2014/07/21

「吉原」に行ってきました……

2014.7.5【東京都】──「隅田川を歩く_17」


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 江戸時代の町外れにあった小塚原刑場に近い旧山谷は、市民権を持たない連中の掃き溜めとされますが、隣接する吉原遊郭には「男の都合」を合法化するため、「格式」などとして女性を擁護する不思議な取り決めがまかり通っていました。
 人形町付近の元吉原が火災で焼失後、庶民文化にぎわう浅草近くに移転したのは「わい雑な施設の集約?」と、隣接する浅草・吉原・山谷の関連性に初めて関心を抱きました。


 現在の吉原大門交差点は旧吉原遊郭の入口にあたり、近くには丼からはみ出る天麩羅で知られる「土手の伊勢屋:明治22年創業」があります(上)。
 土手とは、隅田川に通じる水路沿いに造られた日本堤(地名に残る)のことで、遊郭の周囲にも掘りをめぐらせ、出入りを大門だけとして遊女を監視しました。
 店舗の木塀(右)も近ごろ見かけなくなりました。

 左隣の「桜鍋 中江:明治38年創業」ホームページに「東京の郷土料理」とあるのは、以前は頼りにした「馬力」が力尽きた後に食する習慣があったためらしい。

 「男が吉原に行く理由は決まっている」地に初めて足を踏み入れ、「写真を撮ってきました」の説明は、ラブホテルに入り「何もありませんでした」の釈明のように説得力ゼロです。
 しかも町の様子は「帰りがけにスマホで撮ったんじゃないの?」と言われそうな1枚だけです(右)。
 だって、昼間から店の入り口に立つ「笑顔が怖い」黒いスーツの兄ちゃんに声をかけられ、カメラを構えられる状況じゃなかったんだもん…… そんなの当たり前さぁ〜。
 ご出勤のタクシーから降りてくるのはごく普通の若い娘で、特に容姿も格好も派手でない様子から、「AKB(アマチュア)的?」な身近さが求められているのか、とも。
 花魁(おいらん)の文化も消えステータスはありませんから、現在の動機は小遣い稼ぎなのか?
 男としては、その手の需要が無くならないことは確かと思いますが、白昼堂々の様子を恥知らずと見ている自分は、時代劇で目にする好感度ゼロの「堅物の商人」のように映るのだろうか……

 上の2枚は吉原弁財天で、江戸時代によしが生い茂る湿地を埋め立て「吉原遊郭」を造成した際、残された池に弁天様が祭られたもの。
 関東大震災(1923年:大正12年)の火災時に、唯一の出入り口である大門が閉ざされ逃げ場を失った多くの遊女が池で亡くなり、供養に観音像が立てられます(大正15年)。

 大鈴が下がる社の色使いには、映画美術の木村威夫さんのセットを想起し心踊りました!(鈴木清順、熊井啓、黒木和雄監督作品等々で活躍)
 このデザインは、武蔵野美術大学と東京藝術大学の卒業生によるそうで、「傾(かぶ)き:風変わり」ながら、日常との接点を彩ってくれることを期待します!


 上・右は、毎年11月「酉の市:とりのいち」で賑わう「鷲(おおとり)神社」(酉の市発祥地とされる)。
 大熊手には干支の馬が飾られるが、縁起物を詰め込む欲張りな様は関西的な感覚に思え、大阪今宮戎神社の「十日えびす:えべっさん」がルーツではないかとも……

 6月30日に行なわれる「夏越の祓:なごしのはらえ」は機を逸しましたが、右の「茅の輪:ちのわ」が残されていたので、作法に従いお参りしました。
 そんな行事の習慣化から、日本人の心(京都へのあこがれ)に近づければと……



追記──夏休みが始まってしまった……


 東京スカイツリーにたどり着く前に夏休みが始まってしまいました。逃げやしないので、平日休める日に機を狙うことにします。
 上は夏休み初日の六本木ヒルズで、ドラえもんをCMキャラクターとした自動車キャンペーンの様子(土曜出勤となり、これくらい撮ってから行こうと……)。


追記──投手 大谷翔平のオールスター戦

 オールスターで「リミッターを外した」としても162kmは驚きです。
 しかし、ストレートだけを狙えば打者も打ち返しますから、速球をどう生かすかという課題が明確になったことでしょう(まだ20歳のWonder Boy !)。
 バッティングの面でも、同じ左打ちで背が高い方のわたしは、彼の柔らかい肘のたたみ方・腰と膝の使い方に、「あの打ち方をしたかった!」と「理想型」を感じていました(ヒットは体の反応から生まれるので、イチローの打ち方は真似できない)。
 ですが、やはり投手を目指すべきで、本腰を入れた時の活躍が楽しみになりました!

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