤防である、レンガ堤が残されています。
上写真のカメラ位置は車道になり、レンガ堤の奧が住宅地で、その先に現在の堤防があるので、住宅は以前の河川敷に建っていることになります。
その地域は、堤防の内側なので洪水にはある程度安心でも、地盤の強度には不安がある場所なのに、住宅建築許可が与えられたようです。
でも、そんなことをいったら、大田区の低地部分には家が建てられなくなってしまいそうです……(下写真は河川側から)
昔から「暴れ川」とされた多摩川流域では、台風等の水害を繰り返し被ってきました。
川岸を歩くと、水害の脅威は海だけではなく川にもあることが見て取れ、前回紹介した、穴守稲荷神社への祈りの切実さが、とてもよく理解できます。
神奈川県側では、1907年、10年(明治40年、43年)に大洪水が続けて起こり、困り果てた流域の住民たちが、アミガサ姿で県庁に詰め寄り「多摩川に堤防を!」と嘆願します。
これは「アミガサ事件」と呼ばれ、それを機に多摩川の下流部(二子橋より下流)の、多摩川改修工事が始まったそうです。
しかし1923年(大正12年)の関東大震災によって、一帯に作られた堤防等の公共施設および、工場施設等は全滅してしまいます。
その復興の礎として、このレンガ堤が作られたそうです。
当時の町並みは、このレンガ堤(川の流れ)に沿って区画されたため、堤は当たり前のように存在し続けています。
この遺構を壊す必要に迫られる大きな再開発等が無い限り、部外者ながら残して欲しいと思ってしまいます。
川岸で目につくのが、アサリ採りに夢中な人たちです。
先日目にした地域の話題に、川崎市の埋め立て地にある「かわさきの浜」の潮干狩りに、予想を超える数の人が押し寄せ、解禁から10日足らずで一時禁漁の事態になった、とありました。
そこも、この場所も、無料であることが人気の理由のようですが、潮干狩りという「採集作業」には、本能的に没頭してしまう民族性や、労働成果が目に見えることから、人気があるのかも知れません。
それを、都心近くで商売にできるような砂浜があれば、人は集まると思われますが、そんな場所が無いから集中しちゃうんですよね……
上写真は一般人のようですが、大きな貝採り用のカゴで採るプロ(?)のおばあさんもいます。
近所で売られてるのかも知れませんが、果たしておいしいのだろうか?
でも、ガキの時分に潮干狩りに行った1970年前後の、幕張、船橋、金沢八景の海と比べると、現在の方がはるかに安全という気がします。
公害で騒がれていた時代の貝を食べても、まだ生きているのですから、現在の貝も大丈夫なのでしょう……
この付近にはかなり広い湿地帯があり、草の茂みから普段聞き慣れない鳥の鳴き声が聞こえてきます。
でもここでは、バードウォッチャーの姿を見かけません(マニアが求める鳥がいない、観察の時間帯が違う、観察ポイントが違う、のか?)。
われわれ素人は、聞き慣れない鳥の鳴き声を耳にすると、即「バードサンクチュアリ」と考えがちですが、そう単純なものではないのかも知れません。
多摩川下流で「子どもたちが素足で遊べる干潟づくり」を目指して活動するNPOが、環境保全活動に取り組んでいます。
川を取り巻く周辺環境を、川岸に立地する企業の協力を得て、子どもたちに体験学習させています。
目指すところは、素晴らしいと思えるのですが、下流域だけが頑張っても難しい面がありそうです。
理想としては、多摩川流域の各地域で、それぞれの目標を掲げる団体が地域活動を広めた上で、流域全体という視点での連携が生まれることではないでしょうか。
前述のレンガ堤のような、古い施設として目にとまるのが、石造りの「六郷水門」で、昭和6年完成のプレートがあります。
この施設は現役で稼働していますが、水門の内側には狭い船だまりしか残されていません。
かつては六郷用水の終端で、雑色(ぞうしき)運河の水門としての役割がありましたが、現在その用水路や運河は存在しません。
現在も水門付近に六郷排水場があるので、生活排水路(下水)とされているようです。
そんな水門付近は、テナガエビやハゼ釣りのポイントのようです。
河口に近いので、潮の影響をかなり受ける場所ですが、どう考えても下水からの栄養分に群がっているように思えます。
ある意味それは「栄養連鎖」と言えるのかも知れません。
でもわたしが想起するのは、発電所(原子力・火力)の排水溝から流れ出す「暖かい排水」に群がり、異常に巨大化した貝類等のイメージになってしまいます。
近場で「釣る」「採る」ことの楽しみは理解できますが、あまり口に入れたいとは思えません。
でも、自分で釣ったり、採った魚介類というのは、リリースも食べるも自由ですが、その安全性は自分のお腹で確かめるしかないんですよね?
