2009/03/31

「元気で暮らせよ、さえない中年!」──柴又

2009.3.18
【東京都】

 東京都の東の端にあたる、葛飾区、常磐線沿線、江戸川方面は、めったに行かない地域で通い慣れてないこともあり、東京都の南西の端にあたる多摩川付近からだと1時間半ほどかかったので、遠かった印象がありました。
 上野から東側の一帯には、隅田川、荒川、中川、江戸川など、江戸時代から流路を管理された河川が何本も横たわっています。
 それは、ある程度流れの向きを変更できる平野(むかしは湿地帯だったことでしょう)が広がっていることを示しています。
 そんな地形的な条件からも江戸時代の町並みは、山の手といわれ起伏の多い西側よりも、平坦で生活用水の得やすい東側の平野部方面に広がっていったであろうことは、現在の風景からも見て取れます。


  柴又(Map)


 奧は、寅さんが「帝釈天で産湯を使い」(「つかり」と思っていたので、主題歌の歌詞を調べました)と語る帝釈天になります。
 最後の作品が公開されたのは1995年で、それ以降は年々訪れる人も少なくなっているとのことです。
 参道に軒を並べる門前商店街の売り上げまでは分かりませんが、客は減っても活気は変わらないように見受けられました。
 門前に近い右側にあるそば屋で「江戸っ子が好きそうな」ざるそばをいただきました(あんこタップリの草もちは遠慮させてもらいました)。
 香りがあって(粗びき感)、めんの太さはバラバラでも量が多く、つゆは濃い口しょうゆの辛さで(そばつゆの甘い店はそれだけで箸を置きたくなります)、まさしく「品のないそば」という印象(怒られる〜!)なのですが、下町の方では「更科だぁ?(白くてスマートな印象のそば) 格好つけてんじゃねぇよ」で、いいんですよね?
 ──落語などで耳にする「そばをつゆにベチャベチャ泳がしちゃう無粋モノがいますが……」の通り「辛くて食べられない」代物です。「先をちょこっとつゆにつけて、ズズーッとすする」まさに江戸流でいただくそばです。

 そばという「穀物を食べている」実感があってわたしは好きだなぁ。
 城崎(兵庫県)や、小国(熊本県にも美味しいそば屋はあるんです)で食べた「田舎そば風」というのでしょうか、原点回帰的な風味に引かれているのかも知れません(更科そばも好きですよ)。


 一般的には帝釈天と呼ばれていますが、題経寺(だいきょうじ)という日蓮宗の寺院になります。
 その通称は、布教活動のために用いられた帝釈天像の刻まれた「板本尊」(日蓮宗では重要)の御利益により、通称として庶民の間に広まったそうです。
 その敷地内の奧に、邃渓園(すいけいえん)という庭園があったことは知らず、初めて見学しました(上写真)。
 『男はつらいよ』第一作に登場した、御前様の娘役である光本幸子さんが現れるのでは? とも思える落ち着いた庭園です。
 上写真はその廊下で、左のガラスが平らではないので、ガラス越しの景色がゆがんでいるのが分かると思います。
 昔のガラスってこんなもんだった、と言っても理解してもらえるのかなぁ?
 ──ゆがんだガラス窓はこれまで何度も登場していると思うのですが、わたしはこの風情がとても好きみたいです……

 右写真は『男はつらいよ』第一作で、さくらと博が披露宴を開いた料亭の「川甚」で、帝釈天のすぐそばにあります。
 この手の川魚料理の店も、帝釈天信仰の高まりにより開けた門前町と同じころに創業したそうです。
 柴又人気の凋落を耳にしてちょっと心配だったのですが、右側の新館を建てたりと頑張っているみたいです(休業日でした)。


 利根川は江戸時代まで、現江戸川の流路(上写真)を本流にして東京湾に流れていたのですが、度重なる洪水対策のため現在の銚子方面への流路が開かれたんだそうです。
 この地域に平野(当時は葦原だったでしょう)が広がっているのは、そんな度重なる洪水のおかげであることは、とてもよく理解できます。
 柴又のすぐ北側には金町浄水場が広がっていて、上写真のような給水塔が2つあるのですが、季節的に水位も低いようなのであまり取水できないようにも見えました。
 洪水の防災管理と水源の資源管理を同時に求められる難しさが感じられるのですが、それは市民生活の要であるのですから「お役所仕事」しないでね! と切に思った次第です。


 もう一つの観光名所である「矢切の渡し」の船着き場です。
 現在ではもっぱら観光用なので、週末等しか営業していないようです。
 この渡し船が知られるきっかけとなったのは、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)からなんだそうです(未読)。細川たかしの唄しか知りませんでした……
 観光地とは言え川は増水するので、お金を掛けられないことが幸いして(?)、簡素な船着き場であるのは風情の助けになるのではないか、という気がします。

 これも『男はつらいよ』のイメージなのですが、土手に菜の花が咲いていたら是非撮りたいと、かなり大きな期待を持って臨んだのですが、柴又側にはかげも形もありませんでした……
 堤防や河川敷の改修工事がちょうど終わったらしくとても整然としていて、寅さんがここを歩いても絵にならないような風景でした。


 右は何の写真か分かりますよね?
 「おう、上等じゃねぇか。オレがいなくなりゃそれで丸く収まるってんだろ? 出てってやらぁ!」と、カバン片手に降りてくる階段のセットです。
 「寅さん記念館」に保存されている実際撮影に使用されたもので、居間のセットと対になっているのですが、こちらのアングルを選びました。
 館内の展示物は他にもあるのですが、あちらこちらで映像が映し出されているので、見学者も結局はその前に立ち止まり、映像を眺めて表情をゆるめています。
 記念館を建て運営していくという取り組みは理解できますし、柴又にこそあってしかるべきで、お金も掛かっていそうにも思えるのですが、この場で提供できるものはあんな程度なのか? と物足りなさを感じました(企画不足の印象)。
 あれだけ各地を歩き回った寅さんですから、それぞれの地方との交流ができたらもっと楽しい場になるように思うのですが……


 「さくら。博と仲良く暮らせよ。満男をあまり叱るんじゃないぞ。それから、おいちゃん、おばちゃんの面倒を頼んだぞ……」の声が聞こえてくるような柴又駅(京成金町線)。
 20分に1本程度しか電車の来ないホームのベンチで、夕暮れの光景を眺めていると、何だか楽しかった映画が終わってしまうような、もの悲しさがこみ上げてきます。
 映画だってまた観ればいいじゃないか、柴又だってまた来ればいいじゃないか、とおっしゃるかも知れませんが「大人のおとぎ話」のように心の中で生きている寅さんは、「元気で暮らせよ、さえない中年!」の言葉と同時に、一期一会についても語りかけてくれたようにも感じられてきます……



 P.S. モクレンの次は、桜の季節になります。次回は東京の桜をと考えていますが、今年はなかなか見頃になりませんね……

2009/03/24

埋め立て地に見る夢──新木場、葛西臨海公園

2009.3.12_15
【東京都】

 夢の島公園(Map)

 子どもの時分によく目にした「夢の島」のイメージは「ゴミの島」であり、はるか遠い海にあるという印象でした。
 その取り上げられ方は、高度経済成長期の「負の側面」としてのとらえ方が主流で、時代の流れに乗り損ねた「落ちこぼれ」がもがく場であったり、「東京の掃きだめ」の象徴として扱われていた記憶が強く残っています。
 映画にはよく登場していましたし、テレビドラマでも死体を入れたドラム缶を置き去るシーン(傷だらけの天使)が思い出されます。
 それが現在の「新木場」周辺だなんて「夢の島」も近くなったものだ(?)との印象があります(湾岸ではなく、元から陸地だった場所を経由すると結構遠い)。
 埋め立て地は現在公園施設として整備され、野球場、陸上競技場、スポーツ文化館(アリーナ、温水プール等)が広がっています。
 ポジティブにとらえれば、大量のゴミも「大地としてリサイクルされている」と言えるかも知れませんが、「ゴミの島」のイメージを引きずる者には、そんな「たくましさ」をゴキブリと比較したくもなってきます。

 第五福竜丸というマグロ漁船の名を耳にしたことがあるのではないかと思います。
 1954年(昭和29年)3月1日マーシャル諸島近海で操業中、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験に遭遇し、放射性降下物(死の灰)に被曝(間接被爆)してしまった船です。
 何でここに展示されているのかが不思議だったのですが、ゴミ捨て場であった当時の夢の島に捨てられていたところを発見されたからだそうです。
 船をゴミ捨て場に捨てようとの考えにも驚きますが、当時の「夢の島」には他にもとんでもないモノが埋められたであろうことは、容易に想像できます。お宝があったとしてもそれだけは持ち去られたことでしょう。
 そんなことを引っくるめた、昭和という「時代遺産の展示場」としては、この地ほどふさわしい場所は無いのかも知れません(批判的な意見ではありません)。

 気を取り直して。
 ここには「熱帯植物館」という温室があり、沖縄の八重山諸島や小笠原諸島の植物を育てていたりするので、趣旨としては納得できる施設ではあります。
 右写真はオウギバショウ(マダガスカル原産)、下写真は食虫植物(モウセンゴケの仲間で、日本で見られるそうです)。
 規模としてはそれ程大きな温室ではないことと、この公園では盛んに、枯れ葉や枯れ木を積んで新しい土壌を作ろうと努力している(頑張っても表面だけですが)様子から、この公園自体が実験施設だったりして? などと思ったりもします。
 以前、この沖側にあるゴルフ場から有毒ガスが噴出しているとのニュースを聞きましたし、地下からの排気口はガス抜き用かと勘ぐったりしていると、あまりいいイメージが浮かんできません。
 ゴミのリサイクルとして埋め立てるのは仕方ないとしても、その後どのように活用していけばいいのでしょうか?

 調べると、江戸時代からゴミを海岸の埋め立てに利用(現在とは比較にならない程度の量でしかない)しており、ゴミは越中島(前回の佃島の対岸)に集められたそうです。
 そこが当時の「夢の島」だったようですが、明治時代には欧米列強に対抗すべく軍隊の訓練場とされたそうです。
 これも軍艦配備等の要請でしょうか、隅田川河口に堆積した土砂により船舶航行に支障が生じたので、大規模な浚渫工事が行われ、これによって発生した大量の土砂を利用して、月島、晴海、辰巳から豊洲に及ぶ一連の埋立が行われたそうです。
 追伸として、有明や青海(お台場)また京浜地域の埋立地などは、東京港の港湾整備のため大規模な埋立造成により生まれたそうです。




 葛西臨海公園(Map)

 東京ディズニーランド(千葉県浦安市)を江戸川の対岸に望む都営の公園で、大観覧車とマグロの回遊水槽のある水族園が知られています。
 それらの施設を利用しなければ無料なので、対岸の花火を眺めに来るカップルもいるのでは? と思ったら、暴行事件があったとのことなので、気をつけて下さいね。

 この地の埋め立て事業が始まったのは1972年(昭和47年)で、当時地盤沈下により水没した民有地を埋め立てて区画整理をするという、前例の無い事業だったそうです。
 その事業によって、現在では無くてはならないJR京葉線、放射16号(地下鉄東西線と並行する道路)、環状七号線、東京湾岸道路、首都高湾岸線の建設が可能になったことは、首都圏のインフラ整備に大きな役割を果たしたことになります。
 またそのタイミングも絶妙だったらしく、バブル景気による地価上昇の恩恵を受けたばかりか、バブル崩壊前に工事は完了したので、大規模なウォーターフロント開発の成功例と、胸を張っているそうです。


 上写真は「クリスタルビュー」という展望施設で「東京湾を眺めてもなぁ」とは思うものの、温室のような館内では暖かさが心地いい今どきは眠気を誘われたりして、外に出られなくなります。
 下写真は「東京都葛西臨海水族園」で、上下の写真を並べると「グラスハウス風」というか、この公園のデザインコンセプトは伝わるのではないかと思われます。


 開園当時、水族園の売り物であった「マグロの回遊水槽(ドーナツ状の水槽をグルグルと勢いよく泳ぎ回れる)」は仕切られてしまい、大きなマグロたちも行きつ戻りつ泳がされていました。
 以前訪れたとき「マグロは高速で泳がなければ弱ってしまう」と聞かされ、グルグル泳ぐ姿に「なるほどなぁ」と感心させられたものですが、実は大丈夫だったということなのだろうか?
 仕切られた狭い方の水槽には小型のマグロやカツオが泳いでいるのですが、首のあたりが変形している個体も目にするので、狭い水槽の中を高速で泳がせるのは問題があるのかも知れません。

 下写真の黄色く細長いのはヘラヤガラで、浅いサンゴ礁付近に棲息しているらしいのですが、黄色い個体はまれなんだそうです。
 絵的には、タツノオトシゴの仲間であるシードラゴンを撮りたかったのですが、うまく撮れませんでした……


 公園の東側(ディズニーランド側)には「鳥類園」という、バードウォッチングをするための公園があります。
 右写真は野鳥観察用ののぞき窓で、こんな写真を撮っているだけで「何がいるんですか?」と質問されてしまう場所であります。
 奧に観覧車が見えても、ここは東京ですから仕方ないと、あきらめるしかないでしょう。
 ですが千葉県方面には、新浜や三番瀬などの干潟が点在ながら残されているので、昔の東京湾の面影を少しでも残してもらえたらと思います。
 子どものころ潮干狩りに行った幕張海岸には、幕張メッセがドカーン! ですから……

 この公園には都営の「水辺ライン」(お台場や両国方面へ行く観光船)の発着場があります。
 交通手段として当てにしていたのですが「低潮位のため欠航します」の張り紙。生活の足ではない観光船にはこんなこともあるので、お気をつけて。


 貯木場(東雲)(Map)

 現在ゴミ埋め立て地の主役は、下写真右奧の中央防波堤埋立地になり、沖側へズンズン張り出しているようです。
 この勢いでいけば、われわれの目の黒いうちには羽田空港と陸続きになりそうですし、将来は「むかしここに海底トンネルがあったんだよ」なんて、東京湾アクアラインの補修費が不要になるかも知れません。
 左側へ伸びているように見える建設中の橋は「東京港臨海大橋(2011年開通予定)」で、大田区の城南島と江東区若洲を結ぶそうです。
 それを頭に入れて東京湾の地図を見てもらえば一目瞭然です。
 東京湾の埋め立て事業の最前線は、確実に沖合を目指していることが見て取れると思います。
 まだ埋め立て中である「ゴミの島」をめぐり、隣接する行政区の間でその土地の帰属についての争奪戦が始まっているんだそうです。
 その「ゴミの島」は、まだどこの区にも属していませんから「東京番外地」と言うんですって。何だかなぁ〜。
 ちょっとわたしにはそのビジョンが見えないのですが(羽田空港を広げる計画があれば高い建物は作れない)、領土を広げるのは「領主の本懐」であり、それこそが「夢の島」ってやつになるのでしょうねぇ。


 久しぶりの自動車にまつわる明るい話題となった「ETC搭載車の高速料金値下げ」の効果で、アクアラインの海ほたるの駐車場が満車になったと聞きました。
 近所でもおじさんの「ETC付けようと思ってんだ。5千円くらいなんだろ?」という、明るさが伝わってくる会話を耳にしました。
 ──「しまなみ海道」を走った時がちょうど試験運用期間で、まさに現在の消費者のキーワードである「お得感」「割安感」を実感したことがあるので、消費者心理がそこに食いつくのはとても理解できます。

 何だか「地獄にクモの糸」のような明るい話題(給付金は政策などとは言えない小学生の発想)なので、景気回復のきっかけになってもらいたいとも思いますが、皆さんマイカーで排気ガスをモコモコ出して走り回るのもどうかと思われます。
 やはりこの不況脱出のキーは「グリーンエネルギーへの転換」であり、転換後の発展なのかも知れないと、思ったりもします。


●おまけ
 青海(お台場)(Map)

 近ごろ大井町駅(東急・JR・りんかい線)を経由して出かけることが多く、そこで「船の科学館」(青海:あおみ)行きのバスを目にし、これはレインボーブリッジ経由で行くのか? と乗ってみたら、海底トンネル経由でした……
 海底トンネルも高速道路なので、路線バスでもシートベルトが設置されています(している人はいませんが)。
 ひところの勢いは無いものの、お台場には次々とビルが建っています。
 あおるつもりはありませんが、まだまだ空き地はあるのにパレットタウン(観覧車やビーナスフォート等)が閉鎖されることを知りました(確かに仮店舗的な構造物です)。
 契約の問題なのでしょうが、そんな強気でこの先大丈夫なのでしょうか?
 オリンピックがあるさ! なんて考えているとしたら、大けがの元になってしまう気がします……

 右写真は船の科学館脇に係留されている初代南極観測船「宗谷」(1956~1965)と、その奧に懐かしい日本国有鉄道(JNR:Japanese National Railways)ロゴが見える青函連絡船「羊蹄丸」(1965年〜1988年)です。
 この日も子ども連れが多く訪れていましたが、われわれが子ども時分に「ふーん」と思った、横浜に係留されている「氷川丸」のような存在になるのでしょうねぇ。
 結構覚えていたりしますから、続けていただきたいと思いますが、母親を背負った銅像は何とかしてもらいたい……


 上写真は、温浴アミューズメント施設「大江戸温泉物語」(ここも閉鎖予定)裏手の青海埠頭(オレンジの柱は大型クレーン)で、羽田空港への着陸進入路にあたり、次から次へと飛行機が飛んできます。
 最近流行の、人が集まりそうな場所に無理やり作った温浴施設の比較であれば、横浜「万葉倶楽部」の景色の方がいいと思います。
 近場で一番落ち着けると思っているのは、瀬田(世田谷)の「山河の湯」でしょうか(昼寝スペースの広いところが○)。

2009/03/18

食のテーマパーク──築地、月島

2009.3.5
【東京都】

 築地(Map)

 近ごろ流行の「市場の食堂」は地方の港町でも盛況ですが、その東京版を求めるならここ築地となるのでしょう。
 迷惑視されていた海外からの観光客の見学マナー報道についても、いい宣伝材料になったのではないかと感じられるほどの盛況ぶりです。


 関西で耳にしていた「マグロはみんな築地へ行っちゃう」という飢餓感も手伝い「中落ち丼」をいただきました。
 確かに美味しゅうございましたが、考えてみれば生で入荷するものは限られているわけで、同じ冷凍物であるならばここより焼津(ちと遠い静岡県)や、三浦半島の三崎(神奈川県)の方が安価であるであることは明白であります。
 マグロばかりではなく、地方の港町では「いいモノはみんな築地に持って行かれちゃう」とよく耳にします。
 それを訳すと「築地の仕入れ人はいいモノだけ買っていく」のだから、地方の漁師にも「できるだけ築地に高く買ってもらいたい」という市場原理がはたらきます。
 しかし、水揚げされた港においての「最高級品」であっても、そこから「運ぶ」という手間には「鮮度(味)が落ちる」というリスクが伴います。それは、どんな高級料亭で出される食材であっても(冷凍技術の進歩により東京でサンマの刺身が食べられるようになっても)、地理的な距離の壁は同じように存在します。
 築地という場所は、東京という「大都市」で入手可能な食材の中で最も新鮮な魚介類を、最も安価な値段で入手出来る(比較論として錯覚させられる)場所でしかないように思われます。それは「築地ブランド」という偶像のようにも思えてくる気がします……
 しかし、そんな信頼感を築き維持し続けることは容易ではありませんし、それが現在の「信奉」とも言える人気を支えていることは、確かであると思えます。
 
 寿司は「江戸前」と言われますが、今どき築地に直接水揚げされるものはほとんどないでしょうから、各地から集められたものを東京向けに売買する市場ということになります。
 仕入れてにぎって提供するだけですから(それをいっちゃ、おしまいよ!)「ネタの新鮮さには自信があります」等を売り文句にするならば、どの地でも「地域の一番」として使えることになります。
 であるならば、寿司屋の特徴を出すためには料理ものの味になるはずです。
 先ほどの、まま美味しかった「中落ち丼」ですが、その中では「玉子焼き」が一番印象に残っています。
 何か失礼に聞こえるかも知れませんが、玉子焼きを褒めることは寿司屋への賛辞になると思えるので、寿司屋という商売って難しいのかも知れません。

 築地のような大きな市場に集められるのは「数がまとまる」魚でなければ、取引として成立しない程度のコストがかかるものと思われます。
 それは、スーパーに並ぶ魚の種類が毎日同じである理由のひとつになります。東京で種類をそろえようとすると、高いモノになってしまいます。
 大阪は、瀬戸内海が近いこともあり要望が多いのか、距離も近いのでまとめる数が少なくても商売が成り立つのか、魚売場に並ぶ種類が多く、選ぶのが楽しかった印象があります。
 では、本当に美味しいモノを安価で食べられるのは?
 地方の港町にあるお寿司屋さんに足を運びましょう!(あぁ、行きてぇー)
 ──勝手に「地方活性化委員」を名乗るわたしの提言です。




 勝鬨(かちどき)橋(Map)

 可動橋(船を通すために橋が開く構造)でしたが現在では可動部は固定され、電力供給も止められており動かないそうです。
 再稼働への働きかけもあるそうですが、10億円以上もかかるそうです。現実問題として、晴海通りの通行を止めてまで通すべき船はないと思われます。
 右写真の右にある信号機は、橋の開閉時に歩行者に対するもので、左上に横向きに見えるのが船に対する信号と思われます。
 歩いてみれば分かりますが橋の開閉部分は、一般の橋の揺れとは異なる振動が伝わってきます(要するに不安定)。
 強度的に問題がなければいいのですが、どうせ残すならイベント的でいいから開くところを見てみたいと思いますし、もう開かないのであれば橋としてちゃんと補強すべきとも思われますし、難しいところですね。
 しかし「かちどき」とは、戦いに勝ったときあげる「鬨(とき)の声」なわけで、命名も日露戦争の勝利を祝う声から付けられたそうですから、この国ではもうその手の「バンザイ」は欽ちゃんのように「無しよ…」(と、断言しましょうよ!)ですから、もう開かなくてもいいことにしましょうか。




 月島(Map)

 ヤンキースの松井やブラピ等、有名人の来店記念写真をアピールしている店が目につくような、一大観光スポットとなっています。
 そんな「もんじゃストリート」の印象が好きではなかったのですが、路地の写真を撮りに来ました。
 「もんじゃタウン」「狭い路地」「高層マンション」が混在しているコントラストはスゴイものがあります。
 右写真の路地の真ん中に排水路的なくぼみが見えると思いますが、以前そこは下水路であり、時代劇等で長屋の暮らしを描く物語などで、足の踏み場をさがしてぴょんぴょんと跳ねるように歩く姿をよく見かけますが、それは、いつでもぬかるんでいる下水路をよけるための技になります。
 ここは江戸時代の埋め立て地になるので、都市計画(?)はきちんとされていて、碁盤目状に整然と路地が敷かれています。
 そんな一画に暮らす住民の意見が一致した場所には、ドカーンとマンションが建ったりしますが、その周囲には依然として路地が残されています。
 町のあり方というのでしょうか、古くからの町並みと新しいビルとが混在する地域では、そこに住む人々のコミュニケーションがどんな具合に共存しているのか、ちょっと想像しにくいものがあるので、のぞいてみたい気もしてきます。
 現在ではいびつと思われても変化の途上にあるわけですから、新しい文化を築いていくことになるんでしょうねぇ。
 この付近で韓国語をよく耳にしました(若そうな観光客が群れて歩いています)。韓国の若者の間では下町ツアーが人気なのだろうか?


 住吉神社(Map)


 徳川家康が江戸開府の際、大阪の佃村から招いた漁師たちを、ここを埋め立てた島に住まわせたのが佃嶋の始まりだそうです(元は神社周辺だけのとても小さな島とのこと)。
 佃と言えば「佃煮」であり「深川丼」同様、ご飯のおかずに「甘さ」が好まれ続けているのは下町周辺だけと思われ、そのルーツは関西なのではないか、と勝手に思っております(甘いモノでご飯を食べるのは、ふりかけで卒業しました)。
 江戸時代の初期には「江戸の味」などは存在しなかったでしょうから、関西系の味付けが主流だったと思われますが、東北方面との流通が増えるにつれ、次第に保存の利く塩や醤油系の味が広がっていったということなのでしょうか?
 であれば、ますます江戸の庶民にとって「甘さ」は贅沢品になったと思えるので、あこがれの味覚として持てはやされ続けられた理由が分かるような気がしてきます。

 周囲を高層マンション群に囲まれていても、住吉神社の一角だけは、昔の漁師町の風情が残されており「とても落ち着く」(目の前にあるビルが視野に入ってきません)印象があります。
 むかしはきっとこの水辺で、声高々に言い争いのような「コミュニケーション(近所付き合い)」が繰り広げられていたんだろうなぁ、という想像に浸れる一画で、夏の夕涼みにはいい場所だったと思われますが、もうここから隅田川の花火は見えないのだろうなぁとも……
 上写真はお祭りに立てられる大幟(のぼり)の柱が水中で保存されている場所の外観です。
 浮世絵にも描かれている大幟ですが「江戸の華」と言われる火事が多かったことからか、水中(海底)保存を選択したことは賢明と思われますし、「江戸っ子の知恵」として記憶に残るであろうと思われます。
 

 この神社も大阪から移り住んだ人々と共に、摂津国佃にある住吉神社(現在は田蓑(たみの)神社)の分霊として創建されたそうです。
 関東でもよく目にする住吉神社ですが、神道で信仰される住吉三神を祀る神社で、全国に約600社あるそうです。
 三神とは、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)で、海の神、航海の神とされるそうです。
 その先を調べると、三韓征伐(さんかんせいばつ:新羅、百済、高句麗を日本の支配下にした)との伝説的な話しになってくるのでやめましたが、三大住吉というのは、大阪市住吉区、山口県下関市、福岡市博多区にあるそうですから、関東にある同名神社および地名(住ノ江等も含むそう)のルーツは西日本にあるようです。


 鳥居には陶製の額が掲げられています。
 それにしても、このロケーションはスゴイですよね。
 参道から本堂を見通す先には巨大マンションがそびえています。
 計画を聞いた氏子の方々は「ふざけんじゃねぇ!」などでは済まなかったことと思われます(江戸っ子を自負する人には血の気の多い方がいますから……)。
 信仰というものは、お金に換算できるものではないので、歴史を盾にしたところで太刀打ちできなかったということかも知れませんが、信仰が「けがされた」との印象は容易に理解できるところです。
 マンションの住民が全員氏子になったとしても、「あそこに神様が住んでいるのかよ!」「おまえら、神様かよ?」等々、大変だったことと想像されます……


 ここは上写真のマンション群の反対側になります。
 この地の象徴的な情景というのでしょうか、右奧にいるおじいさんはとても感慨深げに河面を眺めていますが、左の母親は猿回しのように盛んに子どもを踊らせようとしています(おじいさんとは無関係と思われます)。
 ここは、NHK朝の連続ドラマ「瞳」で主人公がダンスの練習をする「明るい場所」として描かれていましたが、わたしには何とも冷たく密度のない空疎な雰囲気に感じられました。
 ここがマンハッタンだったら、ひとりで歩くにはちとヤバイ場所の雰囲気に近い気がする、なんて書いたら怒られるか?
 いまはまだ踊らされている(好きならいいのですが)子どもが、自分の意志で踊り出す(自立・生活するの意味)ことで、この地域の新しい歴史が始まるのであろうと思われます。
 ──高層マンション群には政府高官も暮らすそうで、高級感をアピールしたいのでしょうが……

2009/03/14

下町文化の発信地──清澄、門前仲町、木場

2009.3.1
【東京都】

 清澄庭園(Map)

 以前訪れた時は、最寄りの地下鉄駅からまま歩いた記憶があるのですが、現在では2本の地下鉄(半蔵門線・大江戸線)が通っています。
 地下鉄が開通したからといって、大規模な再開発がすぐに立ち上がるような土地柄でない「下町」であることに、住民でもないのにホッとしたりします。


 ここは、江戸時代元禄期の豪商である紀伊國屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん:紀州湯浅町の出身)の屋敷があったと伝えられますが、彼自身が「伝説上の人物」という説もあるんだそうです。
 紀州ミカンを江戸に運び、塩鮭を上方(大阪)に運ぶ取引で財をなしたそうですが、その裏のいかがわしさも知られていたようで、人望の面ではイマイチだったように読み取れました。
 文左衛門の名は耳にしたことがあっても「もんざえもん」と思っていたくらいなので、いい機会と思い調べてみました。
 「紀伊國屋書店」(創業者田辺茂一の先祖は紀伊徳川家の江戸藩邸に勤める足軽出身)や、略すと同じ「紀文」(創業者保芦(ほあし)邦人は山形県出身で、米店〜海産物卸〜水産練り製品事業で紀伊国屋→紀文なので経緯はよく分かりません)、そしてスーパーの「紀ノ国屋」(エコバッグ以外分かりませんでした)等、名称の似た企業とは何の関係もないんだそうです。
 スッキリさせるつもりが、分からないことが増えた気がします……

 で、また登場するのが、成り上がり(怒られるってば!)三菱の岩崎家とジョサイア・コンドル(東大の講師)のコンビで、後年入手したこの地に「深川親睦園」の名称で三菱の迎賓館的な施設を造ったそうです。
 特筆すべきなのは、関東大震災発生時には建物や庭園は大きな被害を受けたものの、この地は近隣住民の避難場所とされ、両国の被服敞(ひふくしょう)跡での悲劇とは異なり、多くの人命が救われたという功績が語り継がれていることです。
 儲けたお金を文化振興に役立てることも大切と思いますが、図らずも多くの人命を救うことに役立てられたわけですから、下町の方たちは、決して忘れることなく語り継いでいくことと思われます。
 そんな経緯もあり、大震災の翌年には庭園の半分(現在の庭園部分)を当時の東京市に寄贈したそうです。
 ──お金儲けを目指すなら、それくらいの志を持ってもらいたいものです。わたしは目指すことすら無理ですが……(三菱さん、無礼の数々をお許し下さい)


 深川不動堂(Map)


 成田山新勝寺の東京別院になるそうです。真言宗と言えば、覚えていますか? 空海による密教の教えになります。
 現在でも「お不動さん」と親しまれていますが、江戸時代の元禄期に市民を中心として不動尊信仰が急激に広まったそうで、五代将軍綱吉(犬公方で知られる)の母親が「成田山の不動明王を江戸で参拝したい」と言い出し、江戸でご本尊の出張開帳が実現したという説もあるんだそうです。
 何で「不動尊信仰」が広まったのかというと、江戸時代にもてはやされた歌舞伎の市川團十郎(屋号が成田屋)人気によるとの説明をいくつか見かけ、いかにも「江戸っ子らしい」動機であると思えたので、それを信じることにします。
 では「不動明王」は何かというと、大日如来(宇宙そのものと一体と考えられている如来のひとつ)の化身とされ「煩悩をかかえ、最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、憤怒(ふんぬ:ひどく怒るさま)の姿をしている」のだそうです。
 てことは、江戸の人たちは自分自身を「救い難い」と感じていたことになるわけですから、そんな庶民の意識にとても親近感を覚えたりしました。
 というか当時は、團十郎の見得(動きを止めて、にらむキメのポーズ)に心酔した人々がそのモデルを見たいと思っただけかも知れませんが……

 現在では地下鉄駅名にもなって有名な「門前仲町」の名は、戦前まで不動を管理していた「永代寺の門前町」の意味なんだそうです。
 上写真は、象牙の加工品店のようで、そんなものは買えないよと思いつつも、のぞいてみたくなるような「のれん」が、多くの人の足を止めさせているようです。


 富岡八幡宮(Map)

 東京大空襲(1945年3月10日)の直後である3月18日に、この地を訪れ被害状況を視察した昭和天皇が「これで東京もとうとう焦土になったね」という言葉を発したのだそうです。
 にもかかわらず、この先5ヶ月間戦争を続けていたのは、もう彼の意志だけでは止められない状況だったということかも知れません。
 事後だから言えるのかも知れませんが、最終局面での5ヶ月という期間は、長すぎたように思えます……

 ──昨日、沖縄タイムス主催の「あんやたん(あんなだった)」写真展(横浜 日本新聞博物館)を見に行きました。沖縄戦は1945年3月26日に始まりましたから、東京大空襲で決断していれば防ぐことができたことになります。先日沖縄へ地方遊説に行った首相が「何しに沖縄へ行ったんだ?」と言われるように、今でも戦争の後遺症に苦しむ地域に対して、中央では相変わらず軽視の態度をとり続けています。「1票の重みに差は無い」なんて言いそうですが……


 境内には鼻高々に「日本一大きいお神輿」の格納庫として、専用の蔵が建てられています。
 しかしこのお神輿は、大きすぎてお祭りには参加できず、もっぱら展示品という「カラ元気」に甘んじているあたりにも、江戸っ子気質の愛すべき側面があるように感じられ、わたしは好きになりました。
 赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並んで、深川八幡祭(深川祭)は「江戸三大祭」とされているそうです。
 ──それじゃあ、浅草三社祭って? と調べてみると、もとは浅草寺のお祭りだったものが、神仏分離以降は浅草神社単体での祭りなったそうで、要するに明治以降とくくられてしまうそうです。

 八幡神は皇室の祖神ですが、関東においては源氏(武家)の守護神になるので、家康(も源氏を名乗っています)に手厚い保護を受け、建立当時は一帯を埋め立てて町を整備したそうです。

 お不動さんと八幡宮が隣り合わせなので人が集まりやすいとは思いますが、やはりそんな歴史があるからでしょう、浅草などとは違った客層というのでしょうか、海外からの観光客ではなく、以前からお参りを習慣としている庶民の方々が多い「昔ながらの下町の姿」に近い印象がありました。
 神社仏閣に関心のない方でも、門前仲町の印象通り気軽に立ち寄れる飲食店が多くありますし、楽しんで満足できる下町ではないかと思います。


 洲崎(すさき)神社(Map)

 「洲崎パラダイス」の名を耳にしたことがあるでしょうか?(響きからして怪しげな名前です)
 本郷に帝国大学(東京大学)が建てられることとなり、以前触れた根津遊郭が近くにあるのは風紀上問題があるとのことで、1887年(明治20年)当時は湿地だったこの地を埋め立て、洲崎遊郭として移転させたそうです。
 大空襲によって灰燼に帰したものの、終戦後半年で洲崎遊郭は復興し「洲崎パラダイス」の名で、吉原を上回る歓楽街として隆盛を誇ったそうです。
 当時洲崎神社は、小島に建てられていたので「浮き弁天」と呼ばれていたそうですが、今では町中の風景に埋もれています。

 近くの水路に架けられた新田橋(赤い橋)のたもとに「船宿」の看板がありました。現在も釣り船や屋台船の営業をしているようです。
 さすがに今では目の前の水路から船は出せないみたいですが、かつてこの地が海辺であった名残を感じさせてくれます。


 木場公園(Map)


 春の訪れをお伝えしようと撮ったミモザの花ですが、この花の咲き方が結構モソッとしているので、この時期苦しまれている花粉症の方が目にしたら、ちょっと身構えてしまうような姿ではあります(鎌倉の来迎寺門前に大木がありました)。
 春先に黄色い花を話題にするだけで鼻がムズムズされても困るので、この辺にしておきます……

 下写真は、水に浮かせた角材の上で様々な妙技を披露してくれる「木場の角乗り」が行われる(10月)イベント池です。
 木場の地名にもあるように、昔はこの辺りに貯木場があったそうです。


 上記の内容からも伝わっていると思われますが、この辺りが「江東ゼロメートル地帯」と言われる一帯になります(江東区だけではありません)。
 川の近くというのはどこでも同じように、道路が水路にかかる橋に向かって上り坂となり、堤防と同じ高さ(治水管理においては、堤防は高い防御壁であるべき)に架けられた橋を渡っていくのですが、この一帯は四方を水路に囲まれているので、市街地は高い堤防に囲まれた低地に広がっているように見えてしまいます(水路を越えるには高い壁を越えて渡る必要があります)。
 右写真、信号の右側にも橋があるので、道路が坂になっているのが分かると思います。
 これ、ハッキリ言ってヤバイですよ!
 温暖化の影響で、島国である「ツバル」や水の都「ベネツィア」が、海面上昇等に脅かされているニュース映像などについては、比較的遠くに感じていましたが、この地域の堤防はコンクリートで固められているわけですから、管理されているとはいえ劣化等によってひび割れから浸水が始まってしまい、先日紹介した両国のdocomoビル等の地下部分だけでも冠水したら「携帯電話不通」などのパニックになる恐れがあります。


 確かにわたしたちは「何もないのが当たり前」との思いが強すぎて、先日の浅間山の噴火の事前情報を「よくとらえてくれた!」などと思ったりしますが、大雨の度に水害もなく暮らせているのは「行政のおかげ」だと感じていないところがあります。
 事後に部外者として感じたりする「防げたのではないか?」と思える意見や、自然災害に遭われた方への救援ではなく、事前の準備としての「助言」を交わしあえる関係こそが「おたがいさま」という、人情等の日本人らしさなのではないか、と思ったりもします(上写真は、潮位の状況は分かりませんが、水面すれすれの橋)。


 東京都現代美術館(Map)


 ここで何を見たのか忘れましたが、以前来たときに「カッコイイ建物だなぁ」という印象があり(以前アクセスの悪さを含めて「粗大ゴミ」と評されたらしい)、是非紹介しようと思っていたのですが、改装中とのことで上写真だけになります。
 木場公園に隣接した場所にあるので、確かに徒歩だと地下鉄のどの最寄り駅からも10分以上かかります。
 それでも「Zingaro ジンガロ(騎馬オペラ)」用の特設テントが公園内に設営されており、ゾロゾロと人が集まっていました。
 展示内容によっては「ジブリの絵職人 男鹿和雄展」(30万人)のように多くの入館者を集められるわけですから、六本木の国立新美術館も含め地域振興等のための誘致もあったでしょうし、わたしもいろいろな場所に行くのは好きな方なのですが、美術系は上野に集めた方が分かりやすいのではないか、と思ったりします。
 「Museum of Contemporary Art Tokyo」を「MOT」と略しているようですが、どういう略し方なんだか。
 ニューヨークにある「The Museum of Modern Art, New York」を「MoMA」と略すのならまだ分かるのですが……

2009/03/08

大震災、大空襲、そして大麻……──両国、亀戸

2009.2.21
【東京都】

 両国といえば国技館ですが、まずはその周辺から紹介します。
 駅を降りて一番驚いたのが「docomo」ロゴがはられたビルのデカイこと(写真無し)。
 何でこんなモノが必要なのかと思いましたが、オフィス用ではなくネットワーク等の設備が集められた東京におけるdocomoの肝のようで、屋上の鉄塔はアンテナになっているそうです。
 ビル内には「NTTドコモ歴史展示スクエア」という科学館があるそうですが、ケータイを持たぬ身としては関心を示すこともなく、スルーしてしまいました。


 両国公会堂(Map)

 国技館の北側には、旧安田庭園と右写真の両国公会堂があります。
 安田の名は「金融財閥」と言われ、富士銀行〜みずほ銀行(芙蓉グループ)の基礎を築いた安田家によります。
 江戸時代に大名屋敷の庭として築造され、それを管理していた安田家から当時の東京市に寄贈されたそうですが、関東大震災(大正12年 1923年)によって壊滅的な被害を受けてしまいます。
 がれきの地となったものの、ゆかりある場所に対して安田家からの寄付があり、1926年にこの建物が完成したそうです。
 当時にすれば「超モダンな建築物」が造られたわけですから、被災した庶民たちは勇気づけられたと思われます。
 以前には改修工事も行われたようですが、老朽化のために現在では使用されていないようです。
 中にも入ってみたかったので、景気が回復したら(望み薄?)また改修してもらいたいと願っております。


 東京都復興記念館(Map)

 上記庭園のはす向かいにある横網(よこあみ:相撲のよこづなは「綱」の字)町公園には、かなり立派な建造物の東京都慰霊堂と、復興記念館(右・下写真)があります。
 慰霊堂は関東大震災の際に、火災によってこの地で亡くなられた多くの方の遺骨を納めるために造られました。
 大震災前この地には陸軍の被服敞(ひふくしょう:軍服などを作る工場)があったのですが、移転に伴い東京市が跡地を買入れて公園の造成中だったため、地震発生時に空き地だったこの場所に大勢の方が避難してしまい、その後の火災によって多くの犠牲者が出たそうです。
 大学の卒論のテーマが関東大震災で「本所被服廠跡」の惨事を知って訪れたことがあり、これが2度目の訪問になります。
 そんな惨事を繰り返さないために「火災に強い町を!」のスローガンにはとても説得力があると思えるのですが、先日歩いた「都営白鬚(しらひげ)東アパート」が「防火壁」の役目を果たすとの主張には、やはり半分くらい疑問を感じています……

 年号が変わって昭和には、第二次世界大戦の東京大空襲(1945年3月10日)によって大震災の倍近い犠牲者がでてしまい、慰霊堂にはその時に亡くなられた方の遺骨も納められているそうです。
 空襲時には焼夷弾(しょういだん:攻撃対象を焼き払うために使用するもので、ベトナム戦争で使われたナパーム弾も含まれる)によって、下町は焼け野原となってしまいました。
 いくら都知事でもそんな戦争を想定して、新たな「防火壁」を築いて延焼を防ごうなどとは考えていませんよね?

 先日、大震災で亡くなられた大陸(朝鮮系)出身者の追悼行事が慰霊堂で行われる様子をテレビで見ました。
 卒論の調べ物をしているときによく出くわしたのが「朝鮮人が暴動を起こすのではないか」というデマです。
 何の根拠も無いのにそんなデマのせいで、多くの朝鮮系の方が被害を被ったそうです。
 良くも悪くも、情報化社会と言われる現代ではあり得ないとは思いますが、非常時には自分の身も含めどんなことが起きるか予想もつきません。
 まずは身を守ること、そして冷静に行動する準備のためにも、個人個人が頭の中でシュミレーションをしておく必要があるのかも知れません。


 江戸東京博物館(Map)


 のぞきもしないくせに帰ってきてから思ったのは、「できるだけ江戸の風情を感じられる場所を歩こう」と考えているならば「少しでも勉強してくれば良かったのに」ということでしたが……
 以前入ったことはあるのですが「館内に日本橋を再現してどうするの?」というテーマパーク的な展示内容に「ここは一度で十分」との印象が強く、再チャレンジできませんでした。
 土曜日だったせいか人気はあるようで、お客さんがゾロゾロと写真のエスカレーター(赤い部分)に吸い込まれていきます。
 「バブリーだなぁ」(1993年開館)の印象通り、やはり維持費用が膨大にかかる設備なんですって。でも「はとバス」も来ているようですから、収支を含めたさじ加減は知事次第、となるんでしょうね。


 両国国技館(Map)


 上記の江戸東京博物館の方がどデカイ印象を受けたとしても、両国のシンボル的な存在はここであるはずなのですが、今どきはドーンと紹介できない「相撲の聖地」ですから、さりげなく見てください。
 不祥事続きであっても、相撲協会もファンも「どすこい!」という印象が強い気がします。
 ──「どすこい」とは、どっこいしょ、どんと来い、ドスもってこい(これは冗談)という意味だそうですが、わたしには力士がシコを踏む掛け声ではなく、おばさんが重い腰を上げる時の「どっこいしょ!」に思えてなりません。

 近ごろの、世間一般への大麻の浸透度には驚愕させられます。
 豊かさというより、教育(家庭および社会)の荒廃を意味しているように思われます。
 むかしの英国・中国(清)間の「アヘン戦争」のような、外国による円獲得の圧力や動きではなく、自分たちが興味を持ち積極的に手を出しているように見受けられます。
 そこに続けて、相撲取りに細やかさを求めても無理、なんて書くと(相撲取りだけかい? と)怒られるかも知れませんが、現状では、反社会的と受け止められても仕方のないところまで来ていると思われます。
 それにしては相撲協会やファンは、結構平然としているように見受けられる気がするのですが……(特にファンは、強ければいいという認識を持っている面があるようにも感じられます)。
 「やかましい!」と感じていた横綱審議委員のおばさんは、こういう状況を危惧(きぐ)して叫んでいたのかも知れない、と納得してしまう事態であるように思われます。


 この後に、猿江(さるえ)恩賜公園に立ち寄りました。
 恩賜公園(おんしこうえん)とは、お上から払い下げられた地を活用した公園施設なので(上野公園、浜離宮等)どんな施設なのかと楽しみにしていたのですが、以前幕府直轄の貯木場だった地を埋め立ててグラウンドやテニスコート等を整備しただけなので、少々ガッカリさせられました……(住宅密集地の中にまとまったグラウンド施設等が作れたのですから、ありがたいのですが)
 公園の近くに、東京都立墨東病院(急患受け入れ不能問題)がありますが、周囲にはラブホテルが林立しています。
 町の風紀を正したい、気持ちも理解できますが、所詮「川沿い」というネガティブな印象を引きずっているように見えてしまいます。
 他に土地の確保が難しいことは理解できるところですが、地元に人にすれば「もうちょっと場所を考えてもらいたい」との気持ちも、とてもよく分かる気がしました。
 下町っ子は気にしないのでしょうが(これも怒られそうですね)、若い夫婦の転入者を増やしたい気持ちがあるのなら、生活環境等への配慮が必要になるのではないでしょうか。


 亀戸天神(Map)

 天神様の牛は、なでられ、テカテカになった方が親近感があるように思えます。──京都では北野天満宮錦天満宮


 この天神様は、菅原道真の末裔である福岡県にある太宰府天満宮の神官が、天神信仰を広めるために諸国を巡り、1661年、元からこの地にあった小さなほこらに道真ゆかりの飛梅(とびうめ)で彫った天神像を奉ったのが始まりだそうです。
 飛梅とは、陰謀により京の地を追われた主である道真を慕い、一夜のうちに太宰府まで飛んできた、との伝説がある「梅の木」になります。
 また太宰府やこの地には木彫りの(うそ:スズメの仲間)替の神事があり、「去年の悪しきはうそ(鷽)となり、まことの吉にとり(鳥)替えん」と伝わり、年ごとに新しいものと「とり(鳥)替える」ことで一年の吉運を招くとされています。

 亀戸天神といえばやはり(?)「池の亀」が印象に残っていましたが、この日はあまり見あたりませんでした。
 ──そんなことが印象となる感性ですから、結構若かりしころに来たのではないか、とふり返っています。

 境内には立派な藤棚がいくつもあり、藤の花が有名だそうです。
 出店の人たちが、人出や売り上げの低さをなげいていました。
 まま人は出ていたと思うのですが、以前はこんなものではなかったということなのでしょう。
 まさか、受験生(人口)が減ってきたから? なんて理由ではないことを祈るばかりです……


 昨晩は美味しいお酒を飲まれた方も多かったのではないか、と思われるWBCでの日本の勝利でした。
 これからが本戦です、応援しましょう!

2009/03/01

新タワーを希望に──三ノ輪橋、向島、京島

2009.2.15
【東京都】

 三ノ輪橋(Map)


 東京都が運営する路面電車として唯一存続されている都電荒川線は、始点となるここ三ノ輪橋(荒川区)から早稲田(新宿区)までの約12kmを結んでいます。
 新庚申塚(しんこうしんづか 都営三田線西巣鴨駅で乗り換え)から早稲田方面は、仕事でよく利用しましたが、乗った途端にスイッチがoffになってしまい「どこへ行くんだったっけ?」という、リラックスモードに切り替わってしまったことが思い出されます。
 主に東京の西側での生活が長かった者にとっては、三ノ輪橋・千住・綾瀬という地域は一緒くたに「上野の向こう(東)側」としいう認識しかなく、遠いところという印象を持っていました(地域の皆さまには大変失礼!)。
 地下鉄日比谷線の駅では、上野〜入谷〜三ノ輪〜南千住〜北千住(千代田線で次が綾瀬)ですから、西側の下町で言うなら戸越や三軒茶屋あたりでしょうか?
 ──三軒茶屋にも東急世田谷線という路面電車があるので、荒川線も含め機会を見つけて沿線を歩きたいと思います。


 三ノ輪橋という停留所(都電では駅をそう呼びます)名は、以前石神井川の支流(現在は暗きょ:地下水路)に架けられていた橋の名前だそうです。
 終点となる早稲田の停留所は大通りの中州のような立地で(最近見ていないので今度確認してきます)殺伐としているのですが、三ノ輪橋付近は商店街も健在で、路面電車がとてもなじむような町の風景が残されています(昔の三軒茶屋も上写真のような感じだったと思います)。

 商店街を10分ほど歩くと南千住駅で、その反対側の隅田川方面には大規模な再開発地域が広がり、ご察しの通り現代風なマンション群と、ショッピングセンターと、まま広い公園とテニスコートなどのグラウンドと、学校施設が整然と並んでいます。
 そこは汐入という地域で、以前にあった大きな工場や下町的な住宅密集地などを、全部追い出して再開発したそうです。
 工場関連の移転についてはその意図も納得できるところですが、住宅密集地に対して一斉立ち退きを求めた姿勢には、行政側が疎ましく考えていたのではないか、と勘ぐりたくもなります(「あしたのジョー」の舞台設定はこのあたり、との記述も目にしました)。


 向島(Map)

 上記の整備された汐入公園から隅田川の対岸になる向島(むこうじま)方面には、高速道路の奧に屏風岩のような都営白鬚(しらひげ)東アパートが連なっています。
 墨田区によると「江東防災拠点のひとつで、明治通りと堤通りに沿って高さ約40メートルの高層建築物を連続的に配置することにより、大震災時の火災に備える」防火壁の役目もあるんだそうです(写真ありません)。
 分かった! 東京都は、とりあえず下町をコンクリートで固めてしまえば「江戸の華」のひとつである火事の延焼を防ぐことができると考えているのではあるまいか? 
 確かに後述の京島周辺を見ると、庶民生活を守る立場にある行政側とすれば、そう考えたくなる気持ちも理解できます。
 高層建築物であっても「都営アパート」であることは、ベランダではない通路と思われる壁に布団がズラーッと干されているのを見れば、もう納得です。
 住民の方たちが屏風岩のようなアパートに納得されているのであれば、他人が文句をつける理由もないのですが……

 右上写真は汐入から隅田川を渡った、向島にある隅田川神社になります。
 かつてはこの付近まで海だったそうで、海運業者等から浮島神社、水神社と信仰されたそうですが、写真のように川との間に高速道路が通されていますし(奧が隅田川)、手前側に伸びている参道の上には(布団が干してある)都営アパートが建てられたりしています。それも、防災のため(?)です。

 近ごろは新聞を駅やコンビニで買っているのですが、この付近で買った朝日新聞の地域面の区分が「東京 川の手」とあります(神奈川ですと川崎、横浜との分類)。
 「山の手」と呼ばれる地域を意識したネーミングのようで(その地域は単に「東京」とされています)、隅田川付近で育った方々にはステータスかも知れませんが、わたしはあまりいいセンスとは思えませんでした。
 東京で生活する者にとって向島とは、下町の代名詞のような響きやイメージがあるのですが、冷静に考えてみると「川向こうの島」ですから、あまりいい意味で使われていなかったようにも思えます。
 わたしの両親の父母(わたしには祖父母)は都外から移り住んだそうですが、その双方共に「向島の家」と呼ぶ親せきがあったようです(わたしは知りません)。
 そんな時代の庶民の盛り場といえば浅草であったでしょうし、外からの人たちを受け入れてくれる寛容さがあったようにも思えます(そんなころの山の手方面は、タヌキがすむような田舎だったと聞かされています)。
 受け入れてくれる人たちや、その好意に甘えさせてもらった人たちが多かったことも、「お互いさま」というような人情を根付かせ、継承され続ける一因なのではないでしょうか?


 向島百花園(Map)

 江戸時代に開かれた梅の名所で、百花園の名には「四季百花の乱れ咲く園」の意味が込められているとのことです。
 洪水被害や太平洋戦争の空襲で全焼するなどの苦難を乗り越え復興されたのは、身近な庭園として庶民に親しまれていたからなのでしょう。
 御成座敷という建物で「投扇興(とうせんきょう):台座上の「蝶」と呼ばれる的に扇を投げ、その結果の形から点数を算出する遊び」が行われていました。
 江戸時代にお座敷遊びとして始まったそうですから、優雅であるかは分かりませんが4つほどの流派が存在するそうです(幼少時に秋篠宮も興じたとのこと)。
 ルールとして、座っている座布団から尻を浮かせてはいけないところに、江戸っ子にも最小限の品があるものだ、と感じたのですが……


 園内では「春の七草」も栽培されており、これはそのひとつ「すずしろ(蘿蔔 )」です。
 「大根じゃないの?」と思っていたら、大根の別名なんですって……
 これちょっと恥ずかしいコメントと思うのですが、ご存知でした?
 下は、ボケの花です。
 ──上記の落ちのつもりなので、好きなように突っこんでください……




 京島(Map)

 もとは吾嬬(あずま)町だったものを、東京の「京」と向島の「島」を合わせた名前から「京島」としたとありました。京島の名ですが、現在は向島と陸続きです。
 右写真は、京成曳舟(ひきふね)駅近くにあるお風呂屋さんで、左下のオヤジさんは開店を待っているようです。
 開店直前であればもう少し人がいるように思われますが、一番風呂を目指しているのでしょう。せっかちにも見えますがマイペースなのではないか、という気もしてきます。
 奧に高層マンションが写り込んでいますが、オヤジさんには「バカだよなぁ、あんな所に住んで何が楽しいんだよ」と思われているのでは? というくらい、皆さんが下町の暮らしをエンジョイしているように感じられる町です。


 この周辺は第二次世界大戦の空襲の被害が少なかったこともあり、昔ながらの下町の町並みが残されている地域になります。
 「残すこと」は、おそらく住民の意思と思われ「残されていること」は貴重であるのですが、時代が変われば「有効利用できる地域を何で野放しにしておくんだ?」という意見も押さえられなくなるようです。
 住宅街の中には、右写真のような共同井戸(?)がいくつも残されており、同じブルーの塗装がされています。
 以前は共同で使われていたと思われますが、現在では地域の防火用水的な存在のようです。
 地域の自治会などの、知恵と努力によるものと思うのですが、消防車が通ることができない路地であることは確かなので、下写真のような道路整備工事が虫食い状態のようにジワジワと広がっています。
 わたしには「防災対策」という名目によって、切り崩しを計っているようにしか見えないのですが……
 何年かしたらかなり様子が変わってしまうように思えるので、関心のある方はいまのうちに行かれた方がいいかと思います。
 ──テレビで目にしたおばあさんが店に立つコッペパンの専門店(?)も健在ですよ。


 現地を歩いたときは、住民たちのたくましさや(ある意味)贅沢さを感じておりましたが、戻って汐入のことなどを調べてみると都知事の顔が浮かんできました(別に石原さんだけが悪者ではないのですが)。
 税収の低い地域は自治体から「何とかせい!」と目を付けられ、やり玉に挙げられてしまいます。特に東京都など「土地の利用価値が高い」と自負する自治体にそんな傾向が強いのではないでしょうか。
 子どもも安心して産めない町に人を集めて「寄せて上げて」どうするつもりなんかい? とも思ってしまいます。
 ──妊婦受け入れ不能の問題を起こした東京都立墨東病院は、次回報告予定の散策中に目にしました。

 散策後に一服した喫茶店で、地域の熟年(70代以上)と思われる集団の雑談がとても耳障りでした。
 江戸っ子のオヤジって、何であんなに大声でおしゃべりなんだろうか?(軒先が触れあうような隣同士なら、大声出さずとも聞こえるってもんだろ?)
 「沈黙は愚」というかのような大声でのせめぎ合いは、関西系の特徴ではないか?(関東以北にはないのでは) とも思ってしまいます。
 家康が江戸開府時に、文化最先端であった関西から技術集団を呼び寄せたそうですから、そんな系譜が受け継がれているのではないか、とも思われます。
 つまり「江戸っ子のルーツは関西系」ではないか、と感じたということです。
 開府当時の江戸はおそらく、新天地を求めて集まった各地の人たちの寄り合い所帯だったでしょうから、地域自慢を主張し合うことから大声になっていったとも考えられますが、どう思われます?


 東京スカイツリー 建設現場(Map)


 高さ610mの東京スカイツリー(2011年完成予定)の建設現場です。
 撮影場所は、東武伊勢崎線の業平橋(なりひらばし)のホームからになります(浅草の次の駅)。
 まだ基礎部分だけなので確かなことは言えませんが、東京タワーと比べると、とてもスマートな印象を受けました。
 東京タワー建設の時代に比べれば技術は進歩しているのでしょうが、隅田川沿いで昔は海だったという向島辺りに造って、地盤の強度は大丈夫なのでしょうか?(東京タワーは芝とは言え、高台にあります)
 向島、京島や浅草から見てもそびえ立つ東京スカイツリーでしょうから、みんな吸い寄せられるように足を運ぶことになるのだと思われます(これからも進捗状況を眺めに立ち寄ってみます)。

 それこそ時代が違うので、高い建築物を造ればそれだけで「夢」になるとは思えませんが、映画『三丁目の夕日』の東京タワーように、周辺に暮らす庶民に「希望」を与えてくれる存在となってくれることを祈るばかりです。
 ──高さの目標となってしまい「目指せ東京タワー」のように、肩を並べるビルが林立するだけでは困ると思うのですが……

 しかし、誘致した自治体はよろこんでいても、果たして住民たちはよろこんでいるのだろうか?
 そんなインタビューを聞いてみたい気もします。