2009.7.19
【東京都】
関東地方ではぐずついた天気が続くので「梅雨明け時期見直しか?」とも言われています。そんな時の用語に「戻り梅雨」なんて言葉があるんですね。
九州・中国地方では大雨による被害が続いており、「まさかうちが被害に遭うとは…」の声をインタビューで耳にしました。
「観測史上最多となる降水量」等のニュースをよく耳にする近ごろですが、温暖化の影響等が心配される将来では、安全な土地は思っているほど広くないのかも知れません……
羽村の堰(せき)(Map)
羽村の堰(正式名称:東京都水道局羽村取水堰)とは、多摩川から玉川上水に流れを誘導する取水施設(水源)になります。
玉川上水の開削は江戸幕府による事業で、江戸市中への飲料水供給を目的として、この地から四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までの43kmに渡って築かれ、1653年に開通しました(江戸開府は1603年)。
現存経路の開削は半年余りで完成したそうですが、その前には2度(日野、福生(ふっさ)からの取水経路)の失敗があったようです。
庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負ったものの、2度の失敗で資金が底をつき、自分たちの家を売って費用に充てたそうです。
その功績に対して「玉川姓」の使用が許され、「玉川兄弟」と呼ばれるようになり、銅像が建てられるに至ったそうです。 めでたし、めでたし……
右写真は、玉川上水最上流地点の様子です。
ご覧のように、かなり豊富な水量が確保されています。
玉川上水から想起されるのが、作家太宰治の入水自殺ですが、現場とされる三鷹市付近の現在の流れは小川のようで、とてもその場所で自殺したとは考えられない状況となっています。
では、どこに流れているのかと言うと、この少し下流で取水され東村山浄水場に送られており、またその下流では、現役の農業用水(新堀用水)にも取水されているようです。
下流域では需要が減ったため流量は少なくなり、水路の面影だけとなっていますが、上流の流れは現在でも、東京近郊の飲料水の水源として活用されているそうです。
多摩川と玉川上水の分岐点(両側に流れのあるどん詰まり)の地は、東京都が整備している多摩川沿いの散策道「たまリバー50キロ」の終点にあたります。
堰を見下ろすベンチでは、ゴール到着後の満足げな表情をしたサイクリストたちが、談笑をしています。
──この地には「歳の鬼あし多摩川50km」というマラソン大会があるそうです(歳とは土方歳三からの引用)。
わたしも分割しながらですが、河口付近(羽田)から立川までは歩いているので、近いうちにそのフィニッシュを決めに来たいと思います。
上写真、堰の下の流れは多摩川で、右下のおじさんは流れの中に陣取って釣りをしています。
釣果は分かりませんが、最高の避暑だろうと思われます。寒いくらいではあるまいか?
羽村市郷土博物館(Map)
多摩川の対岸に市立の郷土博物館があるので、一息入れるつもりが、あまり涼しくありませんでした(28℃設定か?)。
エコも分かりますが暑い日には、一服の清涼感も欲しい気がします。
屋外にかやぶき屋根の古民家が保存されており、囲炉裏の火はこの季節も絶やされないようです。
囲炉裏の火の熱は空気の対流を生むので、その温度差によって開け放たれた戸の外から自然の風が流れてきて、夏でも快適なんだそうです。
その古民家の脇には、薪が積み上げられています(太めの薪は乾燥のために干されていました)。
生活様式を伝えることを目指す施設なので、薪の蓄えも仕事のうちのようです。
横田基地(Map)
再訪の第一印象が「基地らしい基地だなぁ」というのは、「Air Base」(空軍基地)たる空港施設の広さはもちろん、フェンスの中の芝生はまぶしい緑ですし、基地城下町とも言える商店や関係者向けの住宅(木造平屋建てで、玄関の網戸が「バッタン」と閉まる家:マッチョな軍人が出てきたら怖いので撮れませんでした……)が、いまも健在で存在感を示していることによると思われます。
現在もそんな印象があるのは、近郊では横須賀基地くらいでしょうか。厚木基地や司令部が置かれて注目される座間キャンプ周辺も、基地城下町的な雰囲気は皆無になりつつあります。
──ガキの頃の思い出として、横田基地を見晴らせるドライブインの屋上(3階建てくらいか?)から、観光バスの乗客もこぞって離着陸する米軍機を眺めていたことを覚えています(結構な人が集まっていました)。まだ庶民が飛行機に乗れない時代だったからでしょうか? 不思議な光景として記憶に残っています……
1940年に、陸軍立川飛行場の付属施設である多摩飛行場として建設されますが、敗戦後の1945年アメリカ軍に接収されます。
接収後の拡張工事により、北側では国鉄(現在JR)八高線と国道16号線が、南側では五日市街道の経路移設が生じたそうです。
朝鮮戦争では出撃基地、ベトナム戦争では補給基地とされましたが、現在は「極東地域の輸送中継ハブ基地」とされるそうです。
──軍隊にもハブ基地は必要ですわなぁ……
この基地に関しては書きたいことが多く、収まらないので、要点だけにします。
●「横田ラプコン(RAPCON: Radar Approach Control)」施設において、関東周辺(1都8県)の航空管制が行われ、米空軍の管制下に置かれているため、民間航空機はその空域を通れず遠回りするために、渋滞の原因になっているそうです。
●石原都知事が「民間共用化」を公約し、自衛隊との「共用化」から、民間チャーター便の就航を目指すそうですが、結局は調布飛行場程度のご機嫌取りで、周辺住民には歓迎されないのではあるまいか?
●国連軍の後方司令部が座間からこの地に移転したそうです。国連に対する施設提供を拒む理由はないにしても、いい顔をしたかったのでは? とも思ってしまいます。
ここで主張したいのは
●「1971年に戦闘部隊が沖縄に移転した(させた?)」ということです。首都周辺に、煙が上がりそうな連中を置きたくない、という考えは理解できますが、沖縄に米軍を押しつけたのは、東京を重要視した日本国家である、ということです。
──沖縄の施政権が日本に返還されたのは翌年の1972年になります。
基地には国を守るという大義があります。
その基地周辺の民間地を守る義務は誰が負うのでしょうか?
都知事が「これでも沖縄よりは安全なんだ!」なんて言ったら、どうしましょう……
ここにはドデカイ、ゴルフ練習場があります(右上写真)。
体力を持てあましている人には、これくらい広い練習場が必要なのだろうか?
