2009/03/14

下町文化の発信地──清澄、門前仲町、木場

2009.3.1
【東京都】

 清澄庭園(Map)

 以前訪れた時は、最寄りの地下鉄駅からまま歩いた記憶があるのですが、現在では2本の地下鉄(半蔵門線・大江戸線)が通っています。
 地下鉄が開通したからといって、大規模な再開発がすぐに立ち上がるような土地柄でない「下町」であることに、住民でもないのにホッとしたりします。


 ここは、江戸時代元禄期の豪商である紀伊國屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん:紀州湯浅町の出身)の屋敷があったと伝えられますが、彼自身が「伝説上の人物」という説もあるんだそうです。
 紀州ミカンを江戸に運び、塩鮭を上方(大阪)に運ぶ取引で財をなしたそうですが、その裏のいかがわしさも知られていたようで、人望の面ではイマイチだったように読み取れました。
 文左衛門の名は耳にしたことがあっても「もんざえもん」と思っていたくらいなので、いい機会と思い調べてみました。
 「紀伊國屋書店」(創業者田辺茂一の先祖は紀伊徳川家の江戸藩邸に勤める足軽出身)や、略すと同じ「紀文」(創業者保芦(ほあし)邦人は山形県出身で、米店〜海産物卸〜水産練り製品事業で紀伊国屋→紀文なので経緯はよく分かりません)、そしてスーパーの「紀ノ国屋」(エコバッグ以外分かりませんでした)等、名称の似た企業とは何の関係もないんだそうです。
 スッキリさせるつもりが、分からないことが増えた気がします……

 で、また登場するのが、成り上がり(怒られるってば!)三菱の岩崎家とジョサイア・コンドル(東大の講師)のコンビで、後年入手したこの地に「深川親睦園」の名称で三菱の迎賓館的な施設を造ったそうです。
 特筆すべきなのは、関東大震災発生時には建物や庭園は大きな被害を受けたものの、この地は近隣住民の避難場所とされ、両国の被服敞(ひふくしょう)跡での悲劇とは異なり、多くの人命が救われたという功績が語り継がれていることです。
 儲けたお金を文化振興に役立てることも大切と思いますが、図らずも多くの人命を救うことに役立てられたわけですから、下町の方たちは、決して忘れることなく語り継いでいくことと思われます。
 そんな経緯もあり、大震災の翌年には庭園の半分(現在の庭園部分)を当時の東京市に寄贈したそうです。
 ──お金儲けを目指すなら、それくらいの志を持ってもらいたいものです。わたしは目指すことすら無理ですが……(三菱さん、無礼の数々をお許し下さい)


 深川不動堂(Map)


 成田山新勝寺の東京別院になるそうです。真言宗と言えば、覚えていますか? 空海による密教の教えになります。
 現在でも「お不動さん」と親しまれていますが、江戸時代の元禄期に市民を中心として不動尊信仰が急激に広まったそうで、五代将軍綱吉(犬公方で知られる)の母親が「成田山の不動明王を江戸で参拝したい」と言い出し、江戸でご本尊の出張開帳が実現したという説もあるんだそうです。
 何で「不動尊信仰」が広まったのかというと、江戸時代にもてはやされた歌舞伎の市川團十郎(屋号が成田屋)人気によるとの説明をいくつか見かけ、いかにも「江戸っ子らしい」動機であると思えたので、それを信じることにします。
 では「不動明王」は何かというと、大日如来(宇宙そのものと一体と考えられている如来のひとつ)の化身とされ「煩悩をかかえ、最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、憤怒(ふんぬ:ひどく怒るさま)の姿をしている」のだそうです。
 てことは、江戸の人たちは自分自身を「救い難い」と感じていたことになるわけですから、そんな庶民の意識にとても親近感を覚えたりしました。
 というか当時は、團十郎の見得(動きを止めて、にらむキメのポーズ)に心酔した人々がそのモデルを見たいと思っただけかも知れませんが……

 現在では地下鉄駅名にもなって有名な「門前仲町」の名は、戦前まで不動を管理していた「永代寺の門前町」の意味なんだそうです。
 上写真は、象牙の加工品店のようで、そんなものは買えないよと思いつつも、のぞいてみたくなるような「のれん」が、多くの人の足を止めさせているようです。


 富岡八幡宮(Map)

 東京大空襲(1945年3月10日)の直後である3月18日に、この地を訪れ被害状況を視察した昭和天皇が「これで東京もとうとう焦土になったね」という言葉を発したのだそうです。
 にもかかわらず、この先5ヶ月間戦争を続けていたのは、もう彼の意志だけでは止められない状況だったということかも知れません。
 事後だから言えるのかも知れませんが、最終局面での5ヶ月という期間は、長すぎたように思えます……

 ──昨日、沖縄タイムス主催の「あんやたん(あんなだった)」写真展(横浜 日本新聞博物館)を見に行きました。沖縄戦は1945年3月26日に始まりましたから、東京大空襲で決断していれば防ぐことができたことになります。先日沖縄へ地方遊説に行った首相が「何しに沖縄へ行ったんだ?」と言われるように、今でも戦争の後遺症に苦しむ地域に対して、中央では相変わらず軽視の態度をとり続けています。「1票の重みに差は無い」なんて言いそうですが……


 境内には鼻高々に「日本一大きいお神輿」の格納庫として、専用の蔵が建てられています。
 しかしこのお神輿は、大きすぎてお祭りには参加できず、もっぱら展示品という「カラ元気」に甘んじているあたりにも、江戸っ子気質の愛すべき側面があるように感じられ、わたしは好きになりました。
 赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並んで、深川八幡祭(深川祭)は「江戸三大祭」とされているそうです。
 ──それじゃあ、浅草三社祭って? と調べてみると、もとは浅草寺のお祭りだったものが、神仏分離以降は浅草神社単体での祭りなったそうで、要するに明治以降とくくられてしまうそうです。

 八幡神は皇室の祖神ですが、関東においては源氏(武家)の守護神になるので、家康(も源氏を名乗っています)に手厚い保護を受け、建立当時は一帯を埋め立てて町を整備したそうです。

 お不動さんと八幡宮が隣り合わせなので人が集まりやすいとは思いますが、やはりそんな歴史があるからでしょう、浅草などとは違った客層というのでしょうか、海外からの観光客ではなく、以前からお参りを習慣としている庶民の方々が多い「昔ながらの下町の姿」に近い印象がありました。
 神社仏閣に関心のない方でも、門前仲町の印象通り気軽に立ち寄れる飲食店が多くありますし、楽しんで満足できる下町ではないかと思います。


 洲崎(すさき)神社(Map)

 「洲崎パラダイス」の名を耳にしたことがあるでしょうか?(響きからして怪しげな名前です)
 本郷に帝国大学(東京大学)が建てられることとなり、以前触れた根津遊郭が近くにあるのは風紀上問題があるとのことで、1887年(明治20年)当時は湿地だったこの地を埋め立て、洲崎遊郭として移転させたそうです。
 大空襲によって灰燼に帰したものの、終戦後半年で洲崎遊郭は復興し「洲崎パラダイス」の名で、吉原を上回る歓楽街として隆盛を誇ったそうです。
 当時洲崎神社は、小島に建てられていたので「浮き弁天」と呼ばれていたそうですが、今では町中の風景に埋もれています。

 近くの水路に架けられた新田橋(赤い橋)のたもとに「船宿」の看板がありました。現在も釣り船や屋台船の営業をしているようです。
 さすがに今では目の前の水路から船は出せないみたいですが、かつてこの地が海辺であった名残を感じさせてくれます。


 木場公園(Map)


 春の訪れをお伝えしようと撮ったミモザの花ですが、この花の咲き方が結構モソッとしているので、この時期苦しまれている花粉症の方が目にしたら、ちょっと身構えてしまうような姿ではあります(鎌倉の来迎寺門前に大木がありました)。
 春先に黄色い花を話題にするだけで鼻がムズムズされても困るので、この辺にしておきます……

 下写真は、水に浮かせた角材の上で様々な妙技を披露してくれる「木場の角乗り」が行われる(10月)イベント池です。
 木場の地名にもあるように、昔はこの辺りに貯木場があったそうです。


 上記の内容からも伝わっていると思われますが、この辺りが「江東ゼロメートル地帯」と言われる一帯になります(江東区だけではありません)。
 川の近くというのはどこでも同じように、道路が水路にかかる橋に向かって上り坂となり、堤防と同じ高さ(治水管理においては、堤防は高い防御壁であるべき)に架けられた橋を渡っていくのですが、この一帯は四方を水路に囲まれているので、市街地は高い堤防に囲まれた低地に広がっているように見えてしまいます(水路を越えるには高い壁を越えて渡る必要があります)。
 右写真、信号の右側にも橋があるので、道路が坂になっているのが分かると思います。
 これ、ハッキリ言ってヤバイですよ!
 温暖化の影響で、島国である「ツバル」や水の都「ベネツィア」が、海面上昇等に脅かされているニュース映像などについては、比較的遠くに感じていましたが、この地域の堤防はコンクリートで固められているわけですから、管理されているとはいえ劣化等によってひび割れから浸水が始まってしまい、先日紹介した両国のdocomoビル等の地下部分だけでも冠水したら「携帯電話不通」などのパニックになる恐れがあります。


 確かにわたしたちは「何もないのが当たり前」との思いが強すぎて、先日の浅間山の噴火の事前情報を「よくとらえてくれた!」などと思ったりしますが、大雨の度に水害もなく暮らせているのは「行政のおかげ」だと感じていないところがあります。
 事後に部外者として感じたりする「防げたのではないか?」と思える意見や、自然災害に遭われた方への救援ではなく、事前の準備としての「助言」を交わしあえる関係こそが「おたがいさま」という、人情等の日本人らしさなのではないか、と思ったりもします(上写真は、潮位の状況は分かりませんが、水面すれすれの橋)。


 東京都現代美術館(Map)


 ここで何を見たのか忘れましたが、以前来たときに「カッコイイ建物だなぁ」という印象があり(以前アクセスの悪さを含めて「粗大ゴミ」と評されたらしい)、是非紹介しようと思っていたのですが、改装中とのことで上写真だけになります。
 木場公園に隣接した場所にあるので、確かに徒歩だと地下鉄のどの最寄り駅からも10分以上かかります。
 それでも「Zingaro ジンガロ(騎馬オペラ)」用の特設テントが公園内に設営されており、ゾロゾロと人が集まっていました。
 展示内容によっては「ジブリの絵職人 男鹿和雄展」(30万人)のように多くの入館者を集められるわけですから、六本木の国立新美術館も含め地域振興等のための誘致もあったでしょうし、わたしもいろいろな場所に行くのは好きな方なのですが、美術系は上野に集めた方が分かりやすいのではないか、と思ったりします。
 「Museum of Contemporary Art Tokyo」を「MOT」と略しているようですが、どういう略し方なんだか。
 ニューヨークにある「The Museum of Modern Art, New York」を「MoMA」と略すのならまだ分かるのですが……

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