2010/08/09

橋の下に群れる文化──大山街道、二子橋

2010.7.24
【神奈川県】【東京都】


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溝の口(Map)

 JR南武線と田園都市線が交差する駅周辺には、先日の自由が丘にも見られた、昔の風情が感じられる町並みが残されています。
 現在では散見する程度ですが、以前は駅前に広がるラビリンスのような存在だったので、再開発後の町並みに驚いた記憶があります。
 外部の者には、車窓や駅前で目に入る光景が町の印象として残るので、それが町の看板になってしまいます(キレイならいいってものでもないが)。
 以前は南武線沿線の駅前はどこも、うらぶれた印象があったため(東横線の各駅前もゴチャゴチャしてますが、それとは雰囲気がちがう)、どうも好きになれませんでした(ギャンブル電車ですしね)。

 駅前再開発事業(写真後方のノクティ、丸井を含む)の完了(1999年)で、地元は「とりあえずキレイになった」と、満足のようです。
 駅前だけはようやく生まれ変わったものの、他の地区で計画される再開発は、商業地域の縮小傾向が続くため、踏み出せない状況のようです。

 右写真の奧では、狭い路地に商品が広げられ、思うように歩けない状態でフリーマーケットが催されています。
 歩く速度が遅くなるほど、商品に目を向ける時間が長くなり、購買機会が増えると考えているのだろうか?
 したたかではあっても、再開発後の場所では店の前も融通し合えなくなりますから、なあなあの通じる場所に人が集まるところに、庶民生活の実情が表れているのかも知れません。
 これまでの再開発が目指したものは、「キレイに整備したので少々家賃はお高くなりますが、これまで以上の集客力が期待できます」というものでした。
 右肩が上がっている時は引く手あまたでも、今どきの中堅都市ではそんな再開発モデルは通用しない、とした自治体の判断は、賢明だったように思います(近ごろ川崎駅周辺は「大きな買い物(高価)」ができる町となり、それには対抗できないと考えたのか)。
 きれいに見えなくとも、衛生や治安面が保たれていれば問題ない、と考えてもいいのではないでしょうか。
 それが「南武線的発想」とか言われたら、返す言葉が無いのですが……

 「みぞのくち」の表記について、自治体や公共団体は「溝口」、JRは「溝ノ口」、東急は「溝の口」なんだそう。統一した方が、美しいと思いますが、基本的に日本語は「通じればいい」といういい加減な表記なので仕方ないのでしょう……(字面が好きなので、この表記を使用しました) ちなみに略称は「のくち」と呼ばれます。


大山街道(おおやまかいどう)(Map)

 上写真奧に見える、丸井の看板があるビルの最上階付近に、高津市民館があります。以前その廊下の壁に並べられた、悠々カメラマン(高齢者の意)によると思われる「大山街道めぐり」の写真展を目にしたことがあります。
 その時は「こんな石仏写真なんか絶対撮らねえぞ!」と思ったものですが、今回は何のためらいもなく「街道をゆく」です。
 京都をかじってから、興味対象がジジ臭くなったと自覚しています……

 大山街道の歴史は奈良時代までさかのぼり、当時の東海道(箱根の足柄峠を越える道)とされ、鎌倉時代には鎌倉古道に組み込まれ、江戸時代に現在の国道1号(箱根駅伝の走路)沿いに東海道が整備されるまで、本道とされました。
 江戸時代この道は「矢倉沢往還(やぐらざわおうかん:街道に準じる官道)」として整備されますが、当時盛んになった山岳信仰「大山講」(大山詣での組織)の参詣者が増えたため、「大山街道」と呼ばれるようになります。
 赤坂を起点とし、現在の国道246号の起源になるため、青山付近では「青山通り大山道」と呼ばれます。

 大山は、実家が近いこともあり何度か登りましたが、階段が続く急斜面なので下山時に「足が笑っちゃう」という声を、よく耳にした覚えがあります。

 上写真は、街道沿いにある光明寺の境内で、水槽に使われる大きな釜です。
 また近くの街道沿いの店先には、NHK大河ドラマ『黄金の日々』(1978年)で、石川五右衛門(根津甚八)の釜ゆでのシーンに使われたとされる大釜が展示されています。
 この地は大釜にゆかりがあるのかと、調べても何も見当たらないので、お寺の境内にある大釜の出どころも同じ店かも知れません。

 大山街道沿いに古くからある商店の店先には、昔ながらの木板の口上書きが立てられ、店の歴史などが書き記されています。
 それは自信の表れですから、もうひとつの看板として店の信頼感につながります。こんなblogですが、少しでも認知度が高まればと思います。
 説明されても分からない部分もありますが、店の歴史は財産であることは伝わってきます。

