2014/12/29

縁切り願望は世の常?──旧板橋宿

2014.12.13【東京都】──「石神井川を歩く_おまけ」

 前回旧板橋に接した際、板橋区に暮らした時分(蓮根、高島平)目にした旧中山道の雰囲気が思い浮かび、ちゃんと歩いてみようと足を運びました。




板橋駅周辺


 JR埼京線板橋駅東口広場には「誠」の纏が飾られます。
 新撰組隊長 近藤勇は板橋刑場で処刑されたため、刑場近くに元新撰組 永倉新八が近藤の墓を建立しますが、亡きがらは埋葬されていません。
 ですが今どきは、言い伝えなら何でも「地域活性化のネタ」に祭り上げられます。

 板橋区在住時、都営三田線からの乗り換えで西口は利用するも東口は未見なため、前を歩く人について入った狭い路地には、アングラワールドが続いています。
 夜の世界はここに隠れていたのかと、やっとこの町に触れられたと実感しました。


 上は西口ロータリーにある欅(けやき)で、「板橋宿」開宿400年となる2002年の地域振興策で、商店街の提案により「むすびのけやき」と命名されます。
 それは、下述「縁切り榎」からこの地までの旧中山道を、おみくじを引きながら散策する企画らしいが、果たして盛り上がったのだろうか?
 わたしは「むすび」→「縁切り」と歩いたので、サッパリしたものです……
 以前商店街に知人の実家が営む化粧品店がありましたが、閉店後は町への関心も薄れたように、商店街には身近さが重要になります。


加賀公園周辺


 現在も石神井川沿いに「加賀」の地名や「金沢橋」の名が残るのは、江戸時代に加賀藩前田家の下屋敷があったためで、昭和初期まで周辺は通称「金沢」と呼ばれたらしい。
 主に別荘とされた下屋敷は金沢兼六園の約7倍の広さとされ、加賀藩の豊かさを改めて思い知ります(上屋敷は現在の東京大学の敷地にあり、赤門は加賀藩屋敷の門でした)。
 上は、前田家の祖である利家を祭る金沢 尾山神社にあるステンドグラスのレプリカ。

 公園隣接地にある「野口研究所」は、野口英世ではなく、現チッソ、旭化成、積水化学工業 等々の創業者、野口 遵(したがう:金沢出身)が設立した施設。
 当時一帯は火薬工場が広がる場所柄から、軍事目的の研究所だったようで、敷地内に物資運搬用のトロッコ軌道跡が直線的に続く光景が見られます。
 並行する右の配水管(まさに昔の土管! ガキ時分近所にあった土管の上を歩いた記憶がある)は、国の所有物(遺構?)のため撤去できないらしい。
 研究はこれからも平和目的に活かされますことを。


板橋宿


 江戸四宿(千住宿、内藤新宿、品川宿)のひとつで「これより江戸」とされた宿場。
 京都側から上宿(現 本町)、仲宿(現 仲宿)、平尾宿(現 板橋)があり、それぞれ名主(役人)が置かれた宿場の総称とされることから、規模の大きさがうかがえます。
 現在、都営三田線 板橋本町〜新板橋間に続く商店街となっても旧道の面影は変わらぬようで、ゆるやかな曲線やなだらかな起伏が、現在に旧街道の記憶を伝えてくれます。
 でも、感じた雰囲気を撮れなかった……

 明治期以降は宿を遊郭とするような商売っけが根付いた地ゆえ、各商店街の競い合う心意気が長大な商店街を活気づけているようです(上は以前米屋だった建物)。


 上は、株価チャートというよりは、乱雑な本棚のようですが、これは「縁切り榎」への願いが込められた絵馬。
 普通は願いを書いた面を表に結びますが、ここでは過去を見られたくないためか?
 ご丁寧に内容を解説するページのように、近所の人がしっかり目を通してから「表にしない方がいいわよ」と、世話しているようにも……(この手の話し好きは多そうです)

 幕末期に天皇家(京)から徳川家(江戸)に嫁いだ和宮(リンク先は古くさい辞典)は、東海道での、渡しの海難、川止め、尊王攘夷派の妨害工作等を避けるため中山道を選択し、この地では、縁切り榎を回避するため迂回路を通り江戸に入りました。
 上は象徴的な話しですが、昔から縁切りを望む女性が多いため、祈願する施設は各地にあったようです。
 女性からの縁切りが認められない不幸な時代の駆込み寺は分かるも、現在の縁切り願望の多さには、悪いのは男で、社会のせいとしても、女は悪くないのか? とも……


後日の加筆──紅白歌合戦の薬師丸ひろ子ちゃんの思い

 今回好感度を上げたのは、長渕剛、サザンオールスターズ、福山雅治 等でしょうか?
 初出場扱いの薬師丸ひろ子の緊張した歌声『Woman "Wの悲劇"より』には、高倉健さん(映画『野生の証明:1978年』で共演)への思いが込められるように感じました。
 毎回健さんの撮影現場に、陣中見舞いの差し入れで足を運んだ姿が重なり、歌は不本意でも、姿、表情は女優のものですから、しっかと届いたのではないか。
 最近知ったのですが、任侠映画で売れっ子時代の健さんが、現実逃避で3ヶ月間逃亡した際の道連れが、映画『Wの悲劇』監督の澤井信一郎氏(最後の職人監督?)、小林稔侍氏だったそう。そのつながりから「ひろ子ちゃんが紅白に出たら…」なんて約束していたのでは? 彼女にとっては、親のように大切な存在だったのでは、と思いつつ……

0 件のコメント: