2013.2.2【東京都】──「ベイエリアウォーク⑲」
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東京海洋大学(Map)
2003年に東京商船大学(前進は三菱商船学校:1875年大久保利通が岩崎弥太郎に命じ創設された私学)と東京水産大学(1888年設立)が統合された、日本で唯一の海洋研究・教育を行う国立大学で、品川にもキャンパスがある。
右の第一観測台(1903年:明治36年建設)は、当時の航海には欠かせない航海天文学の観測施設で、屋根のドーム部分は手動で回転したそう。
このような施設を目にするといまでも「カッコイイ」と感じる、天文少年時代の触覚が目を覚まします。
先日の隕石落下は「宇宙からのかめはめ波」のようで、逃げようのない危機の存在に驚愕させられました。
毎年地球には、直径20cm、重さ10kg程度のものが約800個も落下する(燃え尽きるものを含め)と聞けば、もう祈るしかないので「隕石除け」のお守りを作ったら受けるか? とも……
上の明治丸はイギリス製帆船(1873年:明治6年)で、日本に現存する最古の「鉄船」で、明治天皇が乗船しました。
天皇が東北方面から横浜に戻った日が「海の記念日:7月20日」とされ、祝日「海の日:7月の第三月曜日」のルーツとは知りませんでした。
国の重要文化財ですが、老朽化による大規模修復の募金を受付ています。
上は2月まで閉館中の「百周年記念資料館」前に飾られる岩石。
手前に横たわる玄武岩は、練習船が寄港したミクロネシア・クサイ島の酋長からの贈り物で、「Xusaie 1937」の表記が見えます。
異国からの訪問者が少ない当時は、歓迎として「岩石」を持たせる風習があったのかも知れません(現地の城壁の石らしい)。
現在も「石の通貨」が流通するとされますが、例えば「クサイ島の石は珍しいので、おにぎり○個の価値がある」という、骨董品的な性格のようです。
島国特有の「海の果てを見つめる心情」を理解できる民族としては、雨ざらしとはいえ島の酋長の思いを伝える展示ですし、わたしにはしっかりと伝わりました。
中の島周辺(Map)
上写真奧「中の島」から貯木場のような施設を目にし、豊洲にあるマンションのテラスから望みます。
出入りは可能ですが私有地なので監視されているらしく、声は掛けられないも管理の方が出てきました。それがセキュリティの「売り!」ですよね。
悪いことはしませんが「次から気をつけよう」の抑止力になると実感です。
確かに、手すりが邪魔なので植え込みの縁に上りました……
越中島にある清水建設技術研究所の建物では、ディスプレー的に免震装置をアピールしています。
今回の大地震で効果が確認されたようですが、傾斜地などの設置には難しい面もあるため「ヒット」には至らないらしい。
構造の詳しいことは分かりませんが、理論的には安全とされても、ゴムの「耐用年数や経験値」を持たない現在では、シェイプアップ器具の不具合とは意味が違うため、暮らしを託すには冒険的との印象を持ちます(開発者の方々には大変失礼!)。
運河の船置き場ですが、カメラ位置はどん詰まり(その先は埋め立てられた)のため、水面が鏡のような絵が撮れました。
今どきは門も施錠されるので難しいでしょうが、ガキの時分だったら怒られても遊んだし、昼寝の間に流されたなどの冒険譚が生まれたのでは、と思ったりします……
古石場川親水公園(Map)
以前の古石場川(ふるいしばがわ)は、埋め立て後に親水公園とされます。
現在も残る古石場の地名は、江戸城築城の石などの置き場・加工場に由来します。
川とされますが、石など物流のための運河だったのでしょう。
隣接地にも「牡丹町:江戸時代に牡丹を栽培する家が多かった」の古い名が残り、公園沿いには牡丹園があります(下写真手すりには牡丹の模様がある)。
映画監督小津安二郎さんの生家が近所だそうです。
橋の写真が続きますが、古い橋は頑丈に作られているため「守ってくれそう」な安心感があります(以前は鉄道が通っていたのか?)。
越中島は江戸時代のゴミの埋め立て処分場、と目にしたことがあります。
当時流れ込んだ利根川河口は現在の浅草付近なので、山の手(高台)以外は一面湿地帯でした。
利根川の流路変更などの環境整備により、埋め立ては上流側から行われますが、新たな土地に人が暮らし始めるとゴミ処理問題が生じ、小名木川(おなぎがわ)の海側(地下鉄新宿線の少し南)に位置する埋立地の多くは、ゴミ主体の埋め立てになります。
霊岸島が「こんにゃく島」とされたように、当時この周辺には違う表現があったかも知れません。
越中島公園(Map)
これまであまり好きではなかった湾岸の高層マンション群ですが、周辺を何度も歩くうちに慣れたらしく「そこにあるものだ」と、受け入れられるようになってきました。
特に感慨は無いにしても、高層ビル付近での夕景の味わい方が分かった気がします。
明治時代(1903年)佃島と越中島間には、左の木が茂る中の島を経由した木造の橋(相生大橋と小橋)が架けられますが、関東大震災で焼け落ちてしまいます。
再架橋された当時は(1926年:大正15年)橋で島に渡ることが珍しいため、人気の観光地となります(上は旧相生大橋部分)。近ごろは夜景スポットとして人気があるそうです。
越中島の名称由来は、江戸時代初期に旗本の越中守(えっちゅうのかみ:越中は現在の富山)の屋敷にちなむとされます。名士だったにしても、ピンと来ませんし「越中褌:ふんどし」くらいしか思い浮かびません。
脱線ついでに、越中褌が普及したのは明治末期で、軍隊に徴兵された男子に支給され広まったとのこと。機能的とされたようです……
追記──高野悦子さん(岩波ホール総支配人)が亡くなられました。
いつか訪れるにしても「ショック!」です……
高校生時分に購読を始めた『キネマ旬報』で、年間ベストテン作品を毎年何本も上映する岩波ホールの存在を知り、『白夜:ロベール・ブレッソン監督』から通い始めます。
いつもガラガラで「大丈夫?」の状況から、高野さんが目指したと思われる「映画を囲むカルチャーセンター」を実現するまでには、大変なご苦労があったに違いありません。
そのかいあって現在の、表現は悪いが「ジジ・ババのカルチャーセンター」的な様相を呈する大盛況のホールを目にする度に、心の中で高野さんに拍手を贈っていました。
忘れられないのが『Tomorrow─明日:黒木和雄監督』の初日舞台あいさつです。
こちらも応援したい気持ちで初日第一回の上映に足を運び、その舞台で「日本映画にお客さんは足を運んでくれるのか? と眠れませんでしたが、こんなにも多くのお客様にお越しいただいて……」と、涙されました(そんな連続だったことでしょう)。
ホールでの、ロベール・ブレッソン、ルキノ・ヴィスコンティ、アンドレイ・タルコフスキー等々の巨匠との出会いは、わたしの意識に豊かな広がりを与えてくれる「映画教室」のような場でした(上映交渉には自ら足を運び、監督とのツーショット写真が数多く飾られていた記憶があります)。
映画への情熱を原動力に突き進み「岩波ホールという文化」を確立しましたが、あの方は最期まで「もっと多くの作品を知ってもらいたい!」だったのではあるまいか?
高野さんの、映画を語る表情がとても好きでした……
ありがとうございました!
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