2012/08/20

小規模店がサラリーマンの味方──新橋〜浜松町

2012.8.11【東京都】──「山手線を歩く! 31」


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愛宕山(Map)

 ここは地下鉄神谷町駅に近い天然の山で、標高25.7mは東京23区内の最高峰(人工の山には山手線内で最も高い44.6mの箱根山がある)。
 徳川家康は江戸開府にあたり、京都からの道筋で目に入るこの山に、これから建設する江戸の火伏せ・防火の神である愛宕神社(京都奧嵯峨山奥の愛宕神社が総本社)を建てますが、幕末まで終始江戸の町は火事に悩まされます。
 家康最初の事業のためか「天下取り・勝利の神」と持てはやされ、「桜田門外の変」で井伊直弼(いいなおすけ)を襲う水戸藩の浪士達は、ここで祈願後に江戸城へ向かいます。

 右写真は「出世の石段」とされます。
 三代将軍家光が戯れで「山上の梅の枝」を所望したところ、丸亀藩家臣の曲垣平九郎(まがきへいくろう)が、石段を馬で上り下りし梅を届けます。その功績により「日本一の馬術の名人」と称され、馬役のトップへと出世します。
 バカらしい逸話ですが、褒美があれば人は頑張れます。
 史実再現的なチャレンジ成功のビデオ(昭和57年)を見ましたが(現在まで成功者は4名)、実際に石段を上った後にその光景を思い起こすと、とんでもない挑戦だったと。
 上りはいいが、振り返るとビビるような急勾配で踊り場もありません……

 これは作り話的なにおいがしますが、幕末期反政府軍の江戸城総攻撃回避に向けた勝海舟・西郷隆盛の交渉が行き詰まり、二人は家康ゆかりのこの山から江戸の町を見渡し「この町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」との認識で一致して、無血開城が決定されたとする解釈があります。
 真偽はともかくとしても、当時この地から江戸の町を一望できたのは確かと思えるので、そこからの景色は覚悟を迫る光景だったようです……


NHK放送博物館(Map)

 日本で最初のラジオ放送は1925年、田町駅東口に碑が残る東京高等工芸学校から発せられ、数ヶ月後に完成した愛宕山の放送局から、日本初のラジオ本放送が開始されます。
 愛宕山からの放送は1939年内幸町への施設移転で終了し、その地に1956年世界初の「放送博物館」が開館し現在に至ります。

 下写真は有名な、日本で初めて映像伝送を実現した際、最初に映し出されたイロハの「イ」の映像を再現したもの。


 団塊世代(映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の一平たち)以降には、テレビはとても身近な存在となり、展示されるニュースやドラマなどからはさまざまな記憶や思い出がよみがえるので、思いのほか楽しめました(朝の連続テレビ小説ヒロインはみんなカワイイ!)。

 放送に貢献し表彰された方々の展示コーナーに、音楽家 冨田勲さんが使用した「アナログシンセサイザー」の展示があります。
 シンセサイザーという言葉の響きには「デジタル楽器」の印象があります。
 当初は真空管を使用していたと聞きますが、音を連続的に扱う(アナログ)か、断片的な音として扱うか(電気信号の0 or1)で線引きされます。
 以前はYMOも使用していて、音色が安定せず使用時にはかなり神経をとがらせたと聞くと「楽器らしい:アナログ・テクノ?」存在に思えてきます。


青松寺(Map)


 上は放送博物館下に隣接する青松寺で、山門の両側には仁王像を凌駕するツインタワーが仏様を守って(?)います。
 「愛宕グリーンヒルズ」とされる再開発地区で、森ビルが管理します。
 ピンと来ないのですが、世界的建築家シーザー・ペリ(マレーシアのクアラルンプールにあるペトロナスツインタワー、日本では羽田空港第二ターミナルビル:キレイだが使いやすいとは思わない など)によると胸を張ります。

 空間の中心に寺がどっしりと構えるため、脇に空いたスペースの再利用に悩んだようですが、ここは曹洞宗の坐禅寺ですから、いくら両側に高層ビルが建とうが心静かに「座っていきませんか?:道元の言葉として映画で使われた」のように、動じない精神性が感じられます。


環状第2号線(Map)


 ここは建設中の環状第2号線トンネルの出口で、新橋駅近くで山手線からも見えます。
 環状第2号線計画は、江東区有明〜港区新橋〜新宿区四谷〜千代田区神田佐久間町に至る都市計画道路で、戦後期の計画がようやく現在完成にたどりつく困難な事業ですが、必要とされていた道路なのでしょう。
 神田佐久間町から虎ノ門までは現在の外堀通りとされるため、虎ノ門〜有明間が未完成でした。
 写真のように、建設場所は完全な立ち退きが必要ですから、新橋や虎ノ門周辺で新しい道路を作ることの困難さがうかがえます。


