2015/02/16

水の道、人の道──下高井戸〜代田橋

2015.1.31【東京都】──「神田川を歩く_6」




下高井戸─甲州街道北側の寺町

 学生時代に迷惑をおかけした下高井戸での生活圏は世田谷区内に限られ、甲州街道(杉並区との区界)が北限でした。
 街道を渡った先に並行する玉川上水跡には、公園・遊歩道が整備されています。
 その地に立つと北側は神田川へ、南側もなだらかに下る尾根筋であることに気付きます。
 遠くを目指す使命を受けた、水の道(旧玉川上水)や人の道(甲州街道)を尾根筋に設置したのは、「位置(高さ)エネルギー」を有効利用するためで、自然と付き合いながら町・国づくりを進めた様子が感じ取れます。


 甲州街道北側にある寺町を総じて「永福の寺町」と呼ぶのは、室町時代創建の永福寺によるようです。
 付近の寺院は明治~昭和期に、東京市内の区画整理や関東大震災の被災後に移転したため、街道筋に発展した寺町という歴史を持ちません(永福寺は別の機会に)。
 
 上の栖岸(せいがん)院の出自は三河国(現安城市)のため、江戸幕府から格別の扱いを受けたらしい。
 右は永昌寺の閉ざされた門からのぞいた絵。


明治大学和泉キャンパス~明大前駅


 明治大学和泉キャンパス(上)付近には、以前陸軍の火薬庫(江戸時代の弾薬貯蔵庫)があり、隣接の築地本願寺和田堀廟所と同様、関東大震災後に建設されます。
 墓地に眠る、佐藤栄作、樋口一葉、古賀政男等々の著名人が、火薬庫跡の土地の霊をなだめてくれそうですが、当時、明大前の駅名は「火薬庫前」だったとのこと……

 右は以前、明治大学門前を流れる玉川上水に架けられた橋の欄干ですが、火薬庫への橋だったのか?

 明大前駅周辺は、明大側の一画だけ整備されますが、京王線沿線らしく町並みに息づく「庶民力」は健在のため、再開発には難儀しそうです。
 大変身の際には、下北沢的な覚悟が必要となりそうですが(その様子は未見)、下北沢と並ぶ急行停車・乗り換え駅周辺は結構地味だったりします。
 右は京王線ホーム下の井の頭(いのかしら)線跨線橋で、明大前の町にはこんな下町的な印象があります。


和泉給水所タンク


 東京の上水道は明治期まで、玉川上水等の河川水を分配するだけの不衛生なものでしたが、現都庁周辺に建設された淀橋浄水場(1898年:明治31年)稼働に伴い、上の和泉給水所タンク付近には玉川上水から浄水場へ送水する施設がありました。
 その後の人口急増から水道需要が高まり、境浄水場(武蔵野市)が建設され、和田堀給水所(下)への水道管が敷設され(上写真手前を通る井の頭通りの地下)、付近で新旧水路(東西の玉川上水と南北の水道管)が交差しました。
 この地が「水の道が交差する要衝」とされたのは、都心部を見下ろす配水に適した高台のためではないか?(父方の伯母から「見晴らしの良さ」を聞いた覚えがある)


和田堀給水所

 関東大震災後(1924年:大正13年)の建設で、レトロな建築物でしたが強度不足等の理由から立て替えが始まり、「山のようだった」貯水槽は取り壊されました(東村山浄水場、境浄水場および三郷浄水場からの送水を受け、世田谷区、渋谷区、目黒区、港区に配水する施設)。
 ここは父の実家に近いため、ガキ時分に花見の季節だったか中に入ったことがあり、「遊べる!」と感じた事を覚えています。
 当たり前の景色だったので、記録しようと考えなかったことを悔やむも、ふるさとの記憶はおぼろげに残っていればいいのかも知れません……(工事用フェンスで思うように撮れなかった)


追記──JR東日本 ウルトラマン スタンプラリー

 現在、首都圏のJR各駅で行なわれ、田町駅にはカネゴンのパネルがあるので押してみたら、登場話をイメージした絵柄にガッカリ(これは『ウルトラQ』の話で、列車は小田急のロマンスカーらしい)。
 浜松町駅ホームの小便小僧もウルトラマンの衣装で盛り上げるも、春休みのイベントにした方がいいのでは?

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