繁華街には及びませんが「福生ブランド」は健在のようで、電車に乗って訪れる若い女性の姿も見かけました。
●日食(神奈川県 等々力緑地)──7月22日(おまけ)
46年ぶりに、日本で観測可能な皆既日食に向けての盛り上がりは、スゴイものがありましたが、残念ながら東京近郊の空は雲に覆われてしまいました。
曇天だったため、暮らしを支えてくれる太陽に対しての畏怖(いふ)等を感じることもなく、「普段の曇り空と変わらない」としか思えなかったのは残念でした。
ですが、たまたま雲間から顔を見せてくれた姿が、こちらとしては好都合なフィルターとなってくれたおかげで、わたしのカメラでも撮影が出来ました(これは拡大トリミングしています)。
皆既日食の場にいないと、その意味が理解できないことをテレビ報道で理解しました。
でも、洋上の船から見えたという、360度の水平線付近に広がる夕焼けのような光景は、ちょっと見てみたい気がしました。
機会があれば、そんな体験をしてみたいと思ってしまいます……
2009/07/27
2009/07/20
「トトロの森」という名の重み──狭山丘陵
2009.7.11
【東京都、埼玉県】
関東地方は梅雨明けが発表され、連日暑い日が続いています。
よく「梅雨明け10日」(暑さの厳しい晴れの日が続く)と耳にしますが、関東地方だけが梅雨明けという変則的な状況のせいでしょうか、今年の本格的な夏の到来は、もう少し先のようです。
それでも、各地を襲っている梅雨末期の大雨が、関東だけは「もうありませんよ」の予報は当たっているようなので、納得できるところです。
村山貯水池(多摩湖)(Map)(東京都)
幼少期の体験によると思いますが、どうも「貯水池」という響きには、イコール「遠足」というイメージがあります。
通っていた小学校から、子どもの足で徒歩1時間半程度(?)の場所に貯水池があり、歩いた覚えがありますし、この地(後述のユネスコ村を含め)も訪れた記憶があります。
その時にどう感じたかは別にしても、「貯水池に行ったこと」は印象に残っていますから、施設の存在を記憶に焼き付けることはとても大切なことと思われます。
通った高校が前者の貯水池の近くにありましたが、当時は近寄ろうともしませんでした。
そんな年頃の「気分」って、何なんでしょうね? 心中までは覚えていませんが、部活のランニングにしても近寄らなかったことだけは覚えています……
ここは1924年に完成し、東京近郊の水源のひとつとされています。
東村山浄水場、境浄水場に原水を送水するそうですが、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場及び三園(板橋区)浄水場にも送水するそうです。
そんな送水ネットワークがあること、初めて知りました。さすがと言うか、安心な暮らしには、それだけのライフライン整備が必要なようです。
付近一帯には、西武グループによるレジャー施設群が密集しています。
ダム脇には西武遊園地があり、遊園地と西武球場を結んでいる、西武山口線という路線があります。
以前は「おとぎ列車」という遊戯施設の一部でしたが、1984年から新交通システムとして再スタートしたそうです。
車窓からゴルフ場が見えるのですが、丘陵地帯を「地形のまんま」に設定したコース(斜面に芝生を植えただけ?)には驚きました。
プレイヤーたちは夢中でしょうから、気にならないのかも知れませんが、コースを回るだけでも「いい運動になりそうだ」と思ってしまいます……
旧ユネスコ村(現在ゆり園)(Map)(埼玉県)
何だか、お供えの花のようですが、花の盛りを過ぎたので入園無料の「ゆり園」から撮ると、花が少ないのでこうなってしまいます(背景は西武ドーム。試合中なので声援が響き渡っています)。
──話しはそれますが、現在暮らしている新丸子の中原街道沿いでは、旧盆(7月15日が中日)に「迎え火」「送り火」の風習を続けている家が多いことに驚きました。街道沿いでは、古くからの家が代々続いているようです。
以前この場所には、ユネスコ村というテーマパーク(世界各地の家屋や建造物のレプリカを展示した施設)があり、幼少期に遠足等で何度か訪れ、大きな風車があったと記憶しています。
時期は忘れましたが再訪したことがあり、建造物群がハリボテの子供だまし的なモノであることを知り、ガッカリした覚えがあります。
ユネスコ村は、1951年〜1990年まで営業の後、1993年から「ユネスコ村大恐竜探検館」として再開したそうですが、それも2006年で閉館し、現在は園内の一部が「ゆり園」となっています。
大きな風車は丘の上にあったという記憶があるのですが、こんな急傾斜地にさまざまな建物があったとは思いませんでした。
おそらくガキの頃は、この坂を駆け上がっていたんだろうと思います。
もう、階段を上がるだけで汗だくです……
山口貯水池(狭山湖)(Map)(埼玉県)
人口増加の著しい当時の東京市近郊への水源確保のため、上述の村山貯水池に隣接して建設され、1934年に完成したそうです。
「水源地はできるだけ近場がいい」との発想はとてもよく理解できますが、ここからの供給量は限られています。
工事中には、奥多摩湖の準備が始まっていたそうですから、おそらくここは、つなぎ的な施設として考えられていたようです。
それでも東京近郊の水瓶と考えられていたため、二つの貯水池周辺には水源保護林が確保されており、東京近郊としてはとても貴重な、広域にわたる自然林が残されることになります。
看板には、絶滅危惧種のオオタカも生息するとありましたから、かなりの広さがあるのだと思われます。
裏(北)側には大学の施設もあるようなので、アプローチだけでもと足を踏み入れたのですが、水辺にありがちなホテルが並んでいるので、引き返しました……
トトロの森(Map)(埼玉県)
1988年公開の映画『となりのトトロ』において、舞台設定のモチーフにされたと言われる丘陵地が、この周辺になるそうです。
──もっと北側の、西武新宿線の狭山市駅方面であると勘違いしていました。
付近一帯の狭山丘陵では、以前から自然環境や文化財等の保護運動が続けられていて、1990年「トトロのふるさと基金委員会」を立ち上げ、ナショナル・トラスト活動(寄付金や会費などによって森林や海岸、歴史的建造物を買い上げ、保全を行う活動)が始まったそうです。