新橋駅周辺(Map)

 駅周辺が「サラリーマンの聖地」的に扱われるのは、大規模な再開発は到底できないほど細分化された地権者たちが、身の丈にあった商売を続ける成果、とも感じられます。
 汐留地区の再開発や、イタリア街が誕生しようが(どちらもピンと来ません)、軸のぶれない商売スタンスが、オヤジたちをあたたかく迎え入れてくれます。

 街頭インタビューに映る、駅前「ニュー新橋ビル:右写真」に久しぶりに潜入しました。
 以前はこまごまとした店が並び、結構にぎやかで驚いた印象がありましたが、さすがに小売店舗は姿を消しています(世代交代か)。
 現在ビル内には「○○マッサージ」の店舗が並び、アジアの猥雑さとたくましさに満ちた空間と化しています。
 通路の真ん中に仁王立ちでスマホに夢中なお姉ちゃんがいたりして、夜に来たら逃げられなくなりそうな、あやしげな空気がありました。
 でも、そんな雰囲気があっての新橋ですから、下心は隠しながらもオヤジたちの足が向いてしまう町であるのは確かなようです。


 上野〜御徒町駅間から連なる山手線・京浜東北線のガード下の空間というのは、電車が騒がしく狭いながらも、それゆえ気を使わず落ち着ける場所だったりします。
 ベースはレンガの壁ですが装飾には寛容なようで、さまざまなディスプレイが楽しめます。
 近ごろのはやりは「ボロ家テイスト」か?


 上は汐留シオサイトにある「旧新橋停車場跡」です。
 「汽笛一声新橋を〜♪」とされる鉄道発祥の地、初代新橋駅跡(1872年:明治5年)ですが、東京駅開業時(1914年:大正3年)の線路は別ルートとされ、起点駅だけが残される形となり旅客営業は終了します。
 その後汐留駅に改称され貨物線の駅とされます。

 当初はここから横浜の赤レンガ倉庫付近まで線路が続いていたかと思いをはせますが、横浜ではイメージできても、このビルの谷間ではちょっと広がらないなぁ〜、は仕方ないところか……


東京湾大華火祭(Map)


 ちょうどこの日は花火大会にあたり、新橋駅周辺は「ゆりかもめ」でお台場に向かう若者たちでごった返していました。
 田町駅もベイサイドへ向かう人たちで大混雑していましたが、通路に「芝浦会場には入場券が必要です」の看板があります。
 この日は芝浦桟橋等に、特設会場が設けられているのかも知れません。

 昨年は震災の影響により各地で中止とされましたが、この夏は「浴衣姿が復活」しているようで、作法を知らず着くずれた姿も目にしますが、花火同様町中にも華やぎが感じられます。


 花火の写真はアパートの屋上からで、わたしのカメラでもこれくらい撮れるのですから、花火見学には十分の場所です。
 部屋の中にいても「爆弾か?」くらい響く音の大きさには驚きます(建物が古いにしても)。
 これまでも花火大会には恵まれた場所に暮らしていて、高島平・蓮根では荒川の花火、武蔵小杉・新丸子では多摩川の花火を、ベランダなどから苦労なく見学していました。
 ですが海上の打ち上げでは、川より大きな花火が打ち上げられるようで、体にズシンと響く迫力の違いに、真下から見学して燃えかすでシャツが焦げた隅田川花火大会を思い出したりします。
 そんな経験でも話題にできるのですから、日本の季節感の大切さを改めて感じた思いがします……


 追記──余韻をビートルズに託した演出の見事さ

 ロンドンオリンピック閉幕後の週に、ラジオでビートルズの曲を耳にする機会が増えた印象があります。
 開会式での「ヘイ・ジュード」や閉会式の「イマジン」は注目されましたが、「アイ・アム・ザ・ウォルラス:アルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』収録曲」を耳にして、当時のビートルマニアはちょっとざわめいたのではあるまいか?
 世界中で多くの人が耳にしているビートルズの曲ゆえ、「最近聞いてないなぁ〜」という関心を高める効果があったように思えます。
 聞き直したい懐かしさが、閉幕したロンドンオリンピックと重なり、ビートルズ≒オリンピックの余韻となるように感じました。

 音楽を「主要産業」と考える国らしいし、これで売り上げが増えればと、女王陛下(は天皇陛下より響きがいいのはなぜだろう?)も協力したのではあるまいか……

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