2012/03/05

学びやの丘──恵比寿〜渋谷(広尾〜青山)

2012.2.26
【東京都】──「山手線を歩く! ⑦」


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有栖川(ありすがわ)宮記念公園(Map)


 この冬(12月から現在まで)東京の平均気温(昼夜含め)は6度と聞き(近ごろの平均気温は7度前後)、突発的ではあっても平均気温1度の差というものを、動物・植物・人類は共に大きな振れと受け止めているようです。
 例年では、都内の主な「梅祭り」は2月一杯とされますが、今年はまだほころび始めた程度なので、各地の主催者側は震え上がったことでしょう。
 ここでも何とか見つくろいましたが開き始めの様子で、勢いよく開いている花はほとんどありません。
 と書く時点で「明日は防寒対策をしっかり!」との予報に、毎年の事ながら「これで最後にしてね!」と覚悟しますが、翌日は雪でした。

 寒い日は続きますが、より所となるカレンダーに「3」の数字(長嶋ではない)を見かけると、待ちこがれた春にすり寄って甘えたい気持ちが芽ばえる気がします。
 天気が不安定になり、雪になったりするものの、それが「季節の変わり目」ですから、もう少しという「春待ち気分」に切り替わる時節です。

 ここは広尾の有栖川宮記念公園で、江戸時代には赤穂藩浅野家の下屋敷がありましたが、藩主浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城中で起こした刃傷事件により(後の赤穂浪士討ち入りの引き金)、事件4日後に明け渡されます。
 明治29年(1896年)に皇族有栖川宮家の御用地になり由緒とされますが、大正・昭和期には高松宮家の御用地になります。
 昭和9年(1934年)東京市に下賜(かし:与える)され、同年に公園となります。

 江戸時代には地盤の安定した丘陵地に大名屋敷が並びましたが、明治期以降に宮家の管理下とされたおかげで、当時の面影が残る庭園が残されたようです。
 毛利家(長州藩)屋敷のあった土地が(防衛庁管理を経て)、東京ミッドタウン(六本木)となった経緯を考えると、宮家のかかわりの有無がその後の有り様を左右した様子がうかがえます。

 敷地内にある都立中央図書館には、大学の卒論の調べ物に訪れた際の思い出があります。
 アルバイトばかりして研究室に顔を出さなかったころ、仲間から先生の「彼は生きているのかね?」の言葉を聞き、仲間の返事も「知りません」だったのでしょう、あわてて文献調べに図書館を走り回りました。
 ちょうどこの図書館訪問日は台風直撃の日で、土砂降りの中たどり着き、文献コピーを待つ間に係の方の話し声が耳に入りました。
 嵐で来館者が少ないため「こんな日に来る人はよっぽど熱心か、せっぱ詰まったひとでしょうね〜」って、おばちゃんズボシです!
 それからは、せっせと資料集めに各所を回りました……

 地下鉄広尾駅前の交差点付近に、新しくはないが高級そうな「広尾タワーズ」というマンションがあり、以前おじゃました事があります。
 経緯は忘れましたが、イギリスの金融情報誌の日本版Topの方(既婚女性、旦那は米国出身)の家で、仕事には携わるも社員ではないのに、ホームパーティーにもぐり込んだ格好です。
 景色もいいですが一番驚いたのが、間取りの広さです。当時は観光で一応海外は経験していたので「広尾に外国があるの?」と驚きました。
 その後の数少ない海外経験から外国の方は、新しさや便利さ(不便は困るが)よりも、自由にレイアウトを替えられる広さや空間を好む事を理解し、そんな建物が戦後早くからあったこの町の国際色を感じたものです。


広尾商店街(広尾散歩通り)(Map)

 地下鉄日比谷線広尾駅出口付近の広尾橋交差点から西側には、広尾商店街(広尾散歩通り)が真っすぐに伸びています。
 その突き当たりには、祥雲寺(臨済宗大徳寺派)の三門(下写真)がありますから、参道に開けた門前町だったようです。

 この付近にあった江戸期の大名屋敷の土地は明治時代に国有地とされ、時代の流れから軍用地とされます。
 防衛庁本庁舎(現在の東京ミッドタウン:戦前の陸軍駐屯地→米軍将校宿舎)や、ニュー山王ホテル(旧日本軍士官宿舎→現在は在日米軍の保養・社交施設)付近の住民は、不安を抱える生活だったと思われます。
 それは現在の沖縄嘉手納基地の門前町「コザ」(現沖縄市)から想像されるものより「マシ」だったと思いますが、当時を経験された付近の方の話しを聞いてみたいところです。

 都心の「セレブな町」とされる広尾では、大使館員や海外ビジネスマンを相手にしましたが、沖縄の「基地の町」であるコザでは、兵士相手に食いぶちをつないできました。
 どちらも玄関先はキレイに飾っても、生活の場には上写真のような下町風情の木造家屋が連なっています。
 そんな現実を抱えながら「気取ってどうするの?」と思うも、ここでは「気取らないと商売にならない」実情があるのかも知れません。
 住環境は我慢できても物価は高そうで、古くから住む方には暮らしにくい土地柄と思われます。


広尾小学校(Map)


 渋谷川沿いの明治通りから丘陵に上ると、古いながらもガッシリとした校舎の広尾小学校が見えてきます。
 校舎玄関上部にステンドグラスがあり絵にならないかと、ウロウロしていると「校庭開放中」の看板を見かけ、中に入ります。
 校庭では子どもたちが、サッカーやボール遊びをしているので、関心がそちらに向いておりました。後で調べて知った「火の見やぐらに利用された」塔があることにまるで気付かず、反省というかガッカリでした。どこを見ていたんだろうと……
 学校のホームページを見てもらえば、「歴史的建造物指定」も理解できると思います。

 付近の渋谷区東(ひがし)とされる地域には、広尾小学校、常磐松(ときわまつ)小学校、広尾中学校、実践女子学園中学校・高等学校、都立広尾高等学校、國學院大學が密集する「学びやの丘」の感があり、朝などはやかましくも活気として受け止められそうです。
 現在も國學院隣にある氷川神社の由来でしょう、以前この一帯には氷川裏御料地(皇室財産:農場があり、明治天皇に牛乳が献上された)、常磐松御料地などが広がっていました。
 広い土地なので国や東京市が「一帯には教育機関を誘致しよう」と方針を決めたのでしょう。そのおかげで学びやが並ぶ丘には、子どもや若者の歓声は響くも、とても落ち着いた環境になったと感じられます。


青山学院大学(Map)


 青山学院初等部は上述の学府に隣接しますが、中学・高校・女短・大学の所在は、首都高速の青山トンネルを渡った渋谷区渋谷となります。

 青山学院大学は初めての訪問ですがその動機は、先日の明治学院大学にある礼拝堂のような建造物がありそう、というものでした。
 ですが現在のキャンパス内では再開発が進んでいて、以前あったチャペルは取り壊されたそうです。
 新しい建物にも「教会風」なデザインはありますが、信徒でない者には単なる「アイコン:目印」でしかないため、存在を認識しても素通りしてしまいます。
 それはミッションスクールとして教義の研究に専念できる環境だとしても、広報(宣教)活動には大きなマイナス要因と思われます。

 学内潜入前に青学会館(アイビーホール)の前を通ったのですが、振り返ってみれば、きっとここがこの学府のキモと思えてきます。
 キリスト教を遠巻きに眺めるスタンスからは、大学機関がメンバーズクラブのような施設を作ることを理解できませんでしたが、「プレミアム」と受け止める心理は、出口の見えないデフレ時代においては、何となく理解の糸口が見えるような気がします。

 上写真はアイビーホール前のカフェ「蔦(つた)」の壁です(結構有名そうです)。


 アイビーとは「つた」のことで、「つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日~♪」(卒業生ペギー葉山『学生時代』1964年:余談ですが、彼女の旧姓小鷹狩(こたかり)家は、広島藩主の家老職を勤めた家系で、母方は白虎隊の生き残りとのこと)は、このキャンパスが舞台とされましたが、そんな誰もが抱くイメージは、結局見つけられませんでした。

 以前、神奈川県厚木市にキャンパスを開設するも、交通が不便とのことから受験生の人気がガタ落ちとなり、実家に近い淵野辺に相模原キャンパスを開設します。以前ドラマで見ましたが、とっても広く理想的なキャンパスに見えました。
 でも卒業生からすると、「コンクリやタイル張りではなく、レンガ造りにつたが絡まらなくては…」との、思いのこもったブログを見かけたりします。
 わたしの一般的な大学キャンパスのイメージにも、古びた同様のイメージがすり込まれており同調する半面、そこにこだわっては「学生を確保できない」時代が、既に現実となっているのかも知れません。

 本学は、アメリカの宣教師が立ち上げた学校を前身とし、英語教育に熱心なため「英語の青山」(洋服の〜、はそれをパクッたのか?)と称されるそう。

 日曜日の訪問で、時期的に「また入試だったら?」と心配でしたが、閑散としたキャンパスでホッとしました。
 春休み期間なので人影もまばらですが、正門近くに喫煙ルームを見つけひと息ついていると、ギター等の楽器を担いだ姉ちゃんの集団がなだれ込んできます。
 その姿を見て「そうそう、サザンオールスターズのルーツだった」と思い出すほどですから、彼らの曲を想起させてくれるものには何も出会えなかった事になります。
 「勝手にシンドバッド」(1978年)から聴いているのに、ここで「Ya Ya (あの時代を忘れない)」(第二のカレッジソングとされる)すら脳裏に流れてこない状況は、年を取っただけでなく、キャンパス内の様変わりが大きな要因と思われます……

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