2012/01/04

運河のある町──芝浦

2011.12.24
【東京都】


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 JR田町駅海側の「芝浦」は現在ベイエリアとされ、高層マンション群がニョキニョキ立ち並びますが、江戸時代まで田町駅付近が海岸線だったので、芝浦一帯は全域が埋め立て地になります。
 明治末〜昭和初期に進められた隅田川口改良工事で浚渫(しゅんせつ:海底などの掘削)された土砂が、この地域の埋め立てに利用されました。
 その地名と共に記憶される東京工業大学(東工大)や芝浦工業大学の立地理由には、埋め立て地に立ち並んだ工場や倉庫で即利用可能な技術や機械の共同開発が、目的のひとつにあったのでしょう。
 しかしバブル期を境に、工場や倉庫は生産拠点の集約、海外移転の必要性、そして地価が高騰した売却気運の高まりから、次々と消えていきます。

 電気メーカー「東芝」のルーツは「東京芝浦電気」なので同地にゆかりがあるも、本社ビルは浜松町駅付近になります。
 田町駅前の国道から見えますが、屋上にレーダー施設を備えるので、警察や海上保安庁の建物かと思うようなビルです。
 そんな設備は、国家機密等に携わる企業であるとのアピールですから、テロの標的にされそうな怖さを感じたりします……
 ──芝浦工大と東芝は、立地、名称、目指す分野とも似た印象があるも、単なるご近所さんだそうです。

 またまた新幹線の登場ですが「運河付近は通らないでしょ!?」とのイメージは正しく、これは大井車両基地への引き込み線になります。


 現在ベイエリアに林立するマンション群には「運河を利用して好感度アップ!」を目指す、雑誌に出てきそうなスポットがあります。
 埠頭(ふとう)整備に伴い建てられた工場や倉庫街はまだ点在するも、再開発のマンション群に押され気味です。
 かって、港湾労働者でにぎわった飲食店が細々と残る様子に、高層マンションの新しい住民は「この汚い店は何?」と思うのでしょうね。

 開港場とされた横浜港が関東大震災(1923年)で壊滅的被害を受けたことから、東京港の竹芝・日の出・芝浦の各埠頭が整備されます(1941年:第二次世界大戦開戦の年)。
 終戦後はコンテナ化が進み、品川埠頭がコンテナターミナルとされる(1967年)まで、日本の高度成長の礎(いしずえ)を支えた「芝浦の労働者」の腹を満たす「現代日本の母のような飲食街だった」との表現で伝わるだろうか?
 その後港湾施設は大型化が進み、現在も活躍する大井コンテナ埠頭などが花形とされます。

 付近では外国人家族を多く見かけその姿から、欧米の方は「ファミリーを大切にする」というイメージを思い浮かべますが、実際の印象には「引きこもり型?」のような、限られたエリアで暮らすことを好むように見えます。
 それは日本人家族が転勤で海外生活する際も同様に「内輪的」な生活をすると耳にしますから、お互いそんなものかも知れません。
 夫婦は大丈夫でも、子どもがいると難しい(と言い訳したい)のでしょうが、そこで踏み出して心を開けば「未知の自分に出会えるかも?」と、自分もできないことを勝手に……(右写真は、品川方面)

 田町駅芝浦口付近では、結婚式ではないにしても小ぎれいにした若い女性を見かけますから、ちょっとした「お出かけスポット」があるのかも知れないので、注意しておきます。

 運河と共にこの地域の名物と思える東京モノレールです。
 先日まで神奈川県民のため、京急羽田線の開通以来乗る機会はなくなりましたが、「モノレールに乗る=旅行出発」の気分があります。
 車窓の風景に「ずいぶん変わった!」も「心は旅の空」なので、感心はうわべだけで何も覚えてない意識を思い出します。
 そんなモノレールを真下から見上げていると、乗客たちも「関係ねぇしなぁ…」だったりするのかと……
 わたしには、帰省などで利用する方が抱くイメージをまったく想像できないので、どんな心境でモノレールの車窓を眺めているのか、お聞かせ下さい。
 私見としては、ふるさとの空港周辺は「かわらないなぁ〜」の方が、うれしく思える気がします。

 だいぶ前ですが、夏休みの旅行から戻るパターンとして、土曜日のラス前便で帰ることが多く(九州方面と思う)、モノレールに19時〜20時台に乗る機会が多かったころ、車窓から「東京湾花火大会」の様子が何年も続けて見られたことを思い出します。
 とても近いし、走る車窓からの眺めには、花火が生きているようなライブ感があった気がします。
 今年は、屋上に上がって見よっ!


 現在も国内外で量の多い物流を支えるのは船舶輸送ですから、荷を扱う流通業者にとって運河が重要であることは変わりありません。
 田町駅芝浦口側には「運河のある町─芝浦商店会」の旗が並びますが、駅に最も近い運河は建物が林立し遊歩道設置が精いっぱい。次の運河は小型漁船やレジャーボートの係留施設がある程度。実際物流に使用可能なのは最も海側にある運河だけですが、そこに架けられた橋は船の通行を遮断します(利用可能なのは、橋を挟んだ両端のみ)。
 運河とは人工的に造られた水路の総称で(スエズ運河等)その構造はさまざまですが、ここは水路を確保しながら埋め立てられました。
 当然その埋め立て地への橋が必要になりますが、そこに大型船を通すような高い橋を架けることは現実的ではなかったようです。

 最も海側の運河にある倉庫(上写真)は休業日ですが、船の到着に備えた整理整頓は「港湾業務は時間との闘いである」の主張にも感じられ、船関連の業務経験者として好感を覚えます(整理されてない場所は結構あるんです)。


 ここは「ジャパンタイムズ:メイドインジャパンの英字新聞社」が入るビルで、以前何度か訪れたことがあります。当時は視界を遮るビルがなく、山手線からこの奇抜なデザインの建物が見えていました。
 ジャパンタイムズは現存する日本最古の英字新聞社で、1897年(明治30年)創刊から戦時中を含め幾多の苦難を乗り越え、1996年に(株)ニフコ(プラスチック工業用ファスナーメーカー)に買い取られます。
 ビルは親会社の持ち物ですから、ロビーにさまざまな製品がディスプレイされる様子に、とまどった記憶があります。

 親会社の業種は何であっても、「報道メディア」としての環境は維持されているようで、恵まれた環境との印象がありました。
 しかし、親会社が手放そうとする際には、買い取ってくれる会社が求める「高いクオリティ」が必要条件とされるので、刺激ある職場なのかも知れません……


 新参者が町を知るため田町駅周辺の情報を調べる中で、「ジュリアナ東京」の名称が登場することに疑問を感じながらも、この地にあったことを知りその勘違いに気付かされた時は「ワレ、うぶやの〜」と、潔白が証明されたような恥ずかしさがありました……
 まるで関心は無く、これまで「ジュリアナ」は六本木にあったと思い込んでいて、それは「マハラジャ」の間違いかも知れませんが、どちらも入ったことありませんし、お立ち台の様子などはTVで十分という気分でした……
 どうでもいいことですが、まるで現実と違う認識をしていたことが恥ずかしく、その旧跡?(現在フォルクスワーゲンの販売店舗)を見学に行きました。

 同じビルにあるボーリング場「ポートボール」は、以前浜松町に勤めた時分、会社のボーリング大会に参加した覚えがあります。
 ポートボールの名称は「港のボーリング場」の意味としても、年代的にはバスケットボールのリングの代わりに、台上の人が手でつかむと得点になる競技を思い浮かべますが、現在もあるのでしょうか?


 個人的な印象ですが、この光景を目にした瞬間「ここに来たことある!」との「強烈なフラッシュバック」を覚えました。
 現在は使用されない施設のようですが学生アルバイト時分か、写真右側のスペースで調査用の機材を広げた記憶がよみがえります。右上は「ゆりかもめ」。
 別の機会かも知れませんが、この海洋調査会社の作業で「福島第二原発:富岡の地名が記憶に残る」(津波被害を受けたのは福島第一)から海に排出される「原子炉冷却水(温水)」の拡散・生物影響調査をしたことがあります。
 排水口近くでは温水で成長した巨大な貝類(オバケ的サイズ)が採取されるも、さすがにそれを食べようとする人はいませんが、沖で取れた貝類は禁漁期なので、地元の船頭さんはよろこんで持ち帰りましたが、わたしは口にできなかった記憶があります。

 足を踏み入れた当時の原発は「平常運転時」でないと困りますが、議論以前に「原発は絶対安全!」(反対意見は排除)とされた時代なので線量計や防護服などはもちろんなく、ヘルメットをかぶらされるだけで、原発の敷地内を移動していました。
 20歳前後の自分でも「見えない放射線が飛び交っているはず」の知識はありましたが、安全神話を押しつけられる「戦時中」のような「強要的な意識統制」に感じられたことを思い出します。
 何より「原発反対住民を刺激するな」の達しから、作業服の社名から、トラックのロゴから全部「匿名化」を義務づけられたことに、不信感を覚えない作業者はいなかったはずです……

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