宮崎駿監督の賛同を得て「トトロ」の名称を使用しており、時折、宮崎さんが参加したイベントが、ローカルニュースで取り上げられていますが、組織にとっては大きな広報活動になります。
2008年11月時点でこの団体は、所沢市内に9ヶ所のトラスト地(信託地:一定の目的に従って管理・処分を任せた土地。その合計面積は約1万5567平方メートル)を所有していて、その合計金額は約2億480万円に及ぶそうです。
また、近くの東村山市(東京都)の雑木林を、宅地開発から守るために集められた募金を東村山市に寄付し、市側ではこの寄付金を活用して緑地を買い取ることにしたそうです(住民が「主」なのです)。
──近隣に、実在の地名として「八国山」の名があるそうです。映画での「七国山病院」を想起します。余談ですが、大阪府高槻市の保育施設の送迎用として「ネコバス」(デザインはちがいます)が走っていました。
ここは、上述の貯水池の川下側にあたるので、水源地保全区域等には当たりません。
それゆえ地元の人たちにとっては腹立たしい開発が、続けられてきたのかも知れません(それって西武批判?)。
対象企業は他にも多数あるでしょうが、近隣住民の方々がここまでの行動を起こすというのは、とても大きな問題です。
開発をするのは資金力のある企業になるのでしょうが、地元の人たちにも納得できるものを目指すべきで、それを放置してきた自治体に対する住民たちの「抗議ののろし」とも受け止められます。
これは地域住民が、お金儲け側に群がっていた地方行政に対する「No !」を突きつけたことになります。
「トトロの森」という名を利用する団体にとっては、知名度があるので応援を受けやすいと思われる反面、子どもたちの夢を育んできた「名」を汚してしまうと、リアルタイムから接してきた親世代を含めた人々にも、失望を与えることになります。
何たってそこには、子供心を忘れられない大人(?)を含めた多くの人たちの「夢と希望」が込められているのですから……(これは応援です)
※「ポニョの浦」(広島県 福山市 鞆の浦)の、埋立て架橋計画問題は、何としても計画変更してもらいたいので、機会がありましたら足を運んでいただきたいのと、その率直な感想を広めていただきたい、と切に望んでおります。
しつこいかも知れませんが、わたしはあのノスタルジックな景観を保った港を「瀬戸内海のヘソ」(最重要地域)と思っております。
自分で書きながらも上記の文章を振り返ると、宮崎監督の問題提起は見事に伝わってきている、ことに気付かされます。
各映画に対する評価のデコボコは横に置いといても、映画群から感じることは「信念の大切さ」なんだと思います。
【東京都、埼玉県】
関東地方は梅雨明けが発表され、連日暑い日が続いています。
よく「梅雨明け10日」(暑さの厳しい晴れの日が続く)と耳にしますが、関東地方だけが梅雨明けという変則的な状況のせいでしょうか、今年の本格的な夏の到来は、もう少し先のようです。
それでも、各地を襲っている梅雨末期の大雨が、関東だけは「もうありませんよ」の予報は当たっているようなので、納得できるところです。
村山貯水池(多摩湖)(Map)(東京都)
幼少期の体験によると思いますが、どうも「貯水池」という響きには、イコール「遠足」というイメージがあります。
通っていた小学校から、子どもの足で徒歩1時間半程度(?)の場所に貯水池があり、歩いた覚えがありますし、この地(後述のユネスコ村を含め)も訪れた記憶があります。
その時にどう感じたかは別にしても、「貯水池に行ったこと」は印象に残っていますから、施設の存在を記憶に焼き付けることはとても大切なことと思われます。
通った高校が前者の貯水池の近くにありましたが、当時は近寄ろうともしませんでした。
そんな年頃の「気分」って、何なんでしょうね? 心中までは覚えていませんが、部活のランニングにしても近寄らなかったことだけは覚えています……
ここは1924年に完成し、東京近郊の水源のひとつとされています。
東村山浄水場、境浄水場に原水を送水するそうですが、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場及び三園(板橋区)浄水場にも送水するそうです。
そんな送水ネットワークがあること、初めて知りました。さすがと言うか、安心な暮らしには、それだけのライフライン整備が必要なようです。
付近一帯には、西武グループによるレジャー施設群が密集しています。
ダム脇には西武遊園地があり、遊園地と西武球場を結んでいる、西武山口線という路線があります。
以前は「おとぎ列車」という遊戯施設の一部でしたが、1984年から新交通システムとして再スタートしたそうです。
車窓からゴルフ場が見えるのですが、丘陵地帯を「地形のまんま」に設定したコース(斜面に芝生を植えただけ?)には驚きました。
プレイヤーたちは夢中でしょうから、気にならないのかも知れませんが、コースを回るだけでも「いい運動になりそうだ」と思ってしまいます……
旧ユネスコ村(現在ゆり園)(Map)(埼玉県)
何だか、お供えの花のようですが、花の盛りを過ぎたので入園無料の「ゆり園」から撮ると、花が少ないのでこうなってしまいます(背景は西武ドーム。試合中なので声援が響き渡っています)。
──話しはそれますが、現在暮らしている新丸子の中原街道沿いでは、旧盆(7月15日が中日)に「迎え火」「送り火」の風習を続けている家が多いことに驚きました。街道沿いでは、古くからの家が代々続いているようです。
以前この場所には、ユネスコ村というテーマパーク(世界各地の家屋や建造物のレプリカを展示した施設)があり、幼少期に遠足等で何度か訪れ、大きな風車があったと記憶しています。
時期は忘れましたが再訪したことがあり、建造物群がハリボテの子供だまし的なモノであることを知り、ガッカリした覚えがあります。
ユネスコ村は、1951年〜1990年まで営業の後、1993年から「ユネスコ村大恐竜探検館」として再開したそうですが、それも2006年で閉館し、現在は園内の一部が「ゆり園」となっています。
大きな風車は丘の上にあったという記憶があるのですが、こんな急傾斜地にさまざまな建物があったとは思いませんでした。
おそらくガキの頃は、この坂を駆け上がっていたんだろうと思います。
もう、階段を上がるだけで汗だくです……
山口貯水池(狭山湖)(Map)(埼玉県)
人口増加の著しい当時の東京市近郊への水源確保のため、上述の村山貯水池に隣接して建設され、1934年に完成したそうです。
「水源地はできるだけ近場がいい」との発想はとてもよく理解できますが、ここからの供給量は限られています。
工事中には、奥多摩湖の準備が始まっていたそうですから、おそらくここは、つなぎ的な施設として考えられていたようです。
それでも東京近郊の水瓶と考えられていたため、二つの貯水池周辺には水源保護林が確保されており、東京近郊としてはとても貴重な、広域にわたる自然林が残されることになります。
看板には、絶滅危惧種のオオタカも生息するとありましたから、かなりの広さがあるのだと思われます。
裏(北)側には大学の施設もあるようなので、アプローチだけでもと足を踏み入れたのですが、水辺にありがちなホテルが並んでいるので、引き返しました……
トトロの森(Map)(埼玉県)
1988年公開の映画『となりのトトロ』において、舞台設定のモチーフにされたと言われる丘陵地が、この周辺になるそうです。
──もっと北側の、西武新宿線の狭山市駅方面であると勘違いしていました。
付近一帯の狭山丘陵では、以前から自然環境や文化財等の保護運動が続けられていて、1990年「トトロのふるさと基金委員会」を立ち上げ、ナショナル・トラスト活動(寄付金や会費などによって森林や海岸、歴史的建造物を買い上げ、保全を行う活動)が始まったそうです。
宮崎駿監督の賛同を得て「トトロ」の名称を使用しており、時折、宮崎さんが参加したイベントが、ローカルニュースで取り上げられていますが、組織にとっては大きな広報活動になります。
2008年11月時点でこの団体は、所沢市内に9ヶ所のトラスト地(信託地:一定の目的に従って管理・処分を任せた土地。その合計面積は約1万5567平方メートル)を所有していて、その合計金額は約2億480万円に及ぶそうです。
また、近くの東村山市(東京都)の雑木林を、宅地開発から守るために集められた募金を東村山市に寄付し、市側ではこの寄付金を活用して緑地を買い取ることにしたそうです(住民が「主」なのです)。
──近隣に、実在の地名として「八国山」の名があるそうです。映画での「七国山病院」を想起します。余談ですが、大阪府高槻市の保育施設の送迎用として「ネコバス」(デザインはちがいます)が走っていました。
ここは、上述の貯水池の川下側にあたるので、水源地保全区域等には当たりません。
それゆえ地元の人たちにとっては腹立たしい開発が、続けられてきたのかも知れません(それって西武批判?)。
対象企業は他にも多数あるでしょうが、近隣住民の方々がここまでの行動を起こすというのは、とても大きな問題です。
開発をするのは資金力のある企業になるのでしょうが、地元の人たちにも納得できるものを目指すべきで、それを放置してきた自治体に対する住民たちの「抗議ののろし」とも受け止められます。
これは地域住民が、お金儲け側に群がっていた地方行政に対する「No !」を突きつけたことになります。
「トトロの森」という名を利用する団体にとっては、知名度があるので応援を受けやすいと思われる反面、子どもたちの夢を育んできた「名」を汚してしまうと、リアルタイムから接してきた親世代を含めた人々にも、失望を与えることになります。
何たってそこには、子供心を忘れられない大人(?)を含めた多くの人たちの「夢と希望」が込められているのですから……(これは応援です)
※「ポニョの浦」(広島県 福山市 鞆の浦)の、埋立て架橋計画問題は、何としても計画変更してもらいたいので、機会がありましたら足を運んでいただきたいのと、その率直な感想を広めていただきたい、と切に望んでおります。
しつこいかも知れませんが、わたしはあのノスタルジックな景観を保った港を「瀬戸内海のヘソ」(最重要地域)と思っております。
自分で書きながらも上記の文章を振り返ると、宮崎監督の問題提起は見事に伝わってきている、ことに気付かされます。
各映画に対する評価のデコボコは横に置いといても、映画群から感じることは「信念の大切さ」なんだと思います。
2009/07/13
梅雨は恵み、と感じる──国分寺崖線、お鷹の道
2009.7.5
【東京都】
府中刑務所(Map)
有名な施設の割には訪れる機会のない場所で、初めて歩いたのですが(よく来る人ってどんな人?)、ここが日本最大の刑務所なんだそうです。
収容者数が増加しているので、恒常的に定員を上回る3,000名以上の受刑者を抱えているそうです(税金からの支出が増えていることになります)。
ですがわたしは、塀の中よりも「三億円事件(1968年)」の事件現場としてのインパクトの方が、強く残る世代に含まれます。
訪問の動機も、当時を想起させる痕跡が何か残ってはいまいか、というものでしたが、あっさりと打ち消されました。
近ごろ作りかえられたこの外壁(塀)には、「景観賞」なるプレートが貼られてありますし、事件現場とされる「学園通り」沿いには住宅が建ち並び、自動車の交通量も多く、自転車やジョギングの人も頻繁に行き来しています。
いくら日本最大の刑務所とは言え「塀の外」は、庶民が暮らす空間ですから、往来を促進することで暗いイメージや記憶を払しょくし、明るい雰囲気作りから犯罪防止を目指そうとする主旨は、とてもよく理解できました。
──でも今回は、薄汚れたコンクリートの刑務所らしい(?)「塀」が見たかった、というのが本音です……
上写真は、服役者の入出所ゲートになります。
映画などで目にする、鉄の扉が開いて釈放者が「シャバ」に出てくる光景は、一般人は見ることが出来ないようです。
左下にある「釈放者を出迎える方へ」の看板には、釈放者の家族および身元引受人以外は立ち入るな、とあります。
シャバ(娑婆)という言葉は、仏教では「煩悩や苦しみの多いこの世」との意味になるそうです。
塀の中の服役者が使うにしては、とても哲学的な表現に思えましたが、おそらく極刑を受けずに「この世」に戻ることができる、という安堵感を表す言葉なのではないでしょうか。
撮影位置の背後に、ゆうちょ銀行のATM施設(現金引き出し機)がポツンと立っていて、とてもリアルな存在感がありました。
ゆうちょに預金のある釈放者に限られますが、これぞ純然たる「利用者のための施設」です。
古くなりますが、映画『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健さんが、出所後に最初のビールをがぶ飲みするにも、現金が必要ですものね……
このATM施設の強盗を考える人はいないと思われるので(監獄直行を覚悟していれば別)、最も安全な施設(?)かも知れません。
国分寺跡(Map)
国分寺とは、741年に聖武天皇が、当時流行した天然痘から国民を守るため、律令体制下の各国(地方豪族たち)に建立を命じた寺院で(国分寺のいわば総本山を東大寺とし、大仏を建造)、国分寺と国分尼寺(こくぶんにじ)をペアで、国府付近(武蔵国の場合は府中)に作らせたそうです(国分尼寺という存在自体、知りませんでした)。
この地には当時、七重塔があったとされ、その礎石とされるものが残されています(右写真は金堂の礎石)。
実家に近い神奈川県の海老名市には、相模国の国分寺があったとされ、そこにも七重塔があったと聞きます。
五重塔は現在でも見られますが、七重塔は全国の国分寺だけに認められたもので、九重塔は天皇の権威を示すために作られたことがあるそうです(焼失)。
仏教では、奇数が陽(偶数を陰)とされるので、奇数階層の建造物になるようです。
──藤原鎌足を祭った談山神社(たんざんじんじゃ:奈良県)には十三重塔があります。
武蔵国分寺(Map)
武蔵国分寺(門柱に刻まれた文字には迫力がある)は、規模は小さくも現存しています。
上述の国分寺跡とされる場所にあった建造物は、鎌倉時代末期の1333年、幕府勢力と新田義貞率いる反幕府勢が衝突した、分倍河原(ぶばいがわら)の戦いにより、焼失したそうです。
その後、新田義貞によって再建されたものが、この武蔵国分寺(真言宗)とされています。
日本各地から集められた多様な植物群が境内に植えられ、「万葉植物園」として維持管理されているので、植物に興味のある方には楽しめる一画と思われます(わたしが見ても、特にコメントは浮かびません……)。
真姿(ますがた)の池(Map)
上述の武蔵国分寺の近くに「お鷹の道・真姿の池湧水群」があります。
ここは国分寺崖線(がいせん:武蔵野台地を多摩川が浸蝕した崖の連なり)の下部から、まとまった湧水のある地域で、以前紹介した野川公園を流れる野川の源流のひとつになり、東急田園都市線の二子玉川駅付近で多摩川に合流しています。
由来としては、玉造小町という美人がらい病(ハンセン病)を患い、国分寺の薬師様に願かけをしたところ神童が現れ「この池の水で顔を洗え」とのお告げに従ったところ、元の容貌に戻ったという伝説によるそうです。
それだけキレイでおいしい水なので、汲みに来る方もいるそうです。環境省選定の「名水百選」に選ばれているとのこと。
上写真も、浮かんでいる落ち葉と、右側に点々としている木もれ日の反射光以外は、池の底の光景ですから、透明度が理解いただけると思います。
お鷹の道(Map)
このネーミングには、色恋の絡んだエピソードがあるのかと思いきや、江戸時代に徳川家の鷹場(鷹狩りの地)だったことにちなむそうです。
メインの水源地は、上述の真姿の池付近になりますが、同じような地形(崖線)が続くので、あちこちから湧水が流れていると思われます。
近隣住民の方々の努力で、水路の確保と景観の保持が行き届いているので、とても落ち着いた散策路となっており、ホタルが生息しているそうです。
観察できる時期は限られているでしょうが、それは草花や野菜を育てることと似ているように思われます。
水は供給されるので、流れ周辺の手入れを怠らなければ、毎年見られるわけですから、湧水地付近に暮らす方々に科せられた義務であり、特権と言えるかも知れません。
水に恵まれており、平坦な土地であったことから、国府(府中)や国分寺が置かれ、武蔵国の中心とされた理由が、とてもよく理解できました。
殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園(Map)
JR国分寺駅の近くにありますが、谷戸(丘陵地の谷あいの低地)の名の通り公園内には、平面図からは見て取れない高低差が存在しています。
たかだか10数mの高低差にしても、初めての訪問なのでウロウロと何度も上り下りさせられると、この日の疲れが一気に足にきてしまいます。
ここは、大正初期に江口定條(さだえ:三菱→満州鉄道副総裁)の別荘として整備され、昭和に岩崎家(三菱財閥)の別邸とされたそうです(施設名の由来は旧地名によるそうです)。
右写真の花の脇に、カワラナデシコの立て札があり、子連れのお母さんも「ナデシコだよー」と、子どもに話していました。
花にはうといものの、最初に思い浮かんだ「キキョウじゃない?」の印象を帰ってから調べたら、やはりそのようです。
奧に見える建物は、紅葉亭という茶室で、岩崎家の所有時に作られたそうです。
現在は青葉ですが、手前にはカエデ等の紅葉する木々があるので、晩秋の季節には見事な光景が目にできそうです。
この地の斜面下にも湧水個所があり、庭園の池に流れ込んでいます。
同じ湧水とはいえ、池にしてコイなどを放しては水の清らかさは失われてしまいます。
庭園設計においての水盤というデザインだったり、海を想起させる存在がよろこばれたのでしょうか?
もしわたしが、キレイな湧水のある庭を持ったなら、池は作らず流れるままにして、ホタルが生息できる環境を保ちたい、と思ったりしました。
いまどきの七夕の短冊は、発色も鮮やかなビニール系の素材を使った、カラフルなものなんですね。
確かに、色紙の短冊に願いを書いていた時分、雨に濡れたりすると、色紙の染料まで流れ落ちてしまったのは、悲しいものがありました。
七夕の晩には、天の川は見えずとも夜空は見えていたので、子どもたちもお願いはできたのではないでしょうか……
【東京都】
府中刑務所(Map)
有名な施設の割には訪れる機会のない場所で、初めて歩いたのですが(よく来る人ってどんな人?)、ここが日本最大の刑務所なんだそうです。
収容者数が増加しているので、恒常的に定員を上回る3,000名以上の受刑者を抱えているそうです(税金からの支出が増えていることになります)。
ですがわたしは、塀の中よりも「三億円事件(1968年)」の事件現場としてのインパクトの方が、強く残る世代に含まれます。
訪問の動機も、当時を想起させる痕跡が何か残ってはいまいか、というものでしたが、あっさりと打ち消されました。
近ごろ作りかえられたこの外壁(塀)には、「景観賞」なるプレートが貼られてありますし、事件現場とされる「学園通り」沿いには住宅が建ち並び、自動車の交通量も多く、自転車やジョギングの人も頻繁に行き来しています。
いくら日本最大の刑務所とは言え「塀の外」は、庶民が暮らす空間ですから、往来を促進することで暗いイメージや記憶を払しょくし、明るい雰囲気作りから犯罪防止を目指そうとする主旨は、とてもよく理解できました。
──でも今回は、薄汚れたコンクリートの刑務所らしい(?)「塀」が見たかった、というのが本音です……
上写真は、服役者の入出所ゲートになります。
映画などで目にする、鉄の扉が開いて釈放者が「シャバ」に出てくる光景は、一般人は見ることが出来ないようです。
左下にある「釈放者を出迎える方へ」の看板には、釈放者の家族および身元引受人以外は立ち入るな、とあります。
シャバ(娑婆)という言葉は、仏教では「煩悩や苦しみの多いこの世」との意味になるそうです。
塀の中の服役者が使うにしては、とても哲学的な表現に思えましたが、おそらく極刑を受けずに「この世」に戻ることができる、という安堵感を表す言葉なのではないでしょうか。
撮影位置の背後に、ゆうちょ銀行のATM施設(現金引き出し機)がポツンと立っていて、とてもリアルな存在感がありました。
ゆうちょに預金のある釈放者に限られますが、これぞ純然たる「利用者のための施設」です。
古くなりますが、映画『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健さんが、出所後に最初のビールをがぶ飲みするにも、現金が必要ですものね……
このATM施設の強盗を考える人はいないと思われるので(監獄直行を覚悟していれば別)、最も安全な施設(?)かも知れません。
国分寺跡(Map)
国分寺とは、741年に聖武天皇が、当時流行した天然痘から国民を守るため、律令体制下の各国(地方豪族たち)に建立を命じた寺院で(国分寺のいわば総本山を東大寺とし、大仏を建造)、国分寺と国分尼寺(こくぶんにじ)をペアで、国府付近(武蔵国の場合は府中)に作らせたそうです(国分尼寺という存在自体、知りませんでした)。
この地には当時、七重塔があったとされ、その礎石とされるものが残されています(右写真は金堂の礎石)。
実家に近い神奈川県の海老名市には、相模国の国分寺があったとされ、そこにも七重塔があったと聞きます。
五重塔は現在でも見られますが、七重塔は全国の国分寺だけに認められたもので、九重塔は天皇の権威を示すために作られたことがあるそうです(焼失)。
仏教では、奇数が陽(偶数を陰)とされるので、奇数階層の建造物になるようです。
──藤原鎌足を祭った談山神社(たんざんじんじゃ:奈良県)には十三重塔があります。
武蔵国分寺(Map)
武蔵国分寺(門柱に刻まれた文字には迫力がある)は、規模は小さくも現存しています。
上述の国分寺跡とされる場所にあった建造物は、鎌倉時代末期の1333年、幕府勢力と新田義貞率いる反幕府勢が衝突した、分倍河原(ぶばいがわら)の戦いにより、焼失したそうです。
その後、新田義貞によって再建されたものが、この武蔵国分寺(真言宗)とされています。
日本各地から集められた多様な植物群が境内に植えられ、「万葉植物園」として維持管理されているので、植物に興味のある方には楽しめる一画と思われます(わたしが見ても、特にコメントは浮かびません……)。
真姿(ますがた)の池(Map)
上述の武蔵国分寺の近くに「お鷹の道・真姿の池湧水群」があります。
ここは国分寺崖線(がいせん:武蔵野台地を多摩川が浸蝕した崖の連なり)の下部から、まとまった湧水のある地域で、以前紹介した野川公園を流れる野川の源流のひとつになり、東急田園都市線の二子玉川駅付近で多摩川に合流しています。
由来としては、玉造小町という美人がらい病(ハンセン病)を患い、国分寺の薬師様に願かけをしたところ神童が現れ「この池の水で顔を洗え」とのお告げに従ったところ、元の容貌に戻ったという伝説によるそうです。
それだけキレイでおいしい水なので、汲みに来る方もいるそうです。環境省選定の「名水百選」に選ばれているとのこと。
上写真も、浮かんでいる落ち葉と、右側に点々としている木もれ日の反射光以外は、池の底の光景ですから、透明度が理解いただけると思います。
お鷹の道(Map)
このネーミングには、色恋の絡んだエピソードがあるのかと思いきや、江戸時代に徳川家の鷹場(鷹狩りの地)だったことにちなむそうです。
メインの水源地は、上述の真姿の池付近になりますが、同じような地形(崖線)が続くので、あちこちから湧水が流れていると思われます。
近隣住民の方々の努力で、水路の確保と景観の保持が行き届いているので、とても落ち着いた散策路となっており、ホタルが生息しているそうです。
観察できる時期は限られているでしょうが、それは草花や野菜を育てることと似ているように思われます。
水は供給されるので、流れ周辺の手入れを怠らなければ、毎年見られるわけですから、湧水地付近に暮らす方々に科せられた義務であり、特権と言えるかも知れません。
水に恵まれており、平坦な土地であったことから、国府(府中)や国分寺が置かれ、武蔵国の中心とされた理由が、とてもよく理解できました。
殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園(Map)
JR国分寺駅の近くにありますが、谷戸(丘陵地の谷あいの低地)の名の通り公園内には、平面図からは見て取れない高低差が存在しています。
たかだか10数mの高低差にしても、初めての訪問なのでウロウロと何度も上り下りさせられると、この日の疲れが一気に足にきてしまいます。
ここは、大正初期に江口定條(さだえ:三菱→満州鉄道副総裁)の別荘として整備され、昭和に岩崎家(三菱財閥)の別邸とされたそうです(施設名の由来は旧地名によるそうです)。
右写真の花の脇に、カワラナデシコの立て札があり、子連れのお母さんも「ナデシコだよー」と、子どもに話していました。
花にはうといものの、最初に思い浮かんだ「キキョウじゃない?」の印象を帰ってから調べたら、やはりそのようです。
奧に見える建物は、紅葉亭という茶室で、岩崎家の所有時に作られたそうです。
現在は青葉ですが、手前にはカエデ等の紅葉する木々があるので、晩秋の季節には見事な光景が目にできそうです。
この地の斜面下にも湧水個所があり、庭園の池に流れ込んでいます。
同じ湧水とはいえ、池にしてコイなどを放しては水の清らかさは失われてしまいます。
庭園設計においての水盤というデザインだったり、海を想起させる存在がよろこばれたのでしょうか?
もしわたしが、キレイな湧水のある庭を持ったなら、池は作らず流れるままにして、ホタルが生息できる環境を保ちたい、と思ったりしました。
いまどきの七夕の短冊は、発色も鮮やかなビニール系の素材を使った、カラフルなものなんですね。
確かに、色紙の短冊に願いを書いていた時分、雨に濡れたりすると、色紙の染料まで流れ落ちてしまったのは、悲しいものがありました。
七夕の晩には、天の川は見えずとも夜空は見えていたので、子どもたちもお願いはできたのではないでしょうか……
2009/07/06
冷し中華の季節──府中基地跡、府中の森公園
2009.6.27
【東京都】
晴れると30℃を超え、雨が降れば25℃以下という近ごろですから、体調管理にはお気をつけ下さい。でももうじき、逃げ場のない暑い空気に覆われます……
この日は梅雨の中休みの晴天で、関東地方はかなり暑い一日でした。
そんな時には、のどごしに涼しさが欲しくなりますが、目に入ってくる「冷し中華 始めました」のポスターには、オアシスを見つけたような救いを感じてしまいます。
期待している味は、醤油ベースのつゆ+お酢+マスタードで、残ったつゆを「酸っぱい+辛い」表情で飲みたいという、妙な食欲がわくのですから、食欲が減退するこれからの季節には、もってこいのメニューと思われます。
年をとるごとに、汗をかいたりすると「酸味」が欲しくなるようで、それは補給後に「ホッ」と、体が落ち着いたと思える瞬間に実感したりします……
府中基地跡(Map)
「府中」という地名は、「国府所在地」(奈良・平安時代に、律令国の国司が政務を行う施設が置かれた地)を指すものなので、日本各地に存在しています(甲府は甲斐府中の略等々)。
大化の改新(645年:飛鳥時代)により、武蔵国(无邪志と表記されているそう)の国府がこの地に置かれたので、関東の中心地として栄えたようです。
当時の関東には、武蔵国足立郡(東京都足立区と埼玉県東南部)、武蔵国埼玉郡笠原郷(埼玉県鴻巣市)、武蔵国入間郡(埼玉県入間市)付近に国造(くにのみやつこ)といわれる豪族の本拠がありましたが、争いが絶えなかったので、そんな地を避けてここに武蔵国の国府が置かれたそうです。
また、鎌倉時代には鎌倉街道(上道:かみつみち)が南北に、江戸時代には甲州街道が東西に整備されたそうですから、かなり古くからにぎわっていた土地になるようです。
この地訪問の動機とは、前回紹介した「廃虚めぐり」の関連サイトにて、現在も残されているとの情報を見つけたので「是非とも!」と足を運びました。
管理に必要な道路等の整備は行われていますが(敷地内を走る車がありました)、建造物に関しては手を加えてないようで、左の建物は使用されなくなった当時のままのようです。
この状況下で、鉄塔や、パラボラアンテナだけが草木に覆われていないのは不自然な訳ですから、メンテナンスされていることと思われます。
敷地北側では区画がとても入り組んでいて、民家の軒先をかすめるようにフェンスが張られています。
基地建設時に家屋があったなら、こんな立ち退きはさせないでしょうから、おそらく住宅の方がギリギリまで攻めていったように見えます。
住宅のすぐ隣に、廃虚となって木々に覆われた米軍の施設がある様子は、奇妙なコントラストを生み出していました。
府中の森公園(Map)
この公園の名称はローカルニュースなどで、水遊びをする子どもたちの映像と共に印象に残っていました。
また「府中の森芸術劇場」の名も耳にしたことがあるかと思われますが、他にも「府中市美術館」「生涯学習センター」等が、公園に併設されています(隣接して航空自衛隊の施設および官舎があります)。
この一帯は以前、府中基地に使用されていましたが、返還後の再利用計画により現在に至っています。
──わたしにはこれまで、府中基地があったという認識がありませんでした(知っていたのは調布と立川)。
府中基地は1939年に、陸軍燃料廠(しょう)として設置されました。
この「燃料廠」とは、石油資源を持たない日本が長引く戦争に備えるため、航空・自動車燃料等の自前調達を目指した施設なんだそうです。
ここでは、石炭からの人造石油精製(石炭に油が残っているとは知りませんでした)や、原油からの燃料抽出量向上等の研究が行われたそうですが、成果は上がらなかったようです。
何とも涙ぐましい努力というか、追いつめられた国家は何をしでかすか、理解や予測も不可能になってしまいます(北朝鮮を想起しました)。
しかしそんな事態は、燃料資源(石油類)を自給できない日本が、資源を求めて第二次世界大戦へと突入してしまうひとつの理由となります。
──敷地内にある自衛隊基地のホームページには「官民あげての技術開発は、戦後のわが国の重化学工業の発展に大きく貢献しました。」とあります。化学には明るくないので理解できていませんが、おそらく無駄ではなかったのでしょう……
戦後は米軍に接収され、在日米軍司令部と空軍司令部が設置され、1975年横田基地に移転するまで使用されていたそうです。
返還後、かなりすったもんだがあったようですが、跡地は大蔵省(現関東財務局)、地方自治体(東京都)、防衛庁(現防衛省)で分割して利用することになったそうです。
元からあった自衛隊の施設はそのまま存続し、自治体割り当て地域には学校やこの公園施設、霊園等が作られましたが、旧大蔵省分の土地は現在も手つかずのまま、塩漬けにされています。
そのシンボル的な存在が、アンテナ群です。
敷地内に残されている建物の多くは、植物に覆われて廃虚感を漂わせていますが、どうもこの施設はまだ稼働しているようです。
同時多発テロ(2001年)以降、ゲートを警備していたそうですから、米軍の活動を補佐しているのかも知れません。
──子どもたちの水遊びの写真につける文章ではないとは思いますが、「右写真の女の子可愛かった」などと書いては主旨が変質してしまいます……
浅間山(せんげんやま)(Map)
この写真からは、映画等でみられる、敵のレーダー施設の破壊に向かうような状況を思い浮かべてしまいます(前写真と同じものの別アングル)。
──しゃがんで撮りましたし、虫にも刺されました……
こんなところに「山」と呼ばれる場所があったとは知りませんでした。
どうもこの一帯だけ、大昔の多摩川の流れに浸食されずに残された場所なので「山」という名称になっているようです(周囲からは30m程度の高さ)。
山の頂には浅間神社(せんげんじんじゃ)が祭られていますから、富士山信仰との関連が想像されます。
浅間神社は火之神を祭った、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本宮とする神社で、日本全国に約1300社あるそうです。
ほこら付近からは望めませんが、展望所とされる場所では、富士山方面の視界は整備されて(切り開かれて)います。
残念ながら、この日は拝むことができませんでした。
古神道(こしんとう:神道の源流である日本古来の信仰)には山岳信仰の要素が含まれますし、仏教にも山に対する畏敬の念が示されています。
「山を拝む」という信仰心を理解できるわれわれだからこそ、他国からは不信心等と言われながらも、信仰の多様性(自由)に関して寛容でいられるようにも思われます。
【東京都】
晴れると30℃を超え、雨が降れば25℃以下という近ごろですから、体調管理にはお気をつけ下さい。でももうじき、逃げ場のない暑い空気に覆われます……
この日は梅雨の中休みの晴天で、関東地方はかなり暑い一日でした。
そんな時には、のどごしに涼しさが欲しくなりますが、目に入ってくる「冷し中華 始めました」のポスターには、オアシスを見つけたような救いを感じてしまいます。
期待している味は、醤油ベースのつゆ+お酢+マスタードで、残ったつゆを「酸っぱい+辛い」表情で飲みたいという、妙な食欲がわくのですから、食欲が減退するこれからの季節には、もってこいのメニューと思われます。
年をとるごとに、汗をかいたりすると「酸味」が欲しくなるようで、それは補給後に「ホッ」と、体が落ち着いたと思える瞬間に実感したりします……
府中基地跡(Map)
「府中」という地名は、「国府所在地」(奈良・平安時代に、律令国の国司が政務を行う施設が置かれた地)を指すものなので、日本各地に存在しています(甲府は甲斐府中の略等々)。
大化の改新(645年:飛鳥時代)により、武蔵国(无邪志と表記されているそう)の国府がこの地に置かれたので、関東の中心地として栄えたようです。
当時の関東には、武蔵国足立郡(東京都足立区と埼玉県東南部)、武蔵国埼玉郡笠原郷(埼玉県鴻巣市)、武蔵国入間郡(埼玉県入間市)付近に国造(くにのみやつこ)といわれる豪族の本拠がありましたが、争いが絶えなかったので、そんな地を避けてここに武蔵国の国府が置かれたそうです。
また、鎌倉時代には鎌倉街道(上道:かみつみち)が南北に、江戸時代には甲州街道が東西に整備されたそうですから、かなり古くからにぎわっていた土地になるようです。
この地訪問の動機とは、前回紹介した「廃虚めぐり」の関連サイトにて、現在も残されているとの情報を見つけたので「是非とも!」と足を運びました。
管理に必要な道路等の整備は行われていますが(敷地内を走る車がありました)、建造物に関しては手を加えてないようで、左の建物は使用されなくなった当時のままのようです。
この状況下で、鉄塔や、パラボラアンテナだけが草木に覆われていないのは不自然な訳ですから、メンテナンスされていることと思われます。
敷地北側では区画がとても入り組んでいて、民家の軒先をかすめるようにフェンスが張られています。
基地建設時に家屋があったなら、こんな立ち退きはさせないでしょうから、おそらく住宅の方がギリギリまで攻めていったように見えます。
住宅のすぐ隣に、廃虚となって木々に覆われた米軍の施設がある様子は、奇妙なコントラストを生み出していました。
府中の森公園(Map)
この公園の名称はローカルニュースなどで、水遊びをする子どもたちの映像と共に印象に残っていました。
また「府中の森芸術劇場」の名も耳にしたことがあるかと思われますが、他にも「府中市美術館」「生涯学習センター」等が、公園に併設されています(隣接して航空自衛隊の施設および官舎があります)。
この一帯は以前、府中基地に使用されていましたが、返還後の再利用計画により現在に至っています。
──わたしにはこれまで、府中基地があったという認識がありませんでした(知っていたのは調布と立川)。
府中基地は1939年に、陸軍燃料廠(しょう)として設置されました。
この「燃料廠」とは、石油資源を持たない日本が長引く戦争に備えるため、航空・自動車燃料等の自前調達を目指した施設なんだそうです。
ここでは、石炭からの人造石油精製(石炭に油が残っているとは知りませんでした)や、原油からの燃料抽出量向上等の研究が行われたそうですが、成果は上がらなかったようです。
何とも涙ぐましい努力というか、追いつめられた国家は何をしでかすか、理解や予測も不可能になってしまいます(北朝鮮を想起しました)。
しかしそんな事態は、燃料資源(石油類)を自給できない日本が、資源を求めて第二次世界大戦へと突入してしまうひとつの理由となります。
──敷地内にある自衛隊基地のホームページには「官民あげての技術開発は、戦後のわが国の重化学工業の発展に大きく貢献しました。」とあります。化学には明るくないので理解できていませんが、おそらく無駄ではなかったのでしょう……
戦後は米軍に接収され、在日米軍司令部と空軍司令部が設置され、1975年横田基地に移転するまで使用されていたそうです。
返還後、かなりすったもんだがあったようですが、跡地は大蔵省(現関東財務局)、地方自治体(東京都)、防衛庁(現防衛省)で分割して利用することになったそうです。
元からあった自衛隊の施設はそのまま存続し、自治体割り当て地域には学校やこの公園施設、霊園等が作られましたが、旧大蔵省分の土地は現在も手つかずのまま、塩漬けにされています。
そのシンボル的な存在が、アンテナ群です。
敷地内に残されている建物の多くは、植物に覆われて廃虚感を漂わせていますが、どうもこの施設はまだ稼働しているようです。
同時多発テロ(2001年)以降、ゲートを警備していたそうですから、米軍の活動を補佐しているのかも知れません。
──子どもたちの水遊びの写真につける文章ではないとは思いますが、「右写真の女の子可愛かった」などと書いては主旨が変質してしまいます……
浅間山(せんげんやま)(Map)
この写真からは、映画等でみられる、敵のレーダー施設の破壊に向かうような状況を思い浮かべてしまいます(前写真と同じものの別アングル)。
──しゃがんで撮りましたし、虫にも刺されました……
こんなところに「山」と呼ばれる場所があったとは知りませんでした。
どうもこの一帯だけ、大昔の多摩川の流れに浸食されずに残された場所なので「山」という名称になっているようです(周囲からは30m程度の高さ)。
山の頂には浅間神社(せんげんじんじゃ)が祭られていますから、富士山信仰との関連が想像されます。
浅間神社は火之神を祭った、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本宮とする神社で、日本全国に約1300社あるそうです。
ほこら付近からは望めませんが、展望所とされる場所では、富士山方面の視界は整備されて(切り開かれて)います。
残念ながら、この日は拝むことができませんでした。
古神道(こしんとう:神道の源流である日本古来の信仰)には山岳信仰の要素が含まれますし、仏教にも山に対する畏敬の念が示されています。
「山を拝む」という信仰心を理解できるわれわれだからこそ、他国からは不信心等と言われながらも、信仰の多様性(自由)に関して寛容でいられるようにも思われます。
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