2019/02/25

記憶は薄れても──旧洲崎

2019.2.10【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_14

 事前に情報を知らなければ普通の住宅街のようで、以前の痕跡は見当たりません。あえて言えば、碁盤目状の整然とした町並みから、何かの目的で整備されたのでは? と推測する程度か……


旧深川洲崎弁天町(東陽一丁目)

 この一画は、江戸時代の埋立地のため地盤沈下の影響を顕著に受けており(手前)、新しい基準による奥の埋立地との高低差は3m近くあります。
 当初は「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」から、初日の出の名所とされたことが、現 東陽町の名称由来ではないかと。
 大正期の付近には海水浴場が開設され(潮干狩りも楽しめた)、季節になると城東電車洲崎線(路面電車)は海に向かう人でにぎわったとのこと。
 洲崎遊郭(1888年:明治21年〜)、戦後 洲崎パラダイス(〜1958年:昭和33年 リンク先Youtubeの記録映画は当時の様子がよくわかる)とされた時分は出島のようで、橋を渡る必要がありました。

 1982年陸地との間を隔てた洲崎川(運河)を埋め立てた場所は、現在も堤防のように高くなっており、右は埋め立てた川の跡に作られた洲崎川緑道のトンネル。
 この上に遊郭へ渡る洲崎橋が架けられ、その入口に設置された洲崎大門(鉄の門柱:女性の逃亡を防ぐためかと)は空襲の被害を受けますが、戦後に洲崎パラダイスのアーチが設置されました(上の記録映画で見られる)。
 運河埋め立て後に橋は不要ないので平坦にすればいいと思うが、旧運河の堤防には現在も両岸の陸地地盤を守る役割があるようで、地盤強度に自信のないゼロメートル地帯では構造物を解体する選択肢はないのかも知れません。
 現在では遊郭時分の痕跡は消え、ここで働いた女性たちの供養碑だけが残されています。


 上の洲崎神社(リンク先の弁天池は駐車場に)は、海難除けの信仰を集めるも高潮の被害を受け、境内には付近を居住禁止とする波除碑(警告の碑)が設置されました。
 当時、神社前に店を構えた伊勢屋というそば屋が、丸い竹ザルにそばを盛って出したのが「ざるそば」の始まりとされるが、その店も高潮で流されたそう。後に描かれた歌川広重の浮世絵「深川洲崎十万坪」は、災害後の周辺を描いたものと解釈されています。
 右は、木場駅から神社へ向かう途中の新田橋(赤い橋)のたもとにある深川吉野屋(釣り船、屋形船)の船着場。周辺での海との関係は、人間の方が圧倒的に不利で肩身がせまそうなので、海の上で発散するためにも船は重要かも知れないと(付近は木場六丁目)。


江東運転免許試験場周辺(新砂一丁目)


 以前試験場周辺には、プロ野球チーム 大東京軍(後の松竹ロビンス〜現在のベイスターズ前身チームに吸収)本拠地の洲崎球場(1936〜43年)があったそうで、選手たちが球場入りする際に、遊郭の2階から手を振る選手がいたとか。また、満潮時に海水が浸入してコールドゲームになった、グラウンドから貝殻が出てきた、スタンドにカニがいたなどの伝説も。現在跡地周辺には、明治や日本デジタル研究所等のオフィスビルが並びます。
 上は西濃運輸 深川支店のかなり年季の入った設備ですが、まだ現役らしい。
 下のスカパー東京メディアセンターは「放送の発信源」らしいが、このアンテナだけで80chある放送を発信しているのだろうか。
 東陽町駅周辺のオフィスビル群から工場用地への切り替わりが急なのは、土地利用の切り替え中のようにも。





 朝のピークを過ぎた時間帯に利用していると、運行本数を減らし始める時間らしく時折「東陽町行き」を見かけますが、その車両はここに入ってくるのかと(地下なので引込み線に気づかなかった)。1967年東陽町駅開業時に開設されますが、それまでは旧国鉄 三鷹電車区等で検査を行っていたらしい。広さもありますが、長さが600m以上あり、ひと駅分くらいありそうです(東陽町〜木場駅間はそんな程度では?)。
 東西線の車両って「来たら乗る」だけで関心もないため、違いがわかりません……


追記──沖縄県民投票結果の扱い方を見届けるべき

 異論はあっても、県民投票結果として沖縄県民の意見が発信されました。
 この先は県民だけでなく国民も、議論ではなく沖縄の人々の気持ちを揺さぶって押し付けたことを、どう進めていくのかを見届ける必要があるのではないか。議論の余地がないとするなら、アメリカのように大統領を選出して、拒否権で決定を覆せばいいのか? われわれとしては、どのような進め方なら納得できるのかを考えるべきと。
 同じ日の天皇在位30年式典で歌われた、天皇・皇后による琉歌(沖縄歌謡)に込められた気持ち(尊重しあい島国で生きていく術)にこそ日本人らしさを感じます。

0 件のコメント: