2017/11/13

川の文化を伝える──新川

2017.11.3【東京都】──江戸川区探訪_2

 新川は、江戸城に入った徳川家康が、城下から現在の千葉県 行徳に至る塩運搬船の航路開削を命じ、道三堀小名木川と同時に開削された運河です。



 右は、以前小名木川散策時に訪れた閘門(こうもん:水位の異なる水路間にある、船を通行させる施設)で、その存在は川の対岸からもすぐ分かります。
 手前の荒川放水路開削と同時に(1930年:昭和5年)、西側に小名木川閘門、小松川閘門、東側に船堀閘門が建設され、海運が主力だった当時は1日約1200艘もの船が通過したそう(放水路開削以前の水路はつながっていた)。
 荒川放水路+中川の幅は広いため、地続きだった絵も想像できませんし、文化交流も影響を受けたのでは? と思う程の距離感です(500m以上ありそう)。



 江戸時代に古川(船堀川)の東側を改修した運河で、改修前の蛇行部分で家康の船が座礁したとの説も。
 当初は、行徳塩田の塩を江戸に運びましたが、貨客船が就航すると農村の野菜や成田山の参詣客を運ぶように。
 利根川を経由する航路の整備後は(江戸時代まで利根川は東京湾に流れ込んでいた)、東北地方の年貢米などを運ぶ水運の大動脈となり、利根運河完成後(明治期)には蒸気船が運航します(昔から房総半島をショートカットしたかったらしい)。
 右は新川西水門広場にある火の見やぐらのモニュメント。旧水門は地盤沈下対策から新川排水機場(1968年)とされ、新川は船が航行できない池のような存在に。


 以前の川岸は、コンクリート護岸が続く殺風景な景色でしたが、下水道整備、護岸の耐震補強工事 等を受け、江戸川区と区民の協働による新川千本桜事業が始動します。
 江戸時代風の石積み護岸を築き、木造橋を架け(木の装飾だけと思う)両岸に桜を植え、水運が盛んだった時代をイメージしたテーマパークを目指します。
 右の橋を自転車が通過する際の、「パタパタ」と床板が波打つ音にはノスタルジックな響きがあり、住民の方も親しみを感じるのではないか。
 ですが、黒い橋だから「忍者橋」の名前でいいの?

 2枚上写真右側は、新川の地下に日本で初めて作られた河川地下駐車場の入口(駐車券を持ってないと入れないため未見)。
 観光客誘致を目指して受け皿を準備する取り組みは立派と思う反面、かなりお金をつぎ込んだ印象も。大きなお金というのは目につきますから、槍玉に挙げられ予算はかなり縮小されたようです。
 ですが、整備前とは比べ物にならないほど、明るさのある水辺に生まれ変わり散策する人も多く見かけます(2015年整備完了)。
 右は多目的ホールの新川さくら館

 流れのない川(池)には水辺に降りられる施設が設けられ、カヌー等の小型船を降ろすようです。水上からの光景は水辺を身近に感じられますし、清掃活動もカヌーで行われます。
 下の桜橋は、川の上で盆踊りができる広さの人道橋で、地下駐車場を含め三層利用は見事な土地活用法と。
 元々人が集まる川辺に、人が輪になれる広場を整備した意図は、周辺住民も納得できたのではないか。
 新川周辺の環境整備は、第1回美し国づくり景観大賞大賞を受賞したそう。


 右は、東側の旧江戸川に面した新川東水門ですが、カメラ位置の後方は埋め立てられており、水門は小さな船だまりのためとしては過剰な施設に見えます。
 現在新川の水は付近から取水〜新川西水門(排水機場)から荒川(中川)へ排水されますが、その人工的な流れは、地盤沈下が少なく地盤の高い付近と、ゼロメートル地帯との高度差を利用しています。
 必要な対策とはいえ、税金が排水に使われる様子から、砂上や水上でなく「水面下の楼閣」のイメージを思い浮かべます。

 23区内でも広い空が残されることは自慢できそうですが(駅周辺は集合住宅が林立する)、それは、海・川に面した湿地帯・農地の名残りのためで、その受け止め方によって居住地としての評価が分かれそうです。
 物価の安さ相応の生活スタイルを受け入れられれば、ガキがチョロチョロと目障り=生活しやすい地域、に納得できるのではないかと。

 これまでイベント情報を目にしても、江戸川区の表記があるものはスルーしていましたが、これからは気に留めるようにしないと……


追記──「一番になりたい」と言える素質

 プロ野球日本ハム 大谷翔平選手の大リーグ移籍表明会見の言葉に、他の人なら「小学生じゃないんだから」と突っ込むところが、「応援するぞ!」とエールを送りたくなるのは、まだ伸びしろがある素質への期待感によるものと。
 われわれの「夢は大きく」とはサイズ感が違うため、彼にしか語れない「デッカイ夢」を持てることはうらやましいし、改めて夢を抱くことのすばらしさを教えられました。

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