2014/12/08

目は力なり──石神井公園〜豊島園

2014.11.22【東京都】──「石神井川を歩く_5」




都営南田中団地

 川沿いには上流域の田無付近から断続的に公営(主に都営)住宅が立ち並びます。
 河川敷地だった川沿いの傾斜地や低地は、人口が急増した高度成長期に整備され、次々宅地化されました。
 現在暮らすアパートが「除却:解体」されることとなり、都営住宅の応募資格を調べると、低所得者と高齢者世帯がメインのため、転居先の選択肢にできませんでした。
 住み続ければみんな高齢者となりますが、階段しかない古い建物の改善は難しそうです……


長命寺(ちょうめいじ)

 山手線から西へ向かう鉄道路線で最も縁遠いのが西武池袋線で、「石神井公園駅は新しい!」「複々線化したばかり?」を調べると、渋滞解消の高架化、地下鉄乗り入れ(有楽町線、副都心線)の先行部分は開業済み(石神井公園駅2013年完成)も、大泉学園駅間は工事中とのこと。
 付近では、高架化の条件に新駅設置を求め「練馬高野台駅(たかのだい):1994年」が誕生します。地名由来は、長命寺の山号「東高野山(通称)」。

 桜台駅~石神井公園駅間 高架複々線化の決定は1971年ですから、40年にわたり悪名高き「西武線の踏切」にイライラさせられたことになります……




 この寺も真言宗ですが江戸時代初期の創建で、これまで訪れた豊島氏が広めた寺とは別の流れらしい。
 三代将軍 徳川家光の保護を受け、高野山を模した石仏・石塔の様から「東高野山(通称)」とされます。
 「東の高野山」の表現は、家光の母「江:秀吉の養女という立場」が二代将軍 秀忠に嫁ぐ際「お化粧領(持参金)」とされた、川崎市北部の王禅寺でも耳にしました。
 そんな経緯から「東高野山」の名称には、秀吉への対抗意識があったのでは? とも。

 寺院山門の両脇に立つ神々の像は、災いの侵入を防ぐ役目を担います。右は南大門の「多聞天:四天王の一尊。独尊の場合は毘沙門天」で、力強い線による造形は、その眼力で参拝者も立ち止まらせるような威厳があります。
 人は対面した相手の目を見る習性があるため、木造でも人の容姿であれば目を見てしまいます。
 と言うことは、このにらみを利かせた目は、災いを持ち込もうとする人に向けられることになるのでしょう。

 ここも立派ですが「東高野山」としては、王禅寺の枯れながらも人々が心寄せる姿の方が好みです……


谷原ガスタンク、練馬青果市場


 ガスタンクは必要と思うも目にしなくなったのは?
 都市ガスが普及した首都圏では、湾岸地区の天然ガス貯蔵基地から各家庭まで「ガスパイプライン」がつながるため、中間貯蔵施設の数が減っているとのこと。
 懐かしさを覚えてしまうランドマークです。

 土曜夕方の練馬青果市場(右)は閑散としてますが、場内には売り物と思しき段ボールが積まれたままです。
 盗難の心配はなくとも、これって週明けのせりにかけられる商品なの?
 品目まで判別できないが、果実やトマトなどは、流通の間に熟すことを考慮して早めに収穫されると聞くが、市場で寝かされているのだろうか……


向山庭園(こうやまていえん)


 練馬区立向山庭園は、としまえんに隣接地した施設。
 としまえんの地は、豊島氏の練馬城跡(鎌倉時代)とされますが、 ここは昭和初期に濠の跡とされる窪地に建てられた大臣邸宅の跡地。
 上は、流れの無い水路に沈む葉と水面に浮かぶ落ち葉の絵で、立体感があると思っているのですが、いかがでしょう?

 毎年のことですが、突然の寒さと北風に震える季節となりました。ご用心下さい……


追記──「はやぶさ2」打ち上げを見上げる人々

 打ち上げを見守る人々は全員空を見上げており、「上を向く姿」を「希望を抱く姿」ととらえれば、将来への期待が高まってきます。
 帰還予定の6年後まで関心を持続させられるプロジェクトの素晴らしさには、小学6年時の打ち上げとすれば、帰還を迎える高校3年時には理系を志望していたり、受験期には「はやぶさ3」を目指す意欲が励みとなる可能性も含まれ、その影響力は計り知れません……
 日本にとって大きなエポックである、東京五輪開催、「はやぶさ2」帰還予定とされる2020年までの「希望を抱ける6年間」が、日本再生の正念場となるのではないだろうか?(札幌冬季五輪は立候補表明の段階)


追悼──高倉健さん_3

 録画したものを週末に……

 『駅─STATION』 1981年 
 監督:降旗康男 脚本:倉本聰 撮影:木村大作(『劒岳 点の記』の監督)
 出演:倍賞千恵子、いしだあゆみ、田中邦衛、烏丸せつこ、古手川祐子、北林谷栄、根津甚八、大滝秀治、佐藤慶、村瀬幸子、室田日出男、藤木悠、名古屋章、平田昭彦、池部良(懐かしい名前を並べたくなりました……)

 公開当時の、倉本聰が健さんのために書いた「厳しい物語」の印象がよみがえります。
 何と映画らしいことか!
 絵の作り方が贅沢(イメージ通りの絵を撮っていそう)ですし、多彩な登場人物(皆さんお若いが、中でも軽い小林稔侍の姿が印象に残る)は、皆さん「健さんの引き立て役」ですから、主役は気合いが入ります。
 ここで、映画評論家佐藤忠男さんの追悼の言葉「彼は日本を背負っていたのではないか?」を考えてみると、まさにその構図が展開されている印象で、目からウロコです……
 われわれは(作り手側も)健さんというスクリーンの偶像に、個人では対抗できない社会へのわだかまりや、理不尽な世間への不満を背負ってもらい、唇を噛みしめ耐える姿に「これぞ、日本男児!」と拍手を送り、明日への活力を与えてもらいました。
 映画の作り手側も観客も、健さんに甘えていたように思えるが、それを理解した上で受け入れ演じきってくれた健さんは、やはり「ヒーロー」と言えるのではないだろうか……

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