2012.8.19【東京都】──「山手線を歩く! 32」
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東京スカイツリー開業から、影が薄くなった印象のある東京タワーですが、夏休み日曜日の人気は健在で、ツアーバス添乗員の説明では「最上階の特別展望台のエレベーターは、何と2時間待ち!」、地上でも行列が伸びています。
海外からの観光客に東京で人気なのは「浅草&ツリー」と思うも、ツアーでは行列する時間が無いため、あきらめざるを得なかったことでしょう。
それで仕方なく「皇居&タワー」だったりするのか?
国民も「ほとぼりが冷めるまで…」の状況は、旅行会社側も説明しているとは思いますが……
芝公園(Map)
この日は芝公園周辺を、東京タワーをターゲットにしながら歩きました。
これまでちゃんと芝公園を歩いたことがなく、地下鉄駅のある増上寺の南側区域と思っていましたが、地下鉄御成門駅付近から東京タワーの足元を含め、古川(渋谷川)にかかる首都高速都心環状線に至る一帯に広がります。
この地域は元々増上寺の境内で、その敷地が1873年(明治6年)に都立公園とされますが、戦後の政教分離により公園は増上寺から切り離され、宗教色のない都立公園となります。
そんな経緯から、公園の敷地は増上寺を取り囲む姿で継承されます。
そんな元増上寺敷地内に、なぜか東京プリンスホテルがあります。
「1964年東京オリンピックに合わせて開業」という大義があったにせよ、西武の堤一族による画策によるのでしょう(調べる気がしない)。
上は、プリンスホテル裏の広場(ここも芝公園)で開かれる「芝オクトーバーフェスト2012:オクトーバーフェストはドイツのビール祭り」の様子。
昼間っから飲んで気分いいにしても、暑くないの? ぶっ倒れて寝る人は、風邪ではなく虫刺され大丈夫? が心配です。
テレビの「地上デジタル放送」は2011年にスタートしましたが、東京スカイツリー開業は2012年なので(その前から電波を送ることは可能でも)、切り替え以来東京タワーはその役割を担ってきたことになります。
タワーで事足りる基地局は残りますが、2013年ツリーの本放送開始から、NHKや主要民放はツリーに移転します。
ですがタワー側の「それじゃ食っていけない!」の声から、予備電波塔の契約を結んだとのこと。
震災で傾いたアンテナの交換作業(交換は被害に関係なく計画されており、現在交換済みで真っすぐ)で、塔上から軟式野球ボールが見つかりました。
答えに近そうなのが「リベット接合時の振動や熱を遮断するため、軟式野球ボールをはめて工具を持った」というものです。
タワー自体が建設当時を想起させるタイムカプセルだったとは、これまで以上に同世代的な(?)親近感が増した気がします。
芝公園の端は赤羽橋の交差点に至るので、たまに歩いて帰る(六本木〜田町:35分程度)ルートに接しており、双方をつなぐと「うわ、家からメッチャ近い!」を実感しました。
上は旧ゴルフ練習場跡地に建つ「ザ・プリンス パークタワー東京」庭園。
増上寺(Map)
右は増上寺三門(三解脱門:むさぼり、いかり、おろかさを解脱する門)で、1622年再建の後は大震災や戦禍を逃れ、寺で唯一江戸時代の面影を残すの建造物です。
右は門前につるされる金属製のちょうちん(?)。そう感じたのは、川崎大師のちょうちんを想起したためです。
上部に徳川家の紋、中央に「魚がし」の文字、下に「魚の絵+壱場」の表記があります。
現代では「象形文字のようでも分かる!」と珍しがるも、当時は漢字を読めない人向けの表記だったのかも知れません。
初期の江戸の町では産業は漁業だけだった、もしくは上方から招いた漁師の礼儀なのか?
増上寺は1393年、現在の千代田区平河町・麹町付近に開かれた浄土宗の寺を起源とします。
安土桃山時代に国替えとされた徳川家康がこの地に乗り込む際、徳川家の菩提寺とされた当時の増上寺規模は、相当大きかったようです。
家康の「葬儀は増上寺で」の遺言以来、寺と徳川家のつながりは幕末まで続きます。
ここには、二代秀忠(妻の江と共に)をはじめ六人の将軍、皇女和宮の墓所があります。
ここでのお参りには並ぶ慣習があるのか、きちんと並んで参拝の順番を待っています。
確かに浅草寺などと比べれば、はるかに参拝者は少ないので大した時間ではありませんが、追記のお願いだけをしました。(下は大殿)
右は増上寺の総門・表門にあたる大門で、浜松町駅前から続く参道に建っており、地名の由来とされます。
関東大震災で傾き、空襲で焼失しますが、道路整備のため原型より大きなコンクリート製に作り直されています。
地下鉄大門駅は、三田〜六本木間の電車通勤でたまに利用しますが、その響きから「早大門(はやだいもん):1997年〜2001年テレビ朝日系のバラエティ番組『人気者でいこう!』で、浜田雅功、内藤剛志、堀部圭亮が『西部警察』の大門刑事になりきる速さを競う」を思い浮かべてしまいます(バカバカしいコーナーです)。
日の出桟橋(Map)
大門からの旧参道を海側に向かった突き当たりに竹芝桟橋があります。
そこから、現在暮らす田町ではご近所意識のレインボーブリッジが見えるので、今回の「山手線を歩く」企画も終点にたどり着いたことになります。
なるべく未踏の場所を選んだつもりですが、経験不足やルート設定の都合などから漏れた場所は多々あると思います。
山手線内は「近い!」印象を納得できたので、また機会を作って歩くつもりでいます。
追記──報告:妹の手術
先日、妹が婦人病の手術をしました。
幸い経過と術後は良好で、最大の関心事であるがんの心配も無さそうなのでホッとしているところです(最終検査結果には時間がかかります)。
恵まれたことに家族は健在なので、全員で手術の場に立ち会うことができました。何もできないけれど……
その際、よく耳にする「いるだけでいい」存在であることを実感しました。
普段と同じ接し方しかできない家族は、彼女に勇気を与えられたか? と不安に思うもできるのは、彼女を信じることだけです。
家族とはいえ、別々の人格がそれぞれに覚悟しながら、結束して「勇気を持って!」と願うしかない状況下で、家族が「心を裸に向き合っている」姿を実感しました。
家族のありようを確認できた機会ではあるも、同時に両親に残された時間の短さを感じる機会にもなり、遠くないであろう覚悟を再認識しています……
男が何か言える領域ではないのですが、早期発見しかないことを念頭に、検診等を欠かさないようお気をつけ下さい。
2012/08/27
2012/08/20
小規模店がサラリーマンの味方──新橋〜浜松町
2012.8.11【東京都】──「山手線を歩く! 31」
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愛宕山(Map)
ここは地下鉄神谷町駅に近い天然の山で、標高25.7mは東京23区内の最高峰(人工の山には山手線内で最も高い44.6mの箱根山がある)。
徳川家康は江戸開府にあたり、京都からの道筋で目に入るこの山に、これから建設する江戸の火伏せ・防火の神である愛宕神社(京都奧嵯峨山奥の愛宕神社が総本社)を建てますが、幕末まで終始江戸の町は火事に悩まされます。
家康最初の事業のためか「天下取り・勝利の神」と持てはやされ、「桜田門外の変」で井伊直弼(いいなおすけ)を襲う水戸藩の浪士達は、ここで祈願後に江戸城へ向かいます。
右写真は「出世の石段」とされます。
三代将軍家光が戯れで「山上の梅の枝」を所望したところ、丸亀藩家臣の曲垣平九郎(まがきへいくろう)が、石段を馬で上り下りし梅を届けます。その功績により「日本一の馬術の名人」と称され、馬役のトップへと出世します。
バカらしい逸話ですが、褒美があれば人は頑張れます。
史実再現的なチャレンジ成功のビデオ(昭和57年)を見ましたが(現在まで成功者は4名)、実際に石段を上った後にその光景を思い起こすと、とんでもない挑戦だったと。
上りはいいが、振り返るとビビるような急勾配で踊り場もありません……
これは作り話的なにおいがしますが、幕末期反政府軍の江戸城総攻撃回避に向けた勝海舟・西郷隆盛の交渉が行き詰まり、二人は家康ゆかりのこの山から江戸の町を見渡し「この町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」との認識で一致して、無血開城が決定されたとする解釈があります。
真偽はともかくとしても、当時この地から江戸の町を一望できたのは確かと思えるので、そこからの景色は覚悟を迫る光景だったようです……
NHK放送博物館(Map)
日本で最初のラジオ放送は1925年、田町駅東口に碑が残る東京高等工芸学校から発せられ、数ヶ月後に完成した愛宕山の放送局から、日本初のラジオ本放送が開始されます。
愛宕山からの放送は1939年内幸町への施設移転で終了し、その地に1956年世界初の「放送博物館」が開館し現在に至ります。
下写真は有名な、日本で初めて映像伝送を実現した際、最初に映し出されたイロハの「イ」の映像を再現したもの。
団塊世代(映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の一平たち)以降には、テレビはとても身近な存在となり、展示されるニュースやドラマなどからはさまざまな記憶や思い出がよみがえるので、思いのほか楽しめました(朝の連続テレビ小説ヒロインはみんなカワイイ!)。
放送に貢献し表彰された方々の展示コーナーに、音楽家 冨田勲さんが使用した「アナログシンセサイザー」の展示があります。
シンセサイザーという言葉の響きには「デジタル楽器」の印象があります。
当初は真空管を使用していたと聞きますが、音を連続的に扱う(アナログ)か、断片的な音として扱うか(電気信号の0 or1)で線引きされます。
以前はYMOも使用していて、音色が安定せず使用時にはかなり神経をとがらせたと聞くと「楽器らしい:アナログ・テクノ?」存在に思えてきます。
青松寺(Map)
上は放送博物館下に隣接する青松寺で、山門の両側には仁王像を凌駕するツインタワーが仏様を守って(?)います。
「愛宕グリーンヒルズ」とされる再開発地区で、森ビルが管理します。
ピンと来ないのですが、世界的建築家シーザー・ペリ(マレーシアのクアラルンプールにあるペトロナスツインタワー、日本では羽田空港第二ターミナルビル:キレイだが使いやすいとは思わない など)によると胸を張ります。
空間の中心に寺がどっしりと構えるため、脇に空いたスペースの再利用に悩んだようですが、ここは曹洞宗の坐禅寺ですから、いくら両側に高層ビルが建とうが心静かに「座っていきませんか?:道元の言葉として映画で使われた」のように、動じない精神性が感じられます。
環状第2号線(Map)
ここは建設中の環状第2号線トンネルの出口で、新橋駅近くで山手線からも見えます。
環状第2号線計画は、江東区有明〜港区新橋〜新宿区四谷〜千代田区神田佐久間町に至る都市計画道路で、戦後期の計画がようやく現在完成にたどりつく困難な事業ですが、必要とされていた道路なのでしょう。
神田佐久間町から虎ノ門までは現在の外堀通りとされるため、虎ノ門〜有明間が未完成でした。
写真のように、建設場所は完全な立ち退きが必要ですから、新橋や虎ノ門周辺で新しい道路を作ることの困難さがうかがえます。
新橋駅周辺(Map)
駅周辺が「サラリーマンの聖地」的に扱われるのは、大規模な再開発は到底できないほど細分化された地権者たちが、身の丈にあった商売を続ける成果、とも感じられます。
汐留地区の再開発や、イタリア街が誕生しようが(どちらもピンと来ません)、軸のぶれない商売スタンスが、オヤジたちをあたたかく迎え入れてくれます。
街頭インタビューに映る、駅前「ニュー新橋ビル:右写真」に久しぶりに潜入しました。
以前はこまごまとした店が並び、結構にぎやかで驚いた印象がありましたが、さすがに小売店舗は姿を消しています(世代交代か)。
現在ビル内には「○○マッサージ」の店舗が並び、アジアの猥雑さとたくましさに満ちた空間と化しています。
通路の真ん中に仁王立ちでスマホに夢中なお姉ちゃんがいたりして、夜に来たら逃げられなくなりそうな、あやしげな空気がありました。
でも、そんな雰囲気があっての新橋ですから、下心は隠しながらもオヤジたちの足が向いてしまう町であるのは確かなようです。
上野〜御徒町駅間から連なる山手線・京浜東北線のガード下の空間というのは、電車が騒がしく狭いながらも、それゆえ気を使わず落ち着ける場所だったりします。
ベースはレンガの壁ですが装飾には寛容なようで、さまざまなディスプレイが楽しめます。
近ごろのはやりは「ボロ家テイスト」か?
上は汐留シオサイトにある「旧新橋停車場跡」です。
「汽笛一声新橋を〜♪」とされる鉄道発祥の地、初代新橋駅跡(1872年:明治5年)ですが、東京駅開業時(1914年:大正3年)の線路は別ルートとされ、起点駅だけが残される形となり旅客営業は終了します。
その後汐留駅に改称され貨物線の駅とされます。
当初はここから横浜の赤レンガ倉庫付近まで線路が続いていたかと思いをはせますが、横浜ではイメージできても、このビルの谷間ではちょっと広がらないなぁ〜、は仕方ないところか……
東京湾大華火祭(Map)
ちょうどこの日は花火大会にあたり、新橋駅周辺は「ゆりかもめ」でお台場に向かう若者たちでごった返していました。
田町駅もベイサイドへ向かう人たちで大混雑していましたが、通路に「芝浦会場には入場券が必要です」の看板があります。
この日は芝浦桟橋等に、特設会場が設けられているのかも知れません。
昨年は震災の影響により各地で中止とされましたが、この夏は「浴衣姿が復活」しているようで、作法を知らず着くずれた姿も目にしますが、花火同様町中にも華やぎが感じられます。
花火の写真はアパートの屋上からで、わたしのカメラでもこれくらい撮れるのですから、花火見学には十分の場所です。
部屋の中にいても「爆弾か?」くらい響く音の大きさには驚きます(建物が古いにしても)。
これまでも花火大会には恵まれた場所に暮らしていて、高島平・蓮根では荒川の花火、武蔵小杉・新丸子では多摩川の花火を、ベランダなどから苦労なく見学していました。
ですが海上の打ち上げでは、川より大きな花火が打ち上げられるようで、体にズシンと響く迫力の違いに、真下から見学して燃えかすでシャツが焦げた隅田川花火大会を思い出したりします。
そんな経験でも話題にできるのですから、日本の季節感の大切さを改めて感じた思いがします……
追記──余韻をビートルズに託した演出の見事さ
ロンドンオリンピック閉幕後の週に、ラジオでビートルズの曲を耳にする機会が増えた印象があります。
開会式での「ヘイ・ジュード」や閉会式の「イマジン」は注目されましたが、「アイ・アム・ザ・ウォルラス:アルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』収録曲」を耳にして、当時のビートルマニアはちょっとざわめいたのではあるまいか?
世界中で多くの人が耳にしているビートルズの曲ゆえ、「最近聞いてないなぁ〜」という関心を高める効果があったように思えます。
聞き直したい懐かしさが、閉幕したロンドンオリンピックと重なり、ビートルズ≒オリンピックの余韻となるように感じました。
音楽を「主要産業」と考える国らしいし、これで売り上げが増えればと、女王陛下(は天皇陛下より響きがいいのはなぜだろう?)も協力したのではあるまいか……
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愛宕山(Map)
ここは地下鉄神谷町駅に近い天然の山で、標高25.7mは東京23区内の最高峰(人工の山には山手線内で最も高い44.6mの箱根山がある)。
徳川家康は江戸開府にあたり、京都からの道筋で目に入るこの山に、これから建設する江戸の火伏せ・防火の神である愛宕神社(京都奧嵯峨山奥の愛宕神社が総本社)を建てますが、幕末まで終始江戸の町は火事に悩まされます。
家康最初の事業のためか「天下取り・勝利の神」と持てはやされ、「桜田門外の変」で井伊直弼(いいなおすけ)を襲う水戸藩の浪士達は、ここで祈願後に江戸城へ向かいます。
右写真は「出世の石段」とされます。
三代将軍家光が戯れで「山上の梅の枝」を所望したところ、丸亀藩家臣の曲垣平九郎(まがきへいくろう)が、石段を馬で上り下りし梅を届けます。その功績により「日本一の馬術の名人」と称され、馬役のトップへと出世します。
バカらしい逸話ですが、褒美があれば人は頑張れます。
史実再現的なチャレンジ成功のビデオ(昭和57年)を見ましたが(現在まで成功者は4名)、実際に石段を上った後にその光景を思い起こすと、とんでもない挑戦だったと。
上りはいいが、振り返るとビビるような急勾配で踊り場もありません……
これは作り話的なにおいがしますが、幕末期反政府軍の江戸城総攻撃回避に向けた勝海舟・西郷隆盛の交渉が行き詰まり、二人は家康ゆかりのこの山から江戸の町を見渡し「この町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」との認識で一致して、無血開城が決定されたとする解釈があります。
真偽はともかくとしても、当時この地から江戸の町を一望できたのは確かと思えるので、そこからの景色は覚悟を迫る光景だったようです……
NHK放送博物館(Map)
日本で最初のラジオ放送は1925年、田町駅東口に碑が残る東京高等工芸学校から発せられ、数ヶ月後に完成した愛宕山の放送局から、日本初のラジオ本放送が開始されます。
愛宕山からの放送は1939年内幸町への施設移転で終了し、その地に1956年世界初の「放送博物館」が開館し現在に至ります。
下写真は有名な、日本で初めて映像伝送を実現した際、最初に映し出されたイロハの「イ」の映像を再現したもの。
団塊世代(映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の一平たち)以降には、テレビはとても身近な存在となり、展示されるニュースやドラマなどからはさまざまな記憶や思い出がよみがえるので、思いのほか楽しめました(朝の連続テレビ小説ヒロインはみんなカワイイ!)。
放送に貢献し表彰された方々の展示コーナーに、音楽家 冨田勲さんが使用した「アナログシンセサイザー」の展示があります。
シンセサイザーという言葉の響きには「デジタル楽器」の印象があります。
当初は真空管を使用していたと聞きますが、音を連続的に扱う(アナログ)か、断片的な音として扱うか(電気信号の0 or1)で線引きされます。
以前はYMOも使用していて、音色が安定せず使用時にはかなり神経をとがらせたと聞くと「楽器らしい:アナログ・テクノ?」存在に思えてきます。
青松寺(Map)
上は放送博物館下に隣接する青松寺で、山門の両側には仁王像を凌駕するツインタワーが仏様を守って(?)います。
「愛宕グリーンヒルズ」とされる再開発地区で、森ビルが管理します。
ピンと来ないのですが、世界的建築家シーザー・ペリ(マレーシアのクアラルンプールにあるペトロナスツインタワー、日本では羽田空港第二ターミナルビル:キレイだが使いやすいとは思わない など)によると胸を張ります。
空間の中心に寺がどっしりと構えるため、脇に空いたスペースの再利用に悩んだようですが、ここは曹洞宗の坐禅寺ですから、いくら両側に高層ビルが建とうが心静かに「座っていきませんか?:道元の言葉として映画で使われた」のように、動じない精神性が感じられます。
環状第2号線(Map)
ここは建設中の環状第2号線トンネルの出口で、新橋駅近くで山手線からも見えます。
環状第2号線計画は、江東区有明〜港区新橋〜新宿区四谷〜千代田区神田佐久間町に至る都市計画道路で、戦後期の計画がようやく現在完成にたどりつく困難な事業ですが、必要とされていた道路なのでしょう。
神田佐久間町から虎ノ門までは現在の外堀通りとされるため、虎ノ門〜有明間が未完成でした。
写真のように、建設場所は完全な立ち退きが必要ですから、新橋や虎ノ門周辺で新しい道路を作ることの困難さがうかがえます。
新橋駅周辺(Map)
駅周辺が「サラリーマンの聖地」的に扱われるのは、大規模な再開発は到底できないほど細分化された地権者たちが、身の丈にあった商売を続ける成果、とも感じられます。
汐留地区の再開発や、イタリア街が誕生しようが(どちらもピンと来ません)、軸のぶれない商売スタンスが、オヤジたちをあたたかく迎え入れてくれます。
街頭インタビューに映る、駅前「ニュー新橋ビル:右写真」に久しぶりに潜入しました。
以前はこまごまとした店が並び、結構にぎやかで驚いた印象がありましたが、さすがに小売店舗は姿を消しています(世代交代か)。
現在ビル内には「○○マッサージ」の店舗が並び、アジアの猥雑さとたくましさに満ちた空間と化しています。
通路の真ん中に仁王立ちでスマホに夢中なお姉ちゃんがいたりして、夜に来たら逃げられなくなりそうな、あやしげな空気がありました。
でも、そんな雰囲気があっての新橋ですから、下心は隠しながらもオヤジたちの足が向いてしまう町であるのは確かなようです。
上野〜御徒町駅間から連なる山手線・京浜東北線のガード下の空間というのは、電車が騒がしく狭いながらも、それゆえ気を使わず落ち着ける場所だったりします。
ベースはレンガの壁ですが装飾には寛容なようで、さまざまなディスプレイが楽しめます。
近ごろのはやりは「ボロ家テイスト」か?
