2010/08/02

古くから地域の中心だった?──センター南・北

2010.7.17
【神奈川県】


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 この地訪問の動機は、先日の日吉で横浜市営地下鉄グリーンラインの案内を目にし、「たまには乗るか!」という単純な勢いによるものです。
 現在は「多摩川沿いを歩く」企画のつもりですが、ちょっと寄り道です。
 ここでは「Discover 神奈川」(再認識)のような場所に出会えたので、次はそんなシリーズを考えようかと思い始めました。


センター北(Map)

 ここは港北ニュータウンとされる新しく造成された町で、開発に際して横浜市営地下鉄ブルーライン(あざみ野〜湘南台:1972年部分開業、1999年全線開通)と、グリーンライン(日吉〜中山:2008年開業)が建設され、都心への交通手段が確保されました。
 中心部である、センター北駅前には阪急(下写真は屋上の観覧車。関西系は回りモノ好き)、センター南駅前には東急(映画館を併設)が立地し、身近なショッピングモールとしてすみ分けています。
 それぞれに集客力はあるものの中途半端に感じられ、肝心の(大きな)買い物には、大都市(横浜や渋谷等)へ流れてしまいそうな印象を受けます。


 いつもこの「センター」という名称が引っかかり、「どこのセンターなのか分からない」と思ってしまいます。
 これは、港北ニュータウンの土地区画整理事業における「タウンセンター地区」に由来するそうですが、ならば「多摩センター」のように「港北センター」などとすべきではなかったか?
 地形的には同じ多摩丘陵に位置するので、決して成功だったとは思えない多摩地区の開発とは、目先を変えたい意図があったのかも知れません。

 できるだけ自然との一体感を保とうとする姿勢は見て取れますが、これからの高齢化社会では傾斜地の利用は不便ですし、この先それを援助するための費用は増大するばかりです。
 東急田園都市線の沿線同様、開発当初に若い家族を呼び込んだ明るい雰囲気は、次第に不便な町という認識に変わってしまいそうな気がしてなりません……


大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡公園(Map)

 弥生時代の集落には、右写真のような木の柵に囲まれているイメージがあります。
 おそらく教科書の挿絵などにあったのでしょう、自分の中では勝手に「この復元イメージは正しい」なんて思ったりします(発掘・研究の成果が教科書に載ってるはずなのですが)。
 そんな様子を撮ったつもりが、牢屋の中で暮らしていたように見えてしまいます……

 ここは、「大塚・歳勝土遺跡公園」とされる、国の史跡になります。
 大塚遺跡は弥生時代中期の環濠集落跡(周囲に堀をめぐらせた集落:ムラ)、歳勝土遺跡は、大塚遺跡で生活した人の墓地とされます。
 横浜市歴史博物館が隣接しているので、夏休みの自由研究も半日で片付けられそうな連携ぶりです。
 夏休みの課題って、一日かからないと思っていても、なかなか取りかかれないあの腰の重さって、何だったんでしょうね?
 「いまやろうと思ってたのに〜」とも違う気がするし、何をやったらいいのか分からず、自信を持てなかったような気がします。

 戦前までの神奈川は、国や軍部の押しつけには逆らえない、田舎的な(田園風景が広がる)土地柄でしたから、歴史を振り返る施設には必ず古民家が鎮座しています(他に展示するモノは無い)。
 でも、居合わせた外国人家族の関心が暖炉に集まっており(日本人がレンガ作りの暖炉に引かれるように)、国籍を問わず家族団らんの空気は伝わるものかと、ちょっとうれしくなりました。
 小学生くらいの女の子は、この鉄瓶にとても興味があるようで、おままごとが終わるまでかなり待たされました……

 汗をふいて休みながら「確かに落ち着く空間だ」と見回したとき、これまでとは異なる感じ方をしていることに気付きました。
 猛暑が続く時期に「エアコン無しでは…」と思うも、時間の流れがゆったりとしていれば、「少し風が出てきたようだね」と、笠智衆(りゅうちしゅう)さん(寅さん映画の御前様)のように過ごせるのではあるまいか? などと感じた次第です……(もう、オヤジ世代も卒業して、老境の入口か?)

