2011/06/20

多様さが暮らしやすさを生む──学芸大学

2011.6.11
【東京都】


より大きな地図で 東横沿線 を表示

 東横線学芸大学駅から降り立ち周囲を見回すと、気取った印象もなく、今どきの駅前商店街に欲しいものはフルコースで並び暮らすには便利そうですし、渋谷から4つ目の駅で急行も止まるなど、町の宣伝文句が一目で分かる光景になっています。
 高い建物は無いのに、見通しが利かないのは、建物が密集しているためですが、それを息苦しく感じなければ、引っ越してきたその日から恩恵を受けられそうな、期待感が持てる町という印象です。

 しかし、駅の地図で一番近そうな郵便局に行ってみると、簡易的な店舗で土曜日は12:30で営業終了してしまいます。現金を引き出そうと訪問先で時折立ち寄りますが、郵便局の立地は町の便利さを左右する要素のひとつです。


 その閉まっていた郵便局の並びに、建物に歴史を感じさせる「うなぎ 宮川」(上写真)があります。
 以前市ヶ谷で食べたか? この店名はよく目にするので調べてみると、のれん分けとは違う流れがいくつも派生したようなので、面倒に首突っ込むのやめました。
 ここは鷹番(たかばん)店ですが、近くの碑文谷(ひもんや)でも目にします(この2店舗は系列らしい)。
 時折、無性にうなぎを食べたくなるのですが、あれこそ「体の要求サイン(いま食べないと体が参ってしまう)」という気がして、素直に従ってしまいます……

 東京学芸大学(国立)は、1964年小金井市に移転し跡地が附属高等学校となったので、駅名のはなごりはかろうじて残されています。


碑文谷公園(ひもんや)(Map)

 東横線の車窓から眼下に見える公園で、そのうち歩こうと思いつつ、はや十余年…… 思い立ったときに踏み出さないといつまでもたどり着けない、という教訓です。


 目黒区内では古い公園のひとつとされ、1932年市郡合併により東京市が35区となり、目黒区(目黒町、碑衾町(ひぶすま)が合併)が生まれた翌年に開園されます。
 この池は、農村が広がっていた江戸時代から碑文谷村の灌漑用貯水池として管理されましたが、市郡合併と時を同じくして、池の周囲を公園として永久保存することを条件に東京市に寄贈され、公園化が実現します。
 元は「三谷の池」と呼ばれ、現在よりかなり大きかったそうで、同区内の清水池公園と共に立会川の源流とされます。

 車窓からは気付かなかった、目黒区立碑文谷体育館、野球場、テニスコートも併設される、区民の憩いの場+スポーツ施設となっています。
 また一角には、ポニーやウサギなど小動物とふれあえる「こども動物広場」もあります。
 上写真は、薄暗いポニーの厩舎(きゅうしゃ)で黙々と世話をする小学生の姿で、大勢で糞の掃除などをしているのですが、おしゃべりすることもなくせっせと働いています。きっとその後に、馬とのふれあいタイムが待っているのでしょうね(下写真)。


 碑文谷という地名には、ゆかりを調べてみたくなる響きがあります。
 以前、碑文谷八幡宮(後述「すずめのお宿緑地公園」に隣接)の西側を通る旧鎌倉街道脇の地中から、室町時代のものとされる梵字が刻まれた碑文石が見つかり、「碑文が刻まれた石のある谷」とされるのが通説のようです。
 地名の記録と年代が食い違うなどの意見があるにせよ、どこにでもありそうな由緒にちょっと落胆。でも残された歴史を大切に。
 上述の「碑衾町:碑文谷村と衾(ふすま)村の一部が合併し碑衾村〜後年町となる」にも名が残りますから、有力者がいたように思えます(「衾(ふすま)町」に関しては、次回ふれるつもりです)。

 東横線の開通は1927年(昭和2年)で、当時は碑文谷駅(現学芸大学駅)だったそうです。


 「三谷の池」とされた江戸時代は、現在の目黒本町五丁目・六丁目、原町、洗足、鷹番および碑文谷一帯は、将軍家「六筋御鷹場」のひとつとされる鷹狩り場でした。
 現在の「鷹番」の地名は、付近に鷹場番所(監視所)があったことに由来し、鷹場への立ち入りを禁じる「鷹番の高札」(こうさつ:法令の掲示板 時代劇で目にする)が保存されます。
 将軍様の道楽のために立ち入りが禁じられますが、現在の国有地で違法狩猟・採取を監視していると考えれば分かりやすいかも知れません。


 碑文谷で最も有名なダイエー碑文谷店です。
 ダイエーの中でも売り上げ・利益共にトップクラスで、巨艦店とされるそうです。
 7階建ての大きなビルですが、ここは横井英樹(乗っ取り屋、ホテルニュージャパンで知られる)が200レーンある日本一のボウリング場として建設したもので(1970年前後)、作りもボーリング場的だそうです。話の種に入ってみましたが、なるほど見通しの利く印象。
 建設途中にボーリングブームが下火となり、ダイエーの中内㓛に貸したそうです(戦後のどさくさに財を成し、功罪含めて日本を牽引することとなる、怪しげな名前が並びます)。

