2019/03/18

残したい思い──深川

2019.3.2【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_17

 混雑する通勤電車の中で門前仲町駅を通る際は、いつも「どこを歩こうか?」と考えながら気を紛らわしています。




 隅田川テラス(川沿いに整備された遊歩道)に降りると、遠くで工事中の清洲橋が山のように見えたので寄り道を。橋を富士山に見立て、その背後にスカイツリーという絵を壁画にする銭湯がありそう、と思う気分が下町らしさとも。
 現在、国の重要文化財とされる3橋(勝鬨橋永代橋、清洲橋)では、TOKYO 2020に向けたお色直し(長寿命化工事)が行われており、築地大橋(2018年開通)を含めた12橋のライトアップが新しくなるようで、また楽しめそうです。
 立ち位置の清洲橋醸造場(ビール工場)&バーベキューレストラン『PITMANS』テラスは、堤防の上から川を眺められるので花火大会の眺めが良さそう。




 庶民の町として知られる名称は、江戸時代に摂津国(現 大阪府)から移住し、小名木川北側(当時の森下付近は漁師町)を開拓した深川氏に由来し、南側の湿地の名もなき開拓地を含めた広い地域が深川とされました。現在も町名として門前仲町北側の狭い地域に残ります。
 江戸の大火を受け、隅田川対岸に広がる茅野(かやの)の開拓が始まり、両国橋が開通すると寺院や庶民が移転し、一帯は急速に都市化しました。
 周辺は東京大空襲で焼き尽くされたため、被害を免れた墨田区京島付近のような無秩序さはなく、狭いながらもきちっと区割りされた町並みが整備されています。
 上は、屏風絵のような慧然寺(えねんじ)。右は富岡のインテリアショップ? いまどきはおしゃれじゃないと、東京メトロ沿線広告の石原さとみが来てくれません(もう来たんだっけ?)。


 上の八幡橋(元 弾正橋:以前は宝町の楓川に架けられた)は、旧 八幡堀を整備した遊歩道に架けられる人道橋で、ではなく鉄を主材料とした鉄橋としては日本最古で、国の重要文化財とされます。
 何をするわけでもないのに、つい誘われてしまう場所が点在しているのは、残っているのではなく、残そうとする思いが受け継がれているように。子供が関心を抱く遊び場には地域の特性があり、遊ぶことから思いを感じてくれれば、バトンは繋がるのではないかと。

 付近で起きた2017年富岡八幡宮殺人事件(宮司の後継問題による血縁間の事件)はまだ記憶に新しく、大空襲で焼失した社殿を再建した宮司は、神社本庁 事務総長就任の評価を受けますが、祖父が築き上げたものを三代目が失墜させました。



 江戸時代初期、永代島(当時は島だった)に祭られた「永代嶋八幡宮」に始まり、現在の門前仲町は永代寺(神社を管理する寺)の門前町として発展します。
 富岡八幡宮の祭礼 深川八幡祭は、江戸三大祭(日枝神社の山王祭、神田神社の神田祭り)の一つとされ、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と語られます。
 また江戸勧進相撲発祥の神社とされ、横綱力士碑に横綱の名が刻まれることから、稀勢の里も土俵入りを奉納しましたが……
 右は境内の婚儀殿(結婚披露宴会場)前に飾られる絵で、色気を振りまく姿は子宝祈願のようにも。

 空襲の被災状況を目にした昭和天皇の「これで東京もとうとう焦土になったね」の言葉が、心に刻まれています。

 かつて3基あった神輿は関東大震災で焼失し、右の一の宮神輿は1991年に作られたもので、日本一の黄金大神輿とされる千貫神輿(高さ4m、重さ4.5トン:千貫 = 約3.75t)の巨大さには圧倒されますし、金箔だけでなくダイヤ、銀、プラチナ等も飾られるそう。
 これは、佐川急便グループ会長の寄贈によるもので推定10億円とか。これぞバブルの象徴! ですが、形として残ってよかったとも。
 ご推察通り重くて担げないため(交代で担ぐ人手が足りないそう)お出ましになったのは一度きりとのこと。3年に一度、隣に置かれる二の宮神輿(重さ2トン、推定1億円)が担ぎ出されます。

 周辺で古い町名が残されるのは、氏子町会の名を守りたいためでは? と思うほど、八幡宮と祭りは求心力と華を持つ存在のようです。



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