 笠さんの話題ついでに脱線しますが、先日発行された、原節子さんについての本『原節子 あるがままに生きて』(本人の著書ではない)を購入しました。現在もベールの中でご健在らしく(本も売れてるそうで)、スタアの存在感は色あせてないようです。
 ずいぶん前になりますが、笠さんの本(インタビュー形式)にも『あるがままに』というタイトルが使われていました。
 これは単に小津安二郎監督の影響だけではなく、欲を持たず、襟を正して生きようとした、お二人の姿勢を表現する言葉、なのだと思います。
 銀幕のお二人の姿が、よみがえってくるようです……

 ここは歴史博物館屋上からの光景で、右写真のカメラは正面の駐車場を向いていますが、その両脇には同じ目線の高さに、窓やベランダが視野に入るマンションが隣接しています。
 傾斜地が多いこの付近では、高架橋等の目線の高さが、住居での生活目線と同じ場所が多く見られ、住人も暮らしづらいと思われます。

 1974年から造成が開始された港北ニュータウン建設地は、かつて港北区・緑区に属しますが、人口増加に伴い(1994年)ニュータウンを中心とする地域が都筑区として分区され、1996年に建設計画は完了とされます。
 この地は古くから「つつき」と呼ばれ、その読みに「都筑」の字が当てられたそうです。

 横浜市のビジョンには「住居・職場・農業が一体となった町作りを行う」とあります。
 市内で最も農家が多いのは都筑区なので、以前から土地に暮らしてきた方への配慮と、都市開発が両立したと、アピールしたいのかも知れません。
 自治体の手を離れたこれからが、町作りの正念場と思われますが、現在の経済状況には、一帯をはげ山にするような勢いはありません(そうすべきとは申しません)。
 どうしても比較してしまう多摩ニュータウンでは、風呂敷を広げすぎたせいで、町として機能しないままゴーストタウン化した地区もあるそうです。
 プロジェクトの規模が大きくなるほど、時代の読み方が難しくなる、という失敗例にならないことを祈ります……


茅ヶ崎城跡(Map)

 下写真は、雰囲気のある峠道のように見えますが、この道は付近の構造物にはNGの存在になります。
 ここは茅ヶ崎城跡で、左右にある高台の城郭をつなぐ「土橋」(通路)とされる場所なので(立ち位置は堀の底)、ここからの進入者を撃退すべき場所になります。

 茅ヶ崎城は14世紀末~15世紀前半(室町時代)の築城とされ、その時期に影響を及ぼしたのは関東管領上杉氏とされますが、16世紀中頃(戦国時代)の改築跡には、後北条氏(小田原北条氏)の影響が見られることから、北条氏の勢力下に置かれていたようです。
 しかし1590年秀吉の「小田原征伐」では、本丸(小田原城)攻撃に先立ち、関東各地の支城を攻めて小田原城を孤立させる際、秀吉軍に打ち破られた城のひとつのようです。
 石垣を用いない山城の築城方法について、現物の前に具体的な説明の看板が数多く設置されており、とっても勉強になりましたし、この日一番の収穫だった印象があります(特に城好きではありませんが、そんな時代の城跡を見てみたいと思うようになりました)。

 茅ヶ崎という地名には「小高い丘の突き出た所」の意味があり、なるほどそのような地形にも見えますが、周囲にも同様の地形はいくらでも見受けられるので、この地を限定する名称ではないのかも知れません。
 イメージとしては、現在の湘南茅ヶ崎は「何となく丘っぽい?」というイメージの方が近しい気がしています……

 近くには、鎌倉時代の鎌倉道「中の道」(鎌倉と関東各地を結ぶ道)が通され、江戸時代の中原街道や矢倉沢往還(大山街道)に加え、武蔵国府(東京都府中市)への道もあったそうです(ここからも新たな関心が目覚めそう)。
 時代は様々でも、ムラ、城、街道が集まる場所には人が暮らしていたわけで、むかしはトトロの舞台のような、丘陵地帯の縁に人が集まったことがよく分かりますし、以前から地域のセンターだったと言えるのかも知れません。
 この地域の中心は江田駅付近にあったそうですが、詳しくはまたの機会に……


 センター南駅に近い都筑中央公園は、近ごろよく耳にする「里山公園」なので、起伏に富んだ丘陵地の森をそのまま利用しているため、開けた場所は上写真のステージ広場(イベント広場)程度になります。
 ここでは炭焼き小屋(?)や、田んぼなどで実地体験ができるようですが、周辺に農業従事者の多い場所柄ですから、実際の田んぼでの実地体験へと広げるべきとも思います(知らないだけか?)。

 先日目にした配信記事に「グリーンは好きだが、虫は嫌い」という人が多いとありました。
 虫を好きにならなくとも、そんな実地体験から「身近にいろんな虫がいた」ことを、子ども時代の記憶に残すべきとも思います。
 出典は忘れましたが、「地球は虫の惑星」(生息個体数では圧倒的に多い)であることは確かなのですから、逃れることはできません。
 せっかく里山の近くに住んだのですから、それを楽しみながら暮らさないと、ただの不便な町になってしまうかも知れません……

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