上は汐留シオサイトにある「旧新橋停車場跡」です。
「汽笛一声新橋を〜♪」とされる鉄道発祥の地、初代新橋駅跡(1872年:明治5年)ですが、東京駅開業時(1914年:大正3年)の線路は別ルートとされ、起点駅だけが残される形となり旅客営業は終了します。
その後汐留駅に改称され貨物線の駅とされます。
当初はここから横浜の赤レンガ倉庫付近まで線路が続いていたかと思いをはせますが、横浜ではイメージできても、このビルの谷間ではちょっと広がらないなぁ〜、は仕方ないところか……
東京湾大華火祭(Map)
ちょうどこの日は花火大会にあたり、新橋駅周辺は「ゆりかもめ」でお台場に向かう若者たちでごった返していました。
田町駅もベイサイドへ向かう人たちで大混雑していましたが、通路に「芝浦会場には入場券が必要です」の看板があります。
この日は芝浦桟橋等に、特設会場が設けられているのかも知れません。
昨年は震災の影響により各地で中止とされましたが、この夏は「浴衣姿が復活」しているようで、作法を知らず着くずれた姿も目にしますが、花火同様町中にも華やぎが感じられます。
花火の写真はアパートの屋上からで、わたしのカメラでもこれくらい撮れるのですから、花火見学には十分の場所です。
部屋の中にいても「爆弾か?」くらい響く音の大きさには驚きます(建物が古いにしても)。
これまでも花火大会には恵まれた場所に暮らしていて、高島平・蓮根では荒川の花火、武蔵小杉・新丸子では多摩川の花火を、ベランダなどから苦労なく見学していました。
ですが海上の打ち上げでは、川より大きな花火が打ち上げられるようで、体にズシンと響く迫力の違いに、真下から見学して燃えかすでシャツが焦げた隅田川花火大会を思い出したりします。
そんな経験でも話題にできるのですから、日本の季節感の大切さを改めて感じた思いがします……
追記──余韻をビートルズに託した演出の見事さ
ロンドンオリンピック閉幕後の週に、ラジオでビートルズの曲を耳にする機会が増えた印象があります。
開会式での「ヘイ・ジュード」や閉会式の「イマジン」は注目されましたが、「アイ・アム・ザ・ウォルラス:アルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』収録曲」を耳にして、当時のビートルマニアはちょっとざわめいたのではあるまいか?
世界中で多くの人が耳にしているビートルズの曲ゆえ、「最近聞いてないなぁ〜」という関心を高める効果があったように思えます。
聞き直したい懐かしさが、閉幕したロンドンオリンピックと重なり、ビートルズ≒オリンピックの余韻となるように感じました。
音楽を「主要産業」と考える国らしいし、これで売り上げが増えればと、女王陛下(は天皇陛下より響きがいいのはなぜだろう?)も協力したのではあるまいか……
2012/08/13
五輪から受けた「オレたちにはできる!」勇気、
その足を引っ張る政治家たち──有楽町〜新橋
2012.8.4【東京都】──「山手線を歩く! 30」
ロンドンオリンピックの日本選手団が、メダル獲得数ではこれまで最高の成績を残しました。
日本国民であればその理由に「復興」「絆」と出てくるでしょうし、根本には「自分の存在確認:アイデンティティ探し」が、選手同様に応援側にも存在するため、強力な磁力のような「目に見えない力」が、選手たちを後押ししたのでしょう。
そのきっかけはもちろん、大震災・原発事故を経験した「不安感」以外にありません……
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虎ノ門 金刀比羅宮(ことひらぐう)(Map)
この日は国会議事堂へ行くルートをあれこれ探した末、田町〜虎ノ門を走る「ちぃバス:港区コミュニティバスの新橋ルート」を選択します。
地域の利便性を高めるサービスなので料金は100円ですが、特にお年寄りや乳幼児を連れた母子の手助けのため、経路は最短距離ではなく細やかに迷走しますから、30分以上かかりました……
官庁街へ向かう道すがら、ビルの敷地にある大きな鳥居に目が止まります。
ビル名は「虎ノ門琴平タワー」で、エントランスが参道になっています。
はじめに神社ありきの構造に見えるのは、以前の神社所有ビルを大幅に建て替えたためで、社務所は左ビル内に入っています。
ここは「シュラシュシュシュ」で有名な香川県琴平町「金刀比羅宮」を、丸亀藩主が藩邸内に勧請(かんじょう:神仏の分身・分霊を他の地に祭る)したもので、江戸庶民の評判が高まり限定の参拝を認めたそうです。
「情け有馬の水天宮」と同様の経緯に思え、当時の江戸にはろくな神様がいなかったようですが、当時はまだ歴史の無い町なので仕方ないのでしょう。
江戸の町は京都とは違い尊重すべき既存の文化がないため、全国から集められた人たちが持ち寄った文化をスポンジの様に吸収し、工夫した成果が江戸文化の原型になったと考えられます。
それがこの土地に合った合理性と敷居の低さという性格を持ったおかげで、東京の発展がその延長上に築けたことを、納得できる思いがします。
折衷案を考え出す性質などは日本的というより、争いのない時代の「江戸庶民の生活の知恵」が現代に息づくように感じられます……
国会議事堂(Map)
近ごろ毎週金曜日に国会議事堂前で「反原発」のデモが繰り返されていますが、この土曜日はとても静かでした。
それにしてもここを仕事場とする方々は、国民が難儀しているときにどうして「大変なときだからこそ、清き一票を!」と叫びたがるのか? 理解不能な人々です。
世論調査の「支持する政党はない」が最も多いことを反省することなく、「その票をどう取り込もうか」しか頭にないのか?
