2019/02/11

外国人旅行者にも伝わる──砂町

2019.1.11【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_12

 江戸時代に周辺を開拓した砂村氏の名から砂村とされ、後に砂町〜現在も北砂、南砂、新砂、東砂と砂の名が受け継がれるように、砂や泥の湿地が広がっていたことと。




 江戸期に耕地とされ江戸の台所を支えましたが、明治期から小名木川沿いに水運を利用する工場が立ち並びます。東京大空襲で焼け野原となった地に砂町銀座商店街が生まれ、交通は不便な場所ながらも地域の暮らしに活気を与えてきました。
 5m程度の道幅が下町の商店街には丁度いいらしく、ちょっとした人だかりで流れが滞留した時が、モノを売るチャンスと考えているようにも。
 近頃の外国人旅行者にはマニアックな場面が受けるようで、ガイドが焼き鳥屋の前で日本酒を勧めています。昼間っから焼き鳥で一杯が最高の贅沢との説明は、外国人にもきっちり伝わっているように見えますし、お茶屋で試飲する姿には、お茶の味を気に入ってくれたらうれしいだろうとも。

 商店街の総菜店に並ぶ品々はどれもおいしそうで、晩のつまみにしたいものばかり。いまどきは中華系やインド系の店もあり目先が変わって楽しそうですが、じいさん、ばあさんは手を出さないだろうなぁ〜。魚屋はどこも威勢がよく、昼から売り出しのようなにぎわいで、昭和期の商店街の情景を想起します(パチンコ屋も客が入っている)。
 右は独り身と思われるじいさんが、「これ!」と指差しておでんの具をひとつずつ取ってもらう様子。自分が気に入ったモノを買えるシステム(?)こそ買い物の醍醐味なのに、いつしか「おまかせ」を粋と思い込むようになったのは、単に横着になっただけかも知れないと。
 昔はおでんをチビ太のように串に刺してましたが、落っことすヤツは必ずいました(自分を含め)。
 1枚目は近くにある旧質屋の蔵? 下は仙台堀川公園。




 貨物線の踏切=臨海地区というイメージ通り、付近はかつて工場地帯で港湾施設に近い場所柄でした(現在も右の葛西橋通りと永代通りに踏切が残る)。
 以前は沿線工場の製品輸送や、豊洲・晴海(へ伸びていた)で陸揚げされた原料輸送に利用されましたが、現在は越中島貨物駅にある東京レールセンターからの鉄道用レール輸送だけとされます(1日3往復)。
 それだけなら整理できそうだし、南北方向の交通網が心細い江東区ですから、亀戸〜東陽町間に旅客線を走らせればと思うも、豊洲〜住吉間には地下鉄建設計画があるとのことで、この線には何か別の計画があるのかも。
 下は以前、亀戸〜洲崎(現東陽町)間を通された城東電車(路面電車)がくぐる貨物線の鉄橋(廃線後は遊歩道)。路面電車は交通渋滞等を理由に次々廃止されましたが、付近には都市づくりのビジョンから切り捨てられたような不便さを感じます。





 巨大な建物がギュッと集まる共同住宅で、東京都が主体ながらも規模が大きいため分割管理されるらしく、賃貸・分譲等を含め線引きがよく分かりません。
 以前この広大な敷地には旧汽車製造の工場(1972年川崎重工業に吸収合併)があり、旧国鉄、私鉄、地下鉄の車両や、新幹線0系(初代新幹線)車両も製造され、完成車両は隣接の貨物線をD51に牽引され運ばれたそう。
 江戸時代には長州藩主の屋敷があり、ペリー来航(1853年)翌年に、三浦半島の砲台に設置する大砲を鋳造したそうで、後の下関戦争(長州藩 vs. イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)で使用するも歯が立たず、下関を占領したフランスが戦利品として持ち帰り保存しているらしい。
 以前は、物輸の主力であった水運、鉄道の便利な臨海地区で物作りが行われましたが、工場地帯としての役割を終え市街地としての再開発が盛んになると、いたるところで土壌汚染問題に直面することになります。敗戦からの「奇跡の復興」を優先(優遇)した後ろめたさか、国や都は土壌汚染問題に砂をかけて隠そうとしているように感じます。

0 件のコメント: