2012.3.18
【東京都】──「山手線を歩く! ⑩」
春分を過ぎても、ここで「ホッ」とひと息つくと痛い目に遭いそうな陽気が続きます。ここで風邪ひいちゃう悪い習慣があるので、もうしばらくは気を引き締めておかねば……です。皆さんお気をつけ下さい。
そんな季節の変わり目は天候が安定しませんし、このところ特に週末にぐずつくので、どんよりとした絵が続いています。
天気予報で、この季節の天候不順は「菜種梅雨:なたねづゆ 菜の花が咲く時期に降る雨」と諭され、納得はしていますが、今年東京では「春一番」は吹かなかったりと「春待ち気分が盛り上がらない」印象があります。
もう季節感うんぬんはいいから、早く暖かくなってくれ! という気分になります。でも花粉はもう飛び回っているようです……
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タカシマヤタイムズスクエア(Map)
「雨だし、どこ歩くかなぁ?」と気分は乗らないものの、地下道を歩けばほとんどの場所にたどり着けることに気付くと、瞬時にルートマップが思い浮かび、久しぶりに新宿の地下道を歩いてみるかと、やる気が出てきました。
代々木近く(とはいえもう新宿)で最初に思い浮かんだのは、紀伊國屋書店と高島屋の連絡通路ですが、甲州街道の南側(新宿駅新南口付近)のホーム上に新たな建造物を作る工事のためホームは見えなくなりました。
その連絡通路に通じる高島屋のガラス窓には、目隠しのシートが貼られ展望が失われています。
見晴らしの良さから開放的な印象があったのですが、「のぞき?」「のぞかれ?」という迷惑行為があったのか? 同じ階(高島屋側は5階)のトイレにも、目張りがあります。
高島屋で最もインパクトが残るのは「トイレからの眺望」なので、最上階のトイレに行ってみました。
トイレで写真を撮るヤツもどうかと思いますが、そこからは「これ、これっ!」(上写真)の、イメージ通りのスカッとした展望が広がっています。
てことは、下からのぞかれている、という事なのでしょうね。でも、男子トイレについては、理由が違う気もします。
以前は、この景色を見ながら用を足す「気持ち良さ」があった気がするので、「駅や都庁に向かって用を足すとはけしからん!」という理由かも知れません(トイレのレイアウトが変わったと思うも、違ってたらゴメンナサイ)。
建物の反対側には、展望デッキがあり新宿御苑が一望できます。
この季節では「何を撮ってるんだか」ですが、じきに全面が緑で覆われると思うとウキウキしてきますし、そのために寒さを耐えてきたんだ、と希望がわいてきます(近ごろ越冬を難儀と感じ始めています)。
以前はこのフロアにHMV(CD販売等の大型店舗)があり、サントラ盤やクラシックが充実していた印象がありよく来ましたが、現在は飲食店街にリニューアルされました。
日曜ということもあり多くの店舗で行列も見かけますから、いまどき売れないCD店舗より家族客向けのスペースとなったことは、ターゲットの絞り込みがしやすくなったように思えます。
新宿三丁目交差点地下道(Map)
上は、最近新宿で変わった場所として最も印象に残る、新宿三丁目交差点の地下道で、地下鉄副都心線の開通によりオシャレな地下道となりました。
以前は、新宿駅から地下鉄丸ノ内線の新宿三丁目駅改札や伊勢丹入口のあるこの付近までの地下道で、どん詰まりのこのあたりにはホームレスがたむろしていました(付近の臭かったトイレもリニューアルされました)。
1980年都営新宿線開通に伴い、どん詰まりの壁に穴が開けられ当時の映画館新宿東映付近(旧京王電鉄本社)まで地下道が延長されます。
人が流れるようになり雰囲気は明るくなりますが、まだ新宿の外れという空気感は残っていました。
副都心線と東急東横線の直通運転(2012年度開始予定)を目前に控えたこの町には、もう一方から乗り入れている東武東上線・西武池袋線からの利用者を、池袋の巨大店舗東武・西武デパートの網の目をくぐり抜けた客を渋谷へスルーさせずに呼び込めるか? 東急東横線利用者には渋谷という最大のライバルをしのぐ魅力をアピールできるか? という非常に難しい課題があります。
もう始まっているであろう「副都心線の戦い」に際し、地下道のメインストリートにウィークポイントは無くなりましたから、思う存分勝負に挑んでください、というところです(丸井はエスカレーターの向きを変える大規模リニューアル済みでした)。
いま思えば、この地下道整備は新しい地下鉄開通時にすべきと、満を持していたということなのでしょう。
思い出横町(Map)
新宿駅西口から大ガード交差点付近には、現在も木造低層の建物が並ぶ一画があります。
戦後の闇市をルーツとする「思い出横町:新宿西口商店街」で、親の世代には「しょんべん横町」と呼ばれましたが、いまどきその名ではホームページにも掲載できません。
思い出横町のHPによると、闇市でも政府の統制品は取り締まりが厳しいので、うどん粉等は扱えなかったそうです。
そこで統制品外の、進駐軍から流れてくる牛や豚のモツを扱うようになり、モツ焼き・モツ煮が庶民の胃袋を満たすようになります。
当時の流通品は鮮度や衛生状態の悪さから、焼く・煮るなどしっかり火を通す必要があったとしても、「肉を食ってる!」実感が庶民にはたまらないごちそうだったのでしょう。
また、濃い味付けが酒のつまみにはもってこいだったようですが、塩分を摂り過ぎた当時の働き盛りには高血圧症が多く、それは時代病とも言えそうです。
親の世代を反面教師として、食習慣を意識するようになったわけですから、感謝すべきと思います。
でもモツ焼き、モツ煮っておいしいですよね!? 食べたくなってきました……
東京都庁(Map)
以前西新宿にあった淀橋浄水場(母親の実家に向かうバスからガスタンクと共に眺めていた)の再開発から生まれた新宿の超高層ビル群は、1971年京王プラザホテルの開業から始まります(高さ178m)。1974年新宿住友(三角)ビル(高さ210m)に抜かれるまでは、日本で最も高いビルでした。
当時は背の高いビルが建つと、その高さ自慢を追いかけるような風潮がありました(東京スカイツリーへの関心と同様で、レベルは低くとも当時の最先端)。京王プラザは敷居が高いも、住友三角ビルの高層階には庶民的パブのような店舗があったので、大学時代には結構通った覚えがあります。
その後も超高層ビル群は増え続け、1990年東京都庁舎が完成します。バブル期に計画され、当時日本一の高さを誇る「バブルの塔」と呼ばれます。
当時は日本社会全体が「好景気感」に浮かれていましたから、こちらも恩恵を受けたことになるのでしょうが、「お金がお金を生む」という風潮には「卑しさ」的な嫌悪感を覚えたものです。
それゆえ関心が向かなかったのか、今回初めて節電で照明が落とされた「暗いバブルの塔」に上りました。
ご存知のように双頭の塔を持つ建物ですが、それぞれに展望施設があるとは! 「都財政のゆとり」を感じてしまいます。
案内係の勘違いで双方上らされましたが、海外観光客向けの北側の塔、都民がくつろげる南側の塔との性格分けは理解できるのですが、それぞれ45階に設ける必要があるのかしら? と思ったりします(現在は都民なので意見する権利があります)。
2008年完成「モード学園コクーンタワー:モード学園が建設の右写真ビル」は目立ちすぎで、印象として「うるさい」景観となりました。
「コクーン:繭」と言われなくても、見るからに「エイリアンの卵」ですから、「ここから何が生まれてくるのか?」との楽しみよりも、「変なモノが出てくるなよ」と不安視する人の方が多いのではないだろうか?
新宿中央公園(Map)
上は新宿中央公園の「新宿ナイアガラの滝」です。
昔から変わらないと思い歩いていると、社会のグレーゾーンで暮らしていそうな方が近づいてきて「現在職に就かれていますか?」と声を掛けてきます。
汚い格好はしてないつもりなので、ちょっとショック! ですが、いまどきはきちんとした身なりで日雇いの仕事を求めに来るのかも知れません。
帰り際都庁の駐車場で、そんな呼びかけでかき集められたような労務者風体の集団が整列している様子を目にしました。これからどこかへ仕事に向かうように見えます。
決して明るいとは思えない集団に、都の主導で何をさせようとしているのか? 検索しても見つからず、聞いておけばよかったと……
このタイトルは、アルタ前から西口へJR線路をくぐる地下道で、近ごろ目につくキャリーバッグをガラガラ引く若いアベックを追い抜く際に聞こえた会話によります。
女「アルタとか入りたかったなぁ〜」
男「抽選だし、ウキウキウォッチングに写っちゃうよ」(この表現ウケました!)
女「歩道でピースしちゃったり?」
男「写ったら、ここにいるのバレバレだぜ……」
きっと、秘密のランデブーなんでしょうが、二人の意識の違いが分かるところがおかしく、娘側の「いまここで、この人との既成事実を訴えたい!」衝動と、野郎側の「(遊んでるつもりはないも)いますぐ背負える自信はない」とまどいが感じられた気がします。
お互いのタイミングがあるでしょうから、うまくやって下さい、としか言えません……
視聴率低迷に悩むらしい「笑っていいとも!」も、このように「新宿の看板」であるため打ち切れない事情があるのでは?
放送局が番組を打ち切るのは簡単かも知れませんが、「アルタ前=いいとも!」という全国区の看板を失うことは、地方からの訪問者が「新宿訪問の目玉を失う」ことに直結しそうです。
そうなった際、フジテレビ側はお台場を目指してくれれば文句ないとしても、新宿側としては「アルタは聖地でないと困る!」という心情を、分かりやすく理解させてくれた訪問者の会話に思えました。
全国区に浸透した「新宿」=「アルタ」=「笑っていいとも!」というイメージの定着は、親から子の世代に伝えられるような「生きる伝説」の域に達していそうです……
2012/03/26
2012/03/19
天皇の「喝!」で動きだす国──原宿〜代々木
2012.3.11
【東京都】──「山手線を歩く! ⑨」
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明治神宮(Map)
天候の関係で「大震災から一年」となる日曜日に歩きました。
原宿駅周辺には、奇抜な格好をした若者を珍しがる海外からの旅行者が写真撮影するなど、普段と変わりない様子があります。
時間に余裕があったので後述の明治神宮御苑を歩くも、そのせいで横綱が奉納土俵入りをする社殿前への到着が少し遅れました。
ご察しのとおり、地震発生の時刻に明治神宮では何が行われるのか? を見たい気持ちで向かいました。
遅れたため何か合図があったのか分かりませんが社殿前の広場では、多くの人たちがたたずみ社殿に向かいこうべを垂れています。黙とうの時だったようです。
それはただならぬ光景ですが気持ちを理解できるので、写真は撮れませんでした(そんな姿こそ伝えるべきかも知れませんが)。
その様子から想起されたのは昭和天皇の崩御で、当時もこのような状況だったのかも知れないと……
平成天皇は、震災から一年に当たるこの日の「大震災追悼式」への出席を目指し、心臓手術を決断しました。
日本人の心に伝わったであろう英断と追悼式の言葉により、国民は「喝!」を入れられた思いがしたのではあるまいか。
そこには「これを言わずには、死ねない!」という心中を身をもって表現した心意気と、復興の遅さにいら立つ心情が感じ取れます。
「国民にはわたしから声を掛けますが、あなたたちには国政を任せているのだから、きちんと国を守ってもらわないと困ります」との、怒りが込められていたのではないか(それはまさしく「国民の声」です!)。
それを受け止めたであろう主に政府関係者には、決死の覚悟で取り組んでもらいたいものです。
それが効いたのかこの一週間で、急に(ガレキ処理の問題だけですが)トントンと前進するように見えました。
情けないと言うか、国民が自立できていない(自分は何をすべきかを考えられない)国には「天皇は必要である」という、甘えが感じられます。
わたしは天皇制の反対論者ではありませんが、せっかくいるのだから、その存在にしか出来ないことに専念してもらうべきと思います。
震災後の天皇の活動は、その存在にしかできないと確かに思えました。
信仰は自由でも、明治天皇に向かい震災の黙とうをするのは違うと思いながら参拝後に振り返ると、あれだけいた人たちは跡形もなく消えていました……
上写真は明治神宮御苑(神宮敷地内にあり、花菖蒲が見事な庭園)で、その奥(社殿近い場所)に清正井(きよまさのいど)があります。
由来とされる加藤清正は安土桃山・江戸初期の武将で、当時この地に加藤家の下屋敷があり清正の子が住んだとされるも、清正が暮らしたかは不明。
清正は熊本城、名古屋城の建築により「築城の名人」「土木の神様」とされたことから、この地でも伝説とされたようです。
現在その井戸はパワースポットとして注目される場所となり、「井戸の写真を撮ってケータイの待ち受け画面にすると願いがかなう」とのふれこみから驚くほどの人気で、この日は20人ほど(ほとんど女性)の行列がありました。
都心にキレイな水がこんこんとわき出す姿は、いまどきではとても珍しく癒されるものがありますが、ブームに右往左往する姿はどうかと思います。
その行列を目にして、早々に引き返しました。
明治神宮参宮橋口近くに、武道場「至誠館」があり、弓道、柔道、剣道、武道研修(合気道と剣術等)の指導をしています。
のぞいたことはありませんが、各道の第一人者を輩出する名門だそうです。
道場に近い芝生の広場で、弓道のいでたちか? 若い娘たち(高校生と思う)が輪になって踊っています。
弓を引く際の緊張感と集中力には、相当なテンションが必要と思うので、練習を終えてのリフレッシュなのでしょう。
オフに切り替わり普段の姿に戻る瞬間は、開放感から老若男女を問わず表情が明るくなります(遠かったので、ブレてますが雰囲気だけ)。
代々木ポニー公園(Map)
現在携わる乗馬関連雑誌で、代々木に乗馬俱楽部があることを知り、機会があれば寄りたいと思っていました。
ガキ時分実家から明治神宮に向かう際、小田急線参宮橋駅から歩いた覚えはあるも、そこに乗馬俱楽部があった記憶は残っていません。
乗馬俱楽部に隣接して、渋谷区立「代々木ポニー公園」があります。都心でポニーに無料で乗れる施設ですから、子どもには人気があります(狭いのは仕方ないよね)。
ホームページには「都会の中で多くの子ども達にさわられ、乗られるというのは、ポニーにとっては精神的にも身体的にも大きな負担となるのです」とあります。そのため、定期的に牧場で放牧をしているとのこと。
人間の側にすれば、都心で馬と接することができてとてもありがたいが、馬の側にしてみれば「ストレスたまるんだよなぁ〜」のようなので「そんな馬の気持ちを大人になっても忘れないでね!」という施設になります。
東京乗馬俱楽部(Map)
東京乗馬倶楽部は1921年(大正10年)に創設されその後社団法人(社団・財団法人設立には官庁の許認可が必要だが、法人税・寄附金の税が優遇される)とされます。
1909年(明治42年)設置された陸軍代々木練兵場(演習地で、現在の代々木公園、NHK放送センター、渋谷区役所、渋谷公会堂周辺一帯を含む)で使用される馬の厩舎(きゅうしゃ)が、起源となりそうです。
日露戦争(1904〜1905年)で『坂の上の雲』(司馬遼太郎)にも描かれる、ロシアのコサック騎兵を打ち破った勢いからも、騎馬隊充実に注力された時期ではあるまいか。
宮内庁の厩舎は皇居内にあるらしいので、やはりここは陸軍に由来するようです。こんな都心で馬を飼い続けられるのは、強力な後ろ盾があるためでしょう。
前回触れた代々木練兵場→ワシントンハイツですが、占領当時、米国首都「ワシントン」の名を付けたのは、ここを占領の中心地とするアピールだったのでしょう。日本は都内の米軍施設の中で最重要地として対応させられます。
元軍用地なので占領されて当然ですが、東京でオリンピック開催にあたり、この土地を戦後の占領下から自立した姿の象徴としたい旨を嘆願したのでしょう。
平和の祭典「オリンピック」を盾に東京から「ワシントン」を排除することに成功しますが、そのためにどれだけの負担を強いられたのかは想像できません……
右写真のファッションは乗馬俱楽部の写真等でよく見かけますが、地味に見えてしまうのは闘牛とは逆で、あまり派手な格好をして馬を刺激しないためのようです。
ハンチングは似合うと思うのですが「ブリティッシュスタイル」をそのまま取り入れても、様になる日本人は少ないように感じたりします(結構有名な人かも知れないのでこのへんで……)。
少ない知識から。乗馬のスタイルにはルーツである「ブリティッシュ:貴族起源」と、生活感のある「ウエスタン:西部劇でなじみの」があります(日本式馬術は廃れたそう)。
日本で前者を目にする機会といえば皇室の祝賀パレード程度しかありませんが、われわれは後者の西部劇を見て育った年代なので「乗馬=ウエスタン」のイメージに支配されています。
オリンピックの競技には、トップハット、燕尾服、白の乗馬パンツでビシッと決めた服装が義務づけられた「ドレッサージュ」という、馬の動作をどれだけ制御できるかを競う種目があります(70歳の法華津選手がロンドン五輪代表に選ばれた)。ロンドン五輪では注目してみようと思っています。
国立オリンピック記念青少年総合センター(Map)
前回「小田急線の車窓から見える」とした、オリンピック選手村に使用された施設をのぞいてきました(1980年代、中国残留孤児が肉親捜しに来日した際の宿泊先とされました)。
門を入った最初の印象は、以前の公団アパート的なイメージではなく「サンリオピューロランドか?」という、パステルカラーに彩られデコデコ(装飾過剰)なテーマパークのようで、「何の施設?」と用途が想像できません。
ここは、体育館、プール、テニスコートだけでなく、ホール、研修施設や宿泊施設も備える、スポーツ総合センターとなっています。
また、近所の子供たちの格好の遊び場となっていますから、近くにあったらいいのにと思う施設です。
以前小田急線から見えた公団的な集合住宅は、ワシントンハイツの単身向け住宅だったようです。
米軍から返還後、集合住宅とかつて代々木公園に広がっていた一戸建ての住宅群はそのままオリンピックの選手村として活用されます。アメリカへの支払いはかなり大きかったでしょうから、とても新築する予算までは無かったと想像されます。
とはいえ「基地返還」→「オリンピック選手村」という「日本の復興事業のシンボル」は、お金に換えがたい自信回復の後押しとなりました。
現在もその時に感じた「夢」を思い出して、沖縄普天間基地等の問題に取り組む必要があるはずです。
【東京都】──「山手線を歩く! ⑨」
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明治神宮(Map)
天候の関係で「大震災から一年」となる日曜日に歩きました。
原宿駅周辺には、奇抜な格好をした若者を珍しがる海外からの旅行者が写真撮影するなど、普段と変わりない様子があります。
時間に余裕があったので後述の明治神宮御苑を歩くも、そのせいで横綱が奉納土俵入りをする社殿前への到着が少し遅れました。
ご察しのとおり、地震発生の時刻に明治神宮では何が行われるのか? を見たい気持ちで向かいました。
遅れたため何か合図があったのか分かりませんが社殿前の広場では、多くの人たちがたたずみ社殿に向かいこうべを垂れています。黙とうの時だったようです。
それはただならぬ光景ですが気持ちを理解できるので、写真は撮れませんでした(そんな姿こそ伝えるべきかも知れませんが)。
その様子から想起されたのは昭和天皇の崩御で、当時もこのような状況だったのかも知れないと……
平成天皇は、震災から一年に当たるこの日の「大震災追悼式」への出席を目指し、心臓手術を決断しました。
日本人の心に伝わったであろう英断と追悼式の言葉により、国民は「喝!」を入れられた思いがしたのではあるまいか。
そこには「これを言わずには、死ねない!」という心中を身をもって表現した心意気と、復興の遅さにいら立つ心情が感じ取れます。
「国民にはわたしから声を掛けますが、あなたたちには国政を任せているのだから、きちんと国を守ってもらわないと困ります」との、怒りが込められていたのではないか(それはまさしく「国民の声」です!)。
それを受け止めたであろう主に政府関係者には、決死の覚悟で取り組んでもらいたいものです。
それが効いたのかこの一週間で、急に(ガレキ処理の問題だけですが)トントンと前進するように見えました。
情けないと言うか、国民が自立できていない(自分は何をすべきかを考えられない)国には「天皇は必要である」という、甘えが感じられます。
わたしは天皇制の反対論者ではありませんが、せっかくいるのだから、その存在にしか出来ないことに専念してもらうべきと思います。
震災後の天皇の活動は、その存在にしかできないと確かに思えました。
信仰は自由でも、明治天皇に向かい震災の黙とうをするのは違うと思いながら参拝後に振り返ると、あれだけいた人たちは跡形もなく消えていました……
上写真は明治神宮御苑(神宮敷地内にあり、花菖蒲が見事な庭園)で、その奥(社殿近い場所)に清正井(きよまさのいど)があります。
由来とされる加藤清正は安土桃山・江戸初期の武将で、当時この地に加藤家の下屋敷があり清正の子が住んだとされるも、清正が暮らしたかは不明。
清正は熊本城、名古屋城の建築により「築城の名人」「土木の神様」とされたことから、この地でも伝説とされたようです。
現在その井戸はパワースポットとして注目される場所となり、「井戸の写真を撮ってケータイの待ち受け画面にすると願いがかなう」とのふれこみから驚くほどの人気で、この日は20人ほど(ほとんど女性)の行列がありました。
都心にキレイな水がこんこんとわき出す姿は、いまどきではとても珍しく癒されるものがありますが、ブームに右往左往する姿はどうかと思います。
その行列を目にして、早々に引き返しました。
明治神宮参宮橋口近くに、武道場「至誠館」があり、弓道、柔道、剣道、武道研修(合気道と剣術等)の指導をしています。
のぞいたことはありませんが、各道の第一人者を輩出する名門だそうです。
道場に近い芝生の広場で、弓道のいでたちか? 若い娘たち(高校生と思う)が輪になって踊っています。
弓を引く際の緊張感と集中力には、相当なテンションが必要と思うので、練習を終えてのリフレッシュなのでしょう。
オフに切り替わり普段の姿に戻る瞬間は、開放感から老若男女を問わず表情が明るくなります(遠かったので、ブレてますが雰囲気だけ)。
代々木ポニー公園(Map)
現在携わる乗馬関連雑誌で、代々木に乗馬俱楽部があることを知り、機会があれば寄りたいと思っていました。
ガキ時分実家から明治神宮に向かう際、小田急線参宮橋駅から歩いた覚えはあるも、そこに乗馬俱楽部があった記憶は残っていません。
乗馬俱楽部に隣接して、渋谷区立「代々木ポニー公園」があります。都心でポニーに無料で乗れる施設ですから、子どもには人気があります(狭いのは仕方ないよね)。
ホームページには「都会の中で多くの子ども達にさわられ、乗られるというのは、ポニーにとっては精神的にも身体的にも大きな負担となるのです」とあります。そのため、定期的に牧場で放牧をしているとのこと。
人間の側にすれば、都心で馬と接することができてとてもありがたいが、馬の側にしてみれば「ストレスたまるんだよなぁ〜」のようなので「そんな馬の気持ちを大人になっても忘れないでね!」という施設になります。
東京乗馬俱楽部(Map)
東京乗馬倶楽部は1921年(大正10年)に創設されその後社団法人(社団・財団法人設立には官庁の許認可が必要だが、法人税・寄附金の税が優遇される)とされます。
1909年(明治42年)設置された陸軍代々木練兵場(演習地で、現在の代々木公園、NHK放送センター、渋谷区役所、渋谷公会堂周辺一帯を含む)で使用される馬の厩舎(きゅうしゃ)が、起源となりそうです。
日露戦争(1904〜1905年)で『坂の上の雲』(司馬遼太郎)にも描かれる、ロシアのコサック騎兵を打ち破った勢いからも、騎馬隊充実に注力された時期ではあるまいか。
宮内庁の厩舎は皇居内にあるらしいので、やはりここは陸軍に由来するようです。こんな都心で馬を飼い続けられるのは、強力な後ろ盾があるためでしょう。
前回触れた代々木練兵場→ワシントンハイツですが、占領当時、米国首都「ワシントン」の名を付けたのは、ここを占領の中心地とするアピールだったのでしょう。日本は都内の米軍施設の中で最重要地として対応させられます。
元軍用地なので占領されて当然ですが、東京でオリンピック開催にあたり、この土地を戦後の占領下から自立した姿の象徴としたい旨を嘆願したのでしょう。
平和の祭典「オリンピック」を盾に東京から「ワシントン」を排除することに成功しますが、そのためにどれだけの負担を強いられたのかは想像できません……
右写真のファッションは乗馬俱楽部の写真等でよく見かけますが、地味に見えてしまうのは闘牛とは逆で、あまり派手な格好をして馬を刺激しないためのようです。
ハンチングは似合うと思うのですが「ブリティッシュスタイル」をそのまま取り入れても、様になる日本人は少ないように感じたりします(結構有名な人かも知れないのでこのへんで……)。
少ない知識から。乗馬のスタイルにはルーツである「ブリティッシュ:貴族起源」と、生活感のある「ウエスタン:西部劇でなじみの」があります(日本式馬術は廃れたそう)。
日本で前者を目にする機会といえば皇室の祝賀パレード程度しかありませんが、われわれは後者の西部劇を見て育った年代なので「乗馬=ウエスタン」のイメージに支配されています。
オリンピックの競技には、トップハット、燕尾服、白の乗馬パンツでビシッと決めた服装が義務づけられた「ドレッサージュ」という、馬の動作をどれだけ制御できるかを競う種目があります(70歳の法華津選手がロンドン五輪代表に選ばれた)。ロンドン五輪では注目してみようと思っています。
国立オリンピック記念青少年総合センター(Map)
前回「小田急線の車窓から見える」とした、オリンピック選手村に使用された施設をのぞいてきました(1980年代、中国残留孤児が肉親捜しに来日した際の宿泊先とされました)。
門を入った最初の印象は、以前の公団アパート的なイメージではなく「サンリオピューロランドか?」という、パステルカラーに彩られデコデコ(装飾過剰)なテーマパークのようで、「何の施設?」と用途が想像できません。
ここは、体育館、プール、テニスコートだけでなく、ホール、研修施設や宿泊施設も備える、スポーツ総合センターとなっています。
また、近所の子供たちの格好の遊び場となっていますから、近くにあったらいいのにと思う施設です。
以前小田急線から見えた公団的な集合住宅は、ワシントンハイツの単身向け住宅だったようです。
米軍から返還後、集合住宅とかつて代々木公園に広がっていた一戸建ての住宅群はそのままオリンピックの選手村として活用されます。アメリカへの支払いはかなり大きかったでしょうから、とても新築する予算までは無かったと想像されます。
とはいえ「基地返還」→「オリンピック選手村」という「日本の復興事業のシンボル」は、お金に換えがたい自信回復の後押しとなりました。
現在もその時に感じた「夢」を思い出して、沖縄普天間基地等の問題に取り組む必要があるはずです。
2012/03/12
メインストリートはならず者が?──渋谷〜原宿
2012.3.3
【東京都】──「山手線を歩く! ⑧」
ショック!
先週木曜日の夜、通しで書き終えていた下書きを自分のミスで消してしまいました。酔っぱらっていたにしても……
冒頭からいい訳ですが、復旧は難しいため今週は主に写真の説明だけとなります(ガックリきてちょっと力が入りません)。
より大きな地図で 山手線を歩く を表示
宮下公園(Map)
渋谷に立ち寄る機会は多いのですが、宮下公園をのぞいたのは久しぶりです。以前公園のブルーシートは「渋谷名物か?」と思うほど、山手線の車窓にアピールしていましたが、2011年にフットサル場、スケートボード場やクライミング施設が整備され新装開園しました。
「健全な公園になった!」と驚いたそのスポンサーは「ナイキ・ジャパン」です。当初は公園の命名権を売却し「宮下ナイキパーク」とする計画が、公共の公園を企業が独占的に使用することへの反対運動が起こり、ナイキ側が引き下がることで現状に落ち着きます。
写真の女性は、仲間がクライミングウォールを登る姿を応援しながら、自分なりのルート設定のイメージができていたのでしょう。壁の色が暗い部分はオーバーハングゾーン(上部が手前に傾斜していて、そこでぶら下がると足が壁から離れる)を、サクサクッと越えていきました。
なるほど、彼女のようにルート設定がはまりスイスイ登れた瞬間にこそ、クライミングの醍醐味があるようです。
「ダメ、ダメーッ!」と騒がしいものの、周囲の男たちよりスマートに登る姿はとても格好良く見えました。
キャットストリート(Map)
初めて歩いた気がするこの通りは、東横線渋谷駅(地下鉄直通運転開始にともない、駅も無くなります)付近で暗きょ化される渋谷川の上流にあたり、なだらかに曲がることからの命名か?
流行発信地(?)的な地域には縁がないので、右のような絵を珍しがって撮りましたが、他でも見かける「テナント募集」のお金を掛けないディスプレイのようで、「今度マネキンにはどんな服が飾られるのか、乞うご期待!」という意味のようです。
どうりでだれも見向きもしない訳です……
この通りは後述の表参道と交差しており、その交差点付近には双方の客層向けの店舗が入り乱れています。
ここの客層は20代中心と思われますが、メインストリートである表参道は20代後半より上と見受けます。
キャットストリートの若者は、まだ表参道で買い物はできないが、交差点近くに混在する「ちょっと背伸び」の店舗を呼び水にメインストリートへといざなう「町の仕掛け」のようで、したたかな戦略と思ったりしました。
メインに対するサブ(枝道)ととらえると、店先に商品の下着を飾ったりできる自由さがあるので、散策して楽しめる通りなのでしょう。
表参道(Map)
現在このメインストリートには高級品ブランド直営店が、あきれるほど「バブリーなたたずまい」で軒を連ねています。
この通りは、明治神宮創建にともない1919年(大正8年)神社正面参道として整備されたことに始まります。
敗戦後アメリカ軍が代々木公園にワシントンハイツを建設したことから、アメリカ人向けの店が並び基地門前通り(沖縄市コザの「ゲート通り」も同じ)として栄えます。
そんな経緯から舶来品を扱う店舗が並び、流行に敏感な若者たちが飛びつくような流行発信地の素地が形成されます。
同様の基地門前町であった六本木は歓楽街として、横浜は開国のプライドを保つことで発展しましたが、そこには「都会だったから」の注釈がつきます。そんな様子を見る度に「沖縄市コザをどうにかできないか?」と考えてしまいます……
そうそう、以前歩いたのは同潤会アパート(関東大震災の復興支援に大正末期〜昭和初期に建設)が健在のころでしたが、その跡地に建設された「表参道ヒルズ」の長さに、アパートはこんなに長かったっけ? の印象を受けます。
端っこにある「これこれ!」とイメージがよみがえる建物は、保存されたものではなく再現された建造物だそうです(当たり前だよね)。
きっとこの大きな明り取りは、再現時のデザインと思うのは、古い公共住宅は構造重視から内部が暗い印象があるためです。
明かり取りの左上に、現在はディスプレイと思われる縄ばしごがあります。その存在が以前のアパート生活を想像させてくれるスイッチのように見えました。
竹下通り(Map)
ここは、かなり以前に見聞のために歩いて以来の2度目くらいだろうか。異次元の世界のようですから、関心も無ければ用事が発生する理由もありません。
そんな「おとぎの国?」の様子を検証するつもりで、人込みに身を投じて350m程度の牛歩に付き合いました。
現在も若者の流行発信地であるかは不明ながらも、通りに並ぶほとんどの店舗が若者の関心を引こうとアピールしていますから、若者には心地いい場所であるようです。
また、高校生くらいの年齢特有の「スキンシップ願望」(ベタベタと体を寄せていたい)を、このおしくらまんじゅうが満たしてくれるように感じる混雑ぶりです(若い連中はこの雑踏をよろこんでいそう)。
クレープ屋を撮ろうと思ったものの、めげました……
代々木公園(Map)
今回は人込みを歩くことを覚悟していましたが、竹下通りに入る前に「もう飽きちゃったよ!」の気分なので、最後は代々木公園で口直ししました。
今週の梅開花情報@代々木公園です。
この時点では前週と変わらない印象ですが、これを書いた週には暖かな陽気が訪れたので、一斉に花を開いたことでしょう。
終わりに近づいてショックのあせりも収まったので、少し調べました。
ここは元陸軍の代々木練兵場で、敗戦後はアメリカ軍のワシントンハイツとされ、1964年東京オリンピックの選手村として使用されます。
ここでわたしが誤解していたのは、現在も小田急線の車窓から見えるユースホステルのような施設が元選手村で、その周辺に数倍程度の建物があったと思っていたことです。実際は代々木公園全体が選手村だったと知り、考えてみれば広大な土地が必要であることは当然と、その認識を改めたところです。
オリンピックから間もなく50年を迎えますが、その後に整備された代々木公園では大木となった木々が世代交代のため、伐採された切り株が目につきます。
植物の寿命には50年より長いイメージがあり、「ここ50年の周辺環境のせいか:大気汚染等」と思うも、隣接の明治神宮では100年近くにわたり植物が育ち続けています。
それは土壌の違い、もしくは公園の整備計画によるのかも知れません。
下写真は、近くの木にできた大きなこコブですが、樹木の病気が広がっているなら手を打つのは当然です。
大震災から1年がたちました。
振り返り最初に思い浮かぶのは身近な地域社会を覆う「暗さ」です。戦争を、敗戦を知らない年代にとって、初めて経験した「暗さ」でしたが、もうそんなことは言ってられません。さあ、再生の道です。
気持ちはあっても「力になれていない」思いは、多くの方にあるかも知れませんが、現在の居住地でも力になれることがあります。それは「ガレキ処理の受け入れ」です。
東北地方の「リアス式海岸」とされる地域は平地が狭いため、ガレキを集めてもその移動先が無ければ、限られた平坦な土地を占領したままで、復興したくてもガレキの存在がそれを阻んでしまいます。
以前も書きましたが、あまり好きではない東京都の石原知事ですが、ガレキ処理受け入れ反対意見に対し「ダマレ! と言えばいい」と一蹴し、事が運びました。
それが政治家であると思うし、そんな方針を動かすのが民意なのだと思います。
まずは放射線量計測で「クリア」とされたガレキについては、即刻各都道府県で受け入れに動いてもらわないと、被災地の復興の遅れ=日本経済立ち直りの遅れ、につながる大きな課題であると認識してもらい、行動を願いたいところです。
【東京都】──「山手線を歩く! ⑧」
ショック!
先週木曜日の夜、通しで書き終えていた下書きを自分のミスで消してしまいました。酔っぱらっていたにしても……
冒頭からいい訳ですが、復旧は難しいため今週は主に写真の説明だけとなります(ガックリきてちょっと力が入りません)。
より大きな地図で 山手線を歩く を表示
宮下公園(Map)
渋谷に立ち寄る機会は多いのですが、宮下公園をのぞいたのは久しぶりです。以前公園のブルーシートは「渋谷名物か?」と思うほど、山手線の車窓にアピールしていましたが、2011年にフットサル場、スケートボード場やクライミング施設が整備され新装開園しました。
「健全な公園になった!」と驚いたそのスポンサーは「ナイキ・ジャパン」です。当初は公園の命名権を売却し「宮下ナイキパーク」とする計画が、公共の公園を企業が独占的に使用することへの反対運動が起こり、ナイキ側が引き下がることで現状に落ち着きます。
写真の女性は、仲間がクライミングウォールを登る姿を応援しながら、自分なりのルート設定のイメージができていたのでしょう。壁の色が暗い部分はオーバーハングゾーン(上部が手前に傾斜していて、そこでぶら下がると足が壁から離れる)を、サクサクッと越えていきました。
なるほど、彼女のようにルート設定がはまりスイスイ登れた瞬間にこそ、クライミングの醍醐味があるようです。
「ダメ、ダメーッ!」と騒がしいものの、周囲の男たちよりスマートに登る姿はとても格好良く見えました。
キャットストリート(Map)
初めて歩いた気がするこの通りは、東横線渋谷駅(地下鉄直通運転開始にともない、駅も無くなります)付近で暗きょ化される渋谷川の上流にあたり、なだらかに曲がることからの命名か?
流行発信地(?)的な地域には縁がないので、右のような絵を珍しがって撮りましたが、他でも見かける「テナント募集」のお金を掛けないディスプレイのようで、「今度マネキンにはどんな服が飾られるのか、乞うご期待!」という意味のようです。
どうりでだれも見向きもしない訳です……
この通りは後述の表参道と交差しており、その交差点付近には双方の客層向けの店舗が入り乱れています。
ここの客層は20代中心と思われますが、メインストリートである表参道は20代後半より上と見受けます。
キャットストリートの若者は、まだ表参道で買い物はできないが、交差点近くに混在する「ちょっと背伸び」の店舗を呼び水にメインストリートへといざなう「町の仕掛け」のようで、したたかな戦略と思ったりしました。
メインに対するサブ(枝道)ととらえると、店先に商品の下着を飾ったりできる自由さがあるので、散策して楽しめる通りなのでしょう。
表参道(Map)
現在このメインストリートには高級品ブランド直営店が、あきれるほど「バブリーなたたずまい」で軒を連ねています。
この通りは、明治神宮創建にともない1919年(大正8年)神社正面参道として整備されたことに始まります。
敗戦後アメリカ軍が代々木公園にワシントンハイツを建設したことから、アメリカ人向けの店が並び基地門前通り(沖縄市コザの「ゲート通り」も同じ)として栄えます。
そんな経緯から舶来品を扱う店舗が並び、流行に敏感な若者たちが飛びつくような流行発信地の素地が形成されます。
同様の基地門前町であった六本木は歓楽街として、横浜は開国のプライドを保つことで発展しましたが、そこには「都会だったから」の注釈がつきます。そんな様子を見る度に「沖縄市コザをどうにかできないか?」と考えてしまいます……
そうそう、以前歩いたのは同潤会アパート(関東大震災の復興支援に大正末期〜昭和初期に建設)が健在のころでしたが、その跡地に建設された「表参道ヒルズ」の長さに、アパートはこんなに長かったっけ? の印象を受けます。
端っこにある「これこれ!」とイメージがよみがえる建物は、保存されたものではなく再現された建造物だそうです(当たり前だよね)。
きっとこの大きな明り取りは、再現時のデザインと思うのは、古い公共住宅は構造重視から内部が暗い印象があるためです。
明かり取りの左上に、現在はディスプレイと思われる縄ばしごがあります。その存在が以前のアパート生活を想像させてくれるスイッチのように見えました。
竹下通り(Map)
ここは、かなり以前に見聞のために歩いて以来の2度目くらいだろうか。異次元の世界のようですから、関心も無ければ用事が発生する理由もありません。
そんな「おとぎの国?」の様子を検証するつもりで、人込みに身を投じて350m程度の牛歩に付き合いました。
現在も若者の流行発信地であるかは不明ながらも、通りに並ぶほとんどの店舗が若者の関心を引こうとアピールしていますから、若者には心地いい場所であるようです。
また、高校生くらいの年齢特有の「スキンシップ願望」(ベタベタと体を寄せていたい)を、このおしくらまんじゅうが満たしてくれるように感じる混雑ぶりです(若い連中はこの雑踏をよろこんでいそう)。
クレープ屋を撮ろうと思ったものの、めげました……
代々木公園(Map)
今回は人込みを歩くことを覚悟していましたが、竹下通りに入る前に「もう飽きちゃったよ!」の気分なので、最後は代々木公園で口直ししました。
今週の梅開花情報@代々木公園です。
この時点では前週と変わらない印象ですが、これを書いた週には暖かな陽気が訪れたので、一斉に花を開いたことでしょう。
終わりに近づいてショックのあせりも収まったので、少し調べました。
ここは元陸軍の代々木練兵場で、敗戦後はアメリカ軍のワシントンハイツとされ、1964年東京オリンピックの選手村として使用されます。
ここでわたしが誤解していたのは、現在も小田急線の車窓から見えるユースホステルのような施設が元選手村で、その周辺に数倍程度の建物があったと思っていたことです。実際は代々木公園全体が選手村だったと知り、考えてみれば広大な土地が必要であることは当然と、その認識を改めたところです。
オリンピックから間もなく50年を迎えますが、その後に整備された代々木公園では大木となった木々が世代交代のため、伐採された切り株が目につきます。
植物の寿命には50年より長いイメージがあり、「ここ50年の周辺環境のせいか:大気汚染等」と思うも、隣接の明治神宮では100年近くにわたり植物が育ち続けています。
それは土壌の違い、もしくは公園の整備計画によるのかも知れません。
下写真は、近くの木にできた大きなこコブですが、樹木の病気が広がっているなら手を打つのは当然です。
大震災から1年がたちました。
振り返り最初に思い浮かぶのは身近な地域社会を覆う「暗さ」です。戦争を、敗戦を知らない年代にとって、初めて経験した「暗さ」でしたが、もうそんなことは言ってられません。さあ、再生の道です。
気持ちはあっても「力になれていない」思いは、多くの方にあるかも知れませんが、現在の居住地でも力になれることがあります。それは「ガレキ処理の受け入れ」です。
東北地方の「リアス式海岸」とされる地域は平地が狭いため、ガレキを集めてもその移動先が無ければ、限られた平坦な土地を占領したままで、復興したくてもガレキの存在がそれを阻んでしまいます。
以前も書きましたが、あまり好きではない東京都の石原知事ですが、ガレキ処理受け入れ反対意見に対し「ダマレ! と言えばいい」と一蹴し、事が運びました。
それが政治家であると思うし、そんな方針を動かすのが民意なのだと思います。
まずは放射線量計測で「クリア」とされたガレキについては、即刻各都道府県で受け入れに動いてもらわないと、被災地の復興の遅れ=日本経済立ち直りの遅れ、につながる大きな課題であると認識してもらい、行動を願いたいところです。
2012/03/05
学びやの丘──恵比寿〜渋谷(広尾〜青山)
2012.2.26
【東京都】──「山手線を歩く! ⑦」
より大きな地図で 山手線を歩く を表示
有栖川(ありすがわ)宮記念公園(Map)
この冬(12月から現在まで)東京の平均気温(昼夜含め)は6度と聞き(近ごろの平均気温は7度前後)、突発的ではあっても平均気温1度の差というものを、動物・植物・人類は共に大きな振れと受け止めているようです。
例年では、都内の主な「梅祭り」は2月一杯とされますが、今年はまだほころび始めた程度なので、各地の主催者側は震え上がったことでしょう。
ここでも何とか見つくろいましたが開き始めの様子で、勢いよく開いている花はほとんどありません。
と書く時点で「明日は防寒対策をしっかり!」との予報に、毎年の事ながら「これで最後にしてね!」と覚悟しますが、翌日は雪でした。
寒い日は続きますが、より所となるカレンダーに「3」の数字(長嶋ではない)を見かけると、待ちこがれた春にすり寄って甘えたい気持ちが芽ばえる気がします。
天気が不安定になり、雪になったりするものの、それが「季節の変わり目」ですから、もう少しという「春待ち気分」に切り替わる時節です。
ここは広尾の有栖川宮記念公園で、江戸時代には赤穂藩浅野家の下屋敷がありましたが、藩主浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城中で起こした刃傷事件により(後の赤穂浪士討ち入りの引き金)、事件4日後に明け渡されます。
明治29年(1896年)に皇族有栖川宮家の御用地になり由緒とされますが、大正・昭和期には高松宮家の御用地になります。
昭和9年(1934年)東京市に下賜(かし:与える)され、同年に公園となります。
江戸時代には地盤の安定した丘陵地に大名屋敷が並びましたが、明治期以降に宮家の管理下とされたおかげで、当時の面影が残る庭園が残されたようです。
毛利家(長州藩)屋敷のあった土地が(防衛庁管理を経て)、東京ミッドタウン(六本木)となった経緯を考えると、宮家のかかわりの有無がその後の有り様を左右した様子がうかがえます。
敷地内にある都立中央図書館には、大学の卒論の調べ物に訪れた際の思い出があります。
アルバイトばかりして研究室に顔を出さなかったころ、仲間から先生の「彼は生きているのかね?」の言葉を聞き、仲間の返事も「知りません」だったのでしょう、あわてて文献調べに図書館を走り回りました。
ちょうどこの図書館訪問日は台風直撃の日で、土砂降りの中たどり着き、文献コピーを待つ間に係の方の話し声が耳に入りました。
嵐で来館者が少ないため「こんな日に来る人はよっぽど熱心か、せっぱ詰まったひとでしょうね〜」って、おばちゃんズボシです!
それからは、せっせと資料集めに各所を回りました……
地下鉄広尾駅前の交差点付近に、新しくはないが高級そうな「広尾タワーズ」というマンションがあり、以前おじゃました事があります。
経緯は忘れましたが、イギリスの金融情報誌の日本版Topの方(既婚女性、旦那は米国出身)の家で、仕事には携わるも社員ではないのに、ホームパーティーにもぐり込んだ格好です。
景色もいいですが一番驚いたのが、間取りの広さです。当時は観光で一応海外は経験していたので「広尾に外国があるの?」と驚きました。
その後の数少ない海外経験から外国の方は、新しさや便利さ(不便は困るが)よりも、自由にレイアウトを替えられる広さや空間を好む事を理解し、そんな建物が戦後早くからあったこの町の国際色を感じたものです。
広尾商店街(広尾散歩通り)(Map)
地下鉄日比谷線広尾駅出口付近の広尾橋交差点から西側には、広尾商店街(広尾散歩通り)が真っすぐに伸びています。
その突き当たりには、祥雲寺(臨済宗大徳寺派)の三門(下写真)がありますから、参道に開けた門前町だったようです。
この付近にあった江戸期の大名屋敷の土地は明治時代に国有地とされ、時代の流れから軍用地とされます。
防衛庁本庁舎(現在の東京ミッドタウン:戦前の陸軍駐屯地→米軍将校宿舎)や、ニュー山王ホテル(旧日本軍士官宿舎→現在は在日米軍の保養・社交施設)付近の住民は、不安を抱える生活だったと思われます。
それは現在の沖縄嘉手納基地の門前町「コザ」(現沖縄市)から想像されるものより「マシ」だったと思いますが、当時を経験された付近の方の話しを聞いてみたいところです。
都心の「セレブな町」とされる広尾では、大使館員や海外ビジネスマンを相手にしましたが、沖縄の「基地の町」であるコザでは、兵士相手に食いぶちをつないできました。
どちらも玄関先はキレイに飾っても、生活の場には上写真のような下町風情の木造家屋が連なっています。
そんな現実を抱えながら「気取ってどうするの?」と思うも、ここでは「気取らないと商売にならない」実情があるのかも知れません。
住環境は我慢できても物価は高そうで、古くから住む方には暮らしにくい土地柄と思われます。
広尾小学校(Map)
渋谷川沿いの明治通りから丘陵に上ると、古いながらもガッシリとした校舎の広尾小学校が見えてきます。
校舎玄関上部にステンドグラスがあり絵にならないかと、ウロウロしていると「校庭開放中」の看板を見かけ、中に入ります。
校庭では子どもたちが、サッカーやボール遊びをしているので、関心がそちらに向いておりました。後で調べて知った「火の見やぐらに利用された」塔があることにまるで気付かず、反省というかガッカリでした。どこを見ていたんだろうと……
学校のホームページを見てもらえば、「歴史的建造物指定」も理解できると思います。
付近の渋谷区東(ひがし)とされる地域には、広尾小学校、常磐松(ときわまつ)小学校、広尾中学校、実践女子学園中学校・高等学校、都立広尾高等学校、國學院大學が密集する「学びやの丘」の感があり、朝などはやかましくも活気として受け止められそうです。
現在も國學院隣にある氷川神社の由来でしょう、以前この一帯には氷川裏御料地(皇室財産:農場があり、明治天皇に牛乳が献上された)、常磐松御料地などが広がっていました。
広い土地なので国や東京市が「一帯には教育機関を誘致しよう」と方針を決めたのでしょう。そのおかげで学びやが並ぶ丘には、子どもや若者の歓声は響くも、とても落ち着いた環境になったと感じられます。
青山学院大学(Map)
青山学院初等部は上述の学府に隣接しますが、中学・高校・女短・大学の所在は、首都高速の青山トンネルを渡った渋谷区渋谷となります。
青山学院大学は初めての訪問ですがその動機は、先日の明治学院大学にある礼拝堂のような建造物がありそう、というものでした。
ですが現在のキャンパス内では再開発が進んでいて、以前あったチャペルは取り壊されたそうです。
新しい建物にも「教会風」なデザインはありますが、信徒でない者には単なる「アイコン:目印」でしかないため、存在を認識しても素通りしてしまいます。
それはミッションスクールとして教義の研究に専念できる環境だとしても、広報(宣教)活動には大きなマイナス要因と思われます。
学内潜入前に青学会館(アイビーホール)の前を通ったのですが、振り返ってみれば、きっとここがこの学府のキモと思えてきます。
キリスト教を遠巻きに眺めるスタンスからは、大学機関がメンバーズクラブのような施設を作ることを理解できませんでしたが、「プレミアム」と受け止める心理は、出口の見えないデフレ時代においては、何となく理解の糸口が見えるような気がします。
上写真はアイビーホール前のカフェ「蔦(つた)」の壁です(結構有名そうです)。
アイビーとは「つた」のことで、「つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日~♪」(卒業生ペギー葉山『学生時代』1964年:余談ですが、彼女の旧姓小鷹狩(こたかり)家は、広島藩主の家老職を勤めた家系で、母方は白虎隊の生き残りとのこと)は、このキャンパスが舞台とされましたが、そんな誰もが抱くイメージは、結局見つけられませんでした。
以前、神奈川県厚木市にキャンパスを開設するも、交通が不便とのことから受験生の人気がガタ落ちとなり、実家に近い淵野辺に相模原キャンパスを開設します。以前ドラマで見ましたが、とっても広く理想的なキャンパスに見えました。
でも卒業生からすると、「コンクリやタイル張りではなく、レンガ造りにつたが絡まらなくては…」との、思いのこもったブログを見かけたりします。
わたしの一般的な大学キャンパスのイメージにも、古びた同様のイメージがすり込まれており同調する半面、そこにこだわっては「学生を確保できない」時代が、既に現実となっているのかも知れません。
本学は、アメリカの宣教師が立ち上げた学校を前身とし、英語教育に熱心なため「英語の青山」(洋服の〜、はそれをパクッたのか?)と称されるそう。
日曜日の訪問で、時期的に「また入試だったら?」と心配でしたが、閑散としたキャンパスでホッとしました。
春休み期間なので人影もまばらですが、正門近くに喫煙ルームを見つけひと息ついていると、ギター等の楽器を担いだ姉ちゃんの集団がなだれ込んできます。
その姿を見て「そうそう、サザンオールスターズのルーツだった」と思い出すほどですから、彼らの曲を想起させてくれるものには何も出会えなかった事になります。
「勝手にシンドバッド」(1978年)から聴いているのに、ここで「Ya Ya (あの時代を忘れない)」(第二のカレッジソングとされる)すら脳裏に流れてこない状況は、年を取っただけでなく、キャンパス内の様変わりが大きな要因と思われます……
【東京都】──「山手線を歩く! ⑦」
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有栖川(ありすがわ)宮記念公園(Map)
この冬(12月から現在まで)東京の平均気温(昼夜含め)は6度と聞き(近ごろの平均気温は7度前後)、突発的ではあっても平均気温1度の差というものを、動物・植物・人類は共に大きな振れと受け止めているようです。
例年では、都内の主な「梅祭り」は2月一杯とされますが、今年はまだほころび始めた程度なので、各地の主催者側は震え上がったことでしょう。
ここでも何とか見つくろいましたが開き始めの様子で、勢いよく開いている花はほとんどありません。
と書く時点で「明日は防寒対策をしっかり!」との予報に、毎年の事ながら「これで最後にしてね!」と覚悟しますが、翌日は雪でした。
寒い日は続きますが、より所となるカレンダーに「3」の数字(長嶋ではない)を見かけると、待ちこがれた春にすり寄って甘えたい気持ちが芽ばえる気がします。
天気が不安定になり、雪になったりするものの、それが「季節の変わり目」ですから、もう少しという「春待ち気分」に切り替わる時節です。
ここは広尾の有栖川宮記念公園で、江戸時代には赤穂藩浅野家の下屋敷がありましたが、藩主浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城中で起こした刃傷事件により(後の赤穂浪士討ち入りの引き金)、事件4日後に明け渡されます。
明治29年(1896年)に皇族有栖川宮家の御用地になり由緒とされますが、大正・昭和期には高松宮家の御用地になります。
昭和9年(1934年)東京市に下賜(かし:与える)され、同年に公園となります。
江戸時代には地盤の安定した丘陵地に大名屋敷が並びましたが、明治期以降に宮家の管理下とされたおかげで、当時の面影が残る庭園が残されたようです。
毛利家(長州藩)屋敷のあった土地が(防衛庁管理を経て)、東京ミッドタウン(六本木)となった経緯を考えると、宮家のかかわりの有無がその後の有り様を左右した様子がうかがえます。
敷地内にある都立中央図書館には、大学の卒論の調べ物に訪れた際の思い出があります。
アルバイトばかりして研究室に顔を出さなかったころ、仲間から先生の「彼は生きているのかね?」の言葉を聞き、仲間の返事も「知りません」だったのでしょう、あわてて文献調べに図書館を走り回りました。
ちょうどこの図書館訪問日は台風直撃の日で、土砂降りの中たどり着き、文献コピーを待つ間に係の方の話し声が耳に入りました。
嵐で来館者が少ないため「こんな日に来る人はよっぽど熱心か、せっぱ詰まったひとでしょうね〜」って、おばちゃんズボシです!
それからは、せっせと資料集めに各所を回りました……
地下鉄広尾駅前の交差点付近に、新しくはないが高級そうな「広尾タワーズ」というマンションがあり、以前おじゃました事があります。
経緯は忘れましたが、イギリスの金融情報誌の日本版Topの方(既婚女性、旦那は米国出身)の家で、仕事には携わるも社員ではないのに、ホームパーティーにもぐり込んだ格好です。
景色もいいですが一番驚いたのが、間取りの広さです。当時は観光で一応海外は経験していたので「広尾に外国があるの?」と驚きました。
その後の数少ない海外経験から外国の方は、新しさや便利さ(不便は困るが)よりも、自由にレイアウトを替えられる広さや空間を好む事を理解し、そんな建物が戦後早くからあったこの町の国際色を感じたものです。
広尾商店街(広尾散歩通り)(Map)
地下鉄日比谷線広尾駅出口付近の広尾橋交差点から西側には、広尾商店街(広尾散歩通り)が真っすぐに伸びています。
その突き当たりには、祥雲寺(臨済宗大徳寺派)の三門(下写真)がありますから、参道に開けた門前町だったようです。
この付近にあった江戸期の大名屋敷の土地は明治時代に国有地とされ、時代の流れから軍用地とされます。
防衛庁本庁舎(現在の東京ミッドタウン:戦前の陸軍駐屯地→米軍将校宿舎)や、ニュー山王ホテル(旧日本軍士官宿舎→現在は在日米軍の保養・社交施設)付近の住民は、不安を抱える生活だったと思われます。
それは現在の沖縄嘉手納基地の門前町「コザ」(現沖縄市)から想像されるものより「マシ」だったと思いますが、当時を経験された付近の方の話しを聞いてみたいところです。
都心の「セレブな町」とされる広尾では、大使館員や海外ビジネスマンを相手にしましたが、沖縄の「基地の町」であるコザでは、兵士相手に食いぶちをつないできました。
どちらも玄関先はキレイに飾っても、生活の場には上写真のような下町風情の木造家屋が連なっています。
そんな現実を抱えながら「気取ってどうするの?」と思うも、ここでは「気取らないと商売にならない」実情があるのかも知れません。
住環境は我慢できても物価は高そうで、古くから住む方には暮らしにくい土地柄と思われます。
広尾小学校(Map)
渋谷川沿いの明治通りから丘陵に上ると、古いながらもガッシリとした校舎の広尾小学校が見えてきます。
校舎玄関上部にステンドグラスがあり絵にならないかと、ウロウロしていると「校庭開放中」の看板を見かけ、中に入ります。
校庭では子どもたちが、サッカーやボール遊びをしているので、関心がそちらに向いておりました。後で調べて知った「火の見やぐらに利用された」塔があることにまるで気付かず、反省というかガッカリでした。どこを見ていたんだろうと……
学校のホームページを見てもらえば、「歴史的建造物指定」も理解できると思います。
付近の渋谷区東(ひがし)とされる地域には、広尾小学校、常磐松(ときわまつ)小学校、広尾中学校、実践女子学園中学校・高等学校、都立広尾高等学校、國學院大學が密集する「学びやの丘」の感があり、朝などはやかましくも活気として受け止められそうです。
現在も國學院隣にある氷川神社の由来でしょう、以前この一帯には氷川裏御料地(皇室財産:農場があり、明治天皇に牛乳が献上された)、常磐松御料地などが広がっていました。
広い土地なので国や東京市が「一帯には教育機関を誘致しよう」と方針を決めたのでしょう。そのおかげで学びやが並ぶ丘には、子どもや若者の歓声は響くも、とても落ち着いた環境になったと感じられます。
青山学院大学(Map)
青山学院初等部は上述の学府に隣接しますが、中学・高校・女短・大学の所在は、首都高速の青山トンネルを渡った渋谷区渋谷となります。
青山学院大学は初めての訪問ですがその動機は、先日の明治学院大学にある礼拝堂のような建造物がありそう、というものでした。
ですが現在のキャンパス内では再開発が進んでいて、以前あったチャペルは取り壊されたそうです。
新しい建物にも「教会風」なデザインはありますが、信徒でない者には単なる「アイコン:目印」でしかないため、存在を認識しても素通りしてしまいます。
それはミッションスクールとして教義の研究に専念できる環境だとしても、広報(宣教)活動には大きなマイナス要因と思われます。
学内潜入前に青学会館(アイビーホール)の前を通ったのですが、振り返ってみれば、きっとここがこの学府のキモと思えてきます。
キリスト教を遠巻きに眺めるスタンスからは、大学機関がメンバーズクラブのような施設を作ることを理解できませんでしたが、「プレミアム」と受け止める心理は、出口の見えないデフレ時代においては、何となく理解の糸口が見えるような気がします。
上写真はアイビーホール前のカフェ「蔦(つた)」の壁です(結構有名そうです)。
アイビーとは「つた」のことで、「つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日~♪」(卒業生ペギー葉山『学生時代』1964年:余談ですが、彼女の旧姓小鷹狩(こたかり)家は、広島藩主の家老職を勤めた家系で、母方は白虎隊の生き残りとのこと)は、このキャンパスが舞台とされましたが、そんな誰もが抱くイメージは、結局見つけられませんでした。
以前、神奈川県厚木市にキャンパスを開設するも、交通が不便とのことから受験生の人気がガタ落ちとなり、実家に近い淵野辺に相模原キャンパスを開設します。以前ドラマで見ましたが、とっても広く理想的なキャンパスに見えました。
でも卒業生からすると、「コンクリやタイル張りではなく、レンガ造りにつたが絡まらなくては…」との、思いのこもったブログを見かけたりします。
わたしの一般的な大学キャンパスのイメージにも、古びた同様のイメージがすり込まれており同調する半面、そこにこだわっては「学生を確保できない」時代が、既に現実となっているのかも知れません。
本学は、アメリカの宣教師が立ち上げた学校を前身とし、英語教育に熱心なため「英語の青山」(洋服の〜、はそれをパクッたのか?)と称されるそう。
日曜日の訪問で、時期的に「また入試だったら?」と心配でしたが、閑散としたキャンパスでホッとしました。
春休み期間なので人影もまばらですが、正門近くに喫煙ルームを見つけひと息ついていると、ギター等の楽器を担いだ姉ちゃんの集団がなだれ込んできます。
その姿を見て「そうそう、サザンオールスターズのルーツだった」と思い出すほどですから、彼らの曲を想起させてくれるものには何も出会えなかった事になります。
「勝手にシンドバッド」(1978年)から聴いているのに、ここで「Ya Ya (あの時代を忘れない)」(第二のカレッジソングとされる)すら脳裏に流れてこない状況は、年を取っただけでなく、キャンパス内の様変わりが大きな要因と思われます……
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