2010/09/06

脅かされる無縁仏の安息地──ありがた山

2010.8.28
【東京都】


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 京王よみうりランド駅近くの、遊園地からの歓声が響く谷間には、現在も営業を続けている観光果樹園がありました(ブドウとナシ狩り)。
 ナシには夏後半のイメージがあり、ブドウは秋の味覚ですから、これからがかき入れ時と思いますが、気象庁が「この夏は異常気象でした」と異例の発表するくらいですから、果実のでき具合が気がかりです。
 テレビメディアの影響でしょう、世間では(風説のレベルとして)「異常気象」の表現が以前から使われていましたが、プロの言葉として耳にすると「われわれもお手上げ」と言われているようで、余計不安になってしまいます。
 台風も寄りつかないこの暑さは、一体いつ収まってくれるのでしょう……


 前回よみうりランドの続きかと思われそうですが、付近の情報を調べるうちに、隣接する丘陵地の土地開発(南山東部土地区画整理事業)では、かなり長期にわたり意見の対立が続いていることを知りました。
 そこは映画『平成狸合戦ぽんぽこ』の舞台との記述や、実態を見ることができる散策路もあるようなので、是非歩いてみたいと思い立ち、連チャンで京王よみうりランド駅に降り立ちました。
 がしかし、時すでに遅し……


威光寺(Map)


 弁天洞窟とされれる洞穴(新東京百景)があり、その中には弁財天(大蛇の化身)をはじめいくつもの石仏が祭られています。
 あれ? ここはお寺だから仏としましたが、弁天様は七福神ですから神様ですよね?
 弁天様のルーツはヒンドゥー教の女神「弁才天」で、まず仏教に、そして神道に取り込まれ「弁財天(才=財の音から、お金の神)」となったので、どっちもありのようです。
 この洞窟の起源は横穴式の古墳だったとされ、拝観券に「その昔」とあるくらいで由緒は不明のようですが、江戸時代までは弁財天が洞窟に安置されていたそうです。
 それが、明治政府の神仏分離令(神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教を区別させること)により、本尊をお堂に移したそうですから、仏様なんですね。
 でも神仏の区別なく、弁財天(弁天様)に対するイメージは悪くないと思われるので(嫉妬深いと聞きますが)、日本人には便利な信仰対象のようです。

 この洞窟内に照明は一切なく、渡された1本のローソクだけでは、ほとんど何があるのか識別できない状態なので、写真も出口付近のこんなものしか撮れません。
 胎内めぐりというのは、洞窟等を仏の胎内に見立てて参拝するわけですから、明るさを求めてはいけないのですが、懐中電灯を手にした家族を目にし「その準備は正解」と思ってしまいます……


ありがた山(Map)


 よみうりランドと谷を隔てた丘陵地の斜面に、4,000体を越すとされる無縁仏の石仏群がひっそりとたたずんでいます。
 これは関東大震災の後、当時の東京小石川区・駒込区周辺に放置されていた無縁仏が、1940年〜43年(昭和15年~18年)頃「日徳海」という宗教団体により、この地に運び込まれ安置されたものです。
 営利を目的としない志や、安置場所の開墾や移設作業の労苦には、とても頭が下がる思いですが、それをあえて戦時中に行ったところに彼らの目的があるのかも知れません。
 1941年に第二次世界大戦が始まり、1943年には上野動物園の猛獣たちが、空襲時に逃亡する危険があるため毒殺された時期に、空襲から無縁仏を疎開させたことになります。
 そこには、震災で亡くなった方々を二重苦から救いたいという心情に加え、従事者たちにも差し迫る事情があったようにも思われます。
 奉仕作業後の食事にありつきたい、稲城に行けば食べ物が手に入る、と考える人がいたとの想像は、ちょっとフィルターが曇りすぎでしょうか?
 もしそれが事実でも、非難されるような時代ではなかったと思います。

 彼らは、都内で振り返られなくなった石仏等を、山に運び込むことに功徳があると信じていたため、石を運び込む度に「ありがたや」と唱えた事から、地名に語り継がれるようになったとされます。

 そんな地を、“1970年代特撮番組ロケ地の聖地”と称賛する声もあり、「レインボーマン」「仮面ライダーX」等のロケ地になったという詳細な記述には感心しました(下写真は、もう斜面が崩れてしまい荒々しさが失われた斜面)。


南山地区(Map)


 開発をめぐり意見が衝突する地域は数多くあり、素通りすることの方が多いのですが、ここは何が引っかかったかというと、京王相模原線の車窓から見えた生々しい斜面の記憶に結びついたからです(上写真の崩壊前のがけ。同様の光景はJR南武線でも見られました)。
 それは「稲城砂」とされる良質な砂が採れたため、高度成長期に建設資材として大量に採取された跡で、採取終了後は丘陵がえぐられたままの姿で放置されていました。
 南山地区はそんな崖の上の地域にあたり、今度は横に削られています。

 多摩ニュータウン造成時には、南山地区も含めた開発案が検討されますが、地権者たちは集合住宅ではなく戸建て中心の住宅街を期待したため計画はとん挫します。
 しかし紆余曲折を経た結果、自治体は開発推進の立場から地権者の相続税対策に配慮し、変動する地価相場の中で何度も計画案を作り直して、開発業者と共に地権者を追いつめていったようにも思えます。

 以前から、里山擁護・宅地化の反対運動が継続されていますが、その内容を見ると上記の『〜ぽんぽこ』や「オオタカの活動域」等、周囲から借りた知恵の集約のように思え、地域住民の顔が見えない印象があります。
 この地域に関しては、おぜん立てが整ったところに異を唱たように見え、最低限でも土地を買い取れるだけの資金工面の見通しくらい持たなければ、対抗はできないのではないか、という印象を受けます。

 そんな地域を歩くつもりが、「ありがた山」にはバリケードが設置され、散策路が立ち入り禁止となっていました。もう工事が始まっているようです。
 ちなみに無縁仏石仏群の地も開発予定地に含まれるらしいが、計画案はいくつもあるそうでどうなるか分からないようです……


果樹園(Map)

 こちらは京王線稲城駅に近い開けた場所にある果樹園で、袋が開いています。この袋には、すっぽりとかぶせる袋や、上部だけにかぶせる笠かけ等の種類があるそうです。

 これまで何度か「ガキ時分の多摩川付近にはブドウやナシ狩りのイメージがある」と書きましたが、この付近には当時の光景を想起できる数の果樹園が点々と残されていて、「このイメージだよ!」と心の中で声を上げました。
 自治体の方針は、完全に「宅地化」を目指していますが、その合間にどっこい生き続ける果樹園が点在しています(つぶしたら名産品が無くなってしまいます)。
 この付近にこれだけの果樹園が残されている理由を考えてみると、交通の便の悪さと、ゆるいながらも傾斜地であるため、大規模な開発には適さなかったためと思われます。
 以前紹介した、二ヶ領(にかりょう)用水が引かれた地域は、用水路が引ける場所柄なので平坦地になります。
 そこは多摩川に面した場所で、交通の便もJR南武線、小田急線、田園都市線、東横線等があり、工場誘致がしやすかったため、おそらくあっという間に農地は消えていったことでしょう。
 一方この地は、京王相模原線の延伸(1971年京王よみうりランドまで開通)までは交通の便が悪く、開発からは取り残されたため、果樹園が生き延びられたのだと思います。

 南山地区の開発には、これまで多額の税金が使われてきた「引き返せない状況」であることは分かりますが、個人的な意見としては、果樹園は継続の方向でお願いしたいところです……

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