 世間からもスーパーの代表的店舗とされ、外国の高官が視察に訪れたり、店頭での募金が始まった際の取材等で、メディア露出機会が多い店舗になります。
 高級スーパーという印象を持っていましたが、それでは近所のスーパーに対抗できないため、価格は一般的なスーパーと同レベルだそうで、店内の印象も気後れするものではありません。


すずめのお宿緑地公園(Map)


 傾斜地の多い目黒一帯では、江戸時代後半から竹の子栽培が始まり、大正時代にピークを迎えます。
 昭和初期の竹林はスズメのねぐらとなり、幾千ものスズメが朝夕の出入りの際には、空が薄暗くなったそうですから、「すずめのお宿」の響きからイメージするメルヘンチックなものではなく、かなり騒々しかったことでしょう。

 上写真の竹にはまだ皮が巻き付いていますから、この春生えてきたように見えます。
 太さも10cm以上ありすっかり大人の竹(?)の姿ですから、すさまじい成長スピードがうかがえます。


サレジオ教会(カトリック碑文谷教会)(Map)

 カトリックの教会で、1954年「江戸のサンタ・マリア聖堂」としてサレジオ会によって建設されたため、サレジオ教会として親しまれます(バス停も「サレジオ教会」)。
 この「サンタ・マリア」とは聖母マリア像「親指の聖母」(絵画)のことで、教会内に掲げられているそうです(レプリカ。本物は上野国立博物館蔵)。
 そして「江戸」のゆかりは、1708年(江戸時代中期)鎖国とキリスト教禁制の日本に渡ってきたイタリア人宣教師シドッチが、その絵を持ち込んだことにさかのぼります。
 彼は屋久島に上陸後(聞いた名前と思ったら屋久島で出会っていました。かの地にも小さな教会があります)即捕らえられ、茗荷谷の切支丹屋敷に幽閉され10ヵ月後に亡くなります。
 教会の建設中にその絵画が博物館で発見されたことから、ここはシドッチが江戸時代の日本にもたらした「聖母マリア像」に捧げられた存在とされます。

 有名人が結婚式に利用する教会がこことは知らなかったのですが、三浦友和・山口百恵、松田聖子・神田正輝、三浦知良・設楽りさ子等が、ここを利用したそうです。
 写真左側の修復中の鐘楼は、東日本大震災で塔上の十字架が折れたものを修復するためだそうです。

 今回はそれほど広い範囲を歩いてないのですが、分野が異なる町の構成要素を多く見られた気がして、そんな多様さが暮らしやすさ(豊かさ)を感じさせてくれるのだろう、との印象を受けました。


 上写真は自宅近くのマンションの軒先です。昨年気付いたのですが、やはり毎年同じ場所で子育てをするようです。
 巣立ち間近のようで、4羽いるヒナたちはもう巣からはみ出しそうなほど大きくなっています。
 週明けには巣立っていったようですが、来年はもう少し早い時期に撮りたいと……



追記
 今週の接近遭遇──長澤まさみちゃん at 六本木ヒルズ(6月17日)

 扉が閉まりかけたエレベーターに2人の女性が乗り込んできます。
 大きなふちのメガネをした若い方の女性が、伏し目がちにわたしの方に向かってきます。
 わたしのリラックスした姿勢から、ちょうど目線に入る高さに女性の顔があったので、自然と彼女の顔を眺めていました。
 彼女がわたしの目の前で扉の方に向かい直す瞬間の横顔に「エッ、長澤まさみ!?」の衝撃が……
 「まさか」とは思うも、背の高いイメージからも(調べたら168cm)わたし(調べても見つかりません180cm)からつむじが見える程度の身長差(ペッタンコの靴を履いてた)ですから、「あるかも?」と。
 目の前に立つ彼女の後ろ姿は、とてもきゃしゃな体つき(スレンダー)で、頭が小さいこと! なので、背は高くてもデカイ印象の無い宝塚の男役のような「カッコイイ」後ろ姿を、数十秒間眺めていました(「手を伸ばせば届く距離」という表現って切ない……)。
 わたしが先に降りる際、顔を見ながら(のぞき込むようなことはできませんが)彼女の前に出る時に目が合い、「エッ、何、バレた?」とこちらをうかがいながら、テレビでも見かける小刻みに首を動かすしぐさを目にし、これは間違いないと確信しエレベーターを降りました。

 なるほど、あの文句の付けようがない容姿なら「使いたい」と思うのは当然だろうと納得できましたが、「外見がカワイイだけでいいの?」を求めると、誰もいなくなっちゃうかも知れませんしね……
 まだ若いから、大きめの眼鏡をしてスッピンでも、すぐバレちゃうよ、まさみちゃん!
 というのが世間の視線ですから、プライベートで外出する度にそんな視線を意識する必要がある人たちの不自由さを、逆に理解できた気がします……

0 件のコメント: