2011/07/11

古代からのヒルズ──田園調布

2011.7.2
【東京都】

 現在東横線沿いを歩いていますが、田園調布はちょっと特異な環境なので、テーマ探しに窮しました。
 邸宅を撮る気もしないし(撮ったらセコムが鳴りそう?)、田園調布学園の娘たちを撮るには桜の季節がいい(これも怒られるか?)、などなど。
 そこで高級住宅街のヒルズと、多摩川沿いの丘陵地に点在する古墳群を結びつけようと思った次第です。


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御岳山古墳(みたけやまこふん)(Map)

 等々力渓谷沿いにある等々力不動尊門前の、目黒通り反対側にあたる御岳山古墳(みたけやまこふん)は、土日入場可のはずが門は閉まっています。
 単なる怠慢じゃないの? と思うも、あきらめて門前からの写真です。


 門前の案内板によれば「五世紀後半から六世紀中葉の築造と考えられる円墳で、副葬品の七鈴鏡(しちれいきょう:都指定有形文化財)が良く知られる」とあります。
 七鈴鏡は、中国製の鏡をまねて国内で作られたらしく、鏡の回りに7つの鈴が飾られ祭祀(さいし)で使用された記録が残ります。出土品には古代の音色を耳にできるものもあり、なごませてもらえそうです。
 群馬県を中心とした北関東に多く出土するので、毛野国(けのくに、けぬくに、けぬのくに)の祭祀形態が南関東にも及んだと考えられています。
 東京都内で最も古いとされる田園調布古墳群(4世紀末)が、北に向かって点在する並び方や年代から、権力者の勢力が次第に北側へ移動していったと推測されています。
 それは、2~3世紀に存在したとされる邪馬台国(奈良 or 九州?)が、東国に勢力を広めた時期と考えられ、その勢力に侵攻されたのか、反発したのか、この付近の権力者が毛野国と親密になるきっかけとも受け止められます。

 毛野国には上野国(こうずけのくに:現在の群馬県とほぼ同じ)と下野国(しもつけのくに:現在の栃木県とほぼ同じ)が置かれ、毛州(もうしゅう)と呼ばれ、合わせた両毛(りょうもう)の名がJR両毛線のルーツになります。


狐塚古墳(きつねづかこふん)(Map)

 古墳の話題になるといつも「あぁ、奈良行きてぇ〜!」の願望が、じんわりと静かにこみ上げてきます。
 JR桜井線纒向(まきむく)駅近くで見つかった「神殿跡」候補とされる遺跡などの前に立つことを想像すると、タイムマシンで行ってきたかのような、陶酔の瞬間を体験できるのだろうと思ってしまいます。
 学術研究による有力説が確立されていないテーマについては、素人が勝手な想像や仮説を立てても文句付けられることはありません。
 現物を目にできないものを研究対象とする点では、考古学も地球科学(わたしの専攻)もロマンチックな学問と言えるかも知れません。
 明日香(飛鳥)桜井周辺には、言葉では説明できない、この国に暮らす者を「引きつける力」のあることが思い出されます……

 右写真は狐塚古墳で、多摩川方面が見晴らせる公園となっています。
 こんな場所に墓を作れば、故人もさぞよろこぶだろうと思いますが、ここは多摩川の崖線(がけ)の際に立地します。
 宅地開発や道路整備により、傾斜に対する印象もゆるやかになりましたが、昔は絶壁のような場所だったことでしょう(写真の見晴らしは川崎市の武蔵中原駅方面)。


八幡塚古墳(はちまんづかこふん)、宇佐神社、傳乗寺(Map)

 八幡塚古墳(築造時期は5世紀中頃と推定)は現在、宇佐神社が管理しているようで立ち入れませんが、古墳の南斜面には映画の舞台となりそうなこぢんまりとした境内があります。
 ここは源頼義(みなもとよりよし:八幡太郎義家の父、源頼朝・義経はやしゃご)が1051年安部一族(東北地方の豪族)討伐の際に、この尾山(尾山台由来の地)に陣を張り勝利を誓い、戦勝後ここに八幡社を建て神に勝利を報告したそうです。


 一段下がった坂の下に傳乗寺(伝乗寺:浄土宗)が並びます(上写真は敷地内構造物のはり飾り)。
 始めに尾山の古墳が造られ、神社、お寺と並ぶ様子が、この地の歴史を示しているようです。
 象徴的な山という自然造形を信仰の対象とする日本人の心は、自然崇拝として古代人から受け継がれてきたように思えます。
 それが継続的だったか分かりませんが、後世の人々がそれを古墳と知った上で神仏を祭ったことは、庶民の関心を集めるには最適の場所と考えたからでしょう。
 古代神道とは、そんな祖先の歴史・文化を巧みに利用したものかも知れません。

 地名の補足として、江戸時代中期に「小山村」とされるも、明治時代に小山(現在の武蔵小山)と紛らわしいため「尾山」と漢字を変えたそうです。
 東急大井町線「尾山台」駅名の由来は、付近の小字名「尾山」と「台」地区に接していたため、合わせて「尾山台駅」としたそうです。
 「山」と「台地」がなぜ重複しているのか? との質問に対する回答にありました。


寮の坂(Map)

 かつて上述の傳乗寺は坂の上にあり、僧侶の学寮が併設されたことから「寮の坂」とされます。
 下写真の道標に刻まれる左側の「籠谷戸:ろうやと」とは、多摩川の流れがこのがけを洗っていた室町時代、奥沢城(現九品仏浄真寺)への武器・兵糧の陸揚げに利用された場所だそうです。
 江戸時代には傳乗寺が、川崎側の泉沢寺と九品仏浄真寺の中間拠点とされ、寮の坂(写真右側)は軍用道路の性格が強かったそうです。


 古代からのヒルズには、等々力渓谷のように丘陵地を狭い幅ながら深く浸食してできた、急傾斜の谷が数多く刻まれています。
 今回ルート設定時の、古墳の丘陵伝いに歩けば起伏はないだろうの予測は大ハズレでした(並行する環状八号線をイメージしたのが間違い)。
 削り残された岬のような場所が、ヒルトップとして古墳建造の最適地であることを、目で見て初めて納得できましたし、それが一列に並ぶ理由も歩いたことで理解できた気がします。

 暑さの中そんな谷間のアップダウンを何本も突っ切って息も上がり、これは熱中症ヤバイかも? とヘロヘロなのに、住宅地なので自販機すら無い……


ぽかぽか広場(Map)

 ここは「ぽかぽか広場」とされる公園で、玉川浄水場の西側跡地に都営住宅と共に作られました(1997年開設)。
 玉川浄水場は1970年、取水源である多摩川の水質悪化により生活用水の供給を停止したため、その一部に上述の施設が作られます(現在は、工業用水道として三園浄水場(板橋区)に送水)。

 これも「周辺環境に配慮した公園作り」なのでしょうが、知らないわたしは「ここは古墳」(下写真)と思い登っていました。
 傾斜地なので「山」に見えましたが、隣接する浄水場からは小高い丘程度のものです。
 芝生に覆われた開けた場所ですが、この日差しの下ではさすがに人出もありません。


 すぐ隣には「お嬢様学校」とされる、田園調布雙葉(ふたば)学園(1941年開校)がありますが、こんな窮屈な場所柄なのかと驚きます。
 「幼きイエス会」を設立母体とするクリスチャン学校のため、第二次世界大戦へと向かうこの国では、望むような土地の確保は難しかったのかも知れません。

 卒業生には、皇太子妃雅子とその母、長嶋三奈とその母等々の名前が並びます。
 その中に、テレビ朝日アナウンサー前田有紀の名前がありました。
 以前、テレ朝に隣接する六本木ヒルズのエスカレーターで見かけたことがあります。背が低く(失礼)とても可愛らしい姿は、テレビのイメージ通りの印象がありました。
 脱線ついでに、こちらもエスカレーターですれ違った先輩の上山千穂(以前ニュースステーション担当)は、一目見てこんな事いうのは大変失礼ですが「コイツやっぱり変!」という落ち着きの無さがイメージ通りでした……


宝来公園(Map)

 田園調布住宅街の一画に「宝来公園」という緑のオアシスがあります。
 南西向きの斜面なので、分譲すれば人気の高い場所柄と思いますが、1925年(大正14年)付近の開発に際し、武蔵野の原風景を後世に伝えようと汐見台(東京湾が望めたのでしょう)の一画が公園として残されます。


 近ごろ、東京近郊の公園として管理される雑木林を歩く際、「この大木はどこまで育てるつもりなのだろう?」と感じることがあります。
 平和の象徴という側面もあるのでしょうが、公園の大木は大切に守られるので、若木が育とうにも地表に光が差さない公園が多いように思います。
 雑木林とは人里近くにある林のことで、人が生活のために利用(伐採など)することで、若木が成長し林の世代更新がうながされてきました。
 自然のままに残すべき森とは区別される身近な林のイメージとしては、所々地面に日が差し込み若木が見られる、コントラストのある林の方が親近感を覚えるのでは、と思ったりします。
 
 世田谷区は「おもいはせの路」(国分寺崖線散歩道)という、九品仏浄真寺〜二子玉川駅に6.7kmの散策コースを設定しており、所々に案内板が設置されているのがとても助かりました(住宅地は目印になるものが少ない)。


カトリック田園調布教会(Map)

 ここは1931年カナダ・フランシスコ会の宣教師により創立されます。戦時下では困難に遭うも、終戦後は比較的早期に再開されたようです。
 本部は上述の宝来公園近くにありますが、この建物は隣の多摩川駅に近い丘の上にそびえます。
 教会の尖塔(せんとう)はシンボルですから、周囲から目につくように設計されますが、付近には起伏が多く緑も豊かで高い木もあり、歩いてみると思ったほど目立たない存在になっています(電車の車窓からはよく見える)。

 田園調布の町づくりは、ヨーロッパ(特にイギリス)の田園都市をめざした町作りがひな形とされます。
 西洋の町には教会等を中心として広がる様子が思い浮かびますが、日本での実現は無理としても、田園調布の町内(3丁目)に建てられれば御の字という気もします。
 何せこの町は「駅」という実用的な施設を中心に設計された、日本の町なのですから。
 でも車時代到来と共に高級住宅地化して以来、どれほどの住人が鉄道を利用しているのか東急電鉄に聞いてみたい気もします。
 豪邸の住民たちは鉄道を利用しているとは思えないので……

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