連中には、国の将来を託せない「NO!」を突きつけられたことも理解できないようです。
「いやいや、違うんだ」などとまた離合集散に奔走して生き延びようとするのでしょう。
何だか「お宝ゲット!」のゲームのように見えますし、「信を問う総選挙」も「何だAKBじゃないのか?」「無党派層が一段と増えました」とならないようにと思うも、自分に何ができるのだろうか?
オリンピックで選手たちは力を振り絞って競い、素晴らしい成績を収め「オレたちにはできる!」と、国民は身震いするほど勇気づけられたようなメッセージが、この建物からは聞こえなくなって久しい気がします。
不安ばかりを増幅させる政治家たちの振る舞いは、景気マインド(消費者心理)の足を引っ張るように思えてなりません……(わたしは消費税増税反対ではない)
国会議事堂前に「国会前庭(ぜんてい)」があるのをご存知か?(初めて歩きます)
幕末期は井伊家の屋敷で、井伊直弼(いいなおすけ:大老)はここから登城し、目と鼻の先で「桜田門外の変:1860年」に遭います。
1891年(明治24年)参謀本部(大日本帝国陸軍司令部)陸地測量部がこの地に日本水準原点を設置します(土地の高さの基準:右写真)。
当時は地盤沈下の影響が少ない理由などから、台地上であるこの地が選ばれました。
しかし当初の標高「T.P.(東京湾平均海面)+24.500 m」は、関東大震災後は「+24.4140 m」、2011年東日本大震災後は「+24.3900 m」となります(当初からは11cmの沈下)。
ちょっとややこしいのですが、上述のように陸地の高さは平均海水面を「±0m」とした基本水準面から測定されます。
ここの高さは地震の影響による地盤沈下で下方修正されましたが、温暖化の影響で海水面が上昇すると、それによる新たな下方修正が加えられます。
乱暴な言い方ですが、その不安要素を計算に入れられない「土地評価価格」には、すし屋の「時価」的な不安感があるのは当然と言えます。
法務省旧本館(Map)
上は法務省旧本館(1895年)で、実施設計・工事監理の河合浩蔵はジョサイア・コンドルの教え子です。
関東大震災はほぼ無傷でしたが、空襲で壁と床以外は焼失します。それを修復利用しましたが、1994年の改修工事により創建時の外観とされ、国の重要文化財に指定されます。
ほれぼれするような威厳ある建築物は「さすが法務省」ですが、法律を定める国会があの様では「宝のもちぐされ」と思うも、警備は当然厳重です。
この日の行程の中で、国会議事堂は国のシンボルでもあり(議員連中の腹黒さが表出しないよう?)常に磨いているようで、思いのほかきれいな「石」でしたが、まるでグレーにくすんでいたのが警視庁の建物です。
出入口ごとに警官は立ってはいますが、暑さのためかどうも緊張感が感じられません。
勤務先の近所にある中国大使館周辺を警備する警官の方が、騒がしい右翼関連の街宣車排除に対する緊張感がある気がしました……
日比谷公園(Map)
ここは1910年開業の旧日比谷公園事務所で、1976年内部を改装し東京都公園資料館となるも1999年に閉鎖されます。
補修工事の後、2006年に「フェリーチェガーデン日比谷:結婚式場」とされ、垣根の周りには色鮮やかなリースが飾られます。
施設からの「小規模の結婚式を都心で」の提案には、今どきは受けるような印象もあります。
地方出身の方は、双方の地元で披露宴を開きたいなどの要望があったとき、勤め先の仲間と身近に祝ってもらうには、手頃かも知れません。
公園の一角にひまわりが植えられています。
長く楽しませようと成長時期の異なる苗を交ぜているようで、種が落ちたものからこれから開くものも見られます(品種が違うのか?)
これから開こうとする姿に目を引かれましたが、何だか昔の特撮ものの怪獣に似たフォルムがあった気がします。
週末のひとときを日比谷公園のベンチで過ごす姿には、時代を超え普遍的とさえ思える「ハッピー感」があるのはなぜだろうか?
これは推測ですが、デートの際には双方とも多少の緊張感を抱く場所であり、「一度は日比谷公園でデートを」とのあこがれが、世代を超えて受け継がれているのかも知れません。
東京電力本店(Map)
昨年から見飽きるほど目にした東京電力本店(新橋駅からビルまで地下道があります)。
庶民感覚とはあからさまにかけ離れた社会通念をお持ちの会社であることを、先日公開された事故直後のテレビ会議映像でも痛烈に感じさせてくれました。
危機的状況の2号機原子炉冷却に海水注入を準備する現場所長に対し、
本店:こちらの勝手な考えだと、いきなり海水っていうのはそのまま材料が腐っちゃったりしてもったいないので、なるべく粘って真水を待つという選択肢もあると理解していいでしょうか?
現場所長:今から真水というのはないんです。時間が遅れます、また……
本店:真水でやっといた方が、塩にやられないから後で使えるということでしょ
現場所長:今みたいに(冷却水の)供給量が圧倒的に多量必要な時に、真水にこだわっているとえらい大変なんですよ。海水でいかざるを得ないと考えている
本店:いかにももったいないなという感じがするんですけどもね と……
公開を迫られ、総理の声を消せばこれを公開OKとした判断基準もすごいと感じますから、この先には信じられないモノが出てくるのかも知れません……
追記
病気で一線を退いた福島第1原発前所長のインタビューが公開されました。
われわれは、↑こういう話しを聞きたかったのです!
