2009/12/07

江戸庶民の行楽地──滝野川

2009.11.28
【東京都】

 現在滝野川という名称は、地名(北区滝野川)に対して使われています(概略として、JR王子駅・板橋駅・地下鉄西巣鴨駅に囲まれる地域)。
 室町時代以前には、現在の石神井川は滝野川と呼ばれていたそうです。
 当時の石神井付近は、人影もまばらだったと思われるので、「王子七滝」(現在のJR王子駅周辺)と呼ばれ滝の名所とされた、この付近での名称が定着したと想像されます。
 この付近は、明治時代に滝野川村、その後滝野川町となり、昭和には滝野川区とされたこともあるそうです。

 地下鉄南北線の、駒込と王子の間にある西ヶ原駅はピッタリと、独立行政法人国立印刷局滝野川工場の前に作られてあります(建設に融通の利く場所だったのかも知れませんが)。
 パフォーマンス的と思えた事業仕分けでの、「お札などは、都会で印刷する必要があるのか?」とのやり取りを思い出したりしました。
 確かに、新聞や週刊誌ではないのだから(搬入が数時間遅れただけで始末書などにはならないでしょうし)、そういう機能はできるだけ地方に移していくべきとも思われました。


 旧古河庭園(Map)

 この庭園は駒込に近く、地名は西ヶ原になります。
 1917年(大正6年)に造られた、古河虎之助男爵(古河財閥の3代目当主)の邸宅を、保存した施設になります。
 男爵とは、明治時代に制定された華族制度の最下位で、財閥家にも与えられたそうです。
 ちなみに後述の渋沢栄一は、公共への奉仕が評価され、その上の子爵を与えられます。
 それは、天皇(国家)から「あんたはエライ!」(古いギャグの引用で通じなかったらゴメンナサイ)と言われたことになるのでしょうから、現代では文化勲章か? とも思いましたが、比較対象とできる社会構造ではありませんでしたよね……

 この庭園の特徴としては、ジョサイア・コンドル(久々の登場ですが、東大の校舎旧岩崎邸、鹿鳴館等、西洋建築技術を日本に伝えた人物)設計による洋館(右上下写真のバック)と、前庭に広がるバラ園になると思います。
 花については全般的にうといのですが、バラという植物は園芸品種として、品種改良等がしやすい植物のようで、品種名表記だけではその意図が理解できない名称を見かけたりします(南半球には自生しないそうです)。
 ここには「プリンセスマサコ」という品種のバラがあるそうですが、最近は人気無いんだろうなぁ〜(失礼)。

 ここは何度も来ているのに、洋館内に入った覚えが無いと思ったら、往復葉書で事前の予約が必要なんだそうです。
 まあ、桂離宮(京都)ほどの倍率ではないにしても、日時を決められると行きづらく感じてしまいます。


 この庭園のもうひとつの特徴は、斜面を下った木立の中に日本庭園があることです。
 この庭園は、近代日本庭園の先駆者とされる小川治兵衛(おがわじへえ:幕末生まれで昭和まで活躍)によるものだそうです。
 平安神宮、円山公園(共に京都)などを手がけたそうで、この名前を記憶しておきたいと思い、書きとめました。
 これも治兵衛さんが持ち込んだのだろうか、大きな灯籠が点在しており、それぞれの存在感がとても印象に残ります。
 上写真は、どこかで目にしたような絵ですが、やはりその場に立つと撮ってしまうし、それが絵になるというのは、まさに庭師の術中ということなのでしょう……


 飛鳥山公園(Map)

 右写真からは趣旨が伝わらないとの反省から、説明させてもらいます。
 状況としては、このちょっと前に、もう少しお姉ちゃんの2人組がこの噴水のてっぺんで、水遊びをしていました。
 オイオイと思いながらも、シャッターを切ったわたしと同じように、興味を感じてしまった彼は、噴水に向かって行きます。
 お母さんは止めますが、言うことを聞く気配がないので、仕方なく靴を脱がせ、ズボンをまくり上げて噴水に入らせた、という状況になります。
 でも、お母さんの選択としては、どうなんでしょうねぇ? その後、風邪をひいてなければいいのですが……
 自分もガキの時分、そんなことをやっていたのだろうか?

 こちらには、自分の彼女か知り合いの女性をモデルにして、撮影をしているお兄さんがいました。
 雲が出てきてしまったのですが、レフ板(光を反射させて対象物を照らす板)を取りだして準備をしています。
 助手もいないのにどうするかと思ったら、あぐらをかいた自分の足で方向を調整していました。
 「必要は発明の母」と言うのか、表情の硬かった女性も、そんな滑稽な姿勢に笑いだし、緊張もほぐれていたようです。

 下写真は、以前訪れた旧渋沢栄一邸になります。
 日本資本主義の父と呼ばれる方ですが、当初は尊皇攘夷(反徳川幕府)側の考えを持っていながら、徳川慶喜の家臣となってさまざまな経験を重ねたようです。
 新しい会社が次々と作られた時代ですから、500以上の企業設立に関わったそうですが、財閥(上述の古河を含め)を作らず「私利を追わず公益を図る」との姿勢を貫いたそうです。
 初代紙幣頭(後の国立印刷局長)となった彼の志は、独立行政法人国立印刷局の組織を守ることに受け継がれているように見えてしまい、反公益的と思えてしまうのは、とてもおかしなことです。
 印刷所に隣接して大きな付属病院があります。病院が悪いとは言いませんが、経営・運営の実態(税金の使われ方)について明らかにされているのだろうか? そんな「いいがかり」的な疑いを持つ視線が、今どきの世間の見方と思います。
 渋沢栄一の生きた「希望の持てる時代」とは社会情勢は異なりますが、現代にも「私利を追わず公益を図る」人物が出現して欲しい気もします……
 ──期待は大きかったのに、何億ものお小遣いをもらっても「知らなかった」というお坊ちゃま感覚では、いくら耳が大きくてもこちらの声が届くとは思えません……(でも、頑張ってもらわないと)


 これまでは、駒込地域、王子地域という線引きで散策することが多かったので、駒込から王子までを、歩いてつなぐことがひとつの目的でもありました。


 金剛寺(紅葉寺)(Map)


 東京周辺の紅葉情報を調べていて、この寺の存在を知りました。
 都内にも紅葉寺と呼ばれるお寺があるのかと、期待を膨らませて門前に立ちましたが、瞬時に「過去の名声」であったことに気付かされます。
 金剛寺の名称通り、弘法大師(空海)の教えである真言宗のお寺で、源頼朝が鎌倉幕府を開く前に、この地に陣取ったとされています。
 江戸時代には、第八代将軍吉宗の命によってカエデが植えられ、そこから紅葉寺と呼ばれるようになりました。
 前述の飛鳥山公園、後述の弁天様と合わせて、江戸の観光名所とされたそうです。
 吉宗は、飛鳥山には桜を、この地にはカエデを植林したそうで、そこだけ見ると、何とも粋な殿様と感心させられますが、これは「享保の改革(きょうほうのかいかく):江戸時代の三大改革の一つ」の一環なんだそうです。
 ──分かりやすいところでは、庶民の声に耳を傾けるための目安箱の設置などがあります。


 岩屋弁天跡(Map)

 むかし、石神井川がわん曲して流れていたころ(江戸時代の以前のことと思います)、流れに削られたガケに「弁天の滝」が見られたようです。
 石神井川は、十数メートルの渓谷を刻み滝も数多く見られたそうなので、住宅が密集し河川改修される以前の姿は、現在の等々力渓谷的なイメージでしょうか。
 どうも明確な資料は見当たりませんが、江戸時代の古地図には、金剛寺の「松橋弁天」と、近くに「岩屋弁天」が表記されています。
 滝沢馬琴『南総里見八犬伝』(江戸時代)には、「滝野川なる岩屋殿」として登場しているそうです。
 八犬伝の記述は、岩屋弁天のようですが、古地図サイトに掲載されている広重の浮世絵を見ると、松橋弁天のようにも見えます。
 いずれにせよ、江戸時代この付近が大変にぎわっていたことは、確かなようです。


 上写真は、王子駅近くの音無橋になります。
 これまで、橋上の道と交差する本郷通り(都電の通る道)しか歩いたことがなかったので、深く刻まれた川面に続く橋下の光景に出会えて、とても新鮮な印象を受けました。
 隣接する飛鳥山公園との高低差は結構ありますし、この地形を生かして、桜やカエデが配された江戸の時代に、行楽地として持てはやされたことは、とても納得できる気がしました。

 飛鳥山というのは、滝野川のある「山の手」と、王子駅のある「川の手」の境にありながら、丘のような高台になっていますから、王子駅側から登るにはちょっと息が切れます。
 そこでこの7月に登場したのが「飛鳥山公園モノレール」です(無料)。
 16人乗りと、サイズは小さめですが、かなりの急勾配を登っていきます。
 瀬戸内や四国のミカン畑でよく見られる、果実運搬用のモノレール(と呼ばれること初めて知りました)の上に、ゴンドラが乗っているようなイメージ。
 あれなら、エレベーターの方が安く作れたのでは? とも思いましたが、景色が良かったりするのかも知れません。
 今度は乗るつもりで来たいと思っています。

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