海の幸には保証がない、と考えてしまうと、食べるモノが無くなってしまいそうなので、忘れることにします……
2010/06/14
海へと広がる、空の港──羽田空港
2010.5.29
【東京都】
今回から、多摩川沿いを歩こうと考えています。
厳密な川沿いでは見所が少ない気もするので、川周辺のスポット等を探しながら歩こうと考えています(本シリーズでは神奈川県も歩くと思いますが、@東京に含めます)。
ということで、まずは河口に面した羽田空港からスタートします。
羽田空港(Map)
旅行で空港を利用する時というのは、出発時間が気がかりですから、余裕があっても食事やお茶する程度で、空港施設を見て回ることはできなかったりします。そんな関心よりも、心はすでに旅先に飛んでますしね……
「空港まで見送り」なんてことも無いので、飛行機搭乗の目的以外でこの地を訪れたのは初めてという気がします。
時間に余裕のある視線で見回すと、空港機能以外の余計な施設ばかりが目につき、ショッピングモールのような印象を受けます。
最低限必要と思われるのは、準備し忘れたモノを扱うコンビニ、急な体調不良等に備えてドラッグストア、その場から発送してくれる特産品の土産物店と、立ち食いそば屋があればいいでは? と思ったりします。
でも、目的地がローカル空港だったりすると、飲食店が営業していない場合もあるので、腹ごしらえは大切かも知れません……
わたしは全日空(ANA)派なので、2004年開業した第二旅客ターミナルへANAが引っ越してからは、当初ビッグバード(現在は両ターミナルの総称)と呼ばれた第一旅客ターミナルに立ち入ることが無くなりました。
久しぶりなので細かな記憶は薄れていますが、京急線出口から上がった正面にあるフードコート的な飲食スペースで、よく食事した事を思い出しました(どこもおいしくはないんですが……)。
また、搭乗手続きを済ませた出発ロビー内には、第一ターミナルの方が飲食店は多かったのでは? との記憶もよみがえります。
中まで入れないので分かりませんが、喫煙所とトイレの場所はキッチリ覚えていそうな気がします……(下写真まで3点は第二旅客ターミナル)
羽田空港4本目の滑走路となる、D滑走路の運用に向けて管制塔が新設され、2010年に運用が始まりました。
管制業務には全滑走路を一望する必要があるので、高さは116m(世界第3位)あります。
下に見えるこれまでの管制塔は、埋め立て拡張後の運用開始(1993年)には、かなり注目された最新鋭の施設で、TV等で紹介されましたが、16年で役目を終えたことになります。
空港の建設や拡張には長期の準備・工事期間が必要ですから、航空業界の情勢変化に対応することは、とても難しそうです。
でも、このデザインもへったくれもない容姿は、役所的ではあっても「可及的速やかに(高い管制塔を造ればいいんでしょ!)」準備が進められた様子が、見て取れるような気がします……
1984年から始まった、沖合埋め立て事業により新たに生まれた広大な土地は、すべて大田区に組み込まれたので、「東京23区最大の面積」を長年保った世田谷区は、その地位を大田区に譲ることになります。
エーッ、知らなかった。世田谷区がずっと一番だと思っていました。
D滑走路の建設でまた広がりますが、さん橋方式部分(全面埋め立てではない)はどんな扱いになるのだろう?
旧穴守稲荷鳥居(Map)
羽田空港は1931年(昭和6年)、日本初の国営民間航空専用空港(軍は使用しないの意)として開港します。
第二次世界大戦後(1945年)米軍に接収され、ハネダ・アーミー・エアベースとなり、拡張工事の際には、周辺住民に48時間以内の強制退去が命じられます(米軍の横暴ぶりは沖縄と同じ)。
区域内の住民や、穴守稲荷の社殿(おそらくご神体等)だけはからくも移転しますが、鳥居は米軍も壊しづらかったようで、基地内にポツンと残されることになります。
返還後も移設工事の度、工事関係者に事故や不幸があったりするいわく付きの鳥居とされます(テレビで紹介されると「心霊スポット」にされてしまいます)。
現在は、東京モノレール・京急線「天空橋駅」近くに移設されています。
もう元の神社とは切り離されたのでしょうか、現在は「平和」という額が掲げられています。
そこには、米軍に接収された当時の思いが込められているようです。
穴守稲荷神社(Map)
地域住民の思いが込められた神社であることはうかがえるのですが、でも、何の「穴」を守ったの?