 街道沿いにある「大山街道ふるさと館」には、南北に延びる府中街道との十字路にあった古い道標が残されていて(移設保存)、そこには「至る高幡不動」の表記があります。
 当時の道標に有名な神社仏閣名が用いられるのは、わかりやすさのためですが、現在高幡不動と書かれたら「それってどこの町に近いの?」となりそうです……

 この石仏は二子神社の境内に、社殿とは逆向きに置かれてあり、あまり大切にされていなようにも見えます(何か理由があるのか?)。
 すっかり摩耗していますが、街道筋に多く見られる馬頭観音(物資輸送に欠かせない牛・馬を祭る)ではないかと思われます。
 その下は三猿(見ざる聞かざる言わざる)のようで、むかしは猿が厩(馬小屋)の守り神とされた地方もあったそうです。


二子橋(Map)

 江戸幕府は、多摩川を江戸の防衛線とするため架橋を制限したので、大山街道がにぎわった時代、この地には「二子の渡し」がありました。
 それにしても、この地に架橋されたのが1925年(大正時代)というのは遅すぎる気もしますが、関東大震災が1923年に発生したので、その前に作らなかったのは賢明と言えるのかも知れません(工事中に壊れたのかも?)。

 少し前に川崎市が、2010年9月から「川辺のバーベキューを有料化する」と発表しました。ゴミの量が半端でないことによります。
 でないと、われわれの税金(川崎市在住)がこいつらの尻ぬぐいに使われてしまいます。

 多摩川に架かる二子橋の東京岸は「世田谷区」「二子玉川」というセレブが集う町ですが、神奈川岸の川崎市は「二子町」にある「二子新地駅」(ネーミングも安っぽい)というローカルな町ですし、わたしの暮らす新丸子付近は「田園調布の川向こう」とされるような、「自治体格差」が存在しています(ひがむつもりはないが、そう聞こえてしまいますよね)。
 そんな住民意識でしょうか、東京岸は風紀管理のためBBQは禁止ですが、神奈川岸はウエルカムとしています。
 そうなればヤツらは神奈川岸に集まりますし、いまどきは「手ぶらでBBQ」を可能にするサービス業者も多くあり、機材を積んだトラックが河川敷の駐車場に並んでいます。
 そんなサービスでにぎわったとしても、県外(主に東京方面)から来た客と業者が、ゴミだけを残して帰るのであれば、地元が潤うこともありません。

 一度のぞいてみようと思っていましたが、人出の密度は繁華街的でもここはアウトドアの開放感から、ルールもへったくれも無さそうなところが、周辺住民の不満につながるように思えました。


 近ごろ若者が集まる場所には、大出力のオーディオ設備が持ち込まれ、大音響で音楽がたれ流されたりします。
 しかしそこに、暑い昼下がりが似合うボブ・マーリーの曲が流れると、暑く、けだるいながらも、ゆるく体が動き出す心地よさがあり、「OFF」を実感した途端、ビールが飲みたくなります……
 でもここで問題なのは、そう感じたのが対岸である二子玉川岸の土手であることです。
 これじゃ、どっちの川岸からも苦情が出るのは当たり前だよ、としか言いようがありません……


旧多摩堤(Map)【東京都】

 ここは二子玉川に残される旧堤防です。
 以前羽田で紹介した多摩川レンガ堤の上流部分で、この付近で合流する野川(国分寺市が源流)の影響を考慮したようです。
 現在、二子玉川駅付近(東京岸)は堤防改修の工事中で、古くからあったと思われる売店も撤去されました(一度おでん食べとけばよかった……)。


 しかし、その堤防改修工事に対し近隣住民は「景観」を盾に反対運動をしているそうです(堤防のかさ上げで川が見えなくなる)。
 住民の意識までは分かりませんが、決壊して周囲が水浸しになることよりも、自宅からの景観を守りたいとする主張には、少し身勝手な印象を受けます(家が流れちゃったらおしまいじゃないの?)。
 近ごろでは、100年に一度と想定される大雨や洪水が10年程度で頻発しますから、この工事に感謝する状況は案外早く訪れそうな気もします(「スーパー堤防」という考え方は間違ってない気がします)。

 駅周辺には、空き地があるはずもなく仕方ないのでしょうが、国道246号の高架下に、盆踊りの舞台と飾り付けが準備されていました。
 雨でも盆踊りは可能としても、ご先祖様は落ち着けないのではあるまいか。
 でも盆踊りの音楽って、どうしてあんなに大音量なのでしょう?
 地域住民の参加を促すため、ご先祖様が迷わないため、などの理由があるのでしょうが、どの会場でも踊りの輪に加わらない者には、やかましく感じられます。
 でも、ここでは頭上にある道路の騒音に負けないために、さらに大きな音で対抗しているのかも知れません。
 なぁ〜んだ、二子玉の住民も橋の下で大きな音を出して騒いでるんだと思うと、これまでとは違った「橋の下文化」の事情もあるもんだと、ちょっと切なくなりました……

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