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鐵砲洲(てっぽうず)稲荷神社(Map)
江戸時代埋め立て地として整備後に、八丁掘り(水路)が掘削されるも、結局1960〜71年に埋め戻されます。
また、寺町から与力・同心の町とされた変遷からも、江戸のころから重要視された場所柄がうかがえます。
右は、鐵砲洲稲荷神社の富士塚(富士山信仰による人工の塚)に立つ石碑(鉄砲洲の表記)。
この地名は、江戸幕府鉄砲方の試射や大砲演習場だったことに由来し、福沢諭吉の蘭学塾(慶応義塾)はこの地に始まります(聖路加国際病院に近い)。
島の名から場所が思い浮かばなかったのは、おそらく「日本の高さの基準とされる水準原点(国会議事堂前にある)は、霊岸島水位観測所で計測される東京湾平均海面(潮位の平均値)に基づく」の話題と思います。
右手前が観測施設ですが、現在水準原点の標高は三浦半島油壷験潮所の観測値を用いるため、ここでは最低水位である荒川工事基準面(A.P. : Arakawa peil)という、東京付近のローカルな工事基準面に利用される潮位を観測しています。
その名称はこの地にあった霊巌寺に由来する江戸時代の埋立地で、当時はまだ地盤が軟弱なため「こんにゃく島」とも呼ばれました。
そのころ島には「こんにゃく芸者」がいる、と持てはやされますが、「こんにゃく島で働く芸者」の落ちだとか。
うわさの質も今どきの週刊誌の見出しのようで、時代を経ても送り手・受け手側双方のオヤジたちは、決して「進化しないものなのです」……
右の南高橋(みなみたかばし)では、関東大震災(1923年)で被災し架け替えられた両国橋の、被害が少なかった中央部分を補強したものが再利用されています。
歩くと「何でこの橋だけ?」と目にとまります。
先ほどの水位観測所付近では、ものすごい数の海鳥が羽を休めています。
高層ビル群の谷間で、風の通り道と思われる場所ですが、彼らは風の穏やかな時間帯があることを知っているようです(フン害が大変)。
その種類は分かりませんが、以前ゆりかもめは夜を海上で過ごすと読んだ覚えがあり、翌週の散策では、夕方に海へ向かう群れの姿を目にしました。
潮の高い時間帯かも知れませんが、上の永代橋は背の低い観光船や屋形船でもやっと通れる高さしかありません。後部に立つ船頭がぶつかりそう……
江戸時代は最下流のため背の高い橋が作られ、橋からの眺めが良かったそう。
末永くの願いが込められた名称ですが、赤穂浪士が討ち入り後に渡り泉岳寺に向かう、深川富岡八幡宮の祭りに詰めかけた群衆の重みで崩れ落ちた、道路橋では日本初の鉄橋で市電も通されるが、関東大震災では床材に使用の木材が炎上し多数の犠牲者を出す、などの歴史があります。
右は日本橋川が隅田川に流入する河口部にある、箱崎と霊岸島を結ぶ豊海橋(鋲止形式という古い形態)で、江戸時代初期までここが本来の神田川河口でした。
現在神田川の水道橋〜浅草橋間は、洪水対策で開削された人工河川で、旧川筋(水道橋〜一ツ橋〜江戸橋へと続く首都高速の下)は日本橋川とされます。
柱に取り付けられた箱は照明設備で、ライトアップされる姿は結構キレイです。
現在霊岸島の住所表記は新川とされますが、右中央イエロー系の橋は霊岸橋、カメラが立つ橋右手の霊岸島交差点などに、名が残されています。
音の響きから「悪霊島」「獄門島」など、横溝正史の金田一シリーズをイメージする年代としては、「こんにゃく芸者」目当てに繰り出したオヤジは数合わせで殺され、「そうか、分かった!」の警部がこんにゃく芸者の説明する間に、金田一が「ちょっと、気になることが…」と糸口を発見する状況を思い浮かべたりします。
ここは都会の島ですが、過去帳を調べると「しまった、そんなことがあったのか!」という怨念があったりして……
追記
勤め先近くにある中国大使館周辺は何かにつけ騒がしいため、警官&バリケードが常時配備されています。
それが今回の「レーダー照射」では右翼団体も本腰らしく、大使館前の道路はバリケードで通行不可とされ、一般車両も巻き込んだ大渋滞となりました。
互いに「自国の正義」を強硬に主張し対立し続ければ、チンピラ(市民レベルの意)の小競り合いから国家間の争いへと発展しかねません。
自分でも確かと思えるのは、大震災経験後「国民の団結感」「助け合い精神」の高まりが求心力となり、島国民族の一体感を再確認したことです。
ですがそれを「愛国心」の元に集約し、国政を後押しさせようとする姿勢では、中国と変わりませんし、いつまでも立場の違いがぶつかり合うだけになります。
喧嘩の仕方(緊張感ある外交)を知らないガキが、ひとこと発する度に後ろに立つ親(アメリカ)を確認するような状況ですが、ガキなりに正当性を訴え続けることで、世界の理解を求めることになるのでしょう。
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