「堤防に開いた穴の水害から、水田や人々を守る」ことなんだそうです。
アシ等の茂る湿地帯が、江戸時代(1804年)に開墾され堤防が築かれるも、嵐で決壊し海水による大きな被害を受けたため、住民が堤防の上に稲荷大神を祭り、水害が起きぬよう祈ったことがこの神社の起こりとされます。
上写真は、賽銭箱にしるされた神社の紋で、描かれるのは稲穂と米俵(?)ですから(五円玉の穴を埋めたよう?)、豊作祈願とされたようです。
湿地だった羽田一帯には、川からもたらされた栄養分もあり、水の管理ができればいい水田だったように思います。
京浜急行空港線「大鳥居駅」の名称は、穴守稲荷が現羽田空港内にあった時分、この付近に「一の鳥居」(一番外側の鳥居)があったことによりますが、その鳥居は現存しません。
現在の天空橋駅近くに移設され現存する鳥居は、1929年に京浜急行(当時京浜電鉄)が、当時の社殿近くに奉納したそうです。
ということは、現在の「穴守稲荷駅」の名称は、神社の移転後に改名されたことになります。
何でも、以前の穴守稲荷付近(現羽田空港内)まで路線があったらしい記述もあるので、京急はこの地域に力を入れていた分、米軍占領の影響も大きかったようです……
そんな苦難を乗り越えてもらったおかげで、神奈川方面から空港へのアクセスがとても便利になったことを実感しております。
「京急川崎」〜「京急蒲田」〜「羽田空港」という、とても有り難い列車があるのですが、現在早朝には運行されません(早朝便は、運賃の安さや、乗り継ぎ等の関係で、結構利用することがあります)。
この先、D滑走路の運用開始(2010年10月31日)と同時に、24時間国際線化されると聞きます。
バスやタクシー業界は歓迎でしょうが、鉄道系はどう対応するのだろうか?
モノレールと京急線が運行するだけでは、その先が困ってしまうので、東京全体の対応が必要になります。
でも、鉄道が24時間営業されると「終電だから帰る」と言えなくなりそうで、そっちの方が困るかも知れません。
夜中まで飲んでも帰りの心配がないのは結構ですが、次の日が大変そうです……
【東京都】
今回から、多摩川沿いを歩こうと考えています。
厳密な川沿いでは見所が少ない気もするので、川周辺のスポット等を探しながら歩こうと考えています(本シリーズでは神奈川県も歩くと思いますが、@東京に含めます)。
ということで、まずは河口に面した羽田空港からスタートします。
羽田空港(Map)
旅行で空港を利用する時というのは、出発時間が気がかりですから、余裕があっても食事やお茶する程度で、空港施設を見て回ることはできなかったりします。そんな関心よりも、心はすでに旅先に飛んでますしね……
「空港まで見送り」なんてことも無いので、飛行機搭乗の目的以外でこの地を訪れたのは初めてという気がします。
時間に余裕のある視線で見回すと、空港機能以外の余計な施設ばかりが目につき、ショッピングモールのような印象を受けます。
最低限必要と思われるのは、準備し忘れたモノを扱うコンビニ、急な体調不良等に備えてドラッグストア、その場から発送してくれる特産品の土産物店と、立ち食いそば屋があればいいでは? と思ったりします。
でも、目的地がローカル空港だったりすると、飲食店が営業していない場合もあるので、腹ごしらえは大切かも知れません……
わたしは全日空(ANA)派なので、2004年開業した第二旅客ターミナルへANAが引っ越してからは、当初ビッグバード(現在は両ターミナルの総称)と呼ばれた第一旅客ターミナルに立ち入ることが無くなりました。
久しぶりなので細かな記憶は薄れていますが、京急線出口から上がった正面にあるフードコート的な飲食スペースで、よく食事した事を思い出しました(どこもおいしくはないんですが……)。
また、搭乗手続きを済ませた出発ロビー内には、第一ターミナルの方が飲食店は多かったのでは? との記憶もよみがえります。
中まで入れないので分かりませんが、喫煙所とトイレの場所はキッチリ覚えていそうな気がします……(下写真まで3点は第二旅客ターミナル)
羽田空港4本目の滑走路となる、D滑走路の運用に向けて管制塔が新設され、2010年に運用が始まりました。
管制業務には全滑走路を一望する必要があるので、高さは116m(世界第3位)あります。
下に見えるこれまでの管制塔は、埋め立て拡張後の運用開始(1993年)には、かなり注目された最新鋭の施設で、TV等で紹介されましたが、16年で役目を終えたことになります。
空港の建設や拡張には長期の準備・工事期間が必要ですから、航空業界の情勢変化に対応することは、とても難しそうです。
でも、このデザインもへったくれもない容姿は、役所的ではあっても「可及的速やかに(高い管制塔を造ればいいんでしょ!)」準備が進められた様子が、見て取れるような気がします……
1984年から始まった、沖合埋め立て事業により新たに生まれた広大な土地は、すべて大田区に組み込まれたので、「東京23区最大の面積」を長年保った世田谷区は、その地位を大田区に譲ることになります。
エーッ、知らなかった。世田谷区がずっと一番だと思っていました。
D滑走路の建設でまた広がりますが、さん橋方式部分(全面埋め立てではない)はどんな扱いになるのだろう?
旧穴守稲荷鳥居(Map)
羽田空港は1931年(昭和6年)、日本初の国営民間航空専用空港(軍は使用しないの意)として開港します。
第二次世界大戦後(1945年)米軍に接収され、ハネダ・アーミー・エアベースとなり、拡張工事の際には、周辺住民に48時間以内の強制退去が命じられます(米軍の横暴ぶりは沖縄と同じ)。
区域内の住民や、穴守稲荷の社殿(おそらくご神体等)だけはからくも移転しますが、鳥居は米軍も壊しづらかったようで、基地内にポツンと残されることになります。
返還後も移設工事の度、工事関係者に事故や不幸があったりするいわく付きの鳥居とされます(テレビで紹介されると「心霊スポット」にされてしまいます)。
現在は、東京モノレール・京急線「天空橋駅」近くに移設されています。
もう元の神社とは切り離されたのでしょうか、現在は「平和」という額が掲げられています。
そこには、米軍に接収された当時の思いが込められているようです。
穴守稲荷神社(Map)
地域住民の思いが込められた神社であることはうかがえるのですが、でも、何の「穴」を守ったの?
「堤防に開いた穴の水害から、水田や人々を守る」ことなんだそうです。
アシ等の茂る湿地帯が、江戸時代(1804年)に開墾され堤防が築かれるも、嵐で決壊し海水による大きな被害を受けたため、住民が堤防の上に稲荷大神を祭り、水害が起きぬよう祈ったことがこの神社の起こりとされます。
上写真は、賽銭箱にしるされた神社の紋で、描かれるのは稲穂と米俵(?)ですから(五円玉の穴を埋めたよう?)、豊作祈願とされたようです。
湿地だった羽田一帯には、川からもたらされた栄養分もあり、水の管理ができればいい水田だったように思います。
京浜急行空港線「大鳥居駅」の名称は、穴守稲荷が現羽田空港内にあった時分、この付近に「一の鳥居」(一番外側の鳥居)があったことによりますが、その鳥居は現存しません。
現在の天空橋駅近くに移設され現存する鳥居は、1929年に京浜急行(当時京浜電鉄)が、当時の社殿近くに奉納したそうです。
ということは、現在の「穴守稲荷駅」の名称は、神社の移転後に改名されたことになります。
何でも、以前の穴守稲荷付近(現羽田空港内)まで路線があったらしい記述もあるので、京急はこの地域に力を入れていた分、米軍占領の影響も大きかったようです……
そんな苦難を乗り越えてもらったおかげで、神奈川方面から空港へのアクセスがとても便利になったことを実感しております。
「京急川崎」〜「京急蒲田」〜「羽田空港」という、とても有り難い列車があるのですが、現在早朝には運行されません(早朝便は、運賃の安さや、乗り継ぎ等の関係で、結構利用することがあります)。
この先、D滑走路の運用開始(2010年10月31日)と同時に、24時間国際線化されると聞きます。
バスやタクシー業界は歓迎でしょうが、鉄道系はどう対応するのだろうか?
モノレールと京急線が運行するだけでは、その先が困ってしまうので、東京全体の対応が必要になります。
でも、鉄道が24時間営業されると「終電だから帰る」と言えなくなりそうで、そっちの方が困るかも知れません。
夜中まで飲んでも帰りの心配がないのは結構ですが、次の日が大変そうです……
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