ロンドンオリンピックの日本選手団が、メダル獲得数ではこれまで最高の成績を残しました。
日本国民であればその理由に「復興」「絆」と出てくるでしょうし、根本には「自分の存在確認:アイデンティティ探し」が、選手同様に応援側にも存在するため、強力な磁力のような「目に見えない力」が、選手たちを後押ししたのでしょう。
そのきっかけはもちろん、大震災・原発事故を経験した「不安感」以外にありません……
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虎ノ門 金刀比羅宮(ことひらぐう)(Map)
この日は国会議事堂へ行くルートをあれこれ探した末、田町〜虎ノ門を走る「ちぃバス:港区コミュニティバスの新橋ルート」を選択します。
地域の利便性を高めるサービスなので料金は100円ですが、特にお年寄りや乳幼児を連れた母子の手助けのため、経路は最短距離ではなく細やかに迷走しますから、30分以上かかりました……
官庁街へ向かう道すがら、ビルの敷地にある大きな鳥居に目が止まります。
ビル名は「虎ノ門琴平タワー」で、エントランスが参道になっています。
はじめに神社ありきの構造に見えるのは、以前の神社所有ビルを大幅に建て替えたためで、社務所は左ビル内に入っています。
ここは「シュラシュシュシュ」で有名な香川県琴平町「金刀比羅宮」を、丸亀藩主が藩邸内に勧請(かんじょう:神仏の分身・分霊を他の地に祭る)したもので、江戸庶民の評判が高まり限定の参拝を認めたそうです。
「情け有馬の水天宮」と同様の経緯に思え、当時の江戸にはろくな神様がいなかったようですが、当時はまだ歴史の無い町なので仕方ないのでしょう。
江戸の町は京都とは違い尊重すべき既存の文化がないため、全国から集められた人たちが持ち寄った文化をスポンジの様に吸収し、工夫した成果が江戸文化の原型になったと考えられます。
それがこの土地に合った合理性と敷居の低さという性格を持ったおかげで、東京の発展がその延長上に築けたことを、納得できる思いがします。
折衷案を考え出す性質などは日本的というより、争いのない時代の「江戸庶民の生活の知恵」が現代に息づくように感じられます……
国会議事堂(Map)
近ごろ毎週金曜日に国会議事堂前で「反原発」のデモが繰り返されていますが、この土曜日はとても静かでした。
それにしてもここを仕事場とする方々は、国民が難儀しているときにどうして「大変なときだからこそ、清き一票を!」と叫びたがるのか? 理解不能な人々です。
世論調査の「支持する政党はない」が最も多いことを反省することなく、「その票をどう取り込もうか」しか頭にないのか?
連中には、国の将来を託せない「NO!」を突きつけられたことも理解できないようです。
「いやいや、違うんだ」などとまた離合集散に奔走して生き延びようとするのでしょう。
何だか「お宝ゲット!」のゲームのように見えますし、「信を問う総選挙」も「何だAKBじゃないのか?」「無党派層が一段と増えました」とならないようにと思うも、自分に何ができるのだろうか?
オリンピックで選手たちは力を振り絞って競い、素晴らしい成績を収め「オレたちにはできる!」と、国民は身震いするほど勇気づけられたようなメッセージが、この建物からは聞こえなくなって久しい気がします。
不安ばかりを増幅させる政治家たちの振る舞いは、景気マインド(消費者心理)の足を引っ張るように思えてなりません……(わたしは消費税増税反対ではない)
国会議事堂前に「国会前庭(ぜんてい)」があるのをご存知か?(初めて歩きます)
幕末期は井伊家の屋敷で、井伊直弼(いいなおすけ:大老)はここから登城し、目と鼻の先で「桜田門外の変:1860年」に遭います。
1891年(明治24年)参謀本部(大日本帝国陸軍司令部)陸地測量部がこの地に日本水準原点を設置します(土地の高さの基準:右写真)。
当時は地盤沈下の影響が少ない理由などから、台地上であるこの地が選ばれました。
しかし当初の標高「T.P.(東京湾平均海面)+24.500 m」は、関東大震災後は「+24.4140 m」、2011年東日本大震災後は「+24.3900 m」となります(当初からは11cmの沈下)。
ちょっとややこしいのですが、上述のように陸地の高さは平均海水面を「±0m」とした基本水準面から測定されます。
ここの高さは地震の影響による地盤沈下で下方修正されましたが、温暖化の影響で海水面が上昇すると、それによる新たな下方修正が加えられます。
乱暴な言い方ですが、その不安要素を計算に入れられない「土地評価価格」には、すし屋の「時価」的な不安感があるのは当然と言えます。
法務省旧本館(Map)
上は法務省旧本館(1895年)で、実施設計・工事監理の河合浩蔵はジョサイア・コンドルの教え子です。
関東大震災はほぼ無傷でしたが、空襲で壁と床以外は焼失します。それを修復利用しましたが、1994年の改修工事により創建時の外観とされ、国の重要文化財に指定されます。
ほれぼれするような威厳ある建築物は「さすが法務省」ですが、法律を定める国会があの様では「宝のもちぐされ」と思うも、警備は当然厳重です。
この日の行程の中で、国会議事堂は国のシンボルでもあり(議員連中の腹黒さが表出しないよう?)常に磨いているようで、思いのほかきれいな「石」でしたが、まるでグレーにくすんでいたのが警視庁の建物です。
出入口ごとに警官は立ってはいますが、暑さのためかどうも緊張感が感じられません。
勤務先の近所にある中国大使館周辺を警備する警官の方が、騒がしい右翼関連の街宣車排除に対する緊張感がある気がしました……
日比谷公園(Map)
ここは1910年開業の旧日比谷公園事務所で、1976年内部を改装し東京都公園資料館となるも1999年に閉鎖されます。
補修工事の後、2006年に「フェリーチェガーデン日比谷:結婚式場」とされ、垣根の周りには色鮮やかなリースが飾られます。
施設からの「小規模の結婚式を都心で」の提案には、今どきは受けるような印象もあります。
地方出身の方は、双方の地元で披露宴を開きたいなどの要望があったとき、勤め先の仲間と身近に祝ってもらうには、手頃かも知れません。
公園の一角にひまわりが植えられています。
長く楽しませようと成長時期の異なる苗を交ぜているようで、種が落ちたものからこれから開くものも見られます(品種が違うのか?)
これから開こうとする姿に目を引かれましたが、何だか昔の特撮ものの怪獣に似たフォルムがあった気がします。
週末のひとときを日比谷公園のベンチで過ごす姿には、時代を超え普遍的とさえ思える「ハッピー感」があるのはなぜだろうか?
これは推測ですが、デートの際には双方とも多少の緊張感を抱く場所であり、「一度は日比谷公園でデートを」とのあこがれが、世代を超えて受け継がれているのかも知れません。
東京電力本店(Map)
昨年から見飽きるほど目にした東京電力本店(新橋駅からビルまで地下道があります)。
庶民感覚とはあからさまにかけ離れた社会通念をお持ちの会社であることを、先日公開された事故直後のテレビ会議映像でも痛烈に感じさせてくれました。
危機的状況の2号機原子炉冷却に海水注入を準備する現場所長に対し、
本店:こちらの勝手な考えだと、いきなり海水っていうのはそのまま材料が腐っちゃったりしてもったいないので、なるべく粘って真水を待つという選択肢もあると理解していいでしょうか?
現場所長:今から真水というのはないんです。時間が遅れます、また……
本店:真水でやっといた方が、塩にやられないから後で使えるということでしょ
現場所長:今みたいに(冷却水の)供給量が圧倒的に多量必要な時に、真水にこだわっているとえらい大変なんですよ。海水でいかざるを得ないと考えている
本店:いかにももったいないなという感じがするんですけどもね と……
公開を迫られ、総理の声を消せばこれを公開OKとした判断基準もすごいと感じますから、この先には信じられないモノが出てくるのかも知れません……
追記
病気で一線を退いた福島第1原発前所長のインタビューが公開されました。
われわれは、↑こういう話しを聞きたかったのです!
2012/08/06
猛暑日はビル風大歓迎!──東京〜有楽町
2012.7.28【東京都】──「山手線を歩く! 29」
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「はとバス」乗り場(Map)
東京駅丸の内口といえば「はとバス:名称は1963年から」です(背後は駅舎)。
いまだに衰えない人気は、近くで暮らす者も知らない魅力的なコースがあるためでしょう。一度はと思うもいまだ未体験です。
現在バス通勤で、田町駅前国道15号線沿いのバス停に立っていると、これから営業に向かう「はとバス」の姿を目にします。
車内は運転手とガイドだけですが、バスガイドさんの姿が結構楽しめます。
慌てて化粧をする人、マニュアルを読みおさらいする人、大きな口を開けて寝てる人など、さまざま……
バスガイドさんには、小学校の遠足などから迷惑をかけましたが、体力勝負の仕事であると再認識する通勤の朝です。
東京国際フォーラム(Map)
東京国際フォーラムは、1997年旧東京都庁舎の跡地に開館した、日本初の国際公開コンペで設計者を選定した建造物です(その建築家ラファエル・ヴィニオリはウルグアイ生まれのアルゼンチン育ちで、現在ニューヨーク在住)。下写真のように、線路側のガラス棟は「船」がイメージされています。
しかしこの施設に要求したいのは、せめて下写真で斜めに横断する渡り廊下くらいは休日に解放してよ! です。
以前、何かのイベントで歩く機会があり、解放しているものと思っていました。
地下のコンベンションホールで開かれる「エンジニア適職フェア」がにぎわっています。写真撮ってる場合じゃなく参加すべきと思うも、年齢制限で断られそうです……
開館15周年のポスターを目にし「あぁ、そんなころから映画を観に足を運ばなくなった」と……
建物に威厳のあった日比谷映画劇場跡地に作られた「シャンテシネ:2009年からTOHOシネマズシャンテに館名変更」には通いました。
2000年あたりに上映方針が変わったのか、以来足が遠のいた記憶があります(その後はビックカメラが目的となります)。
東京国際フォーラムで観たコンサートには、「スティーリー・ダン」の好印象が残りますが(説明しても理解されないと思うのでこちらを→スティーリー・ダン)、着実にイベントスペースとしての評判を上げています。
有楽町イトシア(Map)
有楽町駅交通会館側は市街地再開発事業により、新しい町に生まれ変わりました(「フルーツ百花園」の一画は健在です)。
取り壊された地区には、有楽シネマ(マイナー作品を扱う映画館で、特に『七人の侍:1954年黒澤明』の再上映が印象に残る)や、レバンテ(ドイツビールと思っていたらスペイン料理店だった)、並びの脇道にあったガラス張り2階建ての喫茶店(通ったものの名前を忘れた)を含む一帯は、有楽町イトシア(複合商業施設:伊藤忠関連?)に生まれ変わりました。
確かに若者向けの集客力が高い商業施設になりましたが、歴史や文化と「個性」が失われてしまった思いが強く残ります……(右は、冬場のテラスで使うヒーターが並ぶ絵)
丸の内ブリックスクエア(Map)
都心のオシャレな空間として人気の高い「丸の内ブリックスクエア」に、初めて足を運びました(女性誌などの撮影でよく利用されるレンガ外壁の建造物)。
現在は「三菱一号館」とされますが、もとは最初に建築された「第1号館」であるも、解体の1968年には「東9号館」と呼ばれました。
現在の建物は2009年に復元されたレプリカで、設計も変更されたため歴史的建造物の価値は「ゼロ」とされます(設計者であるジョサイア・コンドルの名前も消えます)。
解体時には、文部省から重要文化財指定の申し入れに、三菱地所は無断で取り壊すことはしないと回答しながらも、抜き打ちで解体が決行された経緯があるそうです。
文化的価値よりも、目先の利益を優先した三菱は、自分たちの論理でレプリカを作り、そこを「三菱一号館美術館」としました。
展示品の価値は変わらないにしても、どうせ見るなら「もっとすばらしい美術館で!」と思ってしまいます。
ここは丸の内ブランド街「丸の内仲通り」に面し、東京ミレナリオ(神戸ルミナリエのコピーで2006年以降休止)が行われました。
縁のないブランド街ですが、表参道や銀座界隈より落ち着いた雰囲気があり、ゆっくりと歩けそうな印象です。
それは並木や歩道の整備に加え、猛暑日でも高層ビル群の陰とされビル風が吹きまくる、部外者にはいっときの避暑地と感じられたためのようです。
買い物客には、日差しのなさと風の強さが嫌われ閑散としているなら、ビル街に繁華街は作れないことになります(確かにニューヨーク五番街の道幅は、表参道くらい広く明るかった)。現実に人気の無い場所なの?
明治生命館(Map)
重要文化財とされる「明治生命館」設計者の岡田信一郎(1934年完成は没後)は生前、日本銀行小樽支店(1912年)を辰野金吾(東京駅設計者)との連名で、単独で鳩山会館などを手がけます。
彼もジョサイア・コンドルの教え子のようで、関東大震災で被害を受けたニコライ堂修繕に尽力します。
ここで重要なのは、隣接する場所にあったコンドル設計の煉瓦建築が関東大震災で被害を受けた様を見て、耐震性に優れたアメリカ式オフィスビルへと舵を切ったことです。
幸い関東大震災以来、巨大地震が無いため現存するとしても、力強いフォルムからは安定感が感じられます。
占領下では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用される、威厳と心地よさがあったようです……
皇居前広場(Map)
観光バスで訪れる人たちは、日影の無い場所でガイドさんの説明を聞かされるため、バスに戻ってくるころにはみんなグッタリするような陽気です。
言葉の印象から中国の方と思われますが、観光で「二重橋」を見学することを含め、ニュートラルに日本を受け止めてくれよう願ってしまいます。
皇居前広場なので車の騒音は消えませんが、開放的な空間ではあるので、日差しのうつろいとともに居場所を確保し虫が気にならなければ、絶好の「プライベート空間」がそこにあります!(奧のベンチは外国の女性)
さて「日本の中心」で、何をしましょうか?
追記──ロンドンオリンピック
開会式前のサッカー(女・男)以来、連日日本選手の躍動感が伝わってくるので、応援にも力が入るオリンピックとなっています。
表現として正しいか分かりませんが、現在の日本人は選手も応援側も同様に「発散・アピールの機会」を求めているのではあるまいか?
大震災のショックからはい上がる復興応援の目標のもとに、何か国民全体が「日本人のアイデンティティー」を求めているように感じられます。
そんな「一体感」から生み出された力が、選手に力を与え、それを後押しする応援と一体となり、素晴らしい成績につながっているのではないだろうか。
この結束感は、日本人の心に「とても誇らしい記憶」として残るであろう!
そんな思いで後半戦を応援しています……
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「はとバス」乗り場(Map)
東京駅丸の内口といえば「はとバス:名称は1963年から」です(背後は駅舎)。
いまだに衰えない人気は、近くで暮らす者も知らない魅力的なコースがあるためでしょう。一度はと思うもいまだ未体験です。
現在バス通勤で、田町駅前国道15号線沿いのバス停に立っていると、これから営業に向かう「はとバス」の姿を目にします。
車内は運転手とガイドだけですが、バスガイドさんの姿が結構楽しめます。
慌てて化粧をする人、マニュアルを読みおさらいする人、大きな口を開けて寝てる人など、さまざま……
バスガイドさんには、小学校の遠足などから迷惑をかけましたが、体力勝負の仕事であると再認識する通勤の朝です。
東京国際フォーラム(Map)
東京国際フォーラムは、1997年旧東京都庁舎の跡地に開館した、日本初の国際公開コンペで設計者を選定した建造物です(その建築家ラファエル・ヴィニオリはウルグアイ生まれのアルゼンチン育ちで、現在ニューヨーク在住)。下写真のように、線路側のガラス棟は「船」がイメージされています。
しかしこの施設に要求したいのは、せめて下写真で斜めに横断する渡り廊下くらいは休日に解放してよ! です。
以前、何かのイベントで歩く機会があり、解放しているものと思っていました。
地下のコンベンションホールで開かれる「エンジニア適職フェア」がにぎわっています。写真撮ってる場合じゃなく参加すべきと思うも、年齢制限で断られそうです……
開館15周年のポスターを目にし「あぁ、そんなころから映画を観に足を運ばなくなった」と……
建物に威厳のあった日比谷映画劇場跡地に作られた「シャンテシネ:2009年からTOHOシネマズシャンテに館名変更」には通いました。
2000年あたりに上映方針が変わったのか、以来足が遠のいた記憶があります(その後はビックカメラが目的となります)。
東京国際フォーラムで観たコンサートには、「スティーリー・ダン」の好印象が残りますが(説明しても理解されないと思うのでこちらを→スティーリー・ダン)、着実にイベントスペースとしての評判を上げています。
有楽町イトシア(Map)
有楽町駅交通会館側は市街地再開発事業により、新しい町に生まれ変わりました(「フルーツ百花園」の一画は健在です)。
取り壊された地区には、有楽シネマ(マイナー作品を扱う映画館で、特に『七人の侍:1954年黒澤明』の再上映が印象に残る)や、レバンテ(ドイツビールと思っていたらスペイン料理店だった)、並びの脇道にあったガラス張り2階建ての喫茶店(通ったものの名前を忘れた)を含む一帯は、有楽町イトシア(複合商業施設:伊藤忠関連?)に生まれ変わりました。
確かに若者向けの集客力が高い商業施設になりましたが、歴史や文化と「個性」が失われてしまった思いが強く残ります……(右は、冬場のテラスで使うヒーターが並ぶ絵)
丸の内ブリックスクエア(Map)
都心のオシャレな空間として人気の高い「丸の内ブリックスクエア」に、初めて足を運びました(女性誌などの撮影でよく利用されるレンガ外壁の建造物)。
現在は「三菱一号館」とされますが、もとは最初に建築された「第1号館」であるも、解体の1968年には「東9号館」と呼ばれました。
現在の建物は2009年に復元されたレプリカで、設計も変更されたため歴史的建造物の価値は「ゼロ」とされます(設計者であるジョサイア・コンドルの名前も消えます)。
解体時には、文部省から重要文化財指定の申し入れに、三菱地所は無断で取り壊すことはしないと回答しながらも、抜き打ちで解体が決行された経緯があるそうです。
文化的価値よりも、目先の利益を優先した三菱は、自分たちの論理でレプリカを作り、そこを「三菱一号館美術館」としました。
展示品の価値は変わらないにしても、どうせ見るなら「もっとすばらしい美術館で!」と思ってしまいます。
ここは丸の内ブランド街「丸の内仲通り」に面し、東京ミレナリオ(神戸ルミナリエのコピーで2006年以降休止)が行われました。
縁のないブランド街ですが、表参道や銀座界隈より落ち着いた雰囲気があり、ゆっくりと歩けそうな印象です。
それは並木や歩道の整備に加え、猛暑日でも高層ビル群の陰とされビル風が吹きまくる、部外者にはいっときの避暑地と感じられたためのようです。
買い物客には、日差しのなさと風の強さが嫌われ閑散としているなら、ビル街に繁華街は作れないことになります(確かにニューヨーク五番街の道幅は、表参道くらい広く明るかった)。現実に人気の無い場所なの?
明治生命館(Map)
重要文化財とされる「明治生命館」設計者の岡田信一郎(1934年完成は没後)は生前、日本銀行小樽支店(1912年)を辰野金吾(東京駅設計者)との連名で、単独で鳩山会館などを手がけます。
彼もジョサイア・コンドルの教え子のようで、関東大震災で被害を受けたニコライ堂修繕に尽力します。
ここで重要なのは、隣接する場所にあったコンドル設計の煉瓦建築が関東大震災で被害を受けた様を見て、耐震性に優れたアメリカ式オフィスビルへと舵を切ったことです。
幸い関東大震災以来、巨大地震が無いため現存するとしても、力強いフォルムからは安定感が感じられます。
占領下では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用される、威厳と心地よさがあったようです……
皇居前広場(Map)
観光バスで訪れる人たちは、日影の無い場所でガイドさんの説明を聞かされるため、バスに戻ってくるころにはみんなグッタリするような陽気です。
言葉の印象から中国の方と思われますが、観光で「二重橋」を見学することを含め、ニュートラルに日本を受け止めてくれよう願ってしまいます。
皇居前広場なので車の騒音は消えませんが、開放的な空間ではあるので、日差しのうつろいとともに居場所を確保し虫が気にならなければ、絶好の「プライベート空間」がそこにあります!(奧のベンチは外国の女性)
さて「日本の中心」で、何をしましょうか?
追記──ロンドンオリンピック
開会式前のサッカー(女・男)以来、連日日本選手の躍動感が伝わってくるので、応援にも力が入るオリンピックとなっています。
表現として正しいか分かりませんが、現在の日本人は選手も応援側も同様に「発散・アピールの機会」を求めているのではあるまいか?
大震災のショックからはい上がる復興応援の目標のもとに、何か国民全体が「日本人のアイデンティティー」を求めているように感じられます。
そんな「一体感」から生み出された力が、選手に力を与え、それを後押しする応援と一体となり、素晴らしい成績につながっているのではないだろうか。
この結束感は、日本人の心に「とても誇らしい記憶」として残るであろう!
そんな思いで後半戦を応援しています……
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