2020/02/24

昭和の商店街を思い出す──十条

2020.1.25【東京都】

 車窓から見かけた雰囲気がいい感じで、歩いてみたいと思っていましたが、ようやく足を踏み入れました。



 上は、旧中山道沿い(板橋本町)にある縁切榎の絵馬(悪縁を切り、良縁を結んでくれる)で、本棚のように行儀よく並んだ背表紙(?)にも文字が見られます。この日も10分程度の間に4人が訪れる人気ぶりです。

 右は2009年竣工の帝京大学病院で、1階には小さな商店街(コンビニ、カフェ、レストラン 等)がありますが、確かに大きな病院+大学には必要かと。
 かつて付近に加賀藩の広大な下屋敷があったことから、加賀・金沢の名前が多く残る地域で、子どもを撮りたかったこども動物園は、改修のため休園中でした。

 十条駅前に広がる十条銀座商店街は、いく筋もの通りに伸びるアーケードに200軒もの店舗が軒を並べます。とても活気ある商店街なので人出も多く、歩くだけでも楽しくなりますが、おしゃべりも楽しいらしく「道の真ん中で盛り上がらないで!」の光景に、昭和期の元気だった商店街を思い出します。
 つながっている横丁の飲み屋街を含め、全体で「十条銀座」の看板を守っているように見え、小さな店舗が肩を寄せ合う商店街では、団結力によって活気が生まれる様子がよく分かります。

 以前の赤羽線(現在も池袋〜赤羽駅間の正式名称)は埼京線とされますが、1885年(明治18年)開業の赤羽駅〜品川駅間の品川線が、山手線西側の起源となります。右の十条駅や板橋駅にローカルな印象が残るのは、メインルート(山手線)から切り離されたためかと。記憶にある赤羽線は黄色い車体で、ラッシュ時に大混雑する映像を見た覚えがあります(現在の埼京線と変わらない…)。
 大きな通りはないが高架計画があるらしく、周辺には計画反対ののぼりが見られます(JRは土地の有効活用を狙うのか?)。ホーム脇に踏切のある光景(柵がないのでよじ登れそう)も見なくなったと、郷愁に浸るばかりでは町は発展しないし、いずれ住民の要望が高まることに……


 上は、十条駅から京浜東北線 東十条駅に向かう演芸場通りにある篠原演芸場。通り名とされる施設は、大衆演劇専門の芝居小屋としては都内でもっとも古く(1951年)、梅沢富美男、早乙女太一も出演するため、初心者でも入りやすいらしい。月替りの芝居+歌謡・舞踊ショー(3〜4時間)が1,700円とのこと。
 なぜこの町に大衆演劇が根付いたのかと驚きますが、将来(現在)も庶民の町であり続けるとの予見は見事に的中しました。暇つぶしに小遣い程度で観られる庶民の娯楽ですが、熱烈な追っかけもいるんですよね……

 十条の名称由来は古代の条里制(土地区画制度)によるもので、東十条駅東側の低地に耕地が広がり、集落は高台を通る旧鎌倉街道(日光御成道)沿いに発展しました。
 京浜東北線 上野〜赤羽間は武蔵野台地の縁沿いを通るため、東十条駅から高台方面に帰る方は、急な坂道を登ることになります。
 その途中に、いっぷくできる(?)飲み屋が並び、その中にポツンとオーヴェルニュ料理(フランス)専門店があります。立地にこだわらないのは、「田舎料理」とされる飾らないスタイルのためか?


追記──息苦しさを覚える電車内の空気

 混雑する電車は慣れていても、近頃の電車を降りた瞬間の「フゥー」という開放感には、これまでとは違う安堵感を覚えます(周囲もそう見えます)。厳粛さにも似た緊張感漂う通勤列車を利用するだけで、体調を崩しそうです。
 せめて普段の痛勤列車に早く戻すためにも、みんなで感染拡大防止に努めねばと……(手洗いの回数は普段の倍以上に増えました…)

2020/02/17

災害リスクへの関心──赤羽

2020.1.11【東京都】

 「ここにいてはダメです」と警告する江戸川区水害ハザードマップ(2019年5月発行)を目にしていたので、昨秋の台風の際には籠城を覚悟し風呂に水を溜めていました……



 前回はフォルクローレ奏者、今回は噴水の上に陣取る少年に目が止まるように、主張や個性を表現したがる町の印象を受けましたが、別の時間に少女がここに登る姿を目にし、一番目立つ待ち合わせ場所として認識されているのかもしれないとも。
 地元の情報では水の出ない噴水らしく、「水が出なければ、ただの噴だ!」とか……


 一番街シルクロード(リンク先Youtube)はネーミング通り遺産のような外観ですが、昼から行列のできる立ち飲みおでん屋はにぎわっています。
 バラックから始まったような飲食店街がいく筋も交差する地区は、小学校に隣接する環境にありますが、しぶとく(の表現がふさわしい)生き残っているように感じます。駅近接地のため飲食店の排除は難しいかと。
 上は同アーケードで店を物色する姿。

 鎌倉時代には鎌倉街道中道(なかつみち)が通され、荒川には川口の渡し(岩淵〜川口)があり、江戸時代には日光御成道(おなりみち)とされました。一般的に渡し付近の寺院は、旅人等の無縁仏を供養するため、と目にしたことがあります(岩淵町には寺院が多い:右)。
 岩淵宿の鎮守とされる八雲神社周辺に、キュウリを食べない慣習があるのは、本社の京都八坂神社の神紋がキュウリの切り口に似ているため、祇園祭の間はキュウリを食べない、流れによるとも。
 荒川の流れは付近でも蛇行したため、川口とされる飛び地があったそう(都・県境も東京側に入り込む)。
 下は神社近くの蔵。


 戸田公園を含めこの地域に足を運ぼうと考えたのは、昨秋の台風による爪痕を確認するためで、隅田川への流れを制御する岩淵水門周辺の状況(リンク先は流域の地点ごとの様子がわかる)が気になっていました。
 荒川の土手には、かなりの高さまで水位が上がった痕跡(草や枝 等)が残り、水辺の遊歩道テラスはガタガタで通行止ですが、それだけで済んでよかったとも。
 荒川の氾濫危険水位は7.7mで今回は7.17mに及び(1947年カスリーン台風8.6m、58年狩野川台風7.48mに次ぐ高さ)、隅田川の堤防は6.9mですから、水門を閉じなければ氾濫する状況でした。
 右の奥は川口市のマンション。
 下の旧岩淵水門(赤水門)の開閉部分はほぼ水没した。


 これまでの生活では、水害への関心は皆無でしたが、現居住地の立地から関心を持たざるを得ない状況となりました。ですが、以前暮らした武蔵小杉でも被害が出たように(リンク先Youtube)、それぞれの地域が抱えるリスクについて平時のうちに理解し、対応策を準備しておく必要があります……

2020/02/10

TOKYO 2020の「虎の穴」──西が丘

2020.1.4【東京都】

 イベント的なものがいくつかあり間隔が空きましたが、今回は戸田公園の続きで北区を歩いたものです。



 完成は2008年1月で、同年8月の北京五輪に間に合わせたつもりらしいが、それでは遅すぎでしょ……
 JOC(日本オリンピック委員会)が運用する、加盟団体所属選手の強化に利用される施設で、屋内トレーニングセンター、屋根付き陸上トラック、宿泊施設等があり、レスリング、卓球、フェンシング、競泳・飛込、ライフル射撃のトップ選手を招集し鍛える「虎の穴」です。
 中でも、JOCエリートアカデミー(有望な小・中学生を発掘し、ここを拠点に通学・トレーニングする)の設立が大きく貢献していそうです(卓球の張本選手 等)。
 右は、近くの関係ないマンション(失礼)……


 NTC拡充棟(上)はパラアスリートも利用可能な、障害者スポーツを意識した施設で、五輪・パラ共用の水泳や卓球 等の専用練習場、「車いすで床が傷む」と断られない球技コート 等があります。取り組みは素晴らしいが開催1年前の完成では、これも遅すぎでしょ…… 将来はパラアスリートの聖地になることを楽しみに。
 本施設も「味の素NTC・イースト」のネーミングライツ契約が結ばれ、本体の「味の素ナショナルトレーニングセンター」、西が丘サッカー場の「味の素フィールド西が丘」を含め、一帯は「味の素の丘」とされました。


 隣接する国立スポーツ科学センター(上)は、競技者の心身の状態を評価・診断〜競技力向上のサポート、国際競技力向上を目指す研究、スポーツ外傷・心理カウンセリング・栄養相談 等を担う施設とされ、ここが虎の穴の中枢機関になります。
 戸田漕艇場にある戸田艇庫も本組織の管理下。


 JR赤羽駅と十条駅を結ぶ道を「ROUTE2020 トレセン通り」(中間にNTCがある)とした北区は、「トップアスリートのまち」として、隣接する稲付西山公園アスリート手形モニュメントを設置します。
 北区にゆかりのある選手の手形が並び、卓球の張本選手もありましたが、ここは、ケガからの復活を祈っている体操の内村航平選手の手形(上)を選びました(北区との関係は不明)。

 右は西が丘サッカー場の掘り下げ式ベンチ。本会場で行われる全国高校サッカー選手権の日程は終わったばかり(以前はサッカー場がポツンとある印象でした)。

 一連の施設にどれだけ税金が注ぎ込まれたか不明ですが、五輪主催国の国民意識に「期待できそう」との気運を生むためには、必要な事業と感じます。今後も若手の育成支援(希望を育てる)は継続すべきテーマと。

 赤羽自然観察公園では、園内の湧水を活用して以前の環境が復元・整備され(右)、北区ふるさと農家体験館には古民家が移築されています(下)。
 戦前の一帯は、東京兵器補給廠(TOD:Tokyo Ordnance Depot)とされる軍用地でしたが(戦後米軍に接収)、その件については改めて……



追記──身近で感じる新型肺炎の影響

 近頃ドラッグストアの前では、特売ではなくマスクを求める行列を目にします。
 発生・感染源とされる地域から特別機で帰国後に即入院の状況は、十分な治療を受けられない兵士を戦場から連れ帰るような印象を受けます。船から出られない方々の不自由は察するも、受け皿があるだけマシで、入港拒否された船はどこへ行けばいいのか?
 ──状況は違うも、映画「さすらいの航海」(第2次世界大戦前、ドイツから亡命するユダヤ人の船が各国から受け入れを拒否され大西洋上をさまよった)を想起します。
 診察した医師の「健常者の重症化は少ない」、患者の「インフルエンザの方がきつかった」等の話は一部の見解としても、今後知見が増えればリスクは軽減できることを周知し、冷静さが早期に戻